イスラームにおける人権と そこに蔓延する誤解

著者はこの小冊子の中で、ムスリムにとっての2大法源であるクルアーンとスンナに基づき、人権のテーマを論じています。

イスラームにおける人権と 

そこに蔓延する誤解 

 

 

アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ著 

 

 

編集 

アブー・アイユーブ・ジェローム・ブルテ

アブドゥッラフマーン・ムラード

 


目録

 

はじめに

イスラームと、人生における五つの基本的ニーズの保護

イスラームにおける「平等」       

イスラームにおける五つの基本的人権

1. 宗教の保護        

2. 生命の保護

3. 理性の保護        

4. 尊厳・家族・子孫の保護        

5. 財産の保護        

 

イスラームにおける権利と義務

1. 全能なる神の権利

2. 預言者ムハンマドの権利        

3. その他の使徒と預言者の権利

4. 両親の権利        

5. 妻に対する夫の権利    

6. 夫に対する妻の権利    

7. 子供の権利        

8. 親戚の権利        

 

公的な権利と義務   

1. 統治者の民衆に対する権利    

2. 統治される側の権利    

3. 隣人の権利        

4. 友人の権利        

5. 客人の権利        

6. 経済的弱者の権利        

7. 被雇用者の権利

8. 雇用者の権利    

9. 動物の権利

10. 植物や環境の権利

11. その他諸々の権利

 

イスラームにおける法体系           

イスラームにおけるヒスバ(監査体系)           

イスラーム的人権宣言       

イスラームにおける人権に関する誤解の数々   

イスラーム法に関する誤解への回答       

非ムスリムの権利に関する誤解への回答           

イスラーム的刑罰に関する誤解への回答           

棄教に関する誤解への回答           

ムスリムと非ムスリム間の結婚に関する誤解への回答           

奴隷制の誤解への回答       

まとめ           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最も慈悲遍く、慈悲深きアッラーの御名において 

はじめに

 

全ての賞賛は、万有の主であるアッラーにこそあり。そしてかれがその使徒ムハンマドとその系譜とその教友たち、そして彼らを踏襲する者たちを称揚され、全ての悪から守り、かつ審判の日に平安を与えて下さいますよう。

あらゆる社会はその市民に、基本的需要や安全、またより大きな社会集団に帰属していたり、つながっていたりするという感情を提供したりすることを保障する義務を有しています。そして一方個人は、その任務や義務を満足の行く形で遂行するために、安全や社会帰属意識を感じている必要があります。

現代における私たちの国際社会では、三つの目立った潮流が見受けられます。まずは、社会に対する個人の権利において誇張が見られるもの。この潮流はごく僅かな規則さえ遵守すれば、個人は気の赴くままに完全な自由を享受出来る、というものです。しかしこの流れは残念ながら、人々を混沌とした社会的状況へと導いてしまいます。というのも個人に無制限の自由が与えられれば、自己中心的な欲望が顕著となり、矛盾した結果をもたらすからです。多くの社会はひどい貪欲さと自己中心性に囚われています。この潮流は自由主義的、民主主義的、資本主義的な社会においてしばしば観察されます。

第二の潮流は上記のものとは逆で、個人に対する社会の権利に過度の誇張が見られるものです。時に個人の権利は全く無視される場合もあります。ここで言われる個人とは、支配階層や集団の支配イデオロギーに沿った形で、その統治制度に仕えるだけのものとされます。この潮流は共産主義や全体主義的社会に顕著です。

一方第三の潮流は個人に対する社会の権利を強調することもなければ、社会に対する個人の権利を強調することもない、理想的なものです。そこでは個人と社会が与えられたシステムに則り、人生における各々の権利を共有します。そして権利と義務は厳格な規則と条件によって支配され、調整されます。この潮流においては非常な矛盾が生じた場合にのみ、公共の権利が個人の権利に優先されます。

この小冊子の中で、私たちはイスラーム法によって完璧にバランスの取れたシステムのもとに定められた、人間の諸権利を紹介していきたいと思います。これらの権利はムスリム(イスラーム教徒)の啓典である聖クルアーン(コーラン)と、神(アッラー)の使徒ムハンマドのスンナ(言行録)という、イスラームの生活と法における二つの主要な法源が基礎となっています。聖クルアーンとスンナはいずれも理想的社会における、理想的個人の育成をその目的としています。そこでは全ての相互作用が個人とその主・創造主である神との間の、または個人同士の、あるいは個人と社会、または全世界の他の社会との調和を生み出すのです。

私たちムスリムは、個人と社会の行動指針において前述の第三番目の潮流が適用されれば、‐つまり聖クルアーンとスンナという形で神から啓示された完全な法を指針とすれば‐人類は必ずやもっと幸福かつ豊かになるということを固く信じています。これらの指針が適用されれば、社会における平和と安全の達成は可能なものとなるでしょう。これらの社会的権利と指針は、実験や経験、社会的イデオロギーや時代的ニーズ、政治的動機などによる結果導き出されたものではありません。それは人類の現世における幸福と死後の救済のために、この上なく慈悲深く全知であるお方から下されたものなのです。

私たちがイスラームの定める権利と指針の真実性と公正さを固く信じるのは、ひとえにそれらが最も慈悲深く、そして人類を創造したそのお方が啓示されたものであるからという事実に基づいています。かれはあらゆる時代において人類に何が適し、何が有益で有害であるか、また何が彼らを幸福にさせ悲しくさせるか、あるいは何が成功や失敗をもたらすかをご存知なのです。神はその完全なる知識と恩恵により、全宇宙の被造物にとって最も適切かつその基本的ニーズを満たし、またその暮らしを成功と平和と楽しさに溢れたものとする要素を定められたのです。

神の使徒ムハンマドに下された聖クルアーンは永遠に続く奇跡であると同時に、これらの基本的な法規定の基礎を包含しています。そして彼の言行録であるスンナはイスラーム法における第二の法源であり、啓示による指針をより詳細な形で提示しています。これらの規則や指針は最善の形式と手法でもって、14世紀も前に神とその使徒によって述べられ、そして永遠に続くのです。聖クルアーンとスンナは人間と、社会における個人としての権利を栄誉高いものとします。一方でこれらのイスラーム法の源泉は、社会的ニーズと権利、そして公共の福利を見過ごしてはいません。実際のところ、聖クルアーンにはこうあるのです:

-そしてわれら(アッラー[1]のこと)はアダムの子ら(人類のこと)を高貴な存在とし、陸に海に彼らを運んだ。また彼らによき物を糧として授け、われらが創造したあらゆるものの上に位置づけたのだ。,(クルアーン17:70)

人間はその義務を果たし、その主に対する権利を満たすことのみにより、この「高貴さ」という栄誉と位階を獲得します。

そして宇宙におけるこの特別な地位に付随する役割を担うためには、特定の個人が特定の任務を遂行する必要があります。全能である神は、聖クルアーンの中でこの概念を次のように描写しています:

-そしてかれ(アッラーのこと)こそはあなた方を地上における(かれの)代理人とされ、あなた方の内のある者たちを別の者たちよりも高く位置づけられたお方。それはかれがあなた方に授けたものでもって、あなた方を試みられるためである。実にアッラーは素早く懲罰を下されるお方。そしてかれはこの上なく赦し深く、慈悲深いお方である。,(クルアーン6:165)

ある種の国家、あるいは国際的組織は人権保護を目的とした主義主張を声高に訴えています。しかしイスラームは14世紀以上も前に、それらの人権の多くをその法において保障していました。近代の国際的組織によって列挙されている諸権利は、概念化における欠陥、公式化における弱点、またその適用における不正などによって特徴付けられます。それらは政策や経済的圧力、文化的偏見などによる影響を受けやすいのです。またそれらは植民地主義や帝国主義の残留物を汲んでいます。このような権利はともすれば全人類の福利のためなどではなく、むしろ特定の組織や強力な力を持った特別な集団の福利のために取り上げられ、制定されることもあるでしょう。これは私たちが全世界に目を向ければ、明白に分かることです。人類の多くがいまだに最悪な残虐行為の犠牲者となっているにも関わらず、このような困窮者や弱者を真の意味で守る組織はありません。国内レベルでも国際レベルでも不平等や虐待は増加する一方で、援助や開発のための処方箋は彼らを惨めさという泥沼の中により一層沈めることになります。それはあたかも彼らがその惨めさと隷属性を永続させるための存在であるかのような印象すらもたらします。

またある種の人権団体などは政治的、あるいは経済的理由などにより抑圧されている人々の援助に駆け付けることが出来ない場合もあります。事実ある種の組織は、党派的理念や特定の利権集団に対して変節的な政策を提示するために支配権力からより融通を取り計らってもらえるにも関わらず、ある種の誠実な組織は人権的努力に従事することを阻止されています。またある種の組織は「他国の国内事情に干渉しない」とか「我々は政治情勢から一線を引く」とかいったスローガンを掲げています。こうした中イスラームは、不正や搾取などの根本的原因を除去することによって、不正を被っている世界中の人々を援助し、保護することを謳っているのです。イスラーム法は正しい権利を定め、悪を禁じ、信徒が至高なる神の道において努力することにより、全ての不正や搾取を取り除く構造になっています。

全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-あなた方がアッラーの道において、または虐げられた男女や子供らのために戦わないのは一体どういうことか?彼らは(祈って)言う、:「私たちの主よ、民が不正を働いているこの町から、私たちをお救い出し下さい。そしてあなたの御許から私たちに、守護者をお遣わし下さい。あなたの御許から私たちに、援助者をお遣わし下さい。」,(クルアーン4:75)

ここで重要なのは、ムスリム社会における人権法の施行が、イスラーム法とその指針を名実ともに実践することへの真摯な献身と深く結びついているということです。実際のところ、ある種のムスリムは自分たちの利害に適うことしか行いません。また別の者たちは、自分たちがイスラームの教えや指針を部分的に実行しているように見せかけているものの、実際にはイスラーム法の施行を阻み、イスラームを内側から操作して歪曲したり破壊したりしようとしています。このような者たちは、イスラームにおける人権保護の模範ではありません。故にイスラームを客観的に学びたい者は、それを一つの成熟した完全なシステムとして、自らの利益のために学ぶべきである、ということを指摘したいと思います。そしてそこにおいて自称ムスリムたちが行っている、ある種の悪い行動などに影響を受けるべきではありません。ある個人や集団、民族や政府などの逸脱した振る舞いや行動が、人の最終的な判断に影響を与えてはならないのです。イスラームの教義と法の実践は、イスラームに対する献身性の度合いやそれを局部的環境において適用していく実務的な能力の程度によって変化します。例えシステム自体が良くても、その認識や実践においては何らかの欠陥や失敗などが生じることがあるのです。例えばある人物の虚言や詐欺、契約破棄や腐敗などを理由に、その者が属しているシステムを糾弾することは出来ません。イスラームは全面的にそれらの悪行を禁じていますが、人の犯した罪に関してはそのシステムではなく、その者自身が非難されるべきなのです。私たちはシステム自体を完全な形で試験し、その成果を考慮するべきです。例を挙げましょう。誰かがパンを欲しければパン屋に行くか、あるいは少なくともスーパーや売店などのパンが売っている場所に行きます。しかしパンを欲しい者が八百屋に行っても、パンを手に入れることは出来ません。聖クルアーンにはこのような件に関して、次のような一般的な形で言及しています。全能なる神は、聖クルアーンの中で述べています:

-そしてもしあなたが地上にいる大半の者に従えば、彼らはあなたをアッラーの道から迷い去らせてしまうであろう。彼らは(誤った)憶測に従っているに他ならない。彼らは虚言を吐いているのだ。,(クルアーン6:116)

残念なことに、私たちは世界中の数多くのムスリムが真にイスラームを体現していないのを目にします。それは彼らの信仰と実践における大きな間違いと、深刻な欠陥によるものです。私たちはイスラームを学ぶ者に対し、イスラームを誤って体現しているこれらのムスリムの悪徳や悪態に騙されたり、影響されたりすることのないよう、注意を喚起したいと思います。何かを真摯に追究する者は、失望したりしません。むしろイスラームを正しい形で実践している実直なムスリムや、イスラームの教義の核心へと目を向けるべきです。私たちはムスリムが人生のあらゆる側面において、その信仰を正しい形で適用し、最善の実践を維持することを促していくつもりです。そして同時に、ムスリムではない人々にイスラームを学び、偏見を持たずにその教義を理解して頂きたいと思っています。

イスラームに新しく改宗したある人物に関する、有名な話があります。彼はあるイスラーム国家を訪問しましたが、その社会のムスリムのひどい状況を目の当たりにして衝撃を受けます。彼らはイスラームの理想的な教義や指針からは程遠い状況にあったのです。彼はこう言いました:「この国に来る前に、私にイスラームを受け入れさせてくれた全能のアッラーに感謝します。もし改宗前にこんな所に来ていたら、私はムスリムになろうとなどは思いもしなかったでしょう!」彼のこの主張は、ある種のムスリムの醜悪な素行を目にしたゆえのものです。これは私たち自身、矯正するために努力している非常に残念な現実なのです。そして矯正の第一歩は、啓発と教育なのでしょう。

 

イスラームと、人生における五つの基本的ニーズの保護

イスラームはその教義により、個人と社会の権利保護において調和を維持することで法的構造と道徳律、理想的社会を築き上げることを目的としてアッラーが人類に啓示した、完璧かつ最後のメッセージです。そしてこの目的を達成する手段の一つが、公共の福利を害することなしに個人の権利を完全に保障する基本的ニーズの提示です。もし社会の全構成員が平和、安寧、自由といった法的権利や、公共の福利と調和の取れた全ての人間の基本的需要の充足を享受することが出来たのなら、彼らは皆満足と充足の実り多い人生を過ごす機会を手にすることでしょう。

この満足について、神の使徒ムハンマドはこう定義づけています:

その集団において安全で、かつ身体は病などからも無事であり、その日一日の糧が確保された状態で朝を迎えた者は、あたかも全世界を(その手元に)結集したようなものである。[2]

イスラームは人間存在にとっての基本的ニーズである下記の五つの事柄を保護する、権利と義務に関するユニークなシステムを公式化しています。

(1)    宗教の保護

(2)    生命の保護

(3)    理性の保護

(4)    尊厳・家族・子孫の保護

(5)    財産の保護

 

実際のところ、全ての人間社会は独自のシステムによって、これらの基本的ニーズの保護に工夫を凝らしています。私たちはここで、イスラームのシステムにおける独自の側面に関して取り上げて行きたいと思います。しかしこれらの基本的ニーズの詳細な議論に入る前に、よく誤解されがちな「平等」という用語について大まかな観察をしていきましょう。

 

イスラームにおける「平等」

男性と女性はそれぞれ人間として、根本的に平等に創造されました。その系譜と神の創造であるという尊厳、また他の全ての被造物に対する優越性などにおいて、人間に性別上の差別があるわけでもありません。イスラームは人種や性別、肌の色や血統、階層や宗教や言葉などによって人工的に優劣を決定付ける障害を設けるようなことを、厳しく禁じています。但し生得的な差異が存在するのも事実であり、平等とは決して完全に相似することを意味するわけではありません。二つの性は互いに補足し合い、完結し合っているのです。聖クルアーンはこう言っています:

-人々よ、あなた方を一つの魂(アダム)から創られ、次いでそれからその妻を創られ、そしてその二人から多くの男女を創り広げられたアッラーを畏れるのだ。そしてあなた方がかれにおいて同情し合うところのお方と、親戚の絆の断絶に対して身を慎め。アッラーは実に、あなた方の一部始終を見守られるお方である。,(クルアーン4:1)

また使徒ムハンマドはこう言っています:

人々よ、あなた方の主は一つである。そしてあなた方の父は一人である。あなた方は皆アダムに属しているのだ。そしてアダムは土塊から創られたのである。実に全能であられるあなた方の主において最も栄誉高い者とは、最も敬虔な者である。アラブ人が非アラブ人に優ることなどなく、非アラブ人がアラブ人に優ることなどもない。そして赤い肌の者が白い肌の者に優ることなどはなく、また白い肌の者が赤い肌の者に優ることなどもない。(しかし真の優越性の尺度とは)敬虔さのみなのである。[3]

イスラームにおいて、全人類はその系譜において起源を単一としています。この原理の元で、どうしてある者が他の者に対する優越性を主張出来るでしょうか?イスラームは、血統や社会的地位でもって誤ったプライドを抱くことを許してはいません。使徒ムハンマドはこう言っています:

全能のアッラーは、父祖に対する間違った誇りといった、イスラーム以前に行われていた誤ったプライドを解消された。全人類はアダムに属しているのであり、そしてアダムは土塊から創られたのである。[4]

ある種の社会において、人種的または階層的プライドは顕著な現象となっています。例えばある種のユダヤ教徒やキリスト教徒は、自分たちが他の人々よりも身分や血統、人種や階層において優越していると考えています。全能かつ至高なる神は聖クルアーンにおいて、この種のプライドの真実を暴露しています:

-そしてユダヤ教徒とキリスト教は言った:「私たちはアッラーの息子であり、その寵愛を受けた者である。」言え、「それではなぜかれ(アッラーのこと)は、あなた方の罪ゆえにあなた方を罰されるのか?いや、あなた方はかれが創られたところの人類なのである。かれはお望みの者をお赦しになり、お望みの者を罰される。かれにこそ天地とその間にある王権は属する。そしてかれにこそ(全ての)還り所があるのだ。」,(クルアーン5:18)

イスラーム法は人種差別という誤った考えを、根こそぎにします。ある時、使徒ムハンマドの教友の一人アブー・ザッルが彼の黒人奴隷にこう言ったことがありました:「黒人女の息子め!」これを耳にした預言者ムハンマドは彼に振り返ると、こう言いました:

あなたは母親を引き合いに出して人を侮辱するのか?本当にあなたは、(イスラーム以前の)無明時代を未だに引き継いでいる者である。あの時代は既に終わり、過ぎ去ったのだ。白い女性の息子が黒い女性の息子に優ることなどない。しかし(人の優劣は)敬虔さや、善行によるのである。[5]

尚アブー・ザッルは預言者ムハンマドのこの言葉を聞いた後、罪滅ぼしとして自分の顔を地面に付け、その奴隷男性が彼の顔を足で踏みつけるよう言ったとも伝えられています。しかし預言者ムハンマドはそうすることを禁じました。アブー・ザッルは自らに屈辱を課すことで、将来また同じような罪を犯さぬよう自らを律しようとしたのでした。

イスラームにおいて、全ての者は神に対する様々な種類の崇拝行為を課せられているという意味で、完全に平等です。豊かな者も貧しい者も、指導者も追従者も、白い者も黒い者も、社会的地位の高い者も低い者も、神の御前において同じ人類なのです。最も高貴な者とは、崇拝行為と善行において最も正しく真摯で、実直な者なのです。使徒ムハンマドはこう言っています:

アッラーはあなた方の身体や肌の色などをご覧になられるのではない。かれはあなた方の行いと心をご覧になられるのである。[6]

全ての義務や禁止行為などは、階級や社会的地位、人種などを問わずに全てのムスリムに課せられます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-良い行いをする者は自分のために(行い)、そして悪行を行う者は自らに反して(行って)いるのだ。そしてあなたの主は、そのしもべたちに対していかなる不正も施されない。,(クルアーン41:46)

そして神の御許で個人間の区別があるとすれば、それは敬虔さや廉直さ、最も慈悲深い神の命令に対する従順さなどといったこと以外にはありません。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-人間よ、実にわれら(アッラーのこと)はあなた方を一組の男女から創った。そしてあなた方を多くの民族や部族に分け広げた。それはあなた方が互いに知り合わんがためなのである。実にアッラーの御許で最も貴い者は、あなた方の内で最も敬虔な者。アッラーは全てをご存知になり、全てに通暁されたお方。,(クルアーン49:13)

また全個人はイスラーム法と任命されたムスリムの裁判官の前で、等しく平等です。刑罰や裁決は、階級や人種などを区別せずに適用されます。地位の高さを理由にそれらを免れることは出来ません。この件において、イスラーム史上顕著な例を挙げてみましょう。

預言者ムハンマドの妻アーイシャによれば、ある時クライシュ族の一支族であるマフズーミー部族のある女性が盗みを犯した事が、クライシュ族を悩ませていました。というのも預言者は彼女に、窃盗刑の懲罰としての手首の切断刑を施行しようとしたからです。クライシュ族は協議し合って言いました:「一体誰がアッラーの使徒に話して、彼女の件を執り成すのだ?そのようなことが出来るのは、アッラーの使徒の寵愛するウサーマ・ブン・ザイドしかいないのではないか?」それで彼(ウサーマ)がアッラーの使徒に、その女性の刑罰を免除してもらおうとして話すと、彼はこう言いました:

ウサーマよ!アッラーの刑罰において執り成そうというのか?」そして預言者は立ち上がると、説教してこう言いました:「あなた方以前の者たちは、高貴な者が盗みを犯せば放免し、弱者が盗みを犯せば刑を執行する、などということをしていたために滅亡したのだ。アッラーに誓って。もしムハンマドの娘ファーティマが盗みを犯すようなことがあれば、私は彼女の手を切るだろう。[7]

またいかなる者も国の資源を独占したり、あるいはそこにおいて私利を計ったり、それを乱用したりする権利はありません。全ての国民はその権利と義務に適った公正な形で、その資源から利を受ける権利があるのです。しかし彼らは仕事や、福利のために提供する恩賞においては平等ではありません。イスラーム国家政府は国民に対し就労の機会を保証し、国家資源の利用の組織化において最大限の努力を払う必要があります。

イスラームは人間としての価値において全人は平等だと宣言していますが、各個人が社会や共同体に対して提供するものによってその報酬が決定することも事実です。そこにおける差異は、彼らが提供する奉仕の程度に基づいています。非常な働き者と、無精者は経済的報償において平等とはなり得ません。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-全ての者は、その成したところのものによって(適当な)位階を得るのである。そしてあなたの主は、彼らが行っていることを決して忽せにはさせられない。,(クルアーン6:132)

 

 

 

イスラームにおける五つの基本的人権

 

ここではイスラームがその神聖かつ独自な法体系において保障する、基本的人権について詳細に見ていきましょう。

 

宗教の保護

 

イスラームは人類の繁栄と救済のために全能なる神から下された、完璧な啓示です。ノアやアブラハム、モーゼやイエスなどの過去の預言者たちもまた、大きな意味でのイスラームという宗教‐アッラーのみを崇拝する教え‐と、彼らに適切な特定の法規定へと人々をいざなうために遣わされた「ムスリム(神の教えを受け容れた者)」だったのです。

聖クルアーンにはこうあります:

-あなた以前にわれら(アッラーのこと)が遣わした使徒の内で、「われ(アッラーのこと)の他に神はない。だからわれを崇拝するのだ。」という啓示を与えなかった者はいなかったのである。,(クルアーン21:25)

そして使徒ムハンマドこそは最後の預言者であり、この「イスラーム」という教えとこの世の終わりまで適応する天啓法の最終版を携えて来た神の使徒なのです。彼は最も賢明かつ慈悲深い神によって定められたイスラーム法をもって、全人類へと遣わされたのでした。

 

聖クルアーンにはこうあります:

-ムハンマドは(彼が授かった本当の彼の子でもない)あなた方の内の誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒であり、最後の預言者なのだ。,(クルアーン33:40)

また聖クルアーンにはこうもあります:

-この日われはあなた方に対し、あなた方の宗教を完成させた。そしてあなた方への恩恵を全うし、イスラームがあなた方の宗教であることに満足した。,(クルアーン5:3)

また神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-実にアッラーの御許における宗教とは、イスラームなのである。,(クルアーン3:19)

またこうもあります:

-そしてイスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。そして彼は来世においては損失者の類いなのである。,(クルアーン3:85)

また神の使徒ムハンマドは彼と彼以前の預言者たちの関係に関して、このように説明しています:

私と私以前の預言者とはこのようなものである:ある男が美しく瀟洒な建築物を建てた。しかし端っこのレンガが一個抜けていた。人々は(その建物を)偉大視してその周囲を回り始め、それを気に入った。そして言った:“どうしてこの(抜けている)レンガの部分は完成されなかったのだろうか?”実に私こそがその(抜けた)レンガの一部分なのであり、最後の預言者なのである。[8]

 

全人類は一般的な信念として、真実や正義、善というものが錯誤や暴虐や悪による攻撃を受けた時に支持され保護されるということに、合意しています。ムスリムはこの義務を非常に深刻に捉えており、あらゆる合法的かつ可能な手段をもって真実と正義と善を興隆させるために奮闘するのです。一方、世俗的社会において宗教は純粋に個人的な物事と捉えられています。社会生活は宗教や宗教法などではなく、世俗的原則や組織によって運営されなければならないとされるのです。私たちはこの世俗主義の台頭自体、ヨーロッパにおけるキリスト教教会と諸君主や諸国王の間の衝突や無節制が原因であったことを思い出さなければなりません。

 

このことは時に悪意と共に誤用されている言葉である「ジハード(奮闘、尽力)」という、センシティブなテーマへの入り口につながります。以下に示す聖クルアーンの節にはその文脈において、ジハードに関する一般的規定が提示されています:

-そしてあなた方に戦いを仕掛ける者たちと、アッラーの道において戦え。しかし度を越してはならない。実にアッラーは度を越える者を愛で賜らない。,(クルアーン2:190)

簡略すればジハードとは、侵略や搾取、抑圧などの折にムスリムに与えられる実力行使の許可です。全ての侵害行為は禁じられています。「ジハード」というアラビア語は語学的に「努力」を意味するのであり、そこには抑圧者や暴君などに対する戦闘だけではなく、善を掲げて悪と戦うというような一般的努力も含まれます。イスラームはジハードによってその真実と正義と善を守り、ムスリムはそれによって害悪に対する自己防衛をするのです。全ムスリムはジハードを信じ、それをある一定の範囲において実践することを義務付けられています。高い能力を備えている者にはそれなりのものが課せられますし、また貧者や不能者は自らの人格における切磋琢磨や勝利への祈願などにおいてジハードが課せられるのです。

ジハードは、イスラーム以前の宗教においても実践されていました。世界と歴史に悪がはびこる時、暴虐や不正を阻んできたのはジハードなのです。また人々が虚偽の神性を崇敬することを止めたり、彼らにいかなる同位者や息子なども有さない唯一の神のみへの崇拝へと呼びかけたりすることも、ジハードの一つです。ジハードは不正を除去し、人間に一つの生き方としてのイスラームの慈悲や正義、平和を紹介するために定められました。イスラームは人類の福利のためのものであり、アラブ人ムスリムやある特定のムスリム民族集団などのみの福利のためではありません。イスラームは普遍的な宗教であり、そこには地理的に限られた境界線などは存在しないのです。使徒ムハンマドはこう言っています:

 

抑圧者であろうと、抑圧されている者であろうと、あなた方の同胞を助けるのだ。」するとある男が言いました:「アッラーの使徒よ、抑圧されている者を助けるのは分かりますが、抑圧者はいかにして助けるのでしょうか?」預言者は言いました:「その者が抑圧するのを阻むのだ。それが彼にとっての援助である。[9]

 

イスラームのメッセージとそのいざないとは全人類にとって普遍的かつ国際的なものであり、信仰や人生において必要な道徳、倫理など全ての側面を包括した教えです。イスラームは人類に対し、正義、公正、平等、自由、繁栄、成功、真実性といった信念を植えつけます。ジハードは人々を無理矢理イスラームに改宗させるといった目的などではなく、正義と平等の一神教であるイスラームのメッセージが障害なく平和裏に全世界に広まることを可能にする、平和維持のための道具及びメカニズムとして定められたのです。人々がイスラームのメッセージを知った後、それを受け入れるかどうかは本人の自由です。このようにジハードの本質的な目的は、イスラームのメッセージにおける平和的伝播への道を開くことです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-宗教に強制はない。実に正道と邪道は明らかにされたのである。ゆえにターグート(偶像や悪魔、邪悪な暴君など)を否定してアッラーを信仰する者は、壊れることのない堅固な取っ手を握り締めたようなものなのである。かれは全てをお聞きになり、ご存知になられるお方。,(クルアーン2:256)

政府と国民間の内的関係を強化する原理は、正義と平和に基づいています。正義のない平和は長続きしません。またジハードは度々西欧のメディアによって描写されるように「聖なる戦争」なのではなく、栄誉高い努力奮闘なのであり、また神の御言葉とその信仰であるイスラームという教えを平和裏に広めることを阻む者たちや抑圧者たちに対する抵抗なのです。「戦争」という言葉は、個人的あるいは国家的利害に基づいた動機や、土地や資源などの政治的・経済的理由によるものに用いられます。しかしイスラームはこの類の「戦争」を禁じているのであり、以下に挙げる三つの場合以外にのみジハードを認めているのです:

 

1) 度を越すことなく、生命や財産、国境線を防衛するため。

聖クルアーンにはこうあります:

-そしてあなた方に戦いを仕掛ける者たちと、アッラーの道において戦え。しかし度を越してはならない。実にアッラーは度を越える者を愛で賜らない。,(クルアーン2:190)

2) 不正の除去と、不正を受けている民に本来の権利を与えるため。

抑圧や暴虐に対抗する義務は、聖クルアーンの次の節の中で述べられています:

-あなた方がアッラーの道において、または虐げられた男女や子供らのために戦わないのは一体どういうことか?彼らは(祈って)言う:「私たちの主よ、民が不正を働いているこの町から、私たちをお救い出し下さい。そしてあなたの御許から私たちに、守護者をお遣わし下さい。あなたの御許から私たちに、援助者をお遣わし下さい」,(クルアーン4:75)

また使徒ムハンマドはこう言っています:

「最善のジハードは、不正な暴君に対する真実の言葉である。」[10]

3) 宗教と信仰の防衛のため。

全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして(不信仰による)苦難がなくなり、宗教が全てアッラーのものとなるまで、彼らと戦うのだ。そしてもし彼らがそれ(不信仰、あるいは戦争)を止めるのなら、実にアッラーは彼ら(の心の内)をよくご覧になられるお方である。,(クルアーン8:39)

ジハードする者、つまり「ムジャーヒド」はそこにおいて、神のご満悦のみのために奮闘するという意図を純粋に保つ必要があります。また彼はジハードがイスラームとムスリムの保護のため、そしてイスラームのメッセージと神の御言葉を広めるという正しい目的だけのためであるという明瞭な理解を備えていなければなりません。それでもしイスラームの敵がムスリムを攻撃する時にはそれを阻み、もし停戦を求めてきたならばそれを受け入れて戦争状態を停止しなければなりません。

聖クルアーンにはこうあります:

-それでもし彼らが停戦を望むのなら、(それに応じて)停戦せよ。そしてアッラーに全てを委ねるのだ。かれは全てをお聞きになり、ご存知になるお方。,(クルアーン8:61)

また全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-…それでもし彼らが退却し、あなた方と戦わずに講和を申し込むのなら、アッラーはあなた方に対して彼らへの(更なる戦いという)道を残されない。,(クルアーン4:90)

イスラームは前述の特定の理由が存在する場合のみにおいて、「戦争における品行規定」に則った戦闘を許可します。そしてその他のいかなる戦争理由‐領土拡張や植民主義的関心、復讐など‐も、イスラームにおいては完全に禁じられています。またイスラームは戦闘員が気の向くままに殺したりすることを許さず、殺すことが許可されるのは敵の戦闘員と彼らを直接軍事支援する者たちだけに限られます。加えて老人や子供、女性や病人、医療に携わる者、隠遁して神を崇拝する僧侶なども殺害禁止対象です。また敵の戦闘員の遺体を損傷したり、敵の家畜類を殺したり、その家宅を破壊したり、敵の河川や湖、泉や井戸など飲料可能な水源を汚染したりすることも禁じられます。これらの指針の根拠は、聖クルアーンの中に沢山見出すことが出来ます。以下の節もそのようなものの内の一つです:

-「そしてアッラーがあなたに授けられたものでもって、来世を乞い求めなさい。しかし現世におけるあなたの分け前も忘れてはなりません。アッラーがあなたによくされたように、あなたもよい行いをするのです。地上で腐敗を働いてはなりません。実にアッラーは腐敗を働く者を厭われます。」,(クルアーン28:77)

また使徒ムハンマドはこう言っています:

アッラーゆえに、そしてかれの御名において、アッラーを信じない者たちと戦うのだ。彼らと戦え。しかしあなた方の協定や休戦を破ったり、敵の死体を損傷したり、新生児を殺めたりしてはならない…[11]

また彼はこうも言っています:

…そして女性や奴隷を殺してもならない。[12]

このことは第一代目カリフであったアブー・バクルが軍をジハードに出征させる折、その指導者に対して行った指導と忠言においても見受けられます。彼はこう言ったと伝えられています:「これら十の命令と指導に従うのだ:誰のことも裏切ってはならない。戦利品を盗んではならない。約束を破棄してはならない。敵の遺体や死体を損傷してはならない。子供や年少者を殺してはならない。老人を殺してはならない。女性を殺してはならない。ナツメヤシの木(やそれ以外の木々)を根こそぎにしたり、焼いたりしてはならない。実のなる木を切ったり、損傷したりしてはならない。食べるため以外には、雌羊や雌牛、雌ラクダを殺してはならない。またあなた方は隠遁して神を崇拝することに専念する僧侶などに遭遇するだろうが、彼らのことは邪魔せずに放っておくのだ。またあなた方は路上で、あなた方のために食器の上に載せた様々な食事を携えてくる者たちに遭うだろうが、その時は口にする前に神の御名を唱えるのだ。またあなた方は必ずや、頭の上を剃り上げ、残りの部分を長く編んだ者たちに出遭うであろう。彼らこそはあなた方に剣を向ける、敵の戦士たちである。彼らと戦い、殺すのだ。さあ、神の御名と共に行くがよい。

また捕虜は拷問にかけたり、陵辱したり、傷付けたりしてはなりません。そして十分な飲食物を与えずに死に至らせたり、または非常に狭い牢屋などの中に拘禁することも許されていません。聖クルアーンにはこうあるのです:

-そしてかれ(アッラーのこと)への愛ゆえに、恵まれない者や孤児や捕虜に食べ物を施す。(彼らはこう言う:)「私たちがあなた方に食事を与えるのは、アッラーの御顔(を望んでのこと)ゆえなのだ。私たちはあなた方から見返りや感謝の言葉を期待しているわけではない。」,(クルアーン76:8-9)

イスラーム政府はこのような戦争捕虜を無償で解放することも有償解放することも出来ますし、あるいはムスリムの捕虜と交換することも出来ます。これは以下の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます:

-(戦いで)不信仰者たちと出遭ったら、彼らを数多く殺すまで戦え。そして(拘束するための縄で、捕虜を)しっかりと繋ぎ止めるのだ。その後は戦争が終わってから(それらの捕虜を)見逃してやるか、あるいは身代金と引き換えにせよ。(事は)こういった次第である。そしてもしアッラーがお望みになれば、彼らの内のある者たちをお救いになろう。しかしかれはあなた方を互いに試練にかけるため(、あなた方に戦いを命じた)。そしてアッラーの道において殺された者は、アッラーがその行いを決して無駄にはなされない。かれはそのような者たちを(正しい道へと)導かれ、その状況を改善して下さろう。また彼らを天国へお入れになり、その居場所をお教え下さろう。,(クルアーン47:4)

占領されてイスラーム国家内に取り込まれた非ムスリム居住民とその家族、またその所有物や土地などはイスラーム法の保護を受け、それらに対するいかなる侵害も禁じられます。いかなる者もイスラーム国家内に居住する非ムスリムの所有物や財産を侵害したり、あるいは彼らを侮辱したり、その名誉を損なうようなことをする権利はありません。またいかなる者も彼らを不当に攻撃する権利はありません。イスラーム国家における非ムスリムの信仰や宗教儀式の実践などは、その法的範囲において尊重されます。聖クルアーンにはこうあります:

-(アッラーを援助する者たちとは、)もしかれ(アッラーのこと)が彼らを地上(の統治)において確立されたならば、サラー(礼拝)を遵守し、ザカー(義務の浄財)を拠出し、善いことを勧め、悪事を禁じる者たちのことである。そしてアッラーにこそ全ての事の結末が属するのだ。,(クルアーン22:41)

しかしイスラーム国家における非ムスリムは、「ジズヤ」と呼ばれる最小限度の税金を支払う義務を課されます。ジズヤはイスラーム法統治下のイスラーム国家に居住することを望むものの、イスラームへの改宗は望まない者が支払う人頭税のようなものです。例えば初期のイスラーム国家において、ある程度裕福なムスリムは毎年所有する財産の2.5%をザカー(義務の浄財)として払っていましたが、非ムスリム居住民で裕福な者はジズヤとして毎年48ディルハム[13]相当を、商人や農民などの中間層は24ディルハム相当を、そしてパン屋や大工や水道工といった労働者階級は12ディルハム相当を支払っていたものでした。尚このジズヤは、イスラーム国家内に居住する非ムスリムとその財産保護のために用いられます。初期イスラーム国家の指導者及び軍指揮官の一人であったハーリド・ブン・アル=ワリードは、ある時イスラーム国家内の非ムスリム居住民にこう約束しました:「あなた方から人頭税を徴収するのと引き換えに、あなた方を完全に守るという契約を申し出よう。もし私たちがあなた方を十分に保護したなら、私たちは人頭税を得るに値する。しかしそうすることが出来なければ、あなた方は私たちにそれを支払う必要はない。」そしてムスリム軍が戦地を退却しなければならない状況に陥った時、約束した安全保障を果たせなかった彼らはジズヤを返却しました。[14]

またジズヤはイスラーム国家に居住する全ての非ムスリムから徴収されるわけではなく、収入のある者からのみ徴収されます。また貧者や年少者、女性や僧侶、視覚その他の身体障害者らもまた、ジズヤを免除されます。むしろイスラーム国家はこれらの者たちに対し十分な保護を施すと共に、適当な生活手当を付与する義務があるのです。実際のところ、ハーリド・ブン・アル=ワリードによる前出の契約は、イスラーム法治下にあったイラク地方のヒーラという町において行われました。彼はその際、こう言ったと伝えられます:

年配者、働けない者、不治の病にある者、裕福であったものの破産し、その結果援助を必要としている者、これらは皆人頭税を免除される。それどころかこれらの者は、自らと自らの扶養者に対して十分な手当てをイスラーム国家の国庫から受領する権利があるのだ。[15]

別の例を挙げましょう。ある時第二代目カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブは、物乞いをしている年老いたユダヤ教徒男性の脇を通りかかりました。ウマルは側近に尋ね、その男性がイスラーム国家に居住する非ムスリムであることを告げられました。ウマルはすぐさまこう言いました:「私たちはあなたに公平ではなかった!私たちはあなたが若く力があった時にあなたから人頭税を徴収したにも関わらず、あなたが年老いた時にはあなたを放ったらかしにしたのだから!」そしてウマルはそのユダヤ教徒の老人を自宅まで連れて行き、沢山の食料や衣類などを与えました。それから国家の財務に携わる者たちに、こう言って指導しました:

引き続き彼のような人物の状況を調査し、観察するのだ。そして国庫から、このような者たちとその家族に足るだけの援助を与えよ。

 

神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-ザカー(義務の浄財)は貧者と困窮者‐中略‐に与えられる。,(クルアーン9:60)

またこの通称「ザカーの節」の解釈には、「貧者」とはムスリムであり、「困窮者」とはイスラーム国家内に居住する非ムスリムなのだ、といったものがあります。[16]

 

生命の保護

 

身体的安全と保護:

 

人間の生命は創造主である神からの贈り物であり、神聖なものです。人間の生命を保護するため、イスラームは殺人や傷害などの罪を犯した者に対し身体的な厳罰と報復刑を定めています。殺人には①故意の殺人、②故意の殺人に準じるもの、③過失の殺人、の3種類があります。イスラームは殺人への欲望を撲滅するために可能な限り強力な抑止力を置く意味から、故意の殺人を犯したあらゆる者に対して、刑罰の執行を義務付けます。一方で故意の殺人に準じるものや過失の殺人は別の範疇に含まれ、より軽い刑と被害者の遺族への血債が義務付けられます。その場合被害者の家族、あるいは相続人は加害者を赦免しない限り、血債を受領することになります。加害者はまず神に悔悟し、それから行った罪の贖罪をします。本来はムスリムの奴隷を一人解放しなければなりませんが、それが不可能であれば二ヶ月間連続の断食をします。これらの処罰は全て、生命の保護のためなのです。いかなる者にも、他人の生命や所有物、財産などを不当に侵犯する権利はありません。イスラーム国家内に居住する無辜の市民に対する不当な殺害や迫害、嫌がらせなどのあらゆる不正や侵害は、非常に厳しい警告を受け、かつこれらの厳罰が明白にされるべきなのです。もしその犯罪に応じた報復刑がなければ、犯罪者はその犯罪性において一層大胆になるに違いありません。その他全ての身体的刑罰に関しても、同様の理論的根拠があります。刑罰の重さはあらゆる議論や混乱に収拾を付けるために報復的見地から前もって定められたものであり、犯罪の質に比例します。そして全ての身体的厳罰は、イスラーム社会における人間の生命と財産保護のためなのです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-報復刑(の定め)にこそ、あなた方の生命(の安全)があるのだ。理知を備える者たちよ、あなた方は(不当な殺害や傷害から)慎むことであろう。,(クルアーン2:179)

また故意の殺人を犯しながら悔悟しない者に対しては、来世での懲罰に加え、神のお怒りが下されることになります。聖クルアーンにはこうあります:

-そして信仰者を意図的にあやめた者の報いは、地獄の業火である。彼はそこに永遠に留まるのだ。そしてアッラーは彼をお怒りになり、彼をそのご慈悲から遠ざけられる。そして彼には、もう一つのこの上ない懲罰を用意したのである。,(クルアーン4:93)

イスラームは人間の生命保護に関し、全人に一定の義務を課しています。以下に挙げるのは、その内のいくつかです:

1. 人間は自らの魂も所有しなければ、肉体も所有しません。それらは一定期間、人間に委託された神聖な存在なのです。ゆえにイスラームは自らを故意に害したり、あるいは自殺行為や自らの破滅につながるような向こう見ずな行為を禁じています。生命は神のために授けられたものなのです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-信仰者たちよ、あなた方の間であなた方の財産を不当に貪ってはならない。しかし、あなた方の間で同意の下に行われる商売は別である。そしてあなた方自身を殺してはいけない。実にアッラーはあなた方に対し、慈悲深いお方であられる。,(クルアーン4:29)

 2. 人間は健康を維持するための本質的かつ最低限の需要を満たすため、十分な配慮を払う必要があります。ゆえに自らに合法な飲食物や衣類、結婚などを禁じたりしてはならず、また有害な物はいかなる口実をもっても摂取しないようにするべきです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-言え、「(アッラーが)そのしもべのために提供されたアッラーの装飾品と、その糧からのよきものを禁じる者は何様であることか?」言え、「それらは現世においては(そもそも)信仰者のためのもの(だが、不信仰者もその享楽に与ることが出来る)。そして(それらは)審判の日においては、彼ら(信仰者)のみのためのものなのだ。」このようにわれら(アッラーのこと)は、知識ある民にみしるしを明らかにするのである。,(クルアーン7:32)

また至高なる神は、その使徒ムハンマドが彼の妻の一人を満足させるために蜂蜜を口にするのを自らに禁じた時、全ムスリムのための永遠の教訓とするべく、彼をこう戒められました:

-預言者(ムハンマド)よ、なぜあなたの妻たちを喜ばそうとしてアッラーがあなたに合法とされたものを禁じるのか?アッラーはお赦し深く、慈悲深いお方であられる。,(クルアーン66:1)

またイスラームでは吝嗇と浪費の間を行く、中庸の道を勧めています。人間はこの世界において神が彼に授けてくれた合法な恩恵の数々を、浪費することなくイスラーム法に沿った適切な形で享受することが出来るのです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-アダムの子ら(人類)よ、どこのモスクでも(衣服でもって)身を着飾るのだ。そして飲みかつ食べよ。しかし浪費してはいけない。実にかれ(アッラーのこと)は浪費を愛で賜らないのだから。,(クルアーン7:31)

また身体的要求をないがしろにしたり、自らを意図的に苦境に陥れたりするようなことは禁じられます。聖クルアーンにはこうあります:

-アッラーは、人が背負い切れないような負荷をお与えにはならない。人は自ら益を稼ぎ、また自ら害を稼ぐのだ。,(クルアーン2:286)

教友アナス・ブン・マーリクは次のような伝承を伝えています:「ある三人の男が、預言者ムハンマドがいかに崇拝行為を行っているのかを尋ねるため、彼の妻の一人のもとを訪問しました。そして彼の非常な献身と努力を知ると、彼らがやっていることが非常に些細なものであることを知り、こう言いました:“神がその過去の罪と未来の罪をお赦しになられた預言者ムハンマドがこのようであったら、一体私たちはどうしたらよいのか!?”それで彼らの内の一人はこう言いました:“私は一晩中礼拝しよう。”またもう一人はこう言いました:“私は毎日断食しよう。”そしてもう一人はこう言いました:“私は女性に近つかず、結婚もしまい。”その後使徒ムハンマドはこのことを耳にすると、彼らのところに赴いてこう言いました:

これこれのことを喋っている者たちとは誰か?神にかけて!私はあなた方よりも神を畏れ、かれに対してあなた方の内で最も従順であり、かつその義務に忠実な者であるが、断食もすればそれを解きもするし、夜中礼拝もすれば、眠りもする。それに結婚だってする。私のスンナ(慣習)に従わない者は、私に属する者ではない。”」 [17]

 

平和と安全:

個人及びその家族の安全と保護の権利は、全ての人権の中でも最も基本的なものです。ムスリム社会に属する全ての者は、あらゆる言動やあらゆる形の武力などでもって脅かされることから法的に守られます。神の使徒ムハンマドはこう言っています:

ムスリムが他のムスリムを脅かすことは、許されない。[18]

安全の享受は、社会の中の個人に対して就労における移動や移転の自由を与え、実直な生活を営むために働くことを可能にさせます。そして厳しい肉体的刑罰はイスラーム社会の平和と安全、安定を損ねようとする者への懲罰として定められたのです。預言者ムハンマドは別れの巡礼[19]の際、人々に説教してこう言いました:

実にアッラーはこの日(アラファの日:ヒジュラ暦の129日)、この月(ヒジュラ暦12月)のこの場所(マッカとその付近の地)における神聖さと同様に、あなた方の生命と富、そして名誉を犯さざるべき神聖なものとされたのだ。[20]

 

全人に対する最低限度の生活の保障:

イスラーム社会は、全人に適当な就業の機会を与えることによって、最低限度の生活の維持を保障します。就業の機会に恵まれていることは、人々が基本的需要を満足させるための決定的要素です。老年や障害、病人や働き手のない家族などに関しては、イスラーム国家政府により福祉サービスを受ける権利があります。更にザカー(義務の浄財)は社会の裕福な者から収集され、合法な理由ゆえに十分な収入を得ることの出来ない低取得層や無所得層に分配されます。これは預言者ムハンマドが教友ムアーズ・ブン・ジャバルを布教のためにイエメン地方に派遣した際、彼に次のような忠告を与えたことにその根拠を見出すことが出来ます:

…イエメンの民に伝えよ…全能のアッラーが、彼らの内の貧しい者に与えるために裕福な者から徴収するザカー(義務の浄財)として、財産の一定額の拠出を定められたことを。[21]

またザカーの他にも、全能なる神のご満悦を望んで有益な目的のために施したり、社会の恵まれない人々に施したりする任意の贈与や経済的援助もあります。これも同様に、預言者ムハンマドによって強調されていた善行です。彼はこう言いました:

隣人が飢えているのを尻目に満腹する者は、信仰者ではない。[22]

これらの経済的に恵まれない人々は、イスラーム国家の富に与かる正当な権利を有しています。使徒ムハンマドはこう言いました:

遺産を残せば、それは跡継ぎの権利となる。そして貧しい家族を残して(この世を)去る者に関しては、アッラーとその使徒がその面倒を見よう。[23]

十分な衛生施設:

イスラームは公共の衛生を損なうような効果を及ぼす、あらゆるものを禁じています。例えばイスラームはいかなる種類の有害な薬物や酩酊物質も禁じていますし、また血液や腐肉、不浄な動物や豚肉などの非衛生な肉類、あるいはそれらから抽出された物質を包含するものなどの全てを禁じています。またイスラームは姦淫や卑猥な物事、同性愛などの不道徳も禁じています。また社会に伝染病や有害な病気が拡大するのを阻止するため、伝染病が発生した際には隔離政策を勧めています。預言者ムハンマドは言いました:

もしある国で伝染病が広がっていると聞いたら、そこに入ってはいけない。そしてもしあなたが伝染病の地にあるのなら、そこから出てはいけない。[24]

また彼はこうも言っています:

病人は、治癒しかけている者の所へ見舞いに行くべきではない。[25]

 

理性の保護

理性は全ての有効で責任を伴う言動の基礎です。イスラームは酩酊物質など、人間の地位を貶め、その知的活動を害するあらゆる物事を禁じています。アラビア語で酒類や酩酊物質を指す「ハムル」という言葉には、脳を「覆う」という意味があります。アルコールやその他の薬物などは、社会に悲惨な結果を招く極悪犯罪の主要要因です。イスラーム法が、酩酊物質の摂取が確証された場合に鞭打ち刑の刑罰を定めているのは、これらの悪徳の撲滅と他人への教訓のためなのです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

 -信仰する者たちよ、酒と賭け事、偶像とアル=アズラーム[26]はシャイターン(悪魔)の行いであり、不浄である。ゆえにそれらを避けるのだ。(そうすれば)あなた方は成功するであろう。シャイターンは酒と賭け事をもって、あなた方の間に敵意や憎悪をもたらし、そしてあなた方をアッラーのズィクル(念唱、想起)やサラー(礼拝)から遠のけたいのである。一体あなた方は(それらを)止めないというのか?,(クルアーン5:90-91)

またイスラームはあらゆる種類の酒類や酩酊物質の製造や売買を禁じています。またそのような物が社会に蔓延することを予防すべく、例え本人がそのような物質を摂取しなくても、それらを売りさばいたり、その普及に肩入れしたりするようなあらゆる行為を防止しています。使徒ムハンマドはこう言っています:

酒(及び全ての酩酊を及ぼす物質)と関わる十種の集団には、アッラーの呪いが降りかかるであろう。つまりそれを醸造する者と、醸造される者。それを売る者とそれを買う者。そしてそれを運送する者と、その届け先の者。そこから金銭的利益を得る者と、それを飲む者。そしてそれを注ぐ者である。[27]

 

全人に対する教育の機会:

全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-言え、「一体知っている者と知らない者は等しいというのか?」実に訓戒を受け入れるのは、理知を備えた者たちだけである。,(クルアーン39:9)

また聖クルアーンにはこうもあります:

-そして(礼拝、あるいはジハードなどのために)「立ち上がりなさい」と言われたら、立ち上がるのだ。アッラーは、あなた方の内で信仰する者たちと知識を与えられた者の位階を上げられる。アッラーはあなた方が行うことを実によく通暁されておられる。,(クルアーン58:11)

イスラーム社会において教育を受けることは万人の権利であり、むしろそれはその能力がある者にとっての道義的義務とも言えます。イスラーム社会において知的、能力的、そして技術的に力のある者は、宗教的原理に反することのない範囲で自らを教育しなければなりません。それが宗教分野であろうと現世的な知識の分野であろうと、同様です。イスラーム国家は各人が適切な教育を受けることが出来るよう、最善を尽くさなければなりません。使徒ムハンマドはこう言っています:

知識の追求は全ムスリム男女の義務である。[28]

また彼はこうも言っています:

知識を求めて旅する者は、帰宅するまで神の道において奮闘している者と見なされる。[29]

また同様に、彼はこう言っています:

知識を求めて道行く者には、アッラーが彼のために天国への道を易しくして下さるであろう。[30]

また知識を有する者は、有益な知識を独り占めしたり隠蔽したりすることを禁じられます。預言者ムハンマドはこう言いました:

何らかの知識について訊ねられたのにそれを隠蔽した者は、審判の日にアッラーが彼に炎のくつわを嵌めさせられるであろう。[31]

 

尊厳・家族・子孫の保護

 

健全な家族は健全な社会の基礎です。そして健全な家族は結婚の神聖さを擁護することによってのみ、維持されます。社会における全老若男女の道徳的純粋さを保つべく、イスラームは姦淫や卑猥な物事、同性愛などを厳しく禁じています。実はイスラーム以前の天啓宗教においてもこれらの物事は禁じられていたのですが、イスラームにおいては性的欲望を煽るような衣服や自由な異性間の集いなど、罪を犯すことに繋がるような様々な事柄さえも禁じられました。これらの予防策は、誘惑への道を閉ざします。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして姦淫には近づくな。それは醜悪なものであり、悪い道である。,(クルアーン17:32)

また聖クルアーンにはこうもあります:

-言え、「あなた方に、あなた方の主が禁じられたことを読んで聞かせよう。アッラーに何かを並べて拝してはならない。そして両親に孝行せよ。またあなた方の子供を、困窮を恐れて殺してはならない。われら(アッラーのこと)こそが彼らとあなた方を養うのである。そして露わなものであれ秘められたものであれ、醜い物事には近づくな。正当な理由なしにアッラーが神聖なものとされた生命を奪ってはならない。これこそは、かれがあなた方に命じられたことである。あなた方は恐らく理解するであろう。,(クルアーン6:151)

教友イブン・マスウードは、ある時預言者ムハンマドにこう尋ねました:「アッラーの使徒よ、アッラーの御許で最大の罪は何でしょう?」彼は答えました:「創造主であるアッラーに、何かを並べることだ。」イブン・マスウードは言いました:「それではその次は?」彼は答えました:「食い扶持が減ることを恐れて、あなた方の子供を殺すことだ。」イブン・マスウードはまた言いました:「それではその次は?」彼は言いました:「隣人の妻と姦淫することだ。」それから使徒ムハンマドは聖クルアーンから、次の節を朗誦しました:

-そしてアッラーと共に他のものを(崇拝して)祈ったりせず、また正当な理由なしにはアッラーが禁じられた生命をあやめたりせず、そして姦淫したりすることもない者(は、慈悲深きお方の正しいしもべである)。そのようなことを行う者は、その罪(による報い)を受けるであろう。審判の日、彼には懲罰が倍増され、辱められたままそこに永遠に留まる。但し悔悟して信仰し、正しい行いをする者に関しては、アッラーがその悪行を善行でもって取り換えて下さるであろう。アッラーはお赦し深く、慈悲深いお方。,(クルアーン25:68-70) [32]

尚姦淫が確定した場合の鞭打ち刑が科されるのは、男女の未婚者です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-男女の姦淫者は各々、100回の鞭打ちに処すのだ。もしアッラーと最後の日を信じているのであれば、アッラーの宗教において彼らへの哀れみに囚われてはならない。そして信仰者の一部を彼らへの懲罰の証人とさせるのだ。,(クルアーン24:2)

一方、既婚者、あるいは結婚歴のある姦淫者に対する刑罰はユダヤ教のトーラーに定められているのと同様に、投石による死刑です。但し投石の刑が行われるためには、本人が完全に自白をするか、あるいは信頼のおける四人の証人がその行為を明瞭な形で証言する必要があります。

自白とは、それを行った本人が裁判官か統治者の前でそれを公に告白することです。自白はあらゆる疑念を払拭するため、四回繰り返されなければなりません。一方証言の場合は、四人の公正かつ良識を備えた男性の証人が裁判官か統治者に対し、容疑者の男性の性器が女性のそれに挿入されたのを目撃したことを詳細に証言します。そしてこれは通常、実現不可能なことであることと言わなければなりません。

イスラーム初期の歴史では、姦淫の罪を自白したいくつかの例が記録されています。神に対する信仰心の強さが彼らを真摯な悔悟と罪からの浄化へと促し、それを公けに告白したのです。預言者ムハンマドの伝承にもあるように、神は誰かを同じ罪で二度罰することはありません。それで彼らは来世での罰よりも、現世でのそれを選んだわけです。尚姦淫において性的交渉が完全に成就されなかった場合、‐つまり単に触れたり、抱擁したり、口づけしたりしただけであった場合‐この刑罰が実施されることはありません。

また他人を根拠もなく訴えた後、それを確証付ける証明を提示出来ない場合の懲罰は80回の鞭打ち刑と、それ以後のその人物の証言の無効化です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして貞節な者を姦淫で告発した後に四人の証人を呼んで来れない者は、80回の鞭打ち刑にせよ。そして(その後、)その者の証言はもう永久に受け入れてはならない。彼らは放埓者なのである。,(クルアーン24:4)

また他人を嘲笑したり侮蔑したり、他人の名誉や威信を傷つけたりするような言動もまた厳禁されています。聖クルアーンにはこうあります:

-信仰する者たちよ、人々に他の者たちを蔑ませてはならない。(蔑まれている)その者たちの方が、(蔑んでいる)彼らより優れているかもしれないのだから。また女性たちに他の女性たちを蔑ませてもならない。(蔑まれている)その女性たちの方が、(蔑んでいる)彼女らよりも優れているかもしれないのだ。また互いの欠点を突付き合ったり、(好ましくない)仇名で呼び合ったりしてもならない。信仰する者たちよ、邪推を多く行うことを避けよ。実にある種の邪推は罪なのである。そして互いに詮索し合ったり、陰口を叩き合ったりしてはならない。あなた方は同胞の屍肉を口にすることを望むのか?いや、(断じてそうではなく)そのようなことは厭うことであろう。アッラーから身を慎め。実にアッラーはよく悔悟をお受け入れになり、慈悲深いお方なのであるから。,(クルアーン49:12)

また、聖クルアーンの別の節にはこうあります:

-そして過ちや罪を犯しながら、それを無実の者に擦り付ける者は、実に虚偽と明白な罪を犯しているのである。,(クルアーン4:112)

イスラームは、この世界の人間という種族の維持と継続における神聖さを保護しています。人類は全能なる神の地上における代理人として仕えるため、神の英知の体現化と全世界の後見を担っているのです。ゆえにいかなる正当な法的理由もなく生殖手段を損ねたり、改変したりしてしまうことは、イスラームにおいて非合法な行いなのです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:。

-そして背き去っては地上を徘徊し、腐敗を働いたり、農作物や子孫に被害を与えたりしようとする。アッラーは腐敗を愛でられないのだ。,(クルアーン2:205)

イスラームは四ヶ月以降の胎児を中絶することを、計画的な幼児殺しに等しいものと見なし、そのような行為に関わった全ての者に刑が科されるとしています。過失による堕胎でさえ、加害者はその胎児のための血債を支払い、かつ神への悔悟として連続二ヶ月間の断食をする必要があるのです。

また使徒ムハンマドの多くの伝承において、ムスリムは結婚し、子孫繁栄に励むことが勧められています。使徒ムハンマドはこう言っています:

愛らしく、子供を沢山産みそうな女性と結婚せよ。実に審判の日、私は他の共同体に対しての私の共同体の数の多さを示すのだから。[33]

イスラームは強い家族関係やよい親戚関係に、特別な価値をおいています。家族こそは社会の基礎であり、その崩壊や分裂は様々な規定によって防止されています。また親族には特別の義務と権利があります。ムスリムは親族の権利をよく自覚し、最も適切な形で彼らの権利を十分に満たしてやる必要があります。

また家族の中でも、法の上で互いに結婚出来る血縁関係にあるような男女が普通に混合することは、多くの社会的問題を及ぼします。このような望ましくない状況を回避すべく、イスラームは互いに結婚できる関係にある男女が普通の家族のように交流することを阻んでいます。イスラームにおいて成人女性は、父親と兄弟、叔父と祖父、義父と義理の息子以外の異性の前では、イスラーム法規定に則った服装をする必要があります。

イスラーム以前の無知時代においては、家族体系は非常に腐敗していました。イスラームはこれらの誤りを訂正し、徹底的な改革に手を付けたのです。イスラームは後に言及されるような、ある種の慣わしを禁じました。まずイスラームは、養子が養父母の苗字を取ったり、彼らの本当の子供同様の権利や義務を授けられたりするといった養子制度を禁じました。もちろん孤児や十分な世話を受けていない子供の世話をすることは強く勧められており、特別な価値のある慈善行為と見なされていることに変わりはありません。

-アッラーはいかなる者の体内にも、二つの心臓を授けられはしない。またあなた方(男性)が(妻に対し)「あなたは私の母親の背中である(つまり、結婚の成り立たない間柄である)」などと言って離婚しようとする[34]あなた方の妻たちを、あなた方の母親ともされない。またあなた方の養子を、あなた方の実子ともされない。それらはあなた方が口先で語るだけのこと(で、事実ではない)。アッラーこそが真実を語られるのであり、かれこそが(正しい)道へと導かれるお方なのである。彼ら(養子のこと)を、彼らの実父の名で呼ぶのだ。それがアッラーの御許で最も公正なことである。そしてもし彼らの父親を知らないのなら、彼らを宗教におけるあなた方の兄弟、親友と呼ぶがいい。もしあなた方が誤ったとしても罪はないが、あなた方が意図したことにこそ(アッラーのお咎めがあろう)。アッラーは赦し深く、慈悲深いお方である。,(クルアーン33:4-5)

イスラームにおいては、子供はその父親の認知なしにその息子と見なされます。というのもそのような主張は、婚姻関係どころか家庭生活をも危険に晒しかねないからです。また女性はその名誉や尊厳を損ねるような、姦淫の訴えなどの虚偽の訴えから保護される必要があります。そのような虚偽の訴えは更なる疑念を呼び、家族内の他の子供の血筋に対してすら疑念を抱かせてしまうかもしれません。一方で夫婦の正しい婚姻関係のもとに生を受けた嫡出子に関しては、その子供が果たして本当にその父親の子供かどうかなどという証明は必要ありません。また母親も、子供がその父親のものであるなどということをわざわざ告げる必要もありません。この根拠は、預言者ムハンマドの次の言葉によっています:

子供はその父親に属する。[35]

但しこの規定の唯一の例外は、妻が夫を欺き、そして彼のものではない子供を孕んだことが疑念の余地のないものとなった場合です。このような場合、その子供は彼のものではないという特別規定が適用されることになり、父子関係はないものとなります。これが意味するところは、つまりもし非嫡出子が女子だった場合、彼の前に気楽に姿を現すことも、彼と共に旅行することも、彼との自由な交際も禁じられることになるということです。

またムスリム女性は結婚後もイスラーム法に則って自分の苗字を保持します。イスラーム法とその教義によれば、女性は結婚後、配偶者の苗字に変更することを禁じられます。このことからもイスラームが女性に対して多大な尊厳と名誉を与えていることが分かります。女性も男性同様、独立した自分の名前を保持する平等な権利を有しているのです。

またイスラームは弱者や障害者などを保護し、尊重することを命じます。そして年配者を栄誉高いものとし、彼らに対する敬意と配慮を勧めています。預言者ムハンマドはこう言いました:

年少者に慈悲を示さない者、そして年配者に敬意を示さない者は私たちムスリムの内の者ではない。[36]

またイスラーム法は孤児の援助を義務付けています。慈悲深い神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-ゆえに孤児を抑圧してはならない,(クルアーン93:9)

また聖クルアーンにはこうあります:

-そして孤児が成熟するまで、その財産には良い形においてでなくては近づいてはならない。そして約束を守るのだ。それは問われることになるだろうから。,(クルアーン17:34)

またこうもあります:

-実に孤児らの財を不正に貪る者たちは、炎を食べてそれを腹の中に詰め込んでいるのである。そして彼らは地獄の烈火の中に入ることになるのだ。,(クルアーン4:10)

また聖クルアーンは、貧困や無知ゆえに両親が無実の子供を殺してしまう、というようなことがないよう、彼らの保護を訴えています:

-言え、「あなた方に、あなた方の主が禁じられたことを読んで聞かせよう。アッラーに何かを並べて拝してはならない。そして両親に孝行せよ。またあなた方の子供を、困窮を恐れて殺してはならない。われら(アッラーのこと)こそが彼らとあなた方を養うのである。そして露わなものであれ秘められたものであれ、醜い物事には近づくな。正当な理由なしにアッラーが神聖なものとされた生命を奪ってはならない。これこそは、かれがあなた方に命じられたことである。あなた方は恐らく理解するであろう。,(クルアーン6:151)

このように私たちは、イスラーム社会における弱者や病人、恵まれない人々に対する類まれな保護精神や敬意の念を認めることが出来ます。

 

財産の保護

個人の財産や所有物は社会構成員の生計の手段であり、経済の基礎です。イスラームは個人の所有財産を保護し、窃盗や強盗などといった、所有権という神聖な権利を侵すあらゆる侵害に対して厳罰を設けています。また同様に、詐欺や横領、独占、買占めなどといった有害な経済的行為も禁じられています。これは個人の財産に対する保護を強調する意図を示していると言えるでしょう。イスラーム法は他人の所有物の窃盗に対しては、身体的刑罰として手の切断刑を定めています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-男女の窃盗犯は、彼らが成したことの報いゆえ、そしてアッラーの懲罰ゆえ、その手を切断するのだ。アッラーは威光高く、この上なく英知溢れるお方。,(クルアーン5:38‐39)

しかし窃盗犯の手首の切断刑の実施は、以下の条件を満たしていなければなりません。

h 盗難品がきちんと保管されており、窃盗犯がそれを盗むためにその保管場所に侵入していること。もし盗難品が外に放り出されていたり、何の配慮も払われてはいないような物だったりしたら、刑の執行はありません。このような場合犯人は引ったくりの罪に問われ、その筋の権威が相応の刑罰を下すことになります。

h 窃盗犯の意図が、飢えのための飲食などの必要からではなかったということ。第二代目カリフのウマルは干ばつの年、飢餓ゆえに窃盗に及んだ者に対しては刑を執行しませんでした。

h 盗難品の価値が、刑罰が適用される最低額に達していること。

またこれらの身体的刑罰は、犯罪にほんの少しの疑念でもあれば執行はされません。全く疑念の余地がない根拠がある場合のみにおいて、行われるのです。

またイスラーム法には、犯罪に対する身体的刑罰の別の種類のものとして、矯正刑というものもあります。これはイスラーム法で明示されていない種類の犯罪に対する刑罰であり、比較的軽度のものとなります。そしてその内容は犯罪者の状態やその犯罪歴、犯罪の種類や分野や程度などを考慮しつつ、ムスリムの裁判官が決定します。矯正刑には拘禁刑、公開の鞭打ち刑、罰金、あるいは単なる懲戒といった様々な形式があります。

また窃盗の他にも、不動産その他の私有物に対するあらゆる種類の侵害は禁じられています。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてあなた方の財産を、不正に貪り合ってはならない。またそれと知りながら罪深くも他人の財の一部を奪おうとして、統治者に偽りの証言を立てたりしてもならない。,(クルアーン2:188)

こういった理由から、侵犯者は審判の日に手ひどい懲罰を下されるのです。使徒ムハンマドはこう言っています:

その権利もなく他のムスリムの財産を不当に奪う者は、神にお目にかかる時、かれがお怒りの状態にあるであろう。[37]

また使徒ムハンマドはこうも言っています:

手の平一つ分の土地でも奪った者は、神が審判の日にその不正者の首に七つの地を巻きつけられるであろう。[38]

イスラーム法は、他人の土地や財産を不当に入手した者が、それを本来の所有者に返却することを命じています。そしてもしその財産を元の形で返還できない場合は、それに見合った価値のものでもって弁償します。そのような場合、ムスリムの裁判官は加害者に鞭打ち刑を追加するといったことも可能です。またイスラームは所有者が自らの財産を守るためにあらゆる手段に訴えることを許可しており、もしそれ以外に手段がないような場合、侵犯者の殺害すら認めています。そのような場合には、財産を守るために正当防衛をしたという証明が出来れば報復刑を執行されることはありません。しかし逆に侵犯者の方が所有者を殺害した場合、被害者は殉教者と見なされる一方、加害者は殺人犯ということになります。預言者ムハンマドはこう言っています:

自分の財産を守るために殺された者は、殉教者である。[39]

 

国家資源の保護に関して

国家資源は公共の所有物であり、その収益は社会的需要のための資金とすべく、公的国庫に収める必要があります。このような資源は特定の目的のみに使用するため、特定の集団や階層や個人によって所有されたりしてはなりません。むしろそれによって得た利益は、公共の福利のためゆえに用いられるべきです。この種の財産に対する侵犯を試みる者に対して警戒するのは、イスラーム社会の集団義務です。共有の自然資源に対する搾取や非合法な私的利用は、イスラームの教義と指針において禁じられています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-「…そして地上で反逆を働いてはならない。」,(クルアーン2:60)

またこのことに関し、神の使徒ムハンマドはこう言います:

ムスリムは三つにおいて共同所有する:つまり水と牧草と、火である。[40]

 

 

 

 

 

イスラームにおける権利と義務

 

イスラームは社会構成員の間の社会的絆の強化を促します。そしてイスラームはまず家族の権利、それからその親等上の近さに応じて親戚に対する権利と義務を謳っています。これらの権利の価値と重要性は、その関係の段階や種類によって様々に異なってきます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-人々よ、あなた方を一つの魂(アダム)から創られ、次いでそれからその妻を創られ、そしてその二人から多くの男女を創り広げられたアッラー(のお怒りと懲罰を招くような事柄)から身を慎むのだ。そしてあなた方がかれにおいて同情し合うところのお方と、親戚の絆の断絶に対して身を慎め。アッラーは実に、あなた方の一部始終を見守られるお方である。,(クルアーン4:1)

また神は相続法規定に関する節の中で、こう述べています:

-…あなた方はあなた方の父母とあなた方の子息との、どちらがあなた方にとって有益かを知らないのだ。(これこそ)アッラーからの定め。実にアッラーは全てをご存知になられ、この上なく英知に溢れたお方である。,(クルアーン4:11)

無論イスラームにおいて、その他の関係がないがしろにされているわけではありません。それらは全て人々を個人的かつ社会的に、互いに近づけるネットワークの一部に過ぎないのです。また団結した社会を築き上げるべく互いに助け合い、認め合うために、遠い関係にある人々とも結集を促すような絆も必要です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-(アッラーを援助する者たちとは、)もしかれ(アッラーのこと)が彼らを地上(の統治)において確立されたならば、サラー(礼拝)を遵守し、ザカー(義務の浄財)を拠出し、善いことを勧め、悪事を禁じる者たちのことである。そしてアッラーにこそ全ての事の結末が属するのだ。,(クルアーン22:41)

相互の関係強化に関して、神の使徒ムハンマドはこのように言っています:

互いに妬み合ってはならない。互いに値を吊り上げ合ってもならない。憎しみ合ってもならないし、背き合ってもならない。また互いの絆を断ち切ってもならない。しかしあなた方は、アッラーのしもべである同胞となるのだ。ムスリムはムスリムの同胞である。彼は同胞に不正を働いてもならないし、失望させてもならない。また同胞に嘘をついてもならないし、蔑んでもならない。敬虔さとはここにあるのである(こう言って、彼は自分の胸を三回指しました)。人がその同胞であるムスリムを蔑むことは十分に悪いことである。ムスリムは他のムスリムに対し、その生命と財産、名誉において神聖なのである。[41]

またこのようにも言っています:

信仰者たちが互いに慈しみ合い、愛し合い、同情し合うのは、まるで一つの体のようである。体のある部分が痛みを訴えれば、他の部分が不眠と熱に冒されながら、彼の(看病の)ために寄り集まって来るのだ。[42]

このようにイスラーム社会にはよく組織立てられた公的・私的権利が存在します。以下に、イスラーム法とその教義において最も顕著と思われる公的・私的権利を挙げていってみましょう:

1. 全能なる神の権利

2. 預言者ムハンマドの権利  

3. その他の使徒や預言者の権利       

4. 両親の権利           

5. 夫の妻に対する権利         

6. 妻の夫に対する権利         

7. 子供の権利           

8. 親戚の権利           

 

 

 

全能なる神の権利

 

神の人間に対する基本的な権利は、彼らが神に子供を帰属させたり、あるいはいかなる共同者なども結び付けたりすることなく、かれのみを崇拝することです。全存在の永遠の真実は「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーの他に真に崇拝すべきものはなし)」なのです。この証言の意味するものは、アッラー以外に絶対的服従に値するいかなる神性も存在しない、ということです。ムスリムの信仰を証言するこの言葉には、以下のような意味も含まれてきます:

* 究極的な意味において、神のみが崇拝され服従されるに値するということ。かれを差し置いて、あるいはかれと併置して崇拝されるような権利を有するものはありません。それで人間の言動や隠された意図は、全能なる神が彼らを創造した目的に沿っているべきです。人間の全行動は、全能なる神のご満悦のためだけに行われるべきなのです。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてあなた方の主は仰った:「われに祈願せよ(つまりわが唯一性を信じ、われにのみ祈るのだ)。そうすればわれはあなた方に応じよう。われのイバーダ(崇拝行為)において不遜な者たちこそは、惨めな形で地獄の業火に入ることになろう。」,(クルアーン40:60)

* ムスリムは神自身が自らを形容した、あるいは預言者ムハンマドがかれを形容したところの「美名と属性」を信じなければなりません。そしていかなる者も、神自身が自らを形容した、あるいは預言者ムハンマドがかれを形容した以外の名や属性を神に結びつけることは許されません。またこれらの美名や属性において、不適当な解釈や意見、擬人化などを行うことも禁じられています。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-かれ(アッラー)に似たものは何一つない。にも関わらず、かれは全てを聞き、ご覧になられるお方なのである。,(クルアーン42:11)

* ムスリムは言葉でもって信仰を証言し、心でもってそれを受け入れ、その行為でもって自らの信仰証言の真実性を証明しなければなりません。そして神に完全に服従し、真摯に信仰するのです。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてアッラーの他に真に崇拝すべきものがないこと(ラー・イラーハ・イッラッラー)を知り、あなたと男女の信仰者たちの罪を乞うのだ。アッラーはあなた方の(現世における)一挙一動も、あなた方の(来世における)行き先もご存知なのである。,(クルアーン47:19)

* 人間は神のご意志に全てを完全に委ねなくてはなりません。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてアッラーとその使徒が何らかの裁断を下したならば、それが男女の信仰者にとって彼らの諸事における最良のものとならないことはない。そしてアッラーとその使徒に逆らう者は、明白に道を踏み誤っているのである。,(クルアーン33:36)

* ムスリムは神とその使徒ムハンマドを純粋に愛さなければなりません。そしてこの愛は逆境にある時も、葛藤の折も、自分自身を含めかれら以外のものに対する愛に優ってはならないのです。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」,(クルアーン9:24)

* またムスリムは、神がその預言者ムハンマドを通して定めた形式と手法によってのみ、神を崇拝しなければなりません。推量によって新たな崇拝行為を創出し、それを宗教に結びつけることは許されていないのです。全ての崇拝行為は天啓宗教であるイスラームに一致していなければなりません。例えばこうした崇拝行為の一つに「サラー(礼拝)」があります。これを行い続けることの成果として、善行が増え、悪行が減少するということがあります。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

 -あなたに啓示された啓典の内から朗誦し(てその内容を実践し、)サラー(礼拝)を遵守するのだ。実にサラーは醜行と悪事を妨げる。そしてアッラーのあなた方に対する想念は、あなた方のかれに対する唱念よりも遥かに偉大なのだ。アッラーはあなた方の行うことをご存知であられる。,(クルアーン29:45)

またザカー(義務の浄財)を窮乏や貧困の中にある者に施すことは、恵まれない者の試練や苦痛を減少させると共に、それを施す者の自己浄化や吝嗇や貪欲さの排除といった効果をもたらします。聖クルアーンにはこうあります:

-彼はその財を施し、自らを(アッラーに)清めて頂く。そして彼には(そうすることで、)誰に対しても報われるべき恩恵などはない。ただ至高のアッラーの御顔のみを求め(てそうす)るだけ。やがて彼は満足するであろう。,(クルアーン92:18-21)

 

またサウム(斎戒、いわゆる断食)は人の欲望に対する自己規律と自己管理能力を高め、敬虔さや神への畏怖心、また貧者や恵まれない境遇にある者の状態に関する意識を明瞭なものとしてくれます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-信仰する者たちよ、あなた方以前の者たちにも定められたように、あなた方にもサウム(斎戒、いわゆる断食)が課せられた。(それによって)あなた方は敬虔さを獲得するであろう。,(クルアーン2:183)

またハッジ(マッカへの大巡礼)には、以下の聖クルアーンの節にもあるように、様々な利益があります:

-(ハッジ:大巡礼は)彼らが諸々の利益を得、周知の数日間に渡り、アッラーがお恵み下さった家畜としての生き物に(対してそれらを犠牲として、またそれ以外の折にも)アッラーの御名を唱えるがためのものである。ゆえにあなた方はそこから食べ、(それでもって)貧しく恵まれない者にも食べさせるのだ。 ,(クルアーン22:28)

イスラームにおけるこれら以外の全ての崇拝行為も、人間自身の利益に深く関わっています。これらは通常の状態において行われる限り、何の困難も伴いません。聖クルアーンにはこうあります:

-アッラーはあなた方に易きを求め、難きを望まれない。,(クルアーン2:185)

また同様の意味の言葉として、預言者ムハンマドはこう言っています:

 

私があなたに命じることは、出来る範囲で行いなさい。[43]

 

またこうも言っています:

 

「宗教は易しい物である…」[44]

 

尚病気などの法的に認められた困難の折には、崇拝行為は完全に免除されるか、あるいは特別にいくらかの軽減措置が認められます。例えば礼拝は通常起立して行われますが、それが出来ない状態であれば座位姿勢によって行っても良いとされます。そしてもしそれさえも出来なければ、横になって、または仰向けになって、あるいはその状況において最も楽な状態で行っても良いとされるのです。また上記のいかなる姿勢も取れないのであれば、その時は手の仕草、あるいは目の動きだけででも礼拝を行うようにします。そして礼拝の前には体を洗浄しますが、もし水がなかったり、あるいは水を使用出来ない正当な理由があったりしたら、その義務はとりあえず差し控えられます。そして水を用いた洗浄の代わりに「タヤンムム」という砂や埃などを用いた代用行為を行い、その後は通常通りに礼拝を行うのです。また月経中、あるいは産後の出血のある女性はその出血が完全に止まるまで、礼拝義務を差し控えられます。そしてその状態が終了しても、その期間にやり過ごしてしまった礼拝をやり直す必要はありません。またザカーが要求される一定の財産を一年間通して所有していないムスリム男女は、それを支払う義務がありません。また断食をする力のない老齢者や病人なども、断食の義務を免除されます。但しそのような者たちは可能なら贖罪として、断食すべき一日につき貧者一人に食事を施す必要があります。同様に旅行者はその状況の困難性ゆえ、断食を解いてもよいとされます。また月経や産後の出血があった女性は出血が完全に収まるまで断食しませんが、その状態が終わった後にやり過ごした日の分だけ断食し直します。またハッジはそもそも全人への義務ではなく、身体的障害がある者や経済的に余裕がない者はハッジをする法的義務がありません。ハッジを志す者は彼の巡礼の旅の間、彼自身と残した家族を十分養うだけの経済的余裕がなければならないのです。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そこには数々の明白なみしるしがある。(その内の一つが)アブラハムの立ち所(である)。そこ(マッカの聖域)に入った者は安全なのだ。そしてそうすることが出来る人々には、その館を訪問するアッラーへの義務がある。それを否定する者があっても、実にアッラーは何ものをも必要とされてはいないのだ。,(クルアーン3:96-97)

またイスラームにおける困難の緩和の別例として、ムスリムが合法な食事の欠乏により瀕死の状態にあるような際には、血液や神の御名が唱えられずに屠られた動物の肉など本来イスラーム法で非合法とされる物でも摂取して構わない、というものがあります。但しそのような時でも摂取するのは、命を繋ぎとめるのに必要な量だけに留めておかなければなりません。この法規定は、次の聖クルアーンの節で言及されています:

-あなた方に禁じられたものは、(イスラーム法に則って屠殺されなかった)死体、(流れる)血液、豚肉、アッラー以外の名において屠られたものである。しかしやむを得ない状態にある者は、(その摂取において)度を越さず、(それを口にするのは、他に合法なものがない場合のみであるという)法を超えない限りにおいて(それを口にしても)罪はない。実にアッラーはお赦し深く、慈悲深いお方である。,(クルアーン2:173)

 

 

預言者ムハンマドの権利

 

神は人類を正しく導くためにその使徒を遣わし、もし人類が彼を信じて従い、彼に対する権利を全うするならば、現世における成功と来世における報奨を与えることを約束しました。これらの権利は前述の「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーの他に真に崇拝すべきものはなし)」という信仰証言に並列された「ムハンマドゥン・アブドゥフ・ワ・ラスールフ(ムハンマドはそのしもべであり使徒である)」という言葉の中に集約されています。そしてこの証言は、以下のような事柄を義務付けます:

* 預言者ムハンマドの命令を遵守し、神に対する不従順を回避することにおいて努力すること。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-…使徒が命じた物事を行い、彼の禁じた物事を避けよ。そしてアッラー(のお怒りや懲罰の原因となるような物事)に対し、身を慎むのだ。実にアッラーは厳しく罰されるお方である。,(クルアーン59:7)

 * 可能な限り彼のスンナ(慣習)を踏襲すること。いかなる者も神の使徒ムハンマドのスンナを改変したり、そこに付加したり、あるいは削除したりする権威はありません。聖クルアーンにはこうあります:

-言え、「あなた方がアッラーのことを愛しているのなら、私(ムハンマド)に従うのだ。そうすればアッラーはあなた方を愛して下さり、あなた方の罪をお赦し下さるであろう。」アッラーはお赦し深く、慈悲深いお方である。,(クルアーン3:31)

* ムスリムは神が使徒ムハンマドに授けた特別な位階と威信を称えなければなりません。そしていかなる者もその品格を下げるようなことをしてはいけませんが、同時に過度の讃美も禁じられています。預言者ムハンマドは自らこう言いました: 

キリスト教徒がマリヤの子(イエス)に対してしたように、私を度を越して称えるのではない。私は一人のしもべに過ぎないのだ。ゆえにこう私を呼ぶがよい:“アッラーのしもべ、かれの使徒”と。[45]

また彼はこうも言っています:

人々よ!あなた方が言うべきことを言い、悪魔の誘惑に乗るのではない。私はアッラーのしもべであり使徒である、ムハンマドなのだ。私はあなた方が、私を全能のアッラーが私に割り与えられた以上の地位にまで高めることを好まない。[46]

また使徒ムハンマドは、このようにも言ったそうです:

私をそれに値する以上にまで称えるのではない。アッラーは私が預言者とか使徒とお呼びになる前に、私を一人のしもべとして創られたのだ。[47]                                                                        

* ムスリムは使徒ムハンマドが下したいかなる裁断にも満足し、それを受け入れなければなりません。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-いや、あなたの主にかけて。彼らは彼らの間の諍いごとに関してあなたにその裁決を仰ぎ、それからあなたが裁いたことについて自分自身の中に少しの疑念も抱かず、(それを)完全に受け入れるまでは、(真に)信仰したことにはならないのである。,(クルアーン4:65)

* 神の使徒ムハンマドが普遍的メッセージを携えて、全人類に遣わされたということを信仰すること。イスラームは使徒ムハンマド以前の使徒や預言者たちの宗教がそうであったように、特定の人々に向けてのみ遣わされたわけではありません。聖クルアーンにはこうあります:

-言え(ムハンマドよ)、「人々よ、実に私こそはあなた方全てに対して(遣わされた)、天地の主権をお持ちであるアッラーの使徒である。全てに生を授けられ、死を授けられるかれ(アッラーのこと)以外に、真に崇拝すべきものはない。ゆえにアッラーと、アッラーとその御言葉を信じる文盲の預言者であるかれの使徒を信じるのだ。彼に従え。そうすればあなた方は導かれるであろう。」,(クルアーン7:158)

* 神の使徒ムハンマドが神のメッセージを人類に伝達することにおいて、誤りを犯すことから守られていたことを信じること。また彼が神のメッセージに勝手に何かを付け加えたり、あるいは削除したりすることがなかったことを信じること。聖クルアーンにはこうあります:

-そして彼は私欲から(物事を)話しているわけでもない。,(クルアーン53:3)

* 預言者ムハンマドが神から人類に遣わされた最後の預言者であり、その後にはいかなる使徒や預言者も到来しないことへの信仰。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-ムハンマドは(彼が授かった本当の彼の子でもない)あなた方の内の誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒であり、最後の預言者なのだ。,(クルアーン33:40)

また使徒ムハンマド自身、こう言っています:

 

…そして私の後に、使徒はないのだ。[48]

 

* 神が人類に対して課した宗教的義務や命令は全て正しいものであり、預言者ムハンマドが神のメッセージを完全な形で伝達したことを信じること。また彼がイスラーム共同体に最善の忠告をし、善を行い悪を避けるための最高の指針を残したことを信じること。聖クルアーンにはこうあります:

-この日、不信仰者たちはあなた方の宗教(を頓挫させること)に絶望した。ゆえに彼らのことなど畏れず、われ(アッラー)のことを畏れるのだ。この日われはあなた方に対し、あなた方の宗教を完成させた。そしてあなた方への恩恵を全うし、イスラームがあなた方の宗教であることに満足した。,(クルアーン5:3)

* イスラームにおいて定められた法は神によって承認されたものであり、様々な種類の全ての崇拝行為はこの神聖な法に基づいていることを信じること。また人間が独自に編み出した行動は、これらの神聖な法と合致しない限り受け入れられないこと。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてイスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。そして彼は来世においては損失者の類いなのである。,(クルアーン3:85)

* ムスリムは預言者ムハンマドの名が言及された時、彼に対する敬意の印として適切な挨拶をしなければなりません。この教えは、聖クルアーンの中に見出せます:

-実にアッラーとその天使たちは、預言者を祝福する。信仰者たちよ、彼に祝福と平安を乞うのだ。,(クルアーン33:56)

 

* 信仰者は他の何者よりも、預言者ムハンマドに対して真の愛情を向けます。というのも彼がもたらした神の真実の宗教に関しての情報や実践こそは、唯一の救済の手段であるからです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」,(クルアーン9:24)

* ムスリムは人々に彼のメッセージを伝達することにおいて、英知と忍耐をもって出来る限りの努力を払い、可能な限りの機会を利用する必要があります。また宗教を誤って理解している者やおろそかにしている者への啓発や、信仰心の弱い者の信仰を強化することにおいて奮闘しなければなりません。聖クルアーンにはこうあります:

-英知とよき訓戒をもって、あなたの主の道へといざなえ。そしてよき手法を用いて彼らと議論するのだ。実にあなたの主はその道を迷い外れた者のことも、よく導かれた者のこともよくご存知である。,(クルアーン16:125)

また使徒ムハンマドはこう言っています:

一つきりのアーヤ(クルアーンの一節)でもよいから、私から伝達せよ。[49]

 

その他の使徒と預言者の権利

イスラームの信仰は預言者ムハンマド以前の全使徒・全預言者の真実性を宣言するまで、完全なものとはなりません。但し過去の全ての使徒・預言者は特定の時期に特定の人々に遣わされましたが、イスラームのメッセージは世界の最後が訪れるその時まで、あらゆる場所と時代において普遍的であり続けるのです。聖クルアーンにはこうあります:

-使徒は、彼の主から彼に下されたものを信仰する。そして信仰者たちも(またそうする)。(彼らは)皆、アッラーとその諸天使、そしてその諸啓典とその諸使徒を信仰する。(彼らは言う:)「私たちは使徒らのいかなる者も、差別しない。」そして彼らは言った:「私たちは(あなたのご命令を)聞き、従いました。私たちの主よ、あなたからのお赦しを(乞います)。そして全てのものの還り行く先は、あなたの御許です。」,(クルアーン2:285)

またムスリムはイスラームのメッセージを人々に伝達する義務がありますが、その受容を強制することは出来ません。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-宗教に強制はない。,(クルアーン2:256)

両親の権利

両親の権利には、彼らに対する敬意や愛情、従順さなどが含まれます。子供は神とその使徒の命に反することではない範囲において、その両親に従う義務があります。そして両親にはよく気配りし、親切に接すると同時に、彼らの物質的満足も満たさなければなりません。また彼らに対する忍耐心と尊敬も同様に子供の義務であり、いかなる粗暴な振る舞いや無礼も禁じられます。そして子供はいかなる状況にあろうと、彼らへの奉仕において辛抱強くなければなりません。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてあなたの主は、あなた方がかれ以外の何ものも崇拝せず、両親に孝行することを命じられた。彼らの内片方、あるいは二人とも高齢に達したら、うんざりしたり乱暴に応対したりしてはならない。しかし彼らにいたわりの言葉をかけてやるのだ…,(クルアーン17:23)

また神の使徒ムハンマドは、私たちにこう教示します:

ある者に対するアッラーのご満悦は、その両親の彼に対する満足によっている。またアッラーのお怒りもまた、彼の両親の不満足によっている。[50]

そしてこの権利は両親が子供に神への不服従を命じるのではない限り、例え両親が彼らとは違う宗教に属していたとしても遵守しなければなりません。初代カリフであったアブー・バクルの娘アスマーゥは、こう言いました:「まだムスリムではなかった私の母親が、私のもとを訪れました。それで私はアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)に、彼女とどう接するべきか相談しました。私は言いました:“私の母親が私の孝行を求めてやって来たのですが、私は彼女によくしてやるべきでしょうか?”すると彼はこう言いました:“ああ。お母さんに良くしてやりなさい。”」[51]

尚母親は、子供からの親切と同情心、愛情や親しみの念において、父親よりも優先されます。ある時、一人の男が預言者ムハンマドのもとにやって来てこう言ったことがありました:「アッラーの使徒よ、私が最も良い関係を保つべき人は誰でしょうか?」(預言者は)言いました:「母親だ。」(男は)言いました:「その次は?」(預言者は)言いました:「母親だ。」(男は)言いました:「その次は?」(預言者は)言いました:「母親だ。」(男は)言いました:「その次は?」 (預言者は)言いました:「父親だ。」また別の伝承では、彼は最後にこう言います:「父親だ。それから、より近親の者だ。[52]

こうして使徒ムハンマドは、母親に父親の三倍の権利を認めています。これは母親が胎児を宿している際も出産の折も、また出産後の養育に関しても父親にはない苦労を担っているためです。クルアーンは母親を、このように描写しています:

-そしてわれら(アッラーのこと)は人間に、両親に善行を尽くすよう命じた。母親は彼(女)を辛苦をもって身ごもり、また辛苦をもって産み落としたのだ。,(クルアーン46:15)

もちろん、このことが父親の権利をないがしろにするわけではありません。預言者ムハンマドはこう言っています:

 

誰も、父親に対する恩返しなどまっとうは出来ない。彼(父親)が奴隷にされたのを見つけ、彼を買い戻して解放する位のことをしなければ。[53]

 

夫の妻に対する権利

夫はその家族の維持に関する全ての側面において責任を持つため、家の諸事において最高の権利を有します。彼の統率は公正と忍耐、英知によるものでなければなりません。聖クルアーンにはこうあります:

-夫は妻の監督にあたる。アッラーは彼を彼女より上に位置づけられ、また彼は彼女のために自らの財から拠出するのであるから。,(クルアーン4:34)

この「責任」という位置づけの一つの理由は、一般的に男性が女性よりも肉体的に強く、またより理性的であるためでしょう。一方女性は一般的に言って男性より肉体的に弱く、またより感情的と見られます。これらは創造主が彼らの人生と家族生活において、それぞれ補足的な役割を担うために授けられた特徴なのです。妻は神とその使徒の命に反することでない限り、その夫の指導に従うことが求められます。預言者ムハンマドの妻アーイシャは、彼にこう尋ねました:

「女性に対して最大の権利を有している者は誰ですか?」彼は答えました:「その夫だ。」また彼女は、こうも尋ねました:「男性に対して最大の権利を有しているのは?」彼は答えました:「その母親である。[54]

妻は夫に、彼が能力的及び物質的に実現することが出来ないような要求をするべきではありません。むしろ彼女は夫を満足させ、その願望を叶える努力をするべきです。また妻は自らを守り、貞淑であることによって、夫の子供と子孫を守らなくてはなりません。また妻は夫の財産を守る信頼高い管理人となるべきであり、また夫の同意や彼に前もって伝えることもなく外出すべきではありません。また彼が好まないような者を、勝手に家に入れたりしてもなりません。これらはひとえに家庭の調和と尊厳を守るためなのです。預言者ムハンマドはこう言いました:

最善の女性とは、目をやればあなたを満足させ、何かを頼めばあなたに従い、あなたが留守の時にはあなたの財と血統を守ってくれるような者である。[55]

 

妻の夫に対する権利

夫に対する妻の権利は沢山ありますが、以下のようにまとめられるでしょう:

マハル(婚姻の際の贈与財)女性は、その夫となる男性からマハルを受領する権利があります。そもそもマハルなしには婚姻の契約は成り立ちません。マハルは免除したりすることは出来ませんが、もし女性がそう望むならば彼女は婚姻契約の完了後、彼女の権利において譲歩することが出来ます。聖クルアーンにはこうあります:

-そして女性たちにマハル(婚姻の際の贈与財)を、定められたものとして贈るのだ。そしてもし彼女らが自ら進んでそれを譲るというのなら、それを有難くよい形で頂くのだ。,(クルアーン4:4)

妻子の扶養:夫は彼らに適切な住居や生活必需品‐飲食物や衣服など‐を供給する他、その能力が許す範囲において生活費を拠出する義務があります。聖クルアーンにはこうあります:

-裕福な者はその裕福なものの内から拠出させ、そして(経済的に)恵まれない者はアッラーが彼にお恵み下さったものの内から拠出させるのだ。アッラーは人に、かれが授けられた以上のものを課されることはない。アッラーは困難の後には楽を授けて下さるだろう。,(クルアーン65:7)

イスラームは家族への気前のよさを励行するという意味で、扶養行為を来世において多大な報奨を受ける慈善行為という位置づけをしています。預言者ムハンマドは、彼の教友の一人であるサアド・ブン・アビー・ワッカースにこう言いました:

アッラーからの報奨を求めてあなたの家族に費やすもので、あなたがその報いを受け取らないものはない。それが例え妻の口元に運ぶ一匙(の飲食物)であっても、である。[56]

また適切な扶養義務を果たさない夫を持つ妻は、彼の許可なくその財産を利用する権利を有します。但しその場合、彼女は自分自身と子供に十分な額のみを取るだけに留めなければなりません。ヒンド・ビント・ウトゥバという女性はある時、使徒ムハンマドにこう言いました:「アッラーの使徒よ、(私の夫)アブー・スフヤーンは吝嗇家で、私と私の子供に十分なものを施してはくれません。私は彼の知らないように彼(の財)から取らずにはいられないのです。」すると彼は言いました:

あなたとあなたの息子に足りるだけのものを取りなさい。[57]

妻を労り、彼女と特別によい関係を保つこと:これは、イスラームが夫に命じている最も重要な事柄の内の一つです。夫は妻とのよい付き合いと共に過ごす時間において、彼女の満足度を一定のレベルにまで満たさなければなりません。また妻を含む家族全体に対し、十分な扶養を求められます。また夫は、基本的な妻の願望を叶えることの出来る愛情深い存在であるべきです。教友ジャービルによれば、預言者ムハンマドは彼にこう言いました:「ジャービルよ、結婚したか?」ジャービルは言いました:「ええ。」彼は言いました:「(彼女は)初婚か、それとも既婚者か?」ジャービルは言いました:「既婚者です。」彼は言いました:「どうして一緒に遊んだり、笑い合ったり出来る若い乙女と結婚しなかったのか?[58]

妻の全ての秘密を守ること:夫は彼女との私的関係を内密なものとし、彼女の秘密や欠点、その他彼女が他人には知られたくないような事実を暴露してはなりません。またイスラームにおいて夫婦間の懇意な関係は重要視され、かつ保護されるべきものであり、夫婦関係は神聖なものと見なされています。神の使徒ムハンマドはこう言っています:  

審判の日にアッラーの御許で最悪な位階にある者とは、妻と性的関係を持った後に、彼女の秘密を暴露する者である。[59]

公正と平等:もし男性に複数の妻がある場合、彼は彼女たちと平等によい形で接しなければなりません。また飲食物や衣服、住居や共に過ごす時間においても、平等に扱う必要があります。これらの点における不平等は、非常に厳しく禁じられています。預言者ムハンマドは言いました:

二人の妻を有する者でその一方のみを贔屓する者は、審判の日にその体の半分が傾いた状態で現れるであろう。[60]

 

妻子に優しく親切にすること:夫は、妻を含む家族全員を懇ろに扱わなければなりません。彼は現世と来世における神のご満悦を望みつつ、妻の欠点や短所に辛抱して、親切さと十分な配慮を示しながら力の限りを尽くして諸々の問題を解決していくべきです。また彼は彼らの日常的諸事や将来の必要や計画において彼女に相談し、家の内外において彼女と家族とを幸せにするための平和に満ちた環境を作るあらゆる手段を模索する必要があります。預言者ムハンマドはこう言いました:

最も完成された信仰者とは、最も人格の優れた者である。そしてあなた方の内で最善の者とは、あなた方の妻に対して最善の者である。[61]

妻子の保護:夫は可能な限り、妻や家族を邪悪で不道徳な場所へ連れて行ったり、あるいはそのような状況に遭わせたりしてはなりません。聖クルアーンにはこうあるのです:

-信仰する者たちよ、あなた方自身とあなた方の家族を地獄の業火(へと招くような事柄)から守るのだ。その燃料は人間と石であり、その上には厳しく荒々しい天使たちがいる。彼らはアッラーが命じられたことに逆らうこともなく、そのご命令を遂行するだけなのである。,(クルアーン66:6)

また夫は妻の個人的財産や所有物を保護する義務があり、彼女の許可なしに、その財産や所有物に手を付けたりしてはなりません。また彼女の同意なく、その財産を管理処分したりしてもいけません。

 

子供の権利

子供の権利は数多く存在しますが、まずその一つとしてよい名前を選んで付けられる、ということがあります。預言者ムハンマドはこう言いました:

 

あなた方は審判の日に、あなた方の名とあなた方の父親の名で呼ばれるのだ。ゆえに良い名前をつけるがよい。[62]

 

また子供は、合法的な食事や適切な住居、よい教育や適当な養育などの必要を満たされる権利を有します。預言者ムハンマドは言いました:

 

自らが扶養すべき者に対して怠慢である者は、十分に罪深い者である。[63]

 

また子供は良い作法でもって教育され、同時に嘘や詐欺、欺瞞や自己中心性などの悪い習慣から守られる必要があります。預言者ムハンマドはこう言いました:

 

あなた方は皆後見人である。そしてあなた方は皆、その後見下にある者たちに対して責任があるのだ。[64]

 

また子供たちは平等かつ公正に扱われる権利があります。親は分配や接し方、プレゼントや主張の受け入れ、遺産相続などにおいて、彼らの内の特定の者だけを贔屓したりしてはなりません。このような子供間の不平等な扱い方は、両親や他の兄弟に対する子供の悪態などにつながる結果ともなり得るでしょう。教友アン=ヌゥマーン・ブン・バシールは、こう伝えています:「私の父は、私に彼の財産の一部を施しとして贈与しました。しかし私の母アムラ・ビント・ラウワーハはこう言いました:“私はアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がその(行為についての)証人となるまで、それに同意しません。”それで父は彼が私に贈与した物に関して証人になってもらうため、アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のもとに赴き、彼に贈与の証人になってくれるよう頼みました。するとアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、こう言いました:“あなたは、あなたの子供全員に(彼に与えた物と)同様の物を与えたのか?”父は言いました:“いいえ。”するとアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“アッラーを畏れよ。そしてあなたの子供たちに対して公正であれ。”それから父は戻ると、その施しを撤回しました。」[65]

 

親戚の権利

 

親戚は訪問や援助など、特別な配慮を受ける特有の権利を有しています。また経済的に余裕のある者はその親戚を援助する義務がありますが、その際にはより近親の者を、次いでより近しい関係にある者を優先するようにします。またムスリムは兄弟や親戚が何らかの困った状態にある時には援助し、彼らに起こった様々な出来事において気持ちを分かち合います。聖クルアーンにはこうあります:

-人々よ、あなた方を一つの魂(アダム)から創られ、次いでそれからその妻を創られ、そしてその二人から多くの男女を創り広げられたアッラー(のお怒りと懲罰を招くような事柄)から身を慎むのだ。そしてあなた方がかれにおいて同情し合うところのお方と、親戚の絆の断絶に対して身を慎め。アッラーは実に、あなた方の一部始終を見守られるお方である。,(クルアーン4:1)

またイスラームは、例えその者が自分に対して親切ではない者であったとしても、近親に対しては親切に接することを命じています。また彼らから関係を断絶されたとしても、関係の継続を呼びかけることを勧めています。神が聖クルアーンでこう仰っているように、家族や親戚との関係を断絶することはイスラームにおける大罪です:

-それではあなた方は(イスラームへのいざないから)踵を返して、地上に腐敗を広め、近親の絆を絶つことを望んでいるのか?そのような者たちこそはアッラーが呪われ、その聴覚と視覚とを封じられた者たちである。,(クルアーン47:22-23)

 

 

 

公的な権利と義務

 

1. 統治者の民衆に対する権利           

2. 統治される側の権利         

3. 隣人の権利           

4. 友人の権利

5. 客人の権利           

6. 経済的弱者の権利 

7. 被雇用者の権利    

8. 雇用者の権利        

9. 動物の権利

10. 植物や環境の権利           

11. その他諸々の権利

 

イスラームは世界中の同胞が遭遇している試練を気にかけ、可能な限り彼らを援助するよう促しています。預言者ムハンマドはこう言いました:  

信仰者とは互いに支え合う(レンガから成り立つ)、一つの建物のようなものである。」そう言って彼は両手の指を組み合わせました。[66]

またイスラームはムスリムが他人の信望を尊重し、余計な疑念などを回避するように教えています。預言者ムハンマドはこう言っています:

邪推を避けよ。邪推は最大の嘘であるから。あなた方のムスリム同胞の醜聞や欠点、落ち度などを粗探しするのではない。またあなた方のムスリム同胞を詮索してはならない。(悪い意図を持って)あなた方のムスリム同胞と張り合ってもならない。またムスリム同胞を憎んでもならない。彼ら(が苦境にある時)に背中を見せてもならない。アッラーのしもべらよ!アッラーがそう命じられたように、互いに同胞であるのだ。ムスリムはその同胞に公正でなければならない。ムスリムはその同胞を失望させても、見捨ててもならない。ムスリムはその同胞を蔑んでもならない。ムスリムが所有する物は全て他人にとって神聖な物なのであり、損ねてはならないのだ。敬虔さとはここにあるのである(こう言って、彼は自分の胸を指しました)。人がその同胞であるムスリムを蔑むことは十分に悪いことである。ムスリムは他のムスリムに対し、その生命と財産、名誉において神聖なのである。実にアッラーはあなた方の身体や見た目をご覧になられるのではない。彼はあなた方の心と行いをご覧になられるのだ。[67]

また使徒ムハンマドはこうも言っています:

自らが欲することをムスリム同胞にも欲するようにならない限り、真の信仰者になったとは言えない。[68]

イスラーム社会に属する全ムスリムが共有する公的な権利には、以下のようなものがあります:

 

1. 統治者の民衆に対する権利

この権利は次に示す聖クルアーンの節に、その根拠を見出すことが出来ます:

-信仰する者たちよ、アッラーとその使徒と、あなた方の内の諸事を任された権威に従うのだ。,(クルアーン4:59)

この権利に関して、ムスリムが遵守することを要求されているいくつかの指針を以下に挙げていきましょう:

h  それが宗教において禁じられていることではない限り、統治者に服従すること。神の使徒ムハンマドは、私たちにこう教示しています:

アッラーの啓典に則っている限り、(統治者に)聞き、従うのだ。例えそれがエチオピアからの奴隷男性であったとしても。[69]

h  聖クルアーンに則ったムスリムの統治者に従うことは神に従うことの延長線上にあり、またその逆も同様です。聖クルアーンに則ったムスリムの統治者の命令に従わないことは事実上、神に対する不服従なのです。

h  ムスリムの統治者は、臣民から彼自身と共同体、そして全世界を益するような誠実な忠言を受ける権利があります。また統治者はその任務と、約束に忠実であることを常に促されていなければなりません。この教えは、聖クルアーンの中に見出せます:

-そして彼(ファラオ)に穏やかな言葉で話しかけよ。そうすれば彼は忠告を聴き入れ、畏怖の念を抱くかもしれない。,(クルアーン20:44)

また神の使徒ムハンマドはこう言っています:「宗教とは助言である。」私たちは言いました:「誰に対しての助言ですか?」(預言者は)言いました:「アッラーとその啓典と、その使徒、そしてムスリムの指導者たち及び一般の者たちに対する助言である。

また統治される者は災厄や苦難の際に、統治者を援助しなければなりません。ムスリムはその統治者や指導者に従うことを要求されており、彼らに災いを祈ったり、あるいは問題の発生を意図して人々を扇動したりしてもなりません。これはアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)の、次の言葉によっています:「あなた方の諸事が全て一人の者に任されているというのに、あなた方を分裂させるか、あるいはあなた方の集団を分散させようとする者が現れたら、その者を殺すのだ。 [70]

2. 統治される側の権利

イスラーム国家のムスリムは、その政府に対してある種の権利を有します。以下に挙げるのは、その概略です:

完全な公正:これは全ての者がイスラーム国家において、適正な待遇を施されるということです。ある権利を保障されている全個人は、それを適切な形で享受する権利があります。またある義務を果たすことを課せられている全個人は、偏見を受けることなく適切な待遇を受ける権利があります。また個人間の責任分担も公平にされなければなりません。いかなる個人もある特定の人種や部門、社会階級などゆえに他人に対する優先権を得ることはありません。聖クルアーンにはこうあります:

-信仰する者たちよ、アッラーへの証言者として公正を貫く者となるのだ。例えそれがあなた方自身やあなた方の両親、近親に不利になるとしても(、そうせよ)。(証言を受ける対象が)豊かであろうと、貧しかろうと、アッラーが先決なのである。私欲に従って、(真理から)逸れてはならない。また(証言を偽ろうと)ねじったり、(するべき証言を)放棄したりしてはならない。実にアッラーはあなた方の行いを熟知されているのである。,(クルアーン4:135)

また預言者ムハンマドはこう言っています:

アッラーが最も愛でられ、また審判の日に最もかれの御許に近い場所に座を占めるのは、公正な統治者である。一方審判の日に最も忌み嫌われ、かつ最も厳しい懲罰を受けるのは暴君である。[71]

 

協議:統治される者は、彼らの経済的・社会的利益に関する物事において、統治者から協議を受ける権利があります。協議の工程は通常の形式に則って行われるべきです。また民衆はイスラーム共同体と社会に関する物事に関し、彼らの視点や見解を表現する機会を与えられなければなりません。そしてもし公益に適った意見があれば、統治者はそれを受容することも出来ます。神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてあなたが彼らに対して優しくしたのは、実にアッラーからのご慈悲ゆえであった。もしあなたがぞんざいで頑なであったなら、彼らはあなたのもとから離散してしまったことであろう。ゆえに彼らを赦し、彼らのために罪の赦しを乞え。そして諸事において彼らに相談するのだ。,(クルアーン3:159)

神の使徒ムハンマドは数多くの出来事において、その教友たちの助言を請いました。例えばバドルの戦役の際、ある教友は陣営の位置を変更することを提案しようとしてこう言いました:「アッラーの使徒よ!この場所はアッラーがお選びになられたもので、変更の余地はないのですか?それともこれは単なる戦略なのですか?」彼は答えました:「戦略である。」すると、その教友はこう提案しました:「アッラーの使徒よ!これは陣営を構えるのには適当な場所ではありません。敵に最も近い水飲み場を探し、そこに陣取りましょう。そして全ての水源を断ち、私たちの陣営だけのために水槽を設けるのです。こうすれば戦闘が開始された時、私たちは水を飲むことが出来ますが、敵はそう出来ないことになります。」アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:「あなたは最善の助言をしてくれた。[72]

 

治める法律が、イスラーム法に則したものであること:イスラームの統治と合法的な裁決はイスラーム法によるものです。イスラーム国家の法律はイスラーム法源であるクルアーンとスンナに則ったものでなければならず、権威ある明文が存在している事例に関しては、個人的見解の立ち入る余地はありません。イスラーム法は、私法や家庭法、犯罪法や国内法、国際法などを含む、包括的な法体系です。イスラーム法は人間の全ての要求を正しい形で満足させますが、それはアッラーが人類の導きのためにその使徒に下した啓示であるからです。

民衆と密接した政治ムスリムの統治者は自らを民衆から遮断して遠ざかったり、あるいは彼らとの間の取次ぎを置き、ある者たちの訪問を許す一方で、別の者たちが訪問するのを拒否したりすることがないようにしなければなりません。預言者ムハンマドは言いました:

ムスリムの諸事に関していくつかの責任を負わされたにも関わらず、彼らの欠乏や必要、窮乏や貧困をないがしろにする者は、審判の日に偉大なるアッラーが彼の欠乏や必要、窮乏や貧困をないがしろにされるであろう。 [73]

 

民衆への慈悲:ムスリム統治者は臣民に対して親切かつ哀れみ深くあり、彼らが担いきれないような負担をかけたりしてはいけません。また人々が社会において最善の形で生活することが出来るように、全ての手はずを整えなければなりません。またムスリム統治者は年配者を自分の父親のように、年少者を自分の子供のように、そして同年輩の者に関しては兄弟姉妹のように扱う必要があります。聖クルアーンは、イスラーム共同体の最初の指導者である預言者ムハンマドの特徴を、以下のように語っています:

-あなた方のもとに、あなた方自身の内から一人の使徒(ムハンマド)が到来したのである。(彼は)あなた方の(現世と来世における)苦しみを身に沁みて辛く思い、あなた方(が懲罰を受けず信仰に入ること)に懸命で、信仰者たちに哀れみ深く、慈悲深いのである。,(クルアーン9:128)

また使徒ムハンマド自身、このような助言を送っています:

慈悲深い者にはアッラーが慈悲深くあられよう。地にあるものに慈悲深くあるのだ。そうすれば天にあるお方が慈悲深くあられよう。 [74]

また第二代カリフであったウマル・ブン・アル=ハッターブは、統治の責任を非常に重く見ていました。そしてある時、こう言ったほどだったのです:「アッラーに誓って。もしイラク地方でラバが転んだら、私はアッラーが私に“なぜ道をならさなかったのだ?”とお咎めになることを恐れる。

 

3. 隣人の権利

至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように命じています:

-そしてアッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも配してはならない。そして両親と近親と孤児、恵まれない境遇にある者たち、また近い隣人と遠い隣人、そして近しい仲間と旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)に対して善行を施すのだ。実にアッラーは、自惚れ屋の高慢な者を愛で賜らない。,(クルアーン4:36)

イスラームは隣人を以下のように、三つの種類に分類しています:

親戚の隣人:この類の者は三つの権利を有します。つまり親戚としての権利、隣人の権利、そしてムスリムとしての権利です。

ムスリムの隣人:この類の者は二つの権利を有します。つまり隣人の権利、そしてムスリムとしての権利です。

非ムスリムの隣人:この類の者は一つの権利を有します。つまり隣人としての権利です。教友アブドゥッラー・ブン・アムルがある日帰宅すると、家人が羊を一頭料理していました。そして彼は直ちにこう尋ねたのです:「ユダヤ教徒の隣人にはおすそ分けしたか?というのも私は、預言者ムハンマドがこう言うのを聞いたのだ:

もしかすると遺産相続までさせるのでは、と私が訝るほどに、ジブリール(ガブリエル)は私に隣人への善行を命じ続ける。”」[75]

また隣人を害したり不便をかけたりすることは、信仰の無効化にすら繋がり得ます。預言者ムハンマドはこう言いました:「アッラーにかけて、(そのような者は)信仰していない。アッラーにかけて、(そのような者は)信仰していない。アッラーにかけて、(そのような者は)信仰していない。」(教友たちは)言いました:「一体誰のことですか、アッラーの使徒よ?」(預言者は)言いました:「隣人を害して安心させることがないような者のことだ。[76]

神の使徒ムハンマドは、隣人の権利を次のように描写したと伝えられています:

あなた方は隣人の権利を知っているか?(それはこのようなものである:)隣人が助けの手を求めるならば、助けてやれ。隣人が借金を求めてきたら、(可能な範囲で)貸してやれ。もし彼らが困窮したら、経済的に援助し、彼らの身になってやれ。また彼らが病気になったら、見舞ってやれ。隣人が何かで喜んでいたら、祝ってやれ。また隣人に災難が降りかかったら、慰めの言葉をかけてやれ。そしてもし隣人が亡くなったら、葬儀に付き添ってやれ。またあなたの家宅のせいで、彼らの家宅が日陰になったり、風通しが悪くなったりしてはいけない。そしてお裾分けしてやれないのなら、隣人を料理の匂いで害するようなことをしてはならない。[77]

またムスリムは隣人に悪い扱いを受けたとしても、親切に接するべきとされます。ある男は、教友イブン・アッバースにこう言いました:「私の隣人は私を害し、罵ります。」すると彼は言いました:「その男があなたのことで神に従わなくても、あなたは彼のことで神に従うのだ。

 

4. 友人の権利

  友人はイスラームの教えに沿って、ある種の権利を享受します。これは神の使徒ムハンマドの、以下に示す教示によっています:

至高のアッラーの御許で最善の伴侶とは、その伴侶に対して最善の者である。そして至高のアッラーの御許で最善の隣人とは、その隣人に対して最善の者である。[78]

5. 客人の権利

イスラームでは、客には歓待される権利があることを認めています。神の使徒ムハンマドは言いました:

アッラーと審判の日を信ずる者は、隣人を厚遇せよ。そしてアッラーと審判の日を信ずる者は、客人を誉れでもって手厚くもてなすのだ。

ある者が言いました:「アッラーの使徒よ、誉れとは何ですか?」彼はこう言いました:

(最初の)一昼夜のことだ。もてなしは三日間であり、その後(のもてなし)は施しである。そしてアッラーと審判の日を信ずる者は、よいことを喋るか、さもなくば黙っていよ。[79]

また誉れでもって手厚く待遇することには、客人を笑顔で暖かくもてなすことも含まれます。そしてその一方で、客の側ももてなす側の状況を考慮しなければなりません。その者に大きな負担をかけるようなことは避けるようにします。預言者ムハンマドは言いました:

ムスリムはその同胞を罪に陥れるまで、彼のもとに滞在することを許されない。

人々は言いました:「アッラーの使徒よ、罪に陥れるとはどういうことでしょう?」彼は言いました:

もてなす物が何もないような者のもとに留まることである。[80]

 

6. 経済的弱者の権利

神はかれの御顔を求めて、イスラーム社会の経済的弱者や恵まれない人々のために施す者を称えています。聖クルアーンにはこうあります:

-そしてその財産に、(施しのための)決められた分がある者たち。(そしてそれらは)物乞いする(貧)者や、(慎ましさゆえに物乞いしない)貧者に(あてられる)。,(クルアーン7:24-25)

実際のところイスラームは、恵まれない人々や貧しい人々に対する慈善行為を、最も大きな善行と見なしています。そして一方では、神ゆえにその財産を費やすことなく蓄財することに対し、警告しているのです。聖クルアーンにはこうあります:

-敬虔さや信仰とは、ただあなた方の顔を東や西に向けること(礼拝の動作や方角のこと)だけではない。しかし(真の)敬虔さや信仰とは、アッラーと最後の日、天使と啓典と諸使徒を信ずる者の(それ)。また近親の者や孤児、困窮者や旅人、物乞いや奴隷の解放ゆえに喜んで財を施す者(のそれ)…,(クルアーン2:177)

神に命じられた通りに貧者や経済的弱者の権利を満たすことなく財産を溜め込む者に、神は審判の日における厳罰を約束しています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして金銀を貯め込み、それをアッラーの道において施すことのない者たちには痛ましい懲罰の知らせを伝えよ。,(クルアーン9:34)

ザカー(義務の浄財)がイスラームの信仰教義で定められているのも、こういった意味合いがあります。ザカーは毎年一定額に達している財産から2.5%の額を支払うという、義務行為です。ムスリムは神の命令への服従として、自発的に施しをするのです。これは経済的に恵まれない者などに支払われます。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカーを施すことしか命じられてはいなかったのだ。そしてそれこそは正しい宗教なのである。,(クルアーン98:5)

尚ザカーには以下に示すような指針や条件があります:

1. 所有している財産がイスラーム法で定められた一定額に達していない限り、ザカーの義務は発生しません。

2. 上記の額の財産は、一年を通して所有しなければなりません。それを所有したのが一年以下であれば、ザカーの義務は発生しません。

またザカーの配給資格を有する種類の者は、聖クルアーンの以下の節の中に見出せます:

-ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方。,(クルアーン9:60)

イスラームは社会から貧困の根を除去し、また貧困を原因とするある種の問題を解決するためにザカーを定めました。例えば窃盗や殺人、横領や暴力などは貧困と関わっている場合が往々にしてあります。またザカーは社会福利や、イスラーム社会内の構成員同士の相互援助を活性化させます。またザカーは経済的弱者や貧者の要求を満たすだけではなく、正当な理由から債務を返済できずに苦しんでいる負債者の援助のためにも用いられます。更にザカーは人の心と魂、そして財産さえも浄化します。純粋な意図をもってザカーを支払えば、自らの吝嗇さと貪欲さを取り除くことが出来るでしょう。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして自らの吝嗇から守られた者こそは、繁栄を達成する者なのである。,(クルアーン64:16)

またザカーはそれを受領する者の心をも浄化します。つまり彼らが裕福な者が彼らよりも経済的に恵まれてはいない同胞たちにその正当な権利を与えるのを見ることにより、彼らの心から社会の富裕層に対する憎しみや嫉妬心、敵意などが減少するからです。

一方で全能である神は、払うべきザカーを支払おうとしない者に対し、厳しい懲罰を約束しています。かれは聖クルアーンの中でこのように述べています:

-そしてアッラーの恩恵によって授けられた物において吝嗇する者たちが、得をしているなどと考えてはならない。実にそれは損失なのだ。彼らの吝嗇していたものは審判の日、彼らに巻きつけられるであろう。そして天地が消滅しても、アッラーのみが全てを引き継がれる。アッラーこそはあなた方の行いを熟知されているお方である。,(クルアーン3:180)

 

7. 被雇用者の権利

イスラームは雇用者と被雇用者に関し、いくつかの規則を明らかにしています。雇用者はイスラームの教義に基づき、被雇用者や労働力に対し、公正かつ思いやりのある関係を築かなければなりません。それはつまり平等と善意、イスラーム的同胞愛に則った関係のことです。これは神の使徒ムハンマドの、次に示す伝承によっています:

あなた方に仕える者たちは、アッラーがあなた方の配下に置かれたあなた方の同胞である。ゆえに同胞の世話を任せられている者は、自分が食べている物を彼にも与え、また自分の着る物を彼にも与えるのだ。そして彼らが担えないほどの負担を課してはいけない。もしそうするのであれば、彼らを助けてやるのだ。[81]

むしろイスラームは、労働者の栄誉と威信を強調しています。使徒ムハンマドはこう言っています:

自らの手で稼いだ物によって食べる者より、良い物を食べる者はいない。[82]

またイスラームは、雇用者が被雇用者に対して仕事を開始する前に、報酬の額や内容を明らかにしておくよう命じています。[83]

またイスラームは、彼らが報酬を手に入れることを保障します。預言者ムハンマドは、至高なる神がこう仰ったと伝えました:

(次の)三者には、われ(アッラーのこと)が審判の日にその敵対者となるであろう:わが御名のもとに約束しておいて、騙す者。また自由民を売り、その利益を貪る者。そして人を雇い、その者が(依頼した)仕事を完遂したにも関わらず、賃金を支払わない者。[84]

また預言者ムハンマドは、仕事が終わりしだい被雇用者に報酬を払うことを命じています。[85]

 

8. 雇用者の権利

イスラームは同様に、被雇用者側も雇用者側とよい関係を築くことを求めています。イスラームは被雇用者がその能力と才能の最善を尽くして、雇用者に対する彼らの義務を果たすことを命じているのです。また被雇用者はいかなる形においても雇用者や勤務内容をないがしろにしたり、損害をもたらすようなことをしたりしてはいけません。使徒ムハンマドはこう言っています:

実にアッラーはあなた方が何かを行う時には、それを完遂することを愛されるのだ。 [86]

また仕事における誠実さを促し、かつ人の尊厳を守るために、イスラームは労働の報酬を最善の収入としました。預言者ムハンマドはこう言います:

最良の稼ぎとは、誠実さをもって自ら働いて稼いだ物である。[87]

 

9.動物の権利

飼育される動物は皆食事を与えられ、十分な世話と優しい配慮を受ける権利があります。神の使徒ムハンマドはこう言いました:

ある女性が猫を罰した。彼女はそれを死ぬまで閉じ込め続けたゆえに、地獄に入れられたのだ。彼女はその猫に餌も飲み物も与えず幽閉し、放して地上の生物を捕獲させようとすらしなかった。[88]

また動物はその能力以上のものを課されたり、担えない位の重量の荷物を運ばせられたりしてはいけません。また動物を理由もなく罰したり、傷つけたり、叩いたりすることも禁じられています。神の使徒ムハンマドは、こう言っています:

アッラーは動物に印を付けるために焼き印をあてたり、刺青を入れたりすることを呪われた。 [89]

またイスラームは生きた動物を標的にすることなども禁じています。教友イブン・ウマルはある時、クライシュ族の青年たちが生きた鳥を射的の標的にしているところを通りかかりました。彼は誰がそうしたのかを尋ねると、こう命じました:「アッラーはそのようなことをする者を呪われる。アッラーの使徒は生きた動物を標的にする者が呪われるよう、アッラーに祈願されたのだ。[90]

またイスラームは、動物を殺した後にその死体を損傷する者のことを強く非難しています。[91]

またイスラームは、動物を罵ったり害したりすることさえも禁じています。教友イブン・マスウードはこう伝えています:「私たちはアッラーの使徒と共に旅路にありました。彼は用を足しに私たちの遠くに行きましたが、その時私は一羽の母鳥が二羽の雛鳥と共にいるのを見つけました。私たちが雛鳥を捕まえると、母鳥は私たちの周りを飛び回りました。アッラーの使徒は用を済ませて帰ってくると、私たちのした事を見て、こう尋ねました:

 “雛鳥を捕まえてこの母鳥を怒らせたのは誰だ?雛鳥を返してやるのだ!”また彼は焼かれた蟻の巣を見た時には、こう言いました:“これを焼いたのは誰だ?”私たちは言いました:“私たちです。”すると彼はこう言いました:“火の主(神のこと)以外の者は、火をもって罰したりしてはいけないのだ。”」[92]

イスラームは食用のために動物を屠殺する時でさえ、慈悲の念を勧めています。他の動物が見ている前である一頭を屠殺したり、屠殺する動物の前で刃物を研ぐことすら許されてはいないのです。また首を折ったり、叩いたり、電気ショックなどで動物を屠ることも禁じられます。また完全に絶命する前に解体し始めたりすることも、許されない行為です。神の使徒ムハンマドは、私たちにこう教示しています:

アッラーは、あなた方が全てにおいてよくあることを命じている。それで殺す時でさえも良い形で殺し、屠殺する時も良い形で屠殺しなさい。あなた方のナイフをよく研ぎ、屠殺する動物を早く楽にさせるようにするのだ。[93]

一方でイスラームは人の生命の保護のため、危険かつ有害な動物や昆虫類などを駆除するよう命じています。というのも神は人間を世界で最も栄誉高い存在としたのであり、それゆえにその命はかれの御許において最も神聖であるからです。動物の権利が重要であるならば、人間の権利はそれ以上であるのが当然のことでしょう。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてわれら(アッラーのこと)はアダムの子ら(人類のこと)を高貴な存在とし、陸に海に彼らを運んだ。また彼らによき物を糧として授け、われらが創造したあらゆるものの上に位置づけたのだ。,(クルアーン17:70)

また動物は無慈悲な行為から保護されるべく、優しく公正に扱われるだけではありません。ムスリムはそうすることにより自らの罪が赦され、それどころかそれが死後天国に入る原因にすらなると信仰しています。使徒ムハンマドはこう言いました:

或る男が道を歩いている時、喉の乾きに襲われた。すると井戸を見つけたのでその中に降り、水を飲んだ。そこから出てみると、犬が乾きのため舌を出し、ハアハア言いながら泥を食べていた。男は言った。“この犬も喉が渇いているのだな。自分がそうだったように。”そして井戸の中に降りると、靴に水を満たし、それを犬の口のところに持っていって飲ませた。アッラーは彼に報奨を与え、そして彼の罪を赦した。」人々は言った:「預言者よ、畜獣への善行にも報奨があるのですか?」 彼は言いました:「全ての生きとし生けるものには報奨があるのだ。[94]

10.植物や環境の権利

イスラームは植物やその果実から利益を得ることを許可する一方、正当な理由もなくそれらの枝を折ったり、伐採したりすることを禁じています。むしろイスラームは植物や木々を保護し、それらを更に増殖させるような活動を奨励しているのです。預言者ムハンマドはこう言いました:

あなた方の手元に(植えるための)苗がある時に審判の日が訪れ、そしてそれを植えてしまう余裕があるのなら、その者はそうするべきである。[95]

またイスラームは有益な作物や木などを植えることを一つの慈善行為と見なしており、それによってムスリムは報奨を受けるとしています。預言者ムハンマドはこう言いました:

ムスリムが何らかの植物を植えて耕作し、そして鳥や人間や動物がそこから糧を得るのならば、その者には慈善行為としての報奨が与えられるであろう。[96]

11. その他諸々の権利

イスラームは公道や歩道に対しても、ある種の権利を定めています。預言者ムハンマドはこう述べています:

公道に座りこむのではない。

それで教友たちは、言いました:「アッラーの使徒よ、話し合うための場所が他にないのです。」すると(預言者は)言いました:「やむを得ずそうするなら、公道での義務を守るのだ。」(教友たちは)言いました:「公道の義務とは何ですか、アッラーの使徒よ。」(預言者は)言いました:「視線を(様々な問題を及ぼす物事から)下げること、害悪の阻止、挨拶を返すこと、そして勧善懲悪である。[97]

また使徒ムハンマドは、次のように言ったとも伝えられています:「道路から有害な物を除去することは、一つの慈善行為である。[98]

更に彼は、このようにも言っています:「人々の呪いを買う二つの事から身を慎むのだ。」人々は言いました:「人々の呪いを買う二つの事とは何ですか、アッラーの使徒よ。」彼は答えました:

人通りのある道、そして人々が日差しから身を護るための物陰で用便をすることである。[99]

また一般的に言ってムスリムはどこであろうと、同胞のことを思いやり、配慮することを義務付けられています。アッラーの使徒はこう言っています:

信仰者たちが互いに慈しみ合い、愛し合い、同情し合うのは、まるで一つの体のようである。体のある部分が痛みを訴えれば、他の部分が不眠と熱に冒されながら、彼の(看病の)ために寄り集まって来るのだ。[100]

またムスリムは、その同胞の状況の改善のために努力を惜しむべきではありません。

自らに欲することをその同胞にも欲するようにならなければ、本当に信仰したことにはならない。[101]

また特に困難の折には、預言者ムハンマドの次の言葉を体現するべきです:

信仰者同士は、一軒の堅固な建築物のようなものである。レンガの一つ一つが互いに強化し合っているのだ。」そう言って彼は両手の指を組み合わせました。[102]

また同胞を見捨てることは、禁じられています。使徒ムハンマドはこう言っています:

ムスリム同胞の名誉が侵害されているのに、彼を守らずに見捨てる者は、彼自身が最もそうされるのが必要な時にアッラーから見捨てられるであろう。そしてムスリム同胞の名誉が侵害されている時に、彼の援助へと駆け付ける者は、彼自身が最もそうされるのが必要な時にアッラーのご援助を得ることが出来るであろう。[103]

しかしこのような法規定や権利が施行されなければ、これらのことは人々の心の中の単なる理念や夢でしかありません。これらを施行する権威がなければ、それはユートピア的理念に過ぎないのです。使徒ムハンマドはこう言っています:

あなた方は悪を行う無知な者を阻止しなければならない。そしてそのような無知な者に、善行を命じなければならない。さもなくばアッラーは、あなた方(全員)にやがて懲罰を下されるであろう。[104]

全能なる神はそれゆえ、イスラーム社会におけるこのような人権保護のためにその使徒ムハンマドに適切な命令を啓示したのです。神は人間がこれらの法的境界線を越えないよう、「フドゥード(既定刑)」として知られる厳しい刑罰と法を定めたのです。そしてこのような罪を犯す者は、死後においてもある種の懲罰を受けるかもしれません。

以下に挙げるのは、イスラームが「行いなさい」と命令していることと、「行ってはいけません」と禁じていることの目録です:

イスラームはいかなる人間の命もあやめてはいけないとし、そのような行動を大罪の一つに数えています。その根拠は、聖クルアーンの次の節の中にあります:

-そしてアッラーが禁じられた(者の)命を、正当な理由もなくあやめてはならない。不正に殺された者に関しては、われら(アッラーのこと)はその遺族に(その正当な損害賠償を受ける)権威を与えよう。ゆえに無駄に命を奪ってはならない。実に不当に奪われたものは、(その権利の回復を)援助されるのだ。,(クルアーン17:33)

イスラームは他人の尊厳や威信、プライバシーなどを侵害するあらゆる行為を禁じています。このような種類の行動もまた、イスラームにおいては大罪です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-(ムハンマドよ)言え、「あなた方に、あなた方の主が禁じられたことを読んで聞かせよう。アッラーに何かを並べて拝してはならない。そして両親に孝行せよ。またあなた方の子供を、困窮を恐れて殺してはならない。われら(アッラーのこと)こそが彼らとあなた方を養うのである。そして露わなものであれ秘められたものであれ、醜い物事には近づくな。正当な理由なしにアッラーが神聖なものとされた生命を奪ってはならない。これこそは、かれがあなた方に命じられたことである。あなた方は恐らく理解するであろう。,(クルアーン6:151)

またイスラームは、社会において猥褻な物事を促すようなあらゆる手段と、あらゆる種類の恥ずべき行為を禁じています。また更にはそのような物事の原因となるような全てのものを禁じるのです。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして姦淫には近づくな。それは醜悪なものであり、悪い道である。,(クルアーン17:32)

神は他人の財産や所有物を侵害するような、あらゆる行為を禁じています。盗みや詐欺などは全て、イスラームにおいてご法度なのです。使徒ムハンマドはこう言っています:

誰でも私たちを欺く者は、私たちの内の者ではない。[105]

また高利貸しや利息を伴う取引などもまた、イスラームでは禁じられます。それはこのような商取引が経済体系に不正を広め、特に経済的弱者などのあらゆる者に害を与えるからです。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-それというのも彼らは(現世で)「売買はリバー(利息を伴う不法取引)のようなものだ」などと言っていたからである。アッラーは売買を合法化され、リバーを禁じられたのだ。,(クルアーン2:275)

また神は聖クルアーンの中で次のように述べているように、あらゆる種類の背信行為や欺きを禁じています:

-信仰者たちよ、アッラーと使徒を裏切ってはならない。そしてそうと知りつつ、あなた方の信託を破ってもならない。,(クルアーン8:27)

またイスラームは独占を禁じます。使徒ムハンマドはこう言っています:

独占する者は罪深い者である。[106]

また賄賂や不正なリベートなども禁じられます。預言者ムハンマドはこう言いました:

賄賂を贈る者と収賄者にアッラーの呪いあれ。 [107]

同様に正当ではない非合法な手段をもって稼ぐことも、禁じられます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてあなた方の財産を、不正に貪り合ってはならない。またそれと知りながら罪深くも他人の財の一部を奪おうとして、統治者に偽りの証言を立てたりしてもならない。,(クルアーン2:188)

イスラームは私欲を肥やすために、権力や地位を乱用することも禁じます。そして統治者はそのような手段を用いて獲得した財産を返還させ、それを国庫に入れることを命じられているのです。預言者ムハンマドはある時、イブン・アッ=ルトゥビーヤという男をザカー(義務の浄財)の徴収人に任命しました。彼は任務を終えて戻って来ると、「これは国庫のためのもので、これは私への贈り物です」と言いました。そこで使徒ムハンマドはこう言ったのです:

もし彼が父親か母親の家に留まっていたのなら、これらの贈り物を貰うことなどなかったのだ(つまりそれらは徴収の任務を利用して得られた、非合法なものである)。私の魂がその御手に委ねられているお方にかけて。このようなものを手にする者は、審判の日にそれを首に巻きつけた形で現れよう。例えそれが一頭のラクダであってもだ。」それから彼はその両脇の下の白さが露わになる位にまで両手を上げ、こう三回言いました:「アッラーよ!私が確かに伝達したことの証人たれ。[108]

またイスラームは、人の精神や頭脳に悪影響を与える酩酊物質の類を禁じています。聖クルアーンにはこうあります:

-信仰する者たちよ、酒と賭け事、偶像とアル=アズラーム[109]はシャイターン(悪魔)の行いであり、不浄である。ゆえにそれらを避けるのだ。(そうすれば)あなた方は成功するであろう。,(クルアーン5:90)

またイスラームは殴打などの肉体的なものから、陰口や秘密の暴露、嘘の証言などの心的なものまで、あらゆる形において他人を傷つけることを禁じています。聖クルアーンはこのように警告します:

-信仰する者たちよ、邪推を多く行うことを避けよ。実にある種の邪推は罪なのである。そして互いに詮索し合ったり、陰口を叩き合ったりしてはならない。あなた方は同胞の屍肉を口にすることを望むのか?いや、(断じてそうではなく)そのようなことは厭うことであろう。アッラーから身を慎め。実にアッラーはよく悔悟をお受け入れになり、慈悲深いお方なのであるから。,(クルアーン49:12)

イスラームは他人の威信と名誉を保護し、その侵害を禁じます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして男女の信仰者を言われのないことで害する者たちは、実に途方もない嘘と明白な罪を犯しているのだ。,(クルアーン33:58)

またイスラームはプライバシーの権利に非常な重要性をおいており、いかなる侵入行為も禁じています。聖クルアーンにはこうあるのです:

-信仰する者たちよ、その許しを請い、家人に挨拶することなしには他人の家に入るのではない。それがあなた方にとってよりよいことなのだ。あなた方が(このことに)教示を受けるのならば(きっとそうするであろうに)。,(クルアーン24:27)

正義はイスラームという教えの基礎の一つですが、それゆえ他人に対してはもちろんのこと、自分自身に対しても不正を働くことは許されません。聖クルアーンにはこうあります:

-実にアッラーは、公正と善行と近親の者への贈与を命じられ、そして醜行と悪事と法を越えることを禁じられる。そしてあなた方が熟慮するよう、あなた方を戒められるのだ。またアッラーの約束を結んだら、あなた方はそれを遵守せよ。誓いを確実なものとした後に、それを破ってはならない。実にあなた方は(その遂行において)、アッラーをあなた方の保証人としたのであろう。実にアッラーはあなた方の成すことを、ご存知であられる。,(クルアーン16:90-91)

更に神の使徒ムハンマドは、神がこのように述べたと語っています:

わがしもべたちよ!われは自らに不正を禁じ、あなた方の間の不正も禁じたのだ。ゆえに互いに不正を働き合ってはならない。[110]

実際、神はムスリムが宗教の相違ゆえに誰かを差別することを非とします。神はイスラーム社会において、ムスリムが非ムスリム市民に親切であるよう命じています。聖クルアーンはこう語っています:

-アッラーは宗教ゆえにあなた方に戦いを仕掛けたり、あなた方を家から追い出したりしなかったような者たちに対して、あなた方が善行を施したり公正に接したりすることを禁じられてはいない。実にアッラーは公正な者を愛でられるのだ。,(クルアーン60:8)

またムスリム以外の人の信仰にけちをつけるような言動も、禁じられます。そうすれば相手も報復として同じように返すでしょう。聖クルアーンにはこうあります:

-そして彼らがアッラーを差し置いて祈っているものを、貶してはならない。そうすることで彼らが無知から、誤ってアッラーのことを貶してしまわないように。,(クルアーン6:108)

そしてイスラームは、そのような人々とは慎重かつよい手法ででもって議論するよう指導しています。聖クルアーンにはこうあるのです:

-言え、「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、私たちとあなた方との間の正義の言葉へとやって来るのだ。(その言葉とは:)私たちがアッラー以外の何ものをも崇拝せず、かれに何ものをも並べたりしないこと。そしてアッラーを差し置いて、自分たちの内の誰かを主としたりしないこと。」それでもし彼らが(この期に及んでその言葉から)背くのなら、言うのだ:「私たちがムスリム(主に対して真に服従する者)であると、証言せよ。」,(クルアーン3:64)

またイスラームはあらゆる社会的、政治的、倫理的腐敗や危害を禁じます。聖クルアーンはこう命じます:

-そして大地が正常なものとなった後に、腐敗をもたらしてはならない。恐れと希望をもってかれ(アッラーのこと)に祈るのだ。実にアッラーのご慈悲は、信仰者たちの間近にある。,(クルアーン7:56)

またイスラームは非ムスリムに対してイスラームを強制することを禁じています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-あなたの主がお望みになれば、地上の全ての者が信仰に入ったであろう。一体あなたは人々が信仰者となるように強制するというのか?,(クルアーン10:99)  

但しこのことが神のメッセージを伝達することによって、他の人々をイスラームの信仰へと誘うべきではないということを意味するわけではありません。ムスリムは英知と思いやりの念、そして望ましい手法でもって人々をイスラームへと呼ぶべきです。イスラームは国際的伝道であり、いかなる地域的あるいは民族的呼びかけでもありません。しかし導きは神の御手にのみ委ねられており、人間の手によるものではないのです。

またイスラームは協議でもって政治を執り行うよう命じています。協議の原理は聖クルアーンと預言者ムハンマドの慣習の中に、実際に垣間見ることが出来ます。神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-…彼らの間の諸事を協議でもって取り決め、…,(クルアーン42:38)

またイスラームは、各人が有する諸権利を忠実に満たすことを命じています。そして人々の間の完全な公正さへと呼びかけているのです。聖クルアーンにはこうあります:

-アッラーは、あなた方が信託をその権利主に対して果たすことを、そしてあなた方が人々の間を裁く時には、公正さによって裁くことをご命じになる。実にアッラーこそはその訓戒されることの恵み深いお方。アッラーこそは全てをお聞きになられ、全てをご覧になられるお方。,(クルアーン4:58)

またイスラームは必要があれば力を用いてでも、不正や抑圧を被っている人々を援助することを命じています。この概念は次のような聖クルアーンの節の中でよく描写されています:

-あなた方がアッラーの道において、または虐げられた男女や子供らのために戦わないのは一体どういうことか?彼らは(祈って)言う:「私たちの主よ、民が不正を働いているこの町から、私たちをお救い出し下さい。そしてあなたの御許から私たちに、守護者をお遣わし下さい。あなたの御許から私たちに、援助者をお遣わし下さい」,(クルアーン4:75)

イスラームは公共の福利のために行政機構、あるいはその権威を設けています。先に述べたように、その犯罪行為を食い止めるには力を行使する以外には方法がないようなある種の人々が存在する、という事実が存在します。このような中、イスラームの行政機構は全個人がそれぞれ有する適切な権利を享受することを請け負うのです。また人々の権利がいかなる侵害も受けることなく守られているかどうかを監査し、取り締まり、同時に法を破る者には相応の懲罰を適用します。この後に示すことは、この全行政機構を構成する様々なイスラーム的体系の概略です。

 

 

 

 

 

 

 


イスラームにおける法体系

 

イスラーム国家における司法制度は、様々な訴えから発生したあらゆる種類の法的係争を解決することを目的とした、独立した管理機構です。この制度は人々の間に公正を確立し、不正を阻止し、また不正者を罰することを担うために設けられました。イスラームの司法制度は、聖クルアーンと神の使徒ムハンマドの言行集に依拠した、神とその使徒の指導に従っています。

イスラーム司法制度には、裁判官がその地位に就くために満たさなければならないある特定の条件があります。まず裁判官を志願する者は、その任務の中で様々な困難や試練を克服することが出来るよう、成人で、正常な理性を備えており、良識があり、精神的に健常でなければなりません。また彼はよい教育を受け、イスラーム法に関する知識を備えていることはもちろんのこと、一般常識に関しても十分な知識を持っていなければなりません。また現世的分野と宗教的分野のいずれにも裁決を下す能力を備えていることが必要で、高潔かつ誠実な倫理観に溢れた人物であるべきです。またその判決が係争者のいずれからも受け入れられるような、廉潔な品行の持ち主でなければなりません。

イスラームは裁判官が遵守しなければならないある種の品行を定めています。以下に示すのは、二代目カリフだったウマル・ブン・アル=ハッターブが裁判官の任命を受けたある者に対して送った書簡です。この中には、全ムスリムに対しての指針を汲み取ることが出来ます:

二代目カリフ・ウマル・ブン・アル=ハッターブより、アブドゥッラー・ブン・カイスへ。あなた方に平安あれ。係争する人々に関しての判決は、以下に示す事柄に忠実に則って実行しなければならない、厳密な義務である。あなた方はまず眼前の人々の言い分を理解するよう、最大限の努力を払うのだ。施行されない権利など、誰をも益しない。それから法廷において人々を平等に見なし、座る場所においてもそのように手はずを取り決めよ。これは有力者などが、その地位によって特別視されるなどと思ったりしないようにするためだ。そして法廷において弱者が正義への希望を失うことがあってはならない。原告には証拠を提示させよ。そして被告は原告の申し立てを否定するなら、宣誓を行わなくてはならない。また係争中の人々は互いに譲歩し合うことも出来る。但し非合法な物事を合法としたり、あるいはその逆のようなことにおける譲歩案は受け入れられない。またあなた方がある日判決を言い渡したのなら、翌日それを見直すのだ。もしそこに間違いを見出し、正しい判決を出さなかったことを知ったなら、その時は正しい判決を新たに言い渡せ。そして間違った判決に甘んじるよりは、正しい判決を出し直すことの方が遥かにましであることを知るのだ。聖クルアーンや預言者のスンナ(言行集)にその法的典拠を見出せないような困難な事例に関しては、それをよく理解するように努めよ。そしてそれに類似した法規定や判決や事例を研究し、十分な知識を得てからその事例を査定するのだ。それからあなた方の視点において、最もアッラーが愛でられ、最も真実に近いと思われる判決を選ぶのだ。また原告がすぐには証拠を提示出来ないと主張する場合には、その者に一定の猶予を与えてやれ。それでその者が証拠を提示出来たら、その時はそれに沿った判決を下せ。逆の場合もまた同様である。全てのムスリムの証言は信頼に値するが、但し以前イスラーム社会で恥ずべき行為を行って鞭打ち刑を受けたり、嘘の証言で知られていたり、原告の親類であったりする者のそれは別である。アッラーは人々の全ての隠された秘密をご存知であり、証拠の提示に関してあなたの判決をご援助下さるだろう。心配せず、気短かになるな。アッラーがそこにおいて辛抱することに対し報奨を授けられ、またその結果にご満悦されるところの正しい法的係争をする者たちに関して、不平を述べるのではない。神に対してよい純粋な魂を持っていれば、きっとアッラーは人と社会の関係を改善して下さるであろう。」[111]

宗教や信仰、社会的地位や階級などに関わらず、イスラーム社会における全個人は以下に示すような普遍の権利を有しています:

1. 不正者に対して裁判を求める権利。個人は法廷において不正者を訴えることが出来ます。

2. 裁判における発言に関しての平等な権利。これは預言者ムハンマドが教友アリーを裁判官に命じた時に、彼に次のように指導したことに基づいています:

アッラーはあなたの心を導き、あなたの舌を(真実において)堅固にされるだろう。あなたの前に原告と被告が腰を下ろしたのなら、一方の者だけでなく別の者の言い分も聞くことなしには裁決を下してはならない。[112]

3.   被告は罪の証明がなされない限り、無実と見なされる権利。使徒ムハンマドはこう言っています:

人が(他人を)訴えることで(即)与えられるのであれば、他人の生命や財産まで要求することであろう。しかし訴えられた者には、(それを打ち消すための)宣誓があるのだ。[113]

また初期のイスラーム学者アル=バイハキーが収録している伝承によれば、この伝承は次のように終わっています:

原告には証拠(の提示)があり、被告には宣誓がある。

4. 被告が単なる疑念によって、適正な法的手続きや特定の権利を奪われない権利。つまり容疑者はいかなる場合においても、自白させようとして拷問や暴力、残忍な仕打ちや苦痛などに晒させてはいけません。この件に関して、使徒ムハンマドはこう言っています:

アッラーは、以下の状態にある私の共同体の者をお咎めにはならない:間違いと忘却、そして強制である。[114]

また第二代カリフであったウマル・ブン・アル=ハッターブはこう言っています:「あなた方が苦痛を与えたり、恐怖に陥れたり、あるいは拘束したりして誰かに何かを白状させたりしたら、それは無効である。[115]

5. 犯罪者はその個人的責任の範囲でのみ罰されるということ。つまり誰も、他人の過失によって責任を問われることはありません。告発や容疑、刑罰などは犯罪者張本人にだけ向けられるのであり、それがその者の家族や親類などにまで及ぶことはありません。公正なる神は、聖クルアーンの中でこう言っています:

-良い行いをする者は自分のために(行い)、そして悪行を行う者は自らに反して(行って)いるのだ。そしてあなたの主は、そのしもべたちに対していかなる不正も施されない。,(クルアーン41:46)

また使徒ムハンマドはこう言っています:

誰もその兄弟や父親の行った悪行によって、罪を負うことはない。[116]

 

イスラームにおけるヒスバ(監査体系)

 

ヒスバとは、イスラームにおける自発的な監査体系のことです。ムスリムはこれをもってイスラーム法実施のために勧善懲悪を行うのであり、また恥ずべき行為や非合法な物品の売買や宣伝、取引などの不道徳な活動、あるいは人の日常的必要品の独占や詐欺などの公けな犯罪に携わる者を戒めるのです。これは、聖クルアーンの次の節における神の命令の実践です:

-あなた方は善を命じて悪を禁じ、かつアッラーを信仰するところの、人類に出現した最高の共同体である。,(クルアーン3:110)

このシステムによりムスリムは自発的に公法を調査・検閲し、公の場において個人が権利を侵害されないように、公共空間の状態や治安を保護します。

ムスリムはこの監査活動の義務をおろそかにすること、そしてそうすることによる神の懲罰を恐れなければなりません。聖クルアーンの中には、そのようにして滅ぼされた過去の国々の話が数多く言及されています:

-イスラエルの民の不信仰者たちは、ダヴィデとマリヤの子イエスの舌によって呪われたのである。それは彼らが逆らい、法を越え、かつ彼らが行っていた悪行を禁じなかったからなのだ。彼らの行っていたことの、何と惨めなことか。,(クルアーン5:78-79)

また預言者ムハンマドの伝承には、イスラーム社会の全個人はその能力に応じてヒスバの任務を積極的に遂行すべきである旨が述べられています:

悪事を目にした者は、それを手でもって正せ。もしそう出来なければ、舌でもって正せ。そしてそれさえも出来なければ、心でもって正すのだ。そしてそれが最も弱い信仰心である。[117]

しかし犯罪や悪徳の矯正が更なる状況の悪化や害悪をもたらすような場合、それを行うことは許されません。人は勧善懲悪に関して、英知と慎重さをもって行動しなければなりません。

預言者ムハンマドはある時、非常に雄弁な一文でもってこう明快な人権宣言をしました:

実にアッラーはこの日(アラファの日:ヒジュラ暦の129日)、この月(ヒジュラ暦12月のズルヒッジャ月)のこの場所(マッカとその付近の地)における神聖さと同様に、あなた方の生命と富、そして名誉を犯さざるべき神聖なものとされたのだ。[118]

この宣言は、預言者ムハンマドが行った最後の巡礼にて、当時最大のムスリムの集会において行われました。そしてこの宣言には、これまで取り上げた殆どの人権が明示されています。イスラームの法と規定は諸権利を保護し、それ侵害する者を厳しく処罰するために定められたのです。

 

 

イスラーム的人権宣言[119]

 

以下に引用するのは、エジプトのカイロで採択されたイスラームにおける人権宣言です。しかしこの宣言で取り上げられている諸権利は、単なる一般的な指針や法則に過ぎないということを指摘する必要があります。というのもイスラームにおける権利と義務は、連なる輪のように互いに繋がり合っているからです。尚イスラームの人権における一般的指針と規定は、大きい二つのカテゴリーと、そこから分派するいくつものカテゴリーに分類されます。ここで詳細を取り上げれば長い話になりますから、私たちはこれらについて要約するだけに留めておきます。しかし「イスラームは全ての人権を保護し、来世においては無論のこと、現世においても人類を幸福にするために到来したのである」ということに、間違いはありません。

慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において

神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-人間よ、実にわれら(アッラーのこと)はあなた方を一組の男女から創った。そしてあなた方を多くの民族や部族に分け広げた。それはあなた方が互いに知り合わんがためなのである。実にアッラーの御許で最も貴い者は、あなた方の内で最も敬虔な者。アッラーは全てをご存知になり、全てに通暁されたお方。,(クルアーン49:13)

ICO(イスラーム会議機構)の加盟国は、全存在の創造主であり、あらゆる恩恵をお授けになるアッラーを強く信仰します。かれは人類を最良の形に創られ、栄誉を与えられたお方です。アッラーは、人類に対しかれが創造した世界を建設し、改善し、維持することを委任されました。またアッラーは人類が啓示の教えと義務を忠実に守り、天地にある全てのものを人類の福利のために利用することを託されたのです。

また私たちは預言者ムハンマドが人類への慈悲として、隷従する全ての者への解放者として、また全ての暴虐者と尊大な者たちの破壊者として、正しい導きと真実の教えをもって遣わされたことを信じます。神の使徒ムハンマドはあらゆる種類の人々の真の平等性を宣言しました。敬虔さを除いては、人間に優劣はないのです。使徒ムハンマドは、神が一つの魂から創られた人類の間のあらゆる垣根を払い取りました。

またイスラームがその上に成立しているところの純粋な一神教的信仰は、全人類をアッラーのみへの崇拝へと、そしてかれに何ものをも並べずにかれのみを崇拝することへといざなっています。この一神教的信仰は、人類の真の自由と尊厳、高潔さのもとに成り立っており、人間が他の人間に隷属することからの自由を高らかに謳っているのです。

また永劫のイスラーム法は宗教と理性と尊厳と財産と生命の保護という見地から、人類にもたらされました。加えてイスラーム法は、あらゆる規定や判決において包括的かつ穏健な立場を取っています。そこでは精神面と物質面が奇跡的なまでの調和を保っており、また感情と理性のいずれもが尊重すべきものとされているのです。

イスラーム共同体が人間の歴史を通じて、重要な文化的及び歴史的役割を担ってきたことは強調されるべきでしょう。実にイスラーム共同体は神によって最善の社会とされ、そこにおいて人類は現世と来世の徳を集結した、堅固で釣り合いの取れた国際的文明を築いたのです。この共同体の遺産の一つは、科学と信仰を統合したことでしょう。しかし現代世界ではその風潮と流れによって、信仰の部分が喪失してしまっています。イスラーム共同体は、逸脱した人類を導くという重要な役割を果たすことを望まれています。イスラームは変調した物質文明が抱える問題への、解決策を提示しているのです。

また人類の自由と、その生活と状況の改善に関する権利を強調する目的で、人間を虐待や侵害、暴力などから保護するための人権において努力することは、イスラーム法にも適ったことです。

私たちは、人類が物質的分野においては非常な発展を見たものの、いまだにこの先進文明の偉業を維持するために必要な、信仰に基づいた大きな精神的援助を必要としている、ということをご説明しました。そしてこれこそが社会における人権保護のために、真に必要なことなのです。

私たちは、基本的権利と自由とはイスラームという宗教と信仰において、不可欠なものであると信じています。完全であれ部分的であれ、いかなる者もそれらを阻む権利を有しません。これらの基本的権利は、啓典によって全ての使徒に啓示された神聖なものです。事実、それ以前の使徒や預言者たちのメッセージと任務を完遂させた最後の使者ムハンマドもまた、これらの本質的権利を携えて神から人類へと遣わされたのです。イスラームによれば、これらの本質的権利を遵守することは一種の崇拝行為と見なされる一方、それらを侵害することはある種の悪行であると見なされています。全個人にはこれらの権利を固守する責任があり、また社会全体としてもそうする集団責任があるのです。

以上のことに基づき、ICO参加国は以下のことを宣言します:

h第一条

全人類は一つの大きな家族のようなものである。彼らは神のしもべとして一つの旗のもとに結束しており、また彼らは皆アダムの子孫である。また全人は人間の尊厳という点において皆平等であり、責任という観点からも平等である。人は人種や肌の色、性別、宗教、政治的立場、社会的地位などその他の要素によって差別されることはない。優れた真の信仰とは、人類の統合を確信かつ保障するもののことである。

人類は全ての創造物の中で最善のものである。そして敬虔さと善行を除いては、人間同士の優劣を決めるものはない。

h第二条

生命は神からの贈り物であり、全人類に保障されている。全ての社会構成員と全ての国家はこの権利を、あらゆる種類の侵害から保護しなければならない。法的に正当な理由がない限り、いかなる生命も侵されてはならない。

また、人類を抹消するような道具や手段を用いることは許されない。人間の生命を維持することは一つの法的義務である。

同様に人間の身体的安全も尊重される。いかなる者も他人の安全を害する権利はなく、合法的理由なくしてそこに立ち入ることは出来ない。そして国家はこの権利を保障しなければならない。

h第三条

軍事力を行使する場合、あるいは交戦状態において、実際の戦闘に参加していない者を殺害することは許されない。老人、女性、子供、負傷者や病人などは保護される権利がある。また戦争捕虜は衣食住を保障され、交換されなければならない。戦死者の遺体を損傷するような行為は禁じられ、戦争によって離れ離れになった家族は再び一緒になる配慮を施さなければならない。

また交戦中に敵軍の損失のため木を伐採したり、農作物や家畜、建築物や国家施設などを損傷したり破壊してはならない。

h第四条

全人は存命中も死後も、そのあるべき無傷な状態と尊厳、名誉を保障される。国家と社会は死亡した者のために、埋葬地を確保しなければならない。

h第五条

家族は社会の基本的単位である。そして結婚は家族を構成し建設する基礎である。男女には結婚する権利があり、人種や肌の色、国籍などゆえに結婚する権利を制限されるようなことがあってはならない。

社会と国家は結婚を妨害するようなあらゆる障害を除去する必要がある。むしろ結婚を容易にし、家族の保護を試みるべきである。

h第六条

男女は人間としての完全性と尊厳において、平等である。女性には平等な権利と義務があり、一個の国民として経済的にも独立している。また自分の名前や苗字を保持する権利もある。

また男性はあらゆる面においてその扶養家族を経済的に配慮する義務があり、彼らに対して可能な限りの保護と世話をしなければならない。

h第七条

全ての子供は両親と社会、そして国家に対して、監督と養育、また物質的・教育的援助、道徳的指導を受ける権利を有する。また胎児と妊婦も特別な配慮を払われなければならない。

また両親と後見人は、その子供のために望む養育の種類を選ぶ権利を有する。しかし子供の将来における福利は、倫理とイスラーム法的価値観と指針に沿った形で考慮に入れられなければならない。

また両親も子供に対して自らの権利を有する。そして親戚もイスラーム法とその指針に沿った形で、互いに対する権利を有する。

h第八条

全個人はその全ての権利を行使する権利がある。もし部分的にでもその権利を行使出来ないような状態にある場合、それらはその後見人に委託される。

h第九条

教育を受けることは全人の権利であり、義務である。教育と学習は社会と国家に課された一つの義務であり、国家は教育手段を確保し、かつ社会構成員の福利と繁栄に奉仕するための教育メディアの多様性を保証しなければならない。また教育は人にイスラームという人生の指針や自然科学、そしていかにして物質的手段を人類の福利のために利用するかという点についても教えてくれる。

全人は家族や学校、大学やメディアといった多様な教育機関によって教育を受けることが出来る。彼らはその個性を生かし、全能なる神への信仰を強化し、かつ人間の権利と義務への尊重の念を高めるような、調和の取れた包括的な世俗的及び宗教的教育や訓練を適切な形で受けることが出来る。

h第十条

人間は、自然かつその天性に合致する生得的な宗教に従う必要がある。ゆえに誰にも、人間の先天性に反するような何かを他人に押し付けたり、強制したりする権利はない。また何ものも他人の経済的・肉体的弱さや無学に付け込んで、その宗教を変えたり、あるいは無神論者にしてしまったりするような権利はない。

h第十一条

人間は生まれながらにして自由である。何者も人を奴隷化したり、陵辱したり、支配したり搾取したりする権利はない。人間は全能なる神以外の何かに隷属するようなことがあってはならない。またあらゆる形における植民主義や侵略主義は完全に禁じられており、それらは奴隷制の中でも最悪の形式である。人は自分の生き方を自分で決定する権利を有するのであり、全人はあらゆる種類の占領や植民地主義に対しての正義の戦いのために助け合う必要がある。また全人は自らの独立した国家と個性を保護し、その天然資源を自ら管理する権利を有している。

h第十二条

全人は自分の属する国家、あるいはそれ以外の場所に適切な定住の場を選択するという、移転自由の権利を有する。また人は自分の属する国家で安全を確保出来ないような場合、別の国へ亡命する権利がある。そして亡命の受け入れを提供する国家は、彼らの亡命の理由が刑罰に価する犯罪ものではない限り、彼らを保護しなければならない。

h第十三条

国家と社会は能力のある全ての者に、就職の機会を保障しなければならない。全個人は彼自身と社会の福利を保障する、適切な職業を選択する自由を享受することが出来る。被雇用者はその安全と、あらゆる社会福祉保険や保障制度を受ける権利があり、また能力外のことを請け負う必要はない。また被雇用者は自分の意思に反して何かを強制されてはならず、搾取されたり害悪を蒙ったりしてもならない。被雇用者は性別の差なく報奨を受ける権利を有し、その支払いが遅れてはならない。また定期的な休暇や昇進、特別手当やその他の然るべき権利などを享受する。また被雇用者はその任務を完遂するために、その時間と労力をもって奉仕しなければならない。もし雇用者と被雇用者の間で諍いが生じた場合には国家がそのような争いを解決し、不正を除去し、正義を行使するためにその間に仲介に入る。そしていかなる偏向もなく、両者に対して公正な判決を下す。

h第十四条

全個人は合法的収入を得る権利がある。物資の独占やあらゆる種類の詐欺、利子や自分や他人を害することなどは全て許されない。事実これらの物事はイスラーム法上禁じられている。

h第十五条

全個人は合法的な所有権を有する。但し所有権の享受は自分自身や社会に属する人々、あるいは社会全体に有害ではない限りにおいてのことである。また私的所有権は公共の福利や緊急事態、適当な代替物の存在などの条件が揃わない限り、侵害されることはない。また合法的理由がない限り、いかなる財産の押収も許されない。

h第十六条

全個人はその物質的生産や著作物、工芸品や技術製品などから利益を得る権利を有する。同様に全個人はその製作品や生産物がイスラーム法に抵触しない限りにおいて、そこから生じる文芸的、あるいは経済的利益を保護する権利がある。

h第十七条

全個人は物質的汚染や道徳的腐敗といった意味において、清潔な環境の中で生活する権利がある。そしてまたそのような環境の下で、人の道徳的性格は形作られる。社会と国家はこの権利を人々に保障し、提供しなければならない。

また社会と国家は全個人に対し、あらゆる公共施設と利用可能な手段を用いて、適切かつ最低限の健康・医療ケアを提供する義務がある。

また国家は全個人とその扶養家族に対し、よい生活環境を提供する。この権利は適切な衣食住の提供や十分な教育、医療サービスなど、その他の基本的需要をも包含する。

h第十八条

全個人は社会において宗教や信仰、家族や尊厳、財産といった個人的諸事に関して安全を保障される。

また全個人は住居や家族、経済やコミュニケーションといった個人的諸事において独立性を持つ権利を有する。いかなる諜報や監視、あるいは中傷などによってそれらの権利を侵害されてもならない。また個人は、正しい証拠に基づかないあらゆる推測から保護されなければならない。

また家宅や住居のプライバシーは保護され、住居主の許可なしにその中に立ち入ることは許されない。私的所有住居は合法的理由が存在しない限り取り壊されたり没収されたりすることはなく、賃借人も立ち退きを求められることはない。

 

h第十九条

統治する立場にある者も、される立場にある者も、全個人は平等な法的権利を有する。

全個人は訴訟において法的判決を求める権利を有する。犯罪と刑罰はイスラーム法に則らなければならない。

被告はその犯罪が証明されるまで無実である。また起訴に対する自己弁護のためのあらゆる保障がなされる、公正な裁判が義務付けられる。

h第二十条

いかなる者も適切な法的処置なしに逮捕されたり、自由を拘束されたり、追放されたり罰されたりしてはならない。また肉体的・心理的拷問などの、いかなる屈辱的な扱いをされてもならない。またいかなる者もその同意なしに、健康を害する恐れのある医学的実験などに晒されることはない。また行政権は例外法を発布する権能を有しない。

h第二十一条

いかなる目的や形式においても、誰かを人質に取ることは許されない。

h第二十二条

全個人はそれがイスラーム法とその教義に反しない限りにおいて、自らの主張を表現する権利を有する。また全個人はそれがイスラーム法とその教義に反しない限りにおいて、勧善懲悪活動に参加することが出来る。

メディアと広報は社会の命脈の源泉である。メディアは私的目的のために用いられたり、悪用されたり、あるいは預言者ムハンマドの名誉を貶めたり、非倫理的な物事や腐敗を及ぼすようなことに利用されてはならない。また社会の分裂や道徳的腐敗、危害や不信仰を生じさせるようなあらゆる物事は禁じられる。

また民族主義や党派主義など、あらゆる種類の差別主義は許されない。

h第二十三条

後見は背くべからざる一つの信託である。基本的人権保障のためにも、その背反は厳しく禁じられる。

全個人は直接的にせよ間接的にせよ、属する国の公共行政に参加する権利を有する。また同様に、イスラーム法とその規定に基づいた公的任務に従事することが出来る。

h第二十四条

この宣言にある全ての権利と自由は、イスラーム法とその指針の枠組みにおいて包括的なものである。

h第二十五条

イスラーム法とその指針は、この宣言の各項目に関する説明と詳細における唯一の源泉である。

 

 

ヒジュラ暦1411414

(西暦199085日)

カイロにて

 

上記の諸権利を決定し、受容することが、真のイスラーム社会を建設するための正しい第一歩となるでしょう。そして真のイスラーム社会とは、以下に示すような特徴を備えた社会です: [120]

 

公正さという概念のもとに成り立つ社会。人はその起源や人種、肌の色や言語によって差別されません。また人間は抑圧や不正、陵辱や隷属などから守られなければなりません。全ての創造主である神は、人類を他の被造物の上に位置する栄誉高い存在とされたのです。

-そしてわれら(アッラーのこと)はアダムの子ら(人類のこと)を高貴な存在とし、陸に海に彼らを運んだ。また彼らによき物を糧として授け、われらが創造したあらゆるものの上に位置づけたのだ。,(クルアーン17:70)

 

社会の核心であり基礎であるところの、強い家族体系が根源となっている社会。このような社会は安定と発展をもたらします。聖クルアーンにはこうあります:

-人間よ、実にわれら(アッラーのこと)はあなた方を一組の男女から創った…,(クルアーン49:13)

イスラーム法の前において、統治者と被統治者が平等であるような社会。イスラーム法は神授のものであるゆえ、それが適用される社会においてはいかなる不正も許されません。

権威と権力が一つの信託である社会。統治者はそこにおいて、イスラーム法の枠組みの中で目的を達成する役割を担います。

全個人が、全能なる神こそが全存在の真の所有者であり、また全ての被造物は人類の福利のために利用されるべく存在している、ということを信じる社会。人の所有する物は全て神からの贈り物であり、そこにおいて誰かが優先権を有しているということはありません。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-またかれ(アッラーのこと)は天地にあるあらゆるものを、あなた方のために仕えさせられる。実にその中には、熟慮する民へのみしるしがあるのだ。,(クルアーン45:13)

 

公的諸事を取り扱う全ての政策が、協議に基づく社会。聖クルアーンにはこうあります:

-そして彼らの主(の呼びかけ)に応じ、礼拝を行い、彼らの間の諸事を協議でもって取り決め、またわれら(アッラーのこと)が授けたものから施す者たち。,(クルアーン42:38)

個人の技能や能力に基づいて、平等な機会を提供する社会。また個人は現世においてその社会に対しその能力の発揮という義務を負い、来世においては創造主の前でその責任を負います。使徒ムハンマドはこう言っています:

あなた方は皆後見人である。そしてあなた方は皆、その後見下にある者たちに対して責任がある。(組織や集団の)長はその民に対して責任があり、また男は家庭の中における後見人であり、家族に対して責任を持つ。また女性は夫の家における管理者であり、彼女の管理下にある者たちに対して責任を持つ。そして小間使いは主人の財の管理者であり、彼もまたその管理下にあるものに対して責任を持つのだ。[121]

法的裁決を仰ぐ法廷の場において、人がその社会的立場などに関係なく平等に扱われる社会。

全個人が社会に対する意識を反映する社会。全個人は犯罪を犯した者を提訴する権利を有します。またこの法的処置において他人の援助を請うことが出来、一方犯罪の目撃者は正義の施行にあたって臆することなく、必要な援助を提供することが義務付けられます。

イスラーム法における人権の特徴は、以下に示す通りです:

a.  イスラーム法によれば、人権は神聖なものです。そして人権の制定は気まぐれや欲望、私欲や個人的野望などに由来するものではありません。

b.  人権とイスラーム的信条・信仰の間には相互関係があります。それは天啓的法規定によって保護されており、ゆえにそれに対する侵害は神の意思に対する冒涜と見なされます。そしてその侵害者は現世においてはもちろんのこと、来世においても懲罰を受けることになります。

c.  イスラームにおける人権は包括的であり、また人間の本質に適合したものです。それらは人間の先天的素質に沿ったものであり、弱者にも強者にも、貧しい者にも豊かな者にも、地位の高い者にも低い者にも適しているのです。

d.  これらの人権はイスラーム司法のもとで、全人に適用されます。そこにおいて肌の色や人種、宗教や言語、社会的地位などは関係ありません。

e.  人権は継続的なもので、あらゆる時代や場所、状況に適合します。そしていかなる個人や社会も、人権を変更することは出来ません。

f.   人権は、尊厳に溢れた人並みの生活を全個人に提供する社会を建設するのに不可欠です。人権は全能なる神、全世界の主からのものであり、全人類のためのものです。また人権は人類の政治的、社会的、倫理的、経済的権利を保護します。

g.  人権は絶対的ではなく、限定的なものです。人権はイスラーム法とその指針と矛盾せず、社会の福利に損失を及ぼしたりしてはなりません。例えば意見や主張の自由は全人に保障されており、誰もが臆することなく真実を語る権利を有しています。また全人は現世的分野であろうと宗教的分野におけることであろうと、道理をわきまえた公共の福利に適う助言や提案をすることが出来ます。しかしながらそこには越えてはならないいくつかの制限があり、それらを無視すれば社会は混沌としたものになってしまうでしょう。以下はその制限の一部です:

h 客観的対話における自由は、英知とよい助言をその礎としているべきです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-英知とよき訓戒をもって、あなたの主の道へといざなえ。そしてよき手法を用いて彼らと議論するのだ。実にあなたの主はその道を迷い外れた者のことも、よく導かれた者のこともよくご存知である。,(クルアーン16:125)

h 神の存在やその使徒への信仰など、イスラーム信仰の根本的理念に則っていなければなりません。

h 他人の侮辱や挑発、秘密の暴露など、現世的なことであれ宗教的なことであれ、他人への侵害を伴う類の自由を回避すること。このような非合法的行動はイスラーム社会のみでなく全ての社会に害悪と腐敗を拡散します。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-信仰者たちの間に醜聞が広まることを欲する者たちには、現世と来世において痛ましい懲罰があろう。アッラーこそが(全てを)ご存知であり、あなた方は知らないのだ。,(クルアーン24:19)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イスラームにおける人権に関する誤解の数々

 

以下に示すのは、イスラームとその人権における理念に関して顕著に見られる誤解の一部です。これらの告発の多くはユダヤ教やキリスト教を始め、その他の宗教にも当てはまることは注目に値します。というのも一概に言って宗教的規律というものは、近代的な非宗教的生活システムにおいて受け容れがたいものと見なされているからです。ここでの説明はイスラームの教義に沿ったものですが、それはイスラームが近代的世俗主義を導く急激な反動の主要因となったある種の宗教の誤謬や不正などから無縁であることによっています。イスラームにおいては、創造主とその使徒への信仰、そしてその法規定という枠組みにおいて、宗教と科学、及び文明の発展との間にいかなる衝突もなかったのです。

 

第一の誤解

ある種の人々はイスラーム法が自由の本質を制限し、人権に関する近代的概念に沿った世界の先進文明にはそぐわないものであると主張します。

 

イスラーム法に関する誤解への回答

 

広く蔓延しているこの種の誤解の一部については、既に述べました。ここではムスリムがイスラーム法を人生の完全かつ包括的な規定であり、その原理と法においてあらゆる時代と場所と人間に適用可能かつ適合するものであるということを信じていることについて指摘しましょう。それが自分自身の欲望に発するものであれ、あるいは寡頭政治や聖職者政治などによるものであれ、真の自由とはいかなる不正への従属からも無縁なものです。そして最悪の隷属状態とは、人類の創造主であり保護者である唯一の主以外の何かを崇めることです。イスラームは、何でも望むことをしていいのだ、というような自称自由主義者が主張するところの自由は認めていません。イスラームは人間とその創造主である主の間に精神的絆を確立する唯一の宗教ですが、そこには人生の全側面を熟知する最も英知溢れるお方である神による、俗世間における現世的命令も含まれています。イスラームは人間と社会や他の人々や国家との関係を調整すると同様に、人間と神との関係も秩序立てています。またユダヤ教などとは違って普遍的な教えであり、限られた種類の人々のためのものではありません。キリスト教も同様の普遍性を謳ってはいますが、彼らはイエスに啓示された正しい道から脇道に逸れてしまっているかのようです。イエスは次のように言ったと伝えられています:

するとイエスは答えて言われた、“わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない”。[122]

またイエスは、ユダヤの十二部族のために選んだ彼の十二使徒に向かってこう言ったとも伝えられています:

イエスはこの十二人をつかわすに当たり、彼らに命じて言われた、“異邦人の道に行くな、またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け。”[123]

一方イスラームの使徒ムハンマドは、全人類への慈悲として遣わされました。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてわれら(アッラーのこと)があなたを遣わしたのは、全世界への慈悲ゆえに他ならない。,(クルアーン21:107)

イスラーム法には二つの側面があります。一つは信仰と様々な崇拝行為、そして時間や場所などの変化による影響を受けない、不変の法という側面です。例えばイスラームにおけるサラー(礼拝)は、ナイジェリアであろうとアラブであろうとインドネシアであろうと、聖クルアーンの読誦や屈折礼、跪拝などの特定の言葉や動作から成立している一つの儀式です。同様にザカー(義務の浄財)もまた、様々な種類の財産において不変の割合や数量を定められています。また相続法も既に定められたものであり、誰かが自分に益するよう、あるいは自分が損失を蒙るような形でそれを勝手に修正することは許されません。これらの法はいかなる場所であろうと不変であり、全人に等しく適用されます。そしてイスラーム法のもう一つの側面は、人間間、あるいは人間と国家間の関係を調整する類の法という側面です。これらは留まることなく変化する社会状況における必要に応じて適用されるべく、その詳細が言及されないまま一般的な形式で定められています。この種の規定はその一般的形式からはみ出ない範囲で、変更したり修正したりして適用することが可能です。しかしこれらの修正や変更作業は、イスラーム法の主旨と社会の現状におけるあらゆる進展に通じている専門家や法学者による監督下になければなりません。例えばイスラームには協議という原理がありますが、この原理はその構造に関するいかなる詳細にも立ち入ることなく、聖クルアーンの中で一般的な形で言及されています。この柔軟性という特色は、あらゆる時代と場所の要求にそぐうように、イスラーム学者が協議の詳細を解釈出来ることを可能にしているのです。ある世代や場所において適していたものは、時代の要求に応じて多少の修正を施しつつ、別の世代や場所に適用可能なものとなりえます。この柔軟性はイスラームの有効性と包括性、そして普遍性をよく表しています。

 

第二の誤解

イスラームについての基本的事実すら知らないある種の人々‐偽の学者やオリエンタリスト、イスラームの敵など‐は、イスラーム国家は非ムスリムの法的権利を尊重しない、と主張します。

非ムスリムの権利に関する誤解への回答

イスラーム法はイスラーム社会における非ムスリム居住民に関し、異なった種類の諸権利及び義務を提示しています。この誤解への反論には、イスラーム法学書に言及されている次の一般法規定を引用すれば十分かもしれません:「非ムスリムには、ムスリムと同様の権利がある。また彼らにはムスリムと同様の義務も課される。」これは一般的規定であり、そこからイスラーム国家における非ムスリム居住民に対する安全保障や私的所有権、宗教的行事を行う権利などの公正かつ平等な法規定が導き出されます。

またイスラームは非ムスリムとの宗教的対話や議論も認めています。但しムスリムは彼らとの議論や対話において、最善の手法を選ばなければなりません。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

- そして啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)とは最善の手法でもってでしか、議論してはならない。しかし彼らの内の不正者は別である。そして言うのだ:「私たちは私たちに啓示されたものと、あなた方に啓示されたものを信じる。私たちの崇拝しているものと、あなた方の崇拝しているものは一つである。そして私たちはかれ(アッラーのこと)に服従しているのである。」,(クルアーン29:46)

また神は他の宗教や信仰に関して、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-言え、「あなた方がアッラーを差し置いて祈っているものについて、語ってみるがいい。それらが地上において創造したものを、私に見せてみよ。あるいは天(の創造)において、それらに何らかの参与でもあるというのか?もしあなた方が本当のことを言っているというなら、(その証拠として)これ(クルアーンのこと)以前の啓典でも知識の片鱗でも携えて来るがよい。」,(クルアーン46:4)

またイスラームは他宗教の者を強制的に改宗させるようなことを、禁じています。聖クルアーンにはこうあります:

-あなたの主がお望みになれば、地上の全ての者が信仰に入ったであろう。一体あなたは人々が信仰者となるように強制するというのか?,(クルアーン10:99)

聖クルアーンと預言者ムハンマドの言行録は、イスラーム法治社会に属する者の信仰の自由を明らかにしています。多くの社会はムスリムどころか自らの民に対しても非寛容であったという例が数多く存在する一方、イスラームの歴史は非ムスリムに対しての寛容さを示す沢山の例を提示しています。

ムスリムは、彼らに敵対的ではない全ての人類と公正に接することを義務付けられています。聖クルアーンにはこうあります:

-アッラーは宗教ゆえにあなた方に戦いを仕掛けたり、あなた方を家から追い出したりしなかったような者たちに対して、あなた方が善行を施したり公正に接したりすることを禁じられてはいない。実にアッラーは公正な者を愛でられるのだ。,(クルアーン60:8)

しかしイスラームに対して戦争を仕掛け、敵対し、ムスリムを追放するような人々に関しては、別の規定があります。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-実にアッラーがあなた方に禁じられるのは、宗教ゆえにあなた方に戦いを仕掛けたり、あなた方を家から追い出したりした者たち、またあなた方の追放に手を貸した者たちと親密にすることである。そして彼らと親密な者たちこそは、不正者である。,(クルアーン60:9)

ムスリムと非ムスリム間の関係は、友情と公正な手法に基づいています。またイスラーム社会に属しているかどうかを問わず、ムスリムと非ムスリム間の商取引なども禁じられているわけではありません。ムスリムはユダヤ教徒とキリスト教徒の屠殺した食肉を食べることが出来ますし、男性ムスリムは彼らの内の女性と結婚することも出来ます。またイスラームが家庭に非常な重きと配慮を置いていることを忘れてはなりません。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-この日、あなた方にはよき物が許された。そして啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の屠殺した物はあなた方にとって合法であり、あなた方の屠殺した物は彼らにとっても合法なのである。また信仰者の貞淑な女性と、あなた方以前に啓典を授けられた民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の貞淑な女性は、あなた方が彼女らにマハル(婚姻の際の贈与財)を贈り、姦淫(目的)や非合法な仲となることを目的とすることなどではなく正しい婚姻契約を結ぶのであれば(、合法である)。そして信仰を拒む者は、実にその行いが無駄に帰すのだ。彼は来世において、損失者の類となろう。,(クルアーン5:5)

 

第三の誤解

ある人々はイスラームの刑罰が残酷で野蛮であり、人権を無視したものだと主張します。

イスラーム的刑罰に関する誤解への回答

あらゆる社会には、重大な犯罪に対する刑罰の体系があります。近代的な刑罰体系においては専ら拘禁刑が適用されるようになりましたが、多くの犯罪学や社会科学の専門家らは拘禁期間が有効な犯罪抑止力として働いてはおらず、むしろ大方の場合において犯罪者に喪失感や無力感を抱かせたり、また不公平な刑罰体系に対しての悪意すら覚えさせたりすると言うのです。同様に犠牲者側もまた多くの場合、正義の行使に疑念を抱きます。また適切な拘禁期間とその判決にもまた多くの議論が残っています。拘禁施設、及びそれに関連する諸々の施設における莫大な維持費用については言うまでもありません。  

始めに、イスラームにおける刑罰体系はイスラームの完全かつ公正な人生体系の一部であることに触れなければなりません。そしてそれは犯罪的行動にいかなる弁明の余地も与えぬまま、全市民の平等な機会と福利を提供するのです。

 

イスラームにおける犯罪は二種類に分類されます:

 

1) イスラーム法によって既にその刑罰が定められているもの。ここには棄教や宗教における不敬行為、殺人や暴行、姦淫や窃盗、飲酒や酩酊、誰かを姦淫やその他の不道徳な行為において嘘の告発をすること、他人の生命や財産を脅かすことなどがあります。

2) イスラーム法によってその刑罰が定められてはいないもの。このような犯罪に関しては、法的権威がイスラーム社会とムスリムの公共福利を考慮に入れつつ、その刑罰を定めます。この種の刑罰は「タアズィール(懲戒刑)」と呼ばれています。

またイスラーム法によってその刑罰が明確に定められている犯罪に関しては、更に二つの種類に分けられます。一番目の種類は殺人や暴行、名誉毀損など、犠牲者の人権に関するものです。これらの犯罪の刑罰は、もし原告がそう望めば軽減することも出来ますし、あるいは殺人や暴行などの場合には刑の執行の代わりに血債を受け入れたりすることも出来ます。二番目の種類はイスラーム法によって禁じられている物事や、神の命令の侵害に関する刑罰についてのものです。この中には飲酒や姦淫や窃盗があり、この種のものは一度法的権威のもとに立件されて確定した場合、例え原告がそう望んだとしても刑罰を軽減したり免除したりすることは出来ません。

イスラーム法における刑罰実施に関する規定は、正義を確立するためのものです。例えばこれらの刑罰を見てみれば、それらが信仰、生命、理性、尊厳と子孫、財産という人間の人生における五つの本質的ニーズが非常な侵害を受けた時にのみ適用されることが分かります。また刑罰の適用対象は、責任能力のある正常な理性を備えた成人のみであり、更には自白か信頼のおける証言によってのみでしか犯罪は確定されません。疑念の余地の残る場合、証拠不十分な場合などにおいては、刑の執行はされません。預言者ムハンマドはこう言いました:

少しでも(証拠に)疑念の余地が残る場合、刑罰の執行を取りやめよ。[124]

このような厳罰を施行することの目的は、社会の犯罪要素に見せしめ的な教訓を施すためでもあります。イスラーム的刑罰は既に証明されているように、犯罪への誘惑に対する非常に有効な抑止効果を発揮します。こうして全個人の権利は保護され、社会全体が平和と安全を享受するのです。例えばもし自分が犯した犯罪ゆえに、自分がやったのと同様の強さでもって皮膚を斬られたり、骨を折られたりすることを知っていれば、敢えてそのような犯罪をしようとは思わないでしょう。

このような現世的かつ一時的な罰とは別に、犯罪者は罪を犯すことによって、来世で神による永遠の懲罰を受けることについても警告を受けています。イスラーム社会かどうかに関わらず、その法や規定を破る者はそのような厳しい懲罰に晒されるのです。またいかなる人間社会にも、その悪行を阻止するためには力を行使しなければ従わないような個人は存在するものです。イスラームは全ての犯罪に対して適切な刑罰を定めていますが、それはひとえにそれを定めたのは神自身であり、神こそは人類及びそのあらゆる種類の創造物についての事実を仔細に知る、全知かつ英知に溢れたお方であるからです。

 

強盗 には路上での追いはぎ、強盗殺人、住居や商業地区などに武器を持って侵入したり、無実の人々を武器で脅迫したりすることなども含まれます。これは文字通り、社会における福利への宣戦布告です。

強盗の罪に対して規定された刑罰は、聖クルアーンの次の節に示されています:

-(不信仰から)アッラーとその使徒(の仲間)に争いをしかけ地上に腐敗をもたらす輩は、死刑、あるいは磔の刑、あるいは手足の交互切断刑、あるいは追放刑に処される。これらは現世における彼らへの懲罰であるが、来世においてはこの上ない懲罰が彼らを待ち受けているのだ。但しあなた方が召し捕る前に悔悟した者たちは別である。アッラーがお赦し深く慈悲深いお方であることを知るのだ。,(クルアーン5:33-34 )

これらの刑罰はその犯罪の重大さと性質を考慮しつつ、法的権威の裁量において様々な形で適用されます。もし強盗が殺人と財産の強奪を行った場合、その刑罰は死刑及び磔刑です。またもし脅迫して財産を奪い取るだけで、殺害や暴行には至らない強盗に対しての刑罰は、手足の交互の切断です。財産を強奪することなく殺人を犯した者に関しては、通常の殺人に対しての罰が適用されます。また無実の人々を脅かすだけで殺人も財産の強奪も犯さなかった場合、その刑罰は追放、あるいはある種の学者によれば拘禁です。

 

故意の殺人とそれに準じるもの 他人の生命を不当に侵した者への適切かつ公正な刑罰として、故意の殺人には報復刑が定められています。報復刑は殺人予防の最も効果的な刑罰です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-信仰する者たちよ、殺人に関してあなた方に報復刑が定められた。自由民には自由民、奴隷には奴隷、女性には女性…,(クルアーン2:178)

しかしもし犠牲者側の遺族が加害者を赦免した場合、刑罰の執行は免れます。遺族側が血債と呼ばれる賠償金の受領を受け入れた場合も、同様です。聖クルアーンにはこうあります:

-しかしその件(殺人の報復刑の行使のこと)が(被害者側である)その同胞によって赦免された場合、(被害者側はその代償を別の)よき形で請求し、また(加害者側は)彼に対して(その義務の遂行において)至善を尽くすのだ。,(クルアーン2:178)

 

窃盗 神は窃盗犯への刑罰として、その手の切断を定めました。これは聖クルアーンの中の次の節によっています:

-男女の窃盗犯は、彼らが成したことの報いゆえ、そしてアッラーの懲罰ゆえ、その手を切断するのだ。アッラーは威光高く、この上なく英知溢れるお方。,(クルアーン5:38)

尚手の切断刑は、特定の条件を満たしていない限り執行されません。まず盗難品の価値が、刑罰が適用される最低額に達していること。次に盗難品がその所有者の管理下と保護下にあったこと。また犯罪の証拠が不十分であったり、犯罪の確定に疑念の余地があったり、あるいは窃盗犯の意図が飲食や衣服などにおける切迫した必要からではなかったということ。このような場合において刑は執行されません。窃盗は非常に深刻な犯罪であり、もし適切な刑罰がなければ社会的・経済的生活を脅かす現象の蔓延を見ることになるでしょう。また窃盗犯と対面するような場に出くわせば、それは殺人や暴行などの他の犯罪へのきっかけにもなり得ます。窃盗すれば手を切られることを知るならば、人は間違いなくそのような犯罪を思い止まることでしょう。

姦淫 イスラームは姦淫罪を犯した未婚者に、鞭打ちの刑を科しています。聖クルアーンにはこうあります:

-男女の姦淫者は各々、100回の鞭打ちに処すのだ。もしアッラーと最後の日を信じているのであれば、アッラーの宗教において彼らへの哀れみに囚われてはならない。そして信仰者の一部を彼らへの懲罰の証人とさせるのだ。,(クルアーン24:2)

一方姦淫を犯したのが結婚歴のある者であれば、その刑罰は投石による死刑です。この刑罰の執行もまた、特定の条件を満たしていることが要求されます。結婚歴のある男女が姦淫を犯した場合に関して言えば、自白か、四人の目撃者による証言があった場合においてのみ刑が執行されます。自白は、それが誰の強制によるものでもないことを示すためにも、公けに明瞭な形で行わなければなりません。また一度自白しただけでは刑の執行にまで至ることはなく、自白を四回繰り返すか、あるいは四つの異なった場や開廷期間における自白によって、初めて刑の宣告がなされます。また裁判官は「口づけしたり、抱き締めたり、あるいは触れたりしただけで、性交にまでは至らなかったのではないか?」といった風に、最終確認を問うことも出来ます。これは自白を取り下げる余地を十分に残しておくためです。この刑罰は預言者ムハンマドの言行録に根拠付けられており、その中では自分たちの罪を執拗に告白した何人かの姦淫者の話や、あるいはその行いの結果妊娠した女性の話などが伝えられています。

そしてこの刑が執行される二つ目の場合は、四人の信頼に足る証人の証言によるものです。これら四人の目撃者はその言行における信頼性で知られている、公正な者たちでなければなりません。またこれら四人の証人は、告発した容疑者の実際の性交の現場を目撃したことを確認する必要があります。つまり彼ら四人が、男性の性器が女性のそれに挿入されたのを直に目撃したと証言しなければならないのです。このようなことが起こるのは非常に稀なことであり、もし起こるとするならば、それは姦淫者が法や社会的対面や道義などを無視し、公けの場でそのような非合法な行為をあからさまに敢行したという他にはあり得ません。しかしイスラーム的視点における姦淫は世俗的な法の下では考慮されることもなく、単なる個人的諸事の内の一つと見なされるだけです。これは実際のところ社会的諸権利‐特に女性側の尊厳‐の侵害であり、そこには多くの悪影響が見出されます。またこのような所から社会的価値観や社会的道義の腐敗化が始まり、また性病なども蔓延するのです。また妊娠中絶や、両親から適切な世話を受けることの出来ない私生児の原因ともなります。子供が実父ではない者に結び付けられることによって家系の混同が発生したり、実父の子供という名誉を奪ってしまったりもします。更には本来相続人でない者が相続権を得たり、または本来相続人である者が相続の機会を失ってしまったりするなどという、相続上の問題も起こり得ます。また実の姉妹や姪、叔母など、法的には血縁上結婚できない相手と知らずに結婚してしまった、などということさえ発生し兼ねません。これらの無実な子供たちが自らの真の身元を奪われたり、実の両親や家族の庇護を受けられなかったりすることは真の犯罪であり、ひいては社会的・生理的病気や不安定性などを及ぼす可能性があります。子供にとっては父親と母親こそが心の平安の基礎なのであり、避難所であり、保護官、支持者、そして幸福なのです。

嘘の告発 他人を姦通で告発しておきながら、その証拠を提示出来ない場合には、公けの場で鞭打ち刑に処されます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして貞淑な女性を姦淫で告発した後に四人の証人を呼んで来れない者は、80回の鞭打ち刑にせよ。そして(その後、)その者の証言はもう永久に受け入れてはならない。彼らは放埓者なのである。,(クルアーン24:4)

この刑罰の執行の目的は、無実の者の名誉と面目の保護です。嘘の告発に対する刑罰がなければ、そのことによる被告側の報復的行為や復讐の機運が盛り上がり、暴行や殺人にまで至る可能性もあるでしょう。イスラーム法はこの種のものを社会から根絶するための抑止策として、証拠を提示出来ない侵害者に対しての厳罰を定めているのです。またイスラームはこの犯罪に対して肉体的刑罰のみには留まらず、将来的にそのような「嘘つき」の証言を受け入れてはならない、としています。しかしその者が神に悔悟してその行いを正した場合、その処遇は再検討されます。  

酩酊 人間は度を越さない限りにおいて合法な飲食物を自由に摂取ことが出来ますが、酩酊を催す物質の摂取は禁じられます。というのもそうすることで人は自らの心身を害するだけではなく、家族や社会全体の倫理観にまで被害を及ぼすからです。酩酊物質は全ての罪へと導く原因になることから、「全ての悪の根源」とさえ呼ばれています。イスラームは公けの場での酩酊と酩酊物質の売人に、鞭打ち刑を定めています。これはそのような有害物質の撲滅と、財産及び理性的・心理的健康の保護のためです。またアルコールや薬物の乱用は、殺人や暴行、姦淫や強姦、近親相姦など、他の犯罪への性癖を促すことなどといったある種の悪影響を及ぼします。またアルコール中毒者や薬物中毒者は生産的役割を果たせない、社会にとって無益な存在となってしまいます。中毒者は盗みやその他の犯罪など、あらゆる非合法な手段を用いてもそれらの物質を手に入れようとするかもしれません。また医学的実験が実証するところでは、アルコールや薬物中毒によって深刻な健康障害や伝染病などが引き起こされます。またそれらは財産や時間の浪費にも繋がり、ひいては社会に対する危害にも関わってきます。そしてアルコールなどの酩酊物質は一時的に理性を弱めたり失わせたりする効果があるゆえに、そのような状態にある者は犯罪的な危険行為に出たり、イスラームが禁じているような状態に陥ったりすることが往々にしてあります。

イスラームにおける上記の刑罰は全て人権と、国民が神の代理としてその絶対的英知と正義を体現することにより法の威信を保護するためのものです。イスラーム法における一般規定は、犯罪の種類と大きさに応じて刑罰の度合いも決まるというものです。聖クルアーンにはこうあります:

-そして一つの悪行に対する報いは、それと同じ一つの悪なのである…,(クルアーン42:40)

また全能なる神は、聖クルアーンの中で次のようにも述べています:

 

-そしてあなた方が懲らしめる際には、あなた方がされたのと同様の形において懲らしめるのだ。しかしもし辛抱するなら、それが辛抱する者たちにとって最善であろう。,(クルアーン16:126)

 

犯罪に対する公正な刑罰は、それと同等なものです。しかしイスラームは慈悲の意味から、代償としての血債の受領による刑罰の免除、あるいは人権と傷害に関することにおいては刑罰の執行における許しや寛容さのための余地を十分確保しています。神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてわれら(アッラーのこと)は、その(トーラーのこと)中で彼らに対し定めた:命には命で、目には目で、鼻には鼻で、耳には耳で、歯には歯で、そして傷害は(同様の傷害によって)報復される。しかしそれを免じてやる者は、それが彼にとっての贖罪となろう。アッラーが下されたもので裁かない者は、実に不正者なのである。,(クルアーン5:45)

刑罰を赦免してやることは、奨励されています。慈悲深い神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そして赦し、大目に見よ。アッラーがあなた方を赦される事を望まないのか?アッラーは赦し深く、慈悲深いお方である。,(クルアーン24:22)

また赦し深い神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-だが許して和解する者には、アッラーが報奨を与えて下さるであろう。…,(クルアーン42:40)

イスラームはその野蛮さや粗野さゆえに犯罪者に報復し、厳罰に処するわけではありません。刑罰の目的は厳格な公正さと見せしめ的意味合いを持った抑止力により、人権と法の尊厳を保護するためです。また平和と平穏さを維持し、全人が犯罪を犯す前に一歩踏み止まって考える機会を与えることです。他人を殺害すれば自分も殺されることを知り、窃盗すれば手を切られることを知り、また姦淫を行ったり無実の者を姦淫で訴えたりする者が鞭打たれることを知り、姦淫すれば投石の刑に処されることを知るならば、人は間違いなくそのような犯罪を思い止まることでしょう。刑罰に対する恐怖は犯罪への一歩を思い止まらせ、そして社会をより安全で平穏なものにします。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-報復刑(の定め)にこそ、あなた方の生命(の安全)があるのだ。理知を備える者たちよ、あなた方は(不当な殺害や傷害から)慎むことであろう。,(クルアーン2:179)

イスラームにおいて定められたこれらの刑罰が非常に残酷である、という提言への回答は明快です。社会における犯罪の非常な危険性において全人が同意している以上、それを犯す者に対してもその厳しい尺度を適用し、厳罰に処すべきなのです。唯一の問題は、犯罪率を低下させるために最善であり、最も有効かつ公正な方法を取るかどうかということだけです。イスラーム法と世俗的な人定法、または上記の刑罰と一定期間の拘禁刑による刑罰制度を比較してみれば、後者には被害者と加害者、ひいては社会一般にまで望ましくない影響が及ぶことは明らかです。イスラーム法に則った刑罰は、加害者自らが被害者と社会の倫理規準に対して与えた損害を身をもって味わうという意味において、公正かつ理に適っており、また普遍的かつ実践的、更には明快なものです。神こそはその創造物と真に公正な刑罰、及び犯罪の抑止に最も有効な手段について最も熟知しているお方です。犠牲者の権利に重点を置くことは、論理と正義に適ったことです。加害者を哀れむことで、被害者の権利を軽んじるようなことがあってはなりません。体全体が存続するためには、不治の病に冒されている身体の一部を切り落とさなければならないということもあるのです。

メディアが度々イスラームやムスリム社会、イスラーム法の歪曲したイメージを宣伝するのは注目に値します。このような宣伝によってある人々は、イスラーム法的刑罰が日常的に行われているような印象を受けるかもしれません。しかし実際のところイスラームの歴史全体を通しても、投石による死刑や手足の交互切断刑の執行に関する記録は僅かしか残っていません。投石による死刑に関して言えば、それが行われるのは非常に稀なことでした。実施されたものといえば、専ら当人の自白によるものだったのです。彼らは現世において自分たちの犯した罪から清められることと、来世において罪のない状態で神に謁見することを求めて敢えてそう望んだのです。他の刑罰に関しても、同様のことが言えます。

 

第四の誤解

多くの人々は、イスラームにおいて定められた棄教に対する刑罰は人権侵害であると主張します。彼らによれば、近代的な人権思想は全人に信仰の自由を認めています。そしてこの刑罰は、次のクルアーンの一節と矛盾しています:

-宗教に強制はない。,(クルアーン2:256)

 

棄教に関する誤解への回答

イスラーム法はイスラームを人生の指針として受容した後にそれを放棄し、その信仰と法規定を拒否する者に対し刑の執行を定めています。神の使徒ムハンマドの良く知られた言葉として、次のようなものがあります:

ムスリムの生命を侵すことは、以下の三種のもの以外非合法である:姦淫を犯した既婚者。生命に対する生命(つまり報復刑)。イスラームを放棄し、その共同体を去る者。[125]

また使徒ムハンマドはこうも言っています:

イスラームを棄てて別の教えをとる者は、殺すのだ。[126]

イスラームを人生の指針として一旦受容した後にそれを拒否することは、イスラームへの悪意に満ちた宣伝と棄教者の居住するムスリム共同体への不名誉を意味します。このような拒絶行為は人々のイスラーム改宗を妨げるだけではなく、あらゆる種類の犯罪や冒涜的言動の発生を促進します。またイスラームの拒絶はその者のイスラーム改宗の原因が遊び半分のものであり、それを人生において真剣に実践する気はなかったことを示しています。ゆえにこの種の拒否は往々にしてイスラームへの攻撃と謀反へとつながるのであり、そのためにこの刑が定められたと考えることが出来ます。

イスラーム法において、不信仰を宣言しイスラームを拒絶することは受け入れられないことと見なされます。というのもそのような者は信仰に対する神聖な奉仕を光栄に思っていないものとされるからです。このような者はまだイスラームには出会っていない生まれつきの非ムスリムよりも危険な状況にあります。聖クルアーンにはこうあるのです:

-信仰し、それから不信仰に陥り、その後また信仰に入り、それから再び不信仰に陥り、更に不信仰を増大させるような者たちは、アッラーからのお赦しを得られないであろう。またかれが彼らを導かれることもないであろう。,(クルアーン4:137)

 

私たちはイスラームの棄教に関して、以下のことを考慮しなければなりません。

イスラームの信仰を放棄した者が死刑に処されるということは、その人物がイスラームの基本教義を破り、かつイスラームを冒涜と背信でもって公けに攻撃し、倫理的・社会的秩序を根本から脅かしていることを示しています。このような背信はイスラーム社会における危険な内乱や謀叛を及ぼす恐れがあります。この種の犯罪はいかなる社会にとっても最も深刻な問題であり、一般に「国家反逆罪」という名で知られているのと同様のものです。尚確信を持って棄教した者には、イスラームへと回帰する機会として連続三日間の猶予が与えられます。そしてイスラーム学者によって彼が自分自身の魂と家族、そして社会に対して犯そうとしている大罪についての説明を受け、同時に彼が抱いていたイスラームについての誤解の解明についても説得されます。そしてもし彼がイスラームに回帰するのなら、何の咎めもなく解放されます。棄教者に対する刑罰は実際のところ、そのイスラーム社会に属する他の者たちのための救済処置でもあります。というのももしその棄教者が社会に放置され、他の人々の前でその不信仰と冒涜を宣伝すれば、彼らもまたその悪意と侵害的行為によって影響される恐れがないとも限らないからです。しかし棄教者が自らの不信仰を自分の内側だけに留め、それを公言したり宣伝したりするのでなければ、彼のことは神のみぞ知ることとなり、少なくとも現世での懲罰は免れます。神こそは誰が真の信仰者で誰が不信仰者か、または誰が真摯であり、誰が偽りの信仰を掲げる者かを最もよくご存知のお方なのです。イスラーム法治国家の権威はあくまで外的事象に基づいて裁決を下すだけであり、表面には現れない内的事実に関しては神に委ねることになっています。

一方でこの法規定は、イスラームの受容と放棄という問題が非常に深刻なものであることを明白にしています。イスラームに改宗しようと思う者は、改宗を宣言してその法規定の枠内に飛び込む前に、十分な時間をかけつつイスラームを人生の規範としてあらゆる角度から勉強し、研究し、評価し、よく吟味しなければなりません。

イスラームは信仰の放棄を単なる個人的物事ではなく、むしろ体系全体を害する拒絶行為として捉えています。この拒絶行為は社会的騒乱を導く蜂起と扇動の種なのです。イスラームは社会に危害や混乱を及ぼすような物事に対しては、決して寛容ではありません。

イスラームにおける棄教者への法規定は多くの近代的政治体系と相似している一方、より適度なものでもあります。というのも近代的政治体系の多くにおいては現存する政治体制や政府への反対活動は非合法な反逆罪とされ、そのような活動に従事した者は死刑や追放、拘禁や財産没収などの刑に晒されることになるからです。そしてそのような人物本人だけでなく、その親類などまでが嫌がらせや暴行に遭うことも珍しいことではありません。しかしイスラームは棄教者のみを、単純かつ直接的で非常に有効な抑止策をもって罰するのです。

 

第五の誤解

ある種の人々は、ムスリム女性が非ムスリム男性と結婚出来ないのは、女性の人権と個人的自由の侵害であると主張します。彼らによれば、このような権利は世俗的な近代法では認められていることであり、全人は誰とでも結婚することが出来ます。またムスリム男性もヒンドゥー教徒や仏教徒などの多神教徒女性と婚姻関係を結ぶことを、禁じられています。これは人権と個人的自由への侵害以外の何ものでもありません。

ムスリムと非ムスリム間の結婚に関する誤解への回答[127]

実際のところ、これらの禁止事項はイスラームにおいて男女の人権を侵害するものではありません。むしろ結婚の調和と人権侵害の抑制を保障するものなのです。この禁止令の裏に隠されたイスラームの理論的根拠は、女性と家族の重要性、そして核家族の保護です。世俗的近代法は、成人が同意のもとに築くあらゆる性的関係‐それが例え同性愛であっても‐を許可しています。しかしイスラームにおいて性的関係は、男女間の合法かつ高潔な婚姻によるものでない限り認められません。イスラームは人間の道徳観を守り、家族を離婚による分裂から保護するためのあらゆる手段を尽くしています。人は自らの幸福と、将来的な家族と世代の繁栄のために、配偶者となるべき相手と共に調和と平穏を追求しなければなりません。そこにおいて深刻な潜在的不一致となる要素が存在することは、両者の結婚を踏み止まらせる一つの理由となります。無論配偶者間の宗教的不一致は、そのような理由の内の一つです。この件に関して発生し得る三つの状況を、以下に挙げていってみましょう:

第一のケース:ムスリム男性は多神教徒や偶像崇拝者、無神論者の女性と結婚することを禁じられます。というのもイスラームの信仰は多神教や偶像崇拝、その他神の冒涜に通じるような物事を許さないからです。イスラームは、配偶者の根本的信条が認められないような結婚を禁じています。もしこのような状況になったら、家族全体が継続的な論争と混乱の舞台となってしまうでしょう。このような結婚は大概の場合、離婚という結末を見ることになります。そしてその結果家族は分裂し、子供が一番の悪影響を蒙ることになるのです。

第二のケース:ムスリム男性はキリスト教徒及びユダヤ教徒の女性と結婚することが許されています。というのもイスラームはモーゼとイエスを、神から遣わされた真の預言者であると信じているからです。これらの宗教の信仰箇条や法規定には部分的に相違点がありますが、上記の場合ほど結婚が問題的性質を帯びることはありません。そしてもし配偶者間の他の要素に問題がなければ、結婚は持続可能なものとなるでしょう。

第三のケース:イスラームは非ムスリムがムスリム女性と結婚することを禁じています。というのもユダヤ教徒やキリスト教徒、多神教徒らは預言者ムハンマドの伝えるメッセージと彼の預言者性を認めていないからです。また自然や歴史を鑑みても、男性は女性を率いる立場にあります。こうして見れば非ムスリム男性はその立場を利用して、家という私的境界線内においてムスリムである妻の信仰と指針に対し、不敬的態度をあらわにするかもしれません。また夫がイスラームや預言者ムハンマドに関して侮蔑的言動を取ったりした時には、夫婦間に大きな敵意や嫌悪感を生じさせることにもなり兼ねません。この種の婚姻は疑念の余地なく、夫婦間に議論をもたらしたり、あるいは夫が妻をその信仰から背かせようと試みたりすることに繋がるでしょう。一方で妻が強気に自分の信仰の弁護に出れば、それは身体的暴力や服従の強制などの原因になるかもしれません。そして彼女は女性という性質上、酷い扱われ方を甘んじて受け、自らと子供を守るためにひどい苦難を味わうことになります。イスラームは第一のケースと同様に、虐待や諍い、厳しい試練の原因となることが明白だったり、あるいは明らかに離婚の危険性があったりする様な種類の結婚を禁じています。要約すればこの第三のケースは夫婦間の不和に至る筋書きの中でも最悪のものであり、それゆえに禁じられているのです。

 

第六の誤解

ある人々は言います:「イスラームの奴隷制度はイスラームの謳っている平等と個人の完全なる自由という概念に反している。これもまた人権侵害ではないか。」

 

奴隷制の誤解への回答

イスラームの奴隷制は多くの側面において、他の社会のそれとは異なっています。また多くの人々が古代ギリシャや古代ローマ、欧米の植民地主義者たちの慣行に基づく奴隷制から連想するものとも異なっています。イスラームはそれ以前の時代に奴隷制が存在しており、かつそれが当時社会的にも経済的にも不可欠な要素となっていたために、奴隷制を許容しました。奴隷制は当時、生活における多くの分野が彼らの労働力に依存していた故に普通に見られた、世界的現象でした。奴隷制はイスラーム以前の宗教においても見出すことが出来ます。例えば、旧約聖書にはこういった記述が見て取れます:

一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。」 [申命記 20:10-17]

また以下の節において、 ユダヤ教の掟においては主人がその奴隷を叩いて殺すことさえ出来ることが描写されています:

もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。」[出エジプト記 21:20-21]

聖書において、奴隷制を禁じるような言及はどこにも見出せません。南北戦争時のアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイビスは、次のように堂々と宣言しています:

(奴隷制は)全能なる神の定めによって作られたのだ。…それは二つの聖書の中の、創世記からヨハネの黙示録に至るまで是認されている。…それはいつの時代にも存在していたのであり、高度文明の民や、高度に発達した芸術を誇った国家のもとにも認められていたことなのだ。[128]

このような世界情勢を考慮に入れて、イスラーム法は長期的かつ漸進的計画をもって社会から奴隷制を抹殺することを狙ったのです。私たちは奴隷制に関わる全てのことから突然身を引くように直接的命令を受けたわけではありませんが、奴隷獲得の手段は漸進的に制限され減少していき、一方で奴隷の解放が奨励されました。また奴隷の扱い方に関しては公正かつ栄誉高い厳格な掟が適用され、更には彼らが望むならば自分自身を解放する契約すら許されるようになりました。奴隷制の改革的第一歩は、奴隷身分の者の心と精神の解放です。彼らは弱さや劣等性を感じて落胆するのではなく、強さや健康、有能さを感じることを教えられました。イスラームは奴隷身分の者たちを彼らの主人の同胞と呼ぶことにより、その心と精神に人間的感情や清廉さを吹き込みました。使徒ムハンマドはこう言っています:

あなた方に仕える者たちは、アッラーがあなた方の配下に置かれたあなた方の同胞である。ゆえに同胞の世話を任せられている者は、自分が食べている物を彼にも与え、また自分の着る物を彼にも与えるのだ。そして彼らが担えないほどの負担を課してはいけない。もしそうするのであれば、彼らを助けてやるのだ。[129]

また奴隷身分の者も権利を獲得しました。聖クルアーンと預言者ムハンマドの言行録では、ムスリムが彼らに親切でよくあるように命じられています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてアッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも配してはならない。そして両親と近親と孤児、恵まれない境遇にある者たち、また近い隣人と遠い隣人、そして近しい仲間と旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)に対して善行を施すのだ。実にアッラーは、自惚れ屋の高慢な者を愛で賜らない。,(クルアーン4:36)

また神の使徒ムハンマドがその死の床で、ムスリムたちに礼拝と奴隷の権利の遵守を命じた事実は、彼の長年に渡る奴隷に対しての配慮の証明でしょう。

また預言者ムハンマドは、こう言ったとも伝えられています:

奴隷を去勢したりする者は、われら(アッラーのこと)がその者を去勢するであろう。[130]

イスラームの教義によれば奴隷制は身体的側面に限ったことであり、主人によって改宗や思想の転換を強制されたりすることはありません。奴隷には信仰の自由があるのであり、そもそもイスラームにおいて真の優越性とは敬虔さと正しい行いのみに依拠するというところに人類平等思想の最良の例があるのです。イスラームは奴隷と主人の間の関係を同胞愛と団結力に溢れたものとしました。そのよい例の一つとして、神の使徒ムハンマドがそのいとこにあたるクライシュ族の高貴な女性ザイナブ・ビント・ジャハシュを彼の元奴隷であるザイド・ブン・ハーリサに嫁がせたことが挙げられます。またこのザイドの息子は、預言者ムハンマドの教友たちの中でも選りすぐりの精鋭から成る軍隊の指揮官として指名されたことさえありました。

イスラームはいかなる混乱や混沌も及ぼすことなく、イスラーム社会から奴隷制を撲滅する二つの主要な手法を取りました。これらの手法はイスラーム社会の様々な階層間に反目や憎しみをもたらすことはなく、当時一般的であった経済的・社会的状況に損害を与えることもありませんでした。

第一の手法:非常に広範な奴隷制の源泉を、イスラームの歴史のある時点において撲滅すること。イスラーム時代以前の奴隷制の根源は多様でした。例えば戦争において敗れた兵士が戦争捕虜となり、その結果奴隷となるといった原因の他、海賊行為や誘拐などによって捕捉された者が奴隷として売買される、などということもありました。また債務を返済出来ない場合に債権者の奴隷になったり、父親が自分の息子や娘を奴隷として売却したりすることもありました。また一定の金額の支払いと引き換えに、自分自身の自由を提供する、というようなこともあったようです。奴隷化は多くの犯罪の刑罰として科されてもいました。犯罪者が被害者の遺族や相続人の奴隷となったりもしたのです。また奴隷女性の子供は例え父親が自由人であっても、奴隷と見なされました。

イスラームはこれらの奴隷制の根源を、二つの場合のみを除いて断ち切りました。そしてその二つは時代状況において、十分に論理的な理由となりえるものです。

(1) ムスリム統治者による合法的な宣戦によって始まった戦争における戦争捕虜:しかし注意すべきは全ての戦争捕虜が奴隷とならなくてはならない、ということではないことです。 戦争捕虜は無償解放することも出来れば、身代金と引き換えに解放することも出来ます。聖クルアーンにはこうあります:

-(戦いで)不信仰者たちと出遭ったら、彼らを数多く殺すまで戦え。そして(拘束するための縄で、捕虜を)しっかりと繋ぎ止めるのだ。その後は戦争が終わってから(それらの捕虜を)見逃してやるか、あるいは身代金と引き換えにせよ。(事は)こういった次第である。そしてもしアッラーがお望みになれば、彼らの内のある者たちをお救いになろう。しかしかれはあなた方を互いに試練にかけるため(、あなた方に戦いを命じた)。そしてアッラーの道において殺された者は、アッラーがその行いを決して無駄にはなされない。かれはそのような者たちを(正しい道へと)導かれ、その状況を改善して下さろう。また彼らを天国へお入れになり、その居場所をお教え下さろう。,(クルアーン47:4)

イスラームに敵対する者はその初期において、イスラームの拡大と発展を阻むためにあらゆる手段を講じました。非ムスリムは当時ムスリムを戦争捕虜として拘束し、それゆえにムスリムも同様のことをしたのです。

(2) 奴隷身分の両親から生まれた者:このような者もまた、奴隷として見なされます。しかし主人がその奴隷女性を法律上の妻とした場合、この関係ゆえにその間に生まれた子供は父親の系譜に組み込まれることとなり、自由民となります。このような場合その母親は「子供の母親」という呼称で呼ばれ、奴隷身分にはありながらも売買されたり贈与されたりすることは許されなくなります。そして主人の死の折には、自由民となるのです。

第二の手法:そして奴隷制撤廃における第二の手法とは、奴隷解放の奨励とその原因の多元化です。根本的に言えば、奴隷解放は主人の意志によってのみ達成されます。イスラーム以前の時代において奴隷は一生涯奴隷身分にあると見なされ、奴隷を解放する場合にはその主人が罰金を支払わなければならない、というようなこともありました。しかしイスラームは奴隷自身による自己解放という手段をもたらしました。つまり奴隷がある一定の金額でもって、その主人と自己解放のための契約を結ぶことです。また主人はいかなる罰金も科されることなく、いつでも望む時に奴隷を解放することが許されました。以下に奴隷解放が義務付けられている物事の一部を挙げていきましょう:

1)贖罪:過失による殺人の贖罪は、敬虔なムスリム奴隷一人の解放です。そして更には、被害者の遺族に対して血債という賠償金が支払われます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-過失の場合は別にせよ、信仰者が信仰者をあやめることなどがあってはならない。それでもし過失から信仰者をあやめてしまった者は、信仰者の奴隷を一人解放することと、その遺族への血債を(その代償と贖罪として課される)。但し、彼ら(被害者の遺族)がそれ(血債)を免除する場合は別である。,(クルアーン4:92)

2)ズィハール[131]の誓いに対する贖罪:この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます:

-そしてあなた方の内で妻に対しズィハールを行う者たちで、以前自分たちが言ったことを撤回しようと思う者は、互いに触れ合う前に奴隷を一人解放するのだ。それこそあなた方が戒められているところのもの。アッラーはあなた方の行いを尽くご存知になられる。,(クルアーン58:3)

3)誓いを破ったことに対する贖罪:この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます:

-アッラーはあなた方が宣誓において、うっかり口を滑らせてしまったことに関してお咎めになることはない。しかしかれは、あなた方が(きちんと)成立させた宣誓(の不履行)に関して、あなた方をお咎めになるのである。そしてその贖罪は、あなた方の家族に食べさせるような平均的なものでもって、十人の貧者に食物を施すこと。または彼らに対する衣服の提供、あるいは奴隷一人の解放である。そして(それらが)見つからない場合は、三日間のサウム(斎戒、いわゆる断食)をせよ。これらがあなた方が誓った際の、あなた方の(履行しなかった)宣誓に対する贖罪である。そして宣誓を(軽々しく用いることを)控えよ。このようにアッラーはあなた方が感謝すべく、あなた方にそのみしるしをご説明されるのだ。,(クルアーン5:89)

4)ラマダーン月にサウム(斎戒、いわゆる断食)を破ったことに対しての贖罪:この件において最も良い例は、神の使徒ムハンマドのもとを訪れてこう言ったある教友の話でしょう:

「 アッラーの使徒よ、私はもうだめです。」 預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「何がだめなのだ?」(男は)言いました:「ラマダーン月に妻と交わってしまいました。[132]」(預言者は)言いました:「奴隷を一人解放出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは二ヶ月間連続してサウム(断食)することは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは六十人の困窮者に食事を振舞うことは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」それから(男は)座りました。すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のもとに、ナツメヤシの実が入った袋が運ばれて来ました。(預言者は男に)言いました:「これでもって施すがよい。」(すると男は)言いました:「私たちより貧しい者に、ですか?二つの溶岩地帯の間(マディーナのこと)には、私たちよりもそれを必要としている者はいないというのに。」すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は犬歯が露わになるほど笑われ、こう言いました:「行くがよい。そしてそれでお前の家族に食べさせよ。[133]

なお贖罪が科せられており、そうする経済力はあるものの解放するための奴隷を所有していない場合には、奴隷を購入して解放するようにします。

5)また奴隷解放は神の御許で最も好ましい慈善行為とされています。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-しかし彼は険しい道へと踏み込まない。そして険しい道とは何か?奴隷の解放である…,(クルアーン92:11-13)

更に預言者ムハンマドは、神の道ゆえに奴隷を解放することを自ら率先して奨励しました。彼はこう言ったと伝えられています:

ムスリム(の奴隷)を一人解放する者は誰でも、アッラーがその体の全部分をその(解放された者の)体の全部分をもって地獄の業火から救って下さるであろう。[134]

また使徒ムハンマドは、こう言ったそうです:

病人を見舞い、飢えた者に食事を与え、奴隷を解放せよ。[135]

6)遺言による解放:これは筆記によるものでも、口頭によるものでも構いません。もし主人が、彼の死後にその奴隷が自由となる旨を宣言した場合、それは実現されます。そしてイスラームはその予防策として、このような宣言の対象となる奴隷が売買されることを禁じています。またもし奴隷女性がそのような宣言を受け、かつその主人が彼女を妻として娶った場合、彼らの間に生まれた子供は自由民となります。同様にこのような場合、件の奴隷女性は第三者に売却されたり贈与されたりはせず、その身分から解放されることになるのです。

7)奴隷解放は、ザカー(義務の浄財)の用途の一つです。この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます:

-ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方。,(クルアーン9:60)

8)奴隷の顔を殴ったり叩いたりした罪に対する贖罪:イスラームは主人がその奴隷の顔を不当に殴ったり、叩いたりした場合、その奴隷の解放を勧めています。この法的根拠は、神の使徒ムハンマドの次の言葉に見出すことが出来ます:

奴隷の顔を叩いた者の償いは、彼(女)の解放である。[136]

9)奴隷自身による解放契約:これは奴隷がその主人と同意したある一定額の支払いと引き換えに、自らの解放を要求することです。主人は奴隷からそのような解放契約の提示を受けた場合、それを受け入れるべきとされています。このような状況において奴隷は解放契約を成就するために必要な金額を稼ぐため、自ら売買したり、取引したり、所有したり働いたりする自由を得ます。またこのような場合、主人に対する労働の奉仕でさえもまたその報酬として見なされなければなりません。実際のところ、イスラームは社会におけるこのような境遇の人々のために、経済的に豊かな者たちが寄付したり援助したりすることを勧めています。奴隷の主人さえもまた、同意した額の一部を免除したり、あるいは彼が自由を勝ち取るために収入を得ることの出来る良い環境を準備してやったりすることが求められます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてあなた方の右手が所有する者(奴隷のこと)の内でムカータバ[137]を望む者には、あなた方が彼らによきもの(宗教や生活手段など)を見出す限りそれを許すがよい。そしてアッラーがあなた方に授けられた財産の内から、彼らに施すのだ。,(クルアーン24:33)

簡潔に言えば、イスラームは奴隷制を制定したわけでもなければ、それを奨励したわけでもなかったのです。むしろ奴隷制の原因となる要素を効果的に制限したり、奴隷解放を促進したりするための法規定を定めたのだと言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 


まとめ

 

最後に、近年起きたある話を引用して締めくくりたいと思います。サウジアラビア王国の司法省はヒジュラ暦1392年2月(西暦1982年)、三つのシンポジウムを開催しました。シンポジウムにはサウジアラビア王国の司法長官と著名な学者や大学教授らと共に、何人かの有名なヨーロッパの法律家や学者ら‐前アイルランド外務大臣でヨーロッパ法律委員会の長官、東洋学及びイスラーム学における著名な学者、法律学の教授でフランスで発行されている人権雑誌の編集長、パリ最高裁判所の有名な法律家らなど‐も参加しました。

その中でムスリム学者たちはイスラームの主要な法規定と一般的な規則や信条の詳細を描写しつつ、イスラームという概念を他の観念との比較を交えながら一つの生き方として説明しました。また無実な人々の保護と社会に対する深刻な犯罪への抑止策として定められた、イスラームの刑罰の重要性と利益と有効性についても言及し、それらが社会全体の平和と安全を維持するために合理的な刑罰であることについて詳細に説明しました。そしてヨーロッパ人の参加者たちはそれらの種類の刑罰に関するムスリム学者の詳しい説明に聞き入り、イスラーム的人権の概念に感嘆の念を表明しました。ヨーロッパからの派遣団代表マックグライド氏は、こう宣言しました:「人権は他のいかなる国からでもなく、ここイスラーム国家から全世界に向けて提唱すべきです。またムスリム学者たちはこれらの未知の人権を、国際世論に向けて発信すべきでしょう。実際のところ、これらの人権に関する無知と正しい知識の欠如ゆえ、世界的視点においてイスラームとイスラーム法及びその統治の名声は歪曲されているのです。[138]

この小冊子はイスラームにおける人権という主題における、一つの序章に過ぎません。イスラームの真実は、イスラームを敵視する人々だけでなく、特にムスリム側の近代主義者や世俗主義者たちによっても手ひどく曲解され歪曲されてきた経緯があります。私はここで繰り広げられた議論が、イスラームの真実について更に探求したいという人たちへの道を開く扉となることを望んでいます。

私は読者各位が先入観なしに、信頼の置ける良質な源泉から、一つの生き方としてのイスラームについて更なる探求を続けて頂きたいと思っています。そのためには、私はいかなる援助も惜しまないつもりです。

また人をイスラームへと導こうとする者は、その意図を純粋に保たなければなりません。現世では全能なる神のご満悦を、来世では天国における永遠の享楽を望みつつ、その動機をいかなる私利からも清浄な状態に維持しなければならないのです。預言者ムハンマドの教友の一人は、なぜ神の道における奮闘に没頭するのかと聞かれ、こう答えたそうです:

私たちは、他の人々を崇拝すること、そして他の宗教の不正から人々を解放するためにやって来たのだ。そして彼らをイスラームという正義の中へ導き入れるために。

私たちムスリムは来世における神からの報酬として、二つの住まいがあることを信じています。つまり至福の喜びと永劫の幸福である天国と、永遠の懲罰の場である地獄の業火の二つであり、誰もがそのいずれかに入ることになるのです。天国は神からの美しい報奨であり、それはかれの命令に従った者のためのものです。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-そしてイスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。そして彼は来世においては損失者の類いなのである。,(クルアーン3:85)

またその根拠は、聖クルアーンの次の節にも見出すことが出来ます:

-信仰し善行に励む者たちこそには、フィルダウスの楽園がその住まいとして与えられよう。(彼らは)そこに永遠に(留まり)、そこから(別の場所への)移転を望んだりはしない。,(クルアーン18:107-108)

一方で全能なる神はかれの命令に背き、かれに何ものかを並べて配していた者に対しては地獄の業火を警告しています。聖クルアーンにはこうあります:

-実にアッラーはシルク[139]をお赦しにはなられないが、それ以外のことであればお望みの者をお赦しになられる。そしてアッラーに対してシルクを犯す者は、この上ない罪を犯しているのだ。 ,(クルアーン4:48)

また全能なる神は、聖クルアーンの中で次のようにも述べています:

-啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)と多神教徒たちの内で(真実を)隠蔽し認めない者たちは、地獄の業火に永遠に留まることになる。彼らこそは創造物の内でも最悪の者たちなのだ。,(クルアーン98:6)

イスラームの到来と共にイスラームの敵は宣戦を布告し、そしてその戦争は今日まで続いています。反イスラーム分子はこの戦争において、使用可能なあらゆる手段を尽くしていますが、真実と虚妄を区別することの出来る健全さと成熟度を備えた人々はそのような影響を受けません。そして一方で際立って宗教的な人々がそれ以前の信仰を捨て、イスラームという生き方を選ぶという現象は未だに留まることなく継続しています。このこと自体、イスラームの壮大さを示す大きな証拠です。全能なる神は、かれが人類のためにその宗教をお守りになることを保障されました。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています:

-実にわれら(アッラーのこと)は、訓戒(クルアーン)を下した。そしてわれらはその守護者なのである。,(クルアーン15:9)

それではこの小冊子を、預言者ムハンマドの美しい伝承からの引用で締めくくりたいと思います。

神に最も寵愛される者とは、最も他人を益する者である。そして神が最も愛でられる行いとは、他のムスリムを幸せな気持ちにさせること、苦しんでいる者の苦悩を取り除いてやること、借金を肩代わりしてやること、そして飢えから救ってやることである。モスクに一カ月間(崇拝行為のため)お篭りするよりは、同胞と彼の必要のために付き添って歩くことの方が、私の好むところなのだ。神は怒りを抑える者の悪事をお隠し下さるであろう。仕返しする力があるにも関わらず自身の怒りを抑える者は、神が審判の日にその心を喜びと幸福感で満たして下さるだろう。またムスリム同胞の弁護をするために歩む者は、人々の歩みが定まらずに転倒するその日、神が彼の歩みを確かなものにして下さるであろう。実に悪徳と悪行は、まるで酢が蜂蜜を台無しにしてしまうかのように、善行と敬虔な行いを台無しにしてしまうのだ。[140]



[1] 「アッラー」とは全宇宙の唯一の主、創造主であり、崇拝されるべき唯一の存在です。ノア、アブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドらの預言者や使徒を遣わし、彼らに啓示を下したのはかれであり、ゆえにアラブ世界のキリスト教徒らもまた神を指して言う時には同一の呼称を用います。この小冊子で単に「神」という表現があれば、それはかれのことを指しています。

[2] アッ=ティルミズィーによる伝承:2346.

[3] アフマドによる伝承:411.

[4] アブー・ダーウードによる伝承:5116.

[5] アフマドによる伝承:4:145.

[6] ムスリムによる伝承:2564.

[7] アル=ブハーリー:6406と、ムスリムによる伝承:9.

[8] アル=ブハーリー:3341、ムスリムによる伝承:2287.

[9] アル=ブハーリー:2312、ムスリムによる伝承:2584.

[10] アフマド:18850、アブー・ダーウード:4344、アッ=ティルミズィーによる伝承:2174.

[11] ムスリムによる伝承:1731.

[12] アブー・ダーウードとイブン・マージャによる良好な伝承。

[13] ディルハムとは銀2.28グラム相当の価値を有する貨幣です。現在でもある種のイスラーム国家やアラブ諸国では貨幣にこの名称を用いていますが、本来の価値とは異なります。

[14] これはイスラーム史上有名な出来事です。詳しくは「Baladthuri, Futuh al-Buldan, in the conquest of Sham (Greater Syria)」を参照のこと。

[15] アブー・ユースフ著「アル=ハラージュ」144頁。

[16] 同書126頁。

[17] 「アッ=ルウルウ・ワル=マルジャーン(884)」によれば、アル=ブハーリーとムスリムによる伝承。

[18] アブー・ダーウードによる伝承:5004.他にもアフマドらが収録しており、真正な伝承とされています。

[19] 預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)にとって最初で最後のハッジ(大巡礼)のことです。

[20] アル=ブハーリーによる伝承:6043.

[21] ムスリムによる伝承:29.

[22] アル=ブハーリーが「アル=アダブ・アル=ムフラド」に収録している伝承:112.その他の伝承者も収録している良好な伝承です。

[23] アル=ブハーリーによる伝承:2268、2269.

[24] アフマドによる伝承:15435.

[25] アル=ブハーリー:5437と、ムスリムによる伝承:104.

[26] 「アル=アズラーム」とは、当時賭け事やくじ引きに使われていた火打石のことであると言われます。

[27] アブー・ダーウード、アッ=ティルミズィー:1295、アン=ナサーイー、イブン・マージャ:3423、アル=ハーキムらによる伝承。

[28] イブン・マージャによる伝承:337.

[29] アッ=ティルミズィーによる伝承:2785.

[30] アブー・ダーウード:3317と、アッ=ティルミズィーによる伝承:2785.

[31] イブン・ヒッバーンによる伝承:296.

[32] アル=ブハーリー:4207と、ムスリムによる伝承:86.

[33] アブー・ダーウードによる伝承:2050.

[34] これは「ズィハール」と呼ばれる、イスラーム以前の悪習です。このような言葉でもって妻を離婚する方法がありましたが、これはイスラームによって禁じられました。

[35] アル=ブハーリー:2105と、ムスリムによる伝承:1457.

[36] アブー・ダーウード:1984と、アッ=ティルミズィーによる伝承:2091.

[37] アフマドによる伝承:3946.

[38] 同9588.

[39] アル=ブハーリーによる伝承:2348.

[40] アブー・ダーウードによる伝承:3477.

[41] ムスリムによる伝承:2564.

[42] アル=ブハーリー:2238と、ムスリムによる伝承:2586.

[43] アル=ブハーリーによる伝承:1337.

[44] アル=ブハーリーによる伝承:39.

[45] アル=ブハーリーによる伝承:2330.

[46] アン=ナサーイーによる伝承。良好な伝承と言われています。

[47] アッ=タバラーニーによる伝承。

[48] アル=ブハーリー:4416と、ムスリムによる伝承:2404.

[49] アル=ブハーリー:3461と、アッ=ティルミズィーによる伝承:2669.

[50] アッ=ティルミズィーによる伝承:1962.

[51] ムスリムによる伝承:1003.

[52] アル=ブハーリー:2227と、ムスリムによる伝承:2584.

[53] ムスリムによる伝承:1510.

[54] アル=ハーキムによる伝承:7244.

[55] イブン・マージャによる伝承:1862.

[56] アル=ブハーリーによる伝承:3721.

[57] アル=ブハーリーによる伝承:5049.

[58] アル=ブハーリーによる伝承:6024.

[59] ムスリムによる伝承:1437.

[60] アン=ナサーイーによる伝承:7:63.

[61] アッ=ティルミズィーによる伝承:1162.

[62] アブー・ダーウードによる伝承:4948.

[63] アブー・ダーウードによる伝承:1692.

[64] アル=ブハーリー:853と、ムスリムによる伝承:1829.

[65] ムスリムによる伝承:1623.

[66] アル=ブハーリー:5680と、ムスリムによる伝承:2585.

[67] ムスリムによる伝承:2563.

[68] アル=ブハーリーによる伝承:13.

[69] ムスリムによる伝承:1838.

[70] ムスリムによる伝承:1852.

[71] アッ=ティルミズィーによる伝承:1329.

[72] イブン・ヒシャームの預言者伝。

[73] アブー・ダーウードによる伝承:2948.

[74] アブー・ダーウード:4941と、アッ=ティルミズィーによる伝承:1924.

[75] アッ=ティルミズィーによる伝承:2007.

[76] アル=ブハーリーによる伝承:5670.

[77] アッ=タバラーニーによる伝承:1014.

[78] アッ=ティルミズィー:1944と、イブン・フザイマによる伝承:2539.

[79] アル=ブハーリーによる伝承:5673.

[80] ムスリムによる伝承:48.

[81] アル=ブハーリーによる伝承:5702.

[82] アフマドによる伝承:8419.

[83] アル=バイハキーとアブドゥッ=ラッザークによる伝承。

[84] アル=ブハーリーによる伝承:2114.

[85] イブン・マージャによる伝承:2468.

[86] アブー・ヤァラー:4386と、アル=バイハキー「シュアブ・アル=イーマーン」:5312による伝承.

[87] アフマドによる伝承:8393.

[88] アル=ブハーリー:5702と、ムスリムによる伝承:1661.

[89] アル=ブハーリー:2236と、ムスリムによる伝承:2110.

[90] アル=ブハーリー:5196と、ムスリムによる伝承:1958.

[91] アル=ブハーリーによる伝承:5196.

[92] アブー・ダーウードによる伝承:5268.

[93] ムスリムによる伝承:1955.

[94] アル=ブハーリーによる伝承:5663.

[95] アフマドによる伝承:12901.

[96] ムスリムによる伝承:2195.

[97] アル=ブハーリー:2121と、ムスリムによる伝承:2333.

[98] アル=ブハーリーによる伝承:2827.

[99] ムスリムによる伝承:269.

[100] アル=ブハーリーによる伝承:5665.

[101] アル=ブハーリーによる伝承:13.

[102] アル=ブハーリーによる伝承:5680.

[103] アブー・ダーウードによる伝承:4884.

[104] アブー・ダーウード:4336と、アッ=ティルミズィーによる伝承:2169.

[105] ムスリムによる伝承:164.

[106] ムスリムによる伝承:1605.

[107] アブー・ダーウード:3580と、アッ=ティルミズィーによる伝承:1336.

[108] アル=ブハーリー:6772と、ムスリムによる伝承:1832.

[109] 「アル=アズラーム」とは、当時賭け事やくじ引きに使われていた火打石のことであると言われます。

[110] ムスリムによる伝承:2557.

[111] アッ=ティルミズィーによる伝承:3472.

[112] アブー・ダーウードによる伝承:3582.

[113] アル=ブハーリー:1711と、ムスリムによる伝承:4277.

[114] イブン・マージャによる伝承:2053.

[115] アブー・ユースフの「アル=ハラージュ」。

[116] アン=ナサーイーによる伝承:8:53.

[117] ムスリムによる伝承:78.

[118] アル=ブハーリーによる伝承:105.

[119] ムハンマド・アッ=ズハイリー博士著「イスラームにおける人権」400頁。

[120] 以下は国際イスラーム人権宣言からの抜粋です。

[121] アル=ブハーリー:853と、ムスリムによる伝承:1829.

[122] マタイによる福音書15:24.

[123] 同10:5-6.

[124] アッ=ザハビーその他による伝承。

 

[125] アル=ブハーリー:6935と、ムスリムによる伝承:6524.

[126] アル=ブハーリーによる伝承:2854.

[127] 「イスラーム法とイスラームにおける人権に関するシンポジウム」(Beirut, Dar-al-Kitab-al-Lebnani, 1973)からの意味的抜粋。

[128]「ジェファーソン・デイビス」第一巻286頁内のダンバー・ローランドによる引用。また1861年2月18日にアメリカ連合国モンゴメリーで彼が行った「連合国の暫定大統領ジェファーソン・デイビスの就任演説」(議会報1:64-66)は、http://funnelweb.utcc.utk.edu/~hoemann/jdinaug.htmlで閲覧することが出来ます。

[129] アル=ブハーリー:2406と、ムスリムによる伝承:1661.

[130] アル=ハーキムによる伝承:8100.

[131] これは「あなたは私の母親の背中である(つまり、結婚の成り立たない間柄である)」などと言って妻を離婚しようとする、イスラーム以前の悪習です。これはイスラームによって禁じられました。

[132] ラマダーン月の昼間には飲食だけでなく、性交渉も禁じられます。

[133] アル=ブハーリーによる伝承:1834.

[134] アル=ブハーリー:6337と、ムスリムによる伝承:1509.

[135] アル=ブハーリーによる伝承:2881.

[136] ムスリムによる伝承:1657.

[137]ムカータバ」とは、奴隷が自らを主人から負債の形で買い取る契約のことです。

[138] アブドゥッラー・アブドルムフセン・アッ=トゥルキー著「イスラームと人権」より抜粋。

[139] アッラーのみが真に値する権威‐例えば崇拝行為など‐において、かれ以外の何ものかをかれに並べたりする言動や信念のことを表します。

[140] アッ=タバラーニーとイブン・アビー・アッ=ドゥンヤーによる伝承。アル=アルバーニーはこれを良好な伝承としています。