サリーヤ・イスラーム インド出身の元カトリック信者

サリーヤ・イスラーム インド出身の元カトリック信者

 

 

私の物語は、非常に宗教的かつ精神的意識の高い家庭に、神によって生を受けることになった1979年に始まります。私たちはイスラームに改宗する前は伝統的ローマ・カトリック教会の信者でした。私の家族は、教会・教区の活動においてとても活発でした。それゆえ、私たちの親戚の中には依然、聖職者・修道女・伝道師たちがいます(彼らは未だに説教をしてきますが、彼らへの対処は簡単です)。私の祖父は、インド南部の故郷ケーララに教会を建てた程です。私の家族は理想を追い求めるタイプで、私たちは正しく導かれてはいませんでしたが、良い人間であることを常に心がけていました。私たちは敬虔であることにおいて誇りを持ち、中でも母は特に抜きん出ていました。私たちの教区の聖職者が、女性の中の模範的な信者として母を持ち上げたのは、一度や二度ではありません。母はキリスト教徒の女性としてのお手本でした。彼女は日常的にバイブルを読み、熱心に宗教を実践していました。

しかし、私の母は精神的体験がほとんど無いとの理由で、宗教への強い不満を感じていました。彼女はバイブルの中に答えを探しましたが、そのことはさらに彼女の不満を募らせました。その当時、弁護士のイブラーヒーム・カーン氏が代理の法的アドバイザーとして短い期間を両親のもとで働いていましたが、それは正規の弁護士が休暇を取っていたためで、両親はあるビジネスの案件で緊急に法的なアドバイスを必要としていたからです。彼は有識なムスリムで、母にイスラームを紹介すると、その数週間後に母はイスラームを受け入れました。そのとき私は13歳でした。

長女である私の状況は(控えめに言って、)混乱を極めるものでした。母は婚姻関係が無効になったと感じ、離婚しました。私は家庭を崩壊させたイスラームに憎悪の感情を抱きました。父は私たちを置いて去ってしまいました。イスラームはメディアが報道する通りの宗教だと感じていましたが(アスタグフィルッラー:神に赦しを請います)、おかしな事に、アザーンを聞くのだけは嫌いではありませんでした。当時の私はイスラームに憎悪し、ムスリムだけには絶対にならないと誓っていました。しかし、私は母に対してはこの上ない敬意と愛情を抱いていたので、彼女のような教養ある文化人が、イスラームのような中世の産物のどこに魅力を感じていたのか理解したいと思いました。ある日、彼女にようやくそのことについて尋ねることが出来ましたが、その答えはとてもシンプルなものでした。「バイブルにくまなく目を通してみなさい。」

私の「発見の旅」は、そこから始まりました。私はとても若かったですが、神は私が読んだものを理解出来るだけの成熟さを与えてくれました。私は非常に多くの矛盾や誤りをバイブルから見出しました。また、バイブルの中で言及されてはいるものの、キリスト教徒たちがそれに従っていないものなども見つけました。論理的でない記述をあちこちで感じ、破棄されてしまっている契約を見つけ、また預言者ムハンマド(彼に平安あれ)についての明確な言及も見つけました。しかし、私はとても頑迷だったため、真理を受け入れることが出来ませんでした。私はキリスト教の調査を続けると共に、しばらく比較宗教に脱線していましたが、イスラームのことを調べるのだけは拒み続けました。その頃、母がクルアーンのスーラトル=イフラース(第112章)の翻訳と音訳が書かれた手紙を私に送り、それを読んだ私はその虜になってしまいました。私はそれを翻訳と一緒に一日中朗読しました――何度も何度もです。それは私にとってタスビーフのようなものでした。いかなる啓典も私を満足させることが出来ませんでしたが、私はついにクルアーンに目を向け、それは私を圧倒したのです。それこそが、私が探し求めていた真理だったのです。そこには私の疑問への答えがすべてありました。そのとき、私は自分の運命にめぐり会ったことに気付きました。そこへ辿りつくのには2年を要しましたが、私は感謝の気持ちで一杯でした。当時、私は15〜16歳でした。

その後、私はボンベイ空港で改宗に至りました。空港に母を迎えに行ったとき、彼女に私のシャハーダ(信仰証言)に立ち会って欲しかったのです。後に、彼女は私にヒダーヤ(導き)があることを祈っていてくれたことを明かしました。彼女に手助けをするのは、自らの長女であることを彼女は願っていたのです。そして神はその願いを聞き入れたのです。アッラーフ・アクバル。

私の弟や妹は幼かったですが、私の後を追うようにしてイスラームに改宗しました。私たちはボンベイにヒジュラ(移住)しなくてはなりませんでした。なぜなら人々が私たち家族を引き離そうとする恐れがあったからです。私たちは、ケーララでは決して宗教を実践出来ないことを知っていました。私たちに残された選択肢はボンベイだけで、マーシャーアッラー(何であっても神の御意に満足します)、それを選ぶことによって神の祝福が降り注ぎました。現地のムスリムたちは、両手を広げて熱烈に歓迎してくれました。私たちはアラビア語を学び、学業を修了し、アルハムドゥリッラー(神に称賛あれ)、今では素敵な家に住んでいます。父は戻ってきましたが、残念ながら彼は未だにローマ・カトリック信者です。ただ、私たちは彼をとても愛していますし、現在の状況は私たち全員の選んだ選択肢でもあります。彼はイスラームについて学び、私たちの道であるイスラームとそれに則った人生に対して敬意を持っています。彼は私たちを経済的に支える大黒柱であり、イスラームには入っていないものの、私たちの信仰を妨げることなく育ててくれ、常に私たちのことを守ってくれているその姿は、まるで預言者(彼に平安あれ)の叔父アブー・ターリブのようです。私たちの親戚は、依然としてイスラームに対する頑強な敵対心を抱いていますが、私たちがムスリムであることに変わりがないということを受け入れ始めたようです。今でも時々、私たちのキリスト教への復帰を促すメールが来ますが、時間と共にそのメールの数も減り始めています。

最近、私たちは連休を利用してケーララの祖父母を訪れました。幼少を過ごした故郷に戻るのは素晴らしいことでした。私たちは神によって与えられたイーマーン(信仰心)に自信を持って人々と接し、勝利と共に帰郷出来たことを神に感謝しています。いつの日か、その地にマスジドやイスラーム学習センターなどを設立することを夢見ています。インシャーアッラー(神の御意であれば)。

現在、私たちがムスリムになって10年以上が経ちましたが、まるで生まれたときからずっとムスリムだったような気持ちです。

 


脚注:

          タスビーフとは神を称賛することです。