記事について

著者 :

Laurence B. Brown MD

日付 :

Fri, Aug 01 2014

カテゴリー :

The Existence of God

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無神論

無神論


(1/2):否定出来ないことの否定

“人生における最大の悲劇は、神を失い、かれを恋しいとも思わなくなることだ。”

‐F.W.ノーウッド

無神論者たちは神の存在を認めないことを強調しますが、たとえ頑強な無神論者であっても、ある段階においては神の存在を認めるというのが一部のキリスト教徒、またすべてのムスリムの言い分です。生得的なものでありながら軽視されがちな神の認識は、極度な緊張状態においてのみ、無神論者の意識の中に現れます。これは第二次世界大戦における引用‐“蛸壺壕に無神論者はいない”1‐として表現されています。

人生においては、長く苦しい闘病生活や、永遠とも思える屈辱の瞬間である暴力の被害、または交通事故での衝突の瞬間に感じる長い一瞬など、全ての人類が人間は無力であるという真実、そして天命の前においては何も為す術がないことを知覚する場面が必ずやってきます。人はそのような状況下で、創造主以外の誰に助けを請い求めるというのでしょう?そのような差し迫った危機的状況は、宗教学者から不信仰を公言する無神論者に渡るあらゆる人々に対し、ちっぽけな自分たちよりも遥かに大きな真実への依存を思い起こさせるのです。それは知識、力、意思、威厳、栄光において遥かに大きな真実なのです。

このような災難の瞬間、人的努力が実を結ばず、あらゆる物質的要素をもってしても安寧や助けがもたらされる見込みのないとき、人は本能的に誰に助けを求めるでしょう?そのような試練のとき、一体どれだけの人々が神に対して一生涯の忠誠と引き換えに助けを懇願するでしょうか?そしてそれらの約束はどれだけ実際に守られたでしょうか?

最も大きな試練の日が審判の日となることは疑いの余地がないことですが、もし誰かがその日になって初めて神の存在を認めなければならないとすれば、それほど不幸なことはありません。英国の詩人エリザベス・バレット・ブラウニングは、その作品The Cry of the Human (人間の叫び)の中で、苦難にある人間の嘆願の皮肉を描いています:

“口先では『神よ、ご慈悲を』と言うが、

決して『神よ、讃えあれ』とは言わない。”

懐疑的でありながら神と審判の日の存在の可能性を恐れる思慮深い無神論者は、以下の「懐疑論者の祈り」について考慮してみると良いかもしれません:

「おお主よ‐もしも主がいるのなら、

私の魂を救い給え‐もし私に魂があるのなら。」2

懐疑論が信仰を阻害していることを考えると、上記の祈りは一部の人々にはうってつけのものであると言えるでしょう。無神論者が不信仰に留まるのであれば、彼らは上記のような状況よりも悪化することはないでしょう。もしも真摯な嘆願によって信仰が伴うようになるのであれば、トーマス・ジェファーソンは以下のように述べています:

“もしもあなたが神を信じるに足りる理由を見出し、かれがあなたを見ている、あなたを承認しているという意識を持つようになるのであれば、それは大いなる鼓舞となるであろう。もしも幸福な存在としての未来の状態を思い描くことで、そうするに相応しい欲求が増加されるのであれば・・・”3

もしも誰かが、神の創造の中にかれの偉大さを見出さないのであれば、もう一度よく考察するよう助言すべきでしょう。フランシス・ベーコンはこのように述べたと記録されています:“私はこの宇宙に何らかの英知が働いていないなどと信じるよりは、伝説上の神話や、タルムード、クルアーンを信じる方を選ぶ。”さらに、彼はこう記しています:“神は決して無神論者を確信させるために奇跡を起こしたりなどはしない。なぜならかれの創造はそれだけで十分に確信をもたらすからである。”たとえそれが神にとっての最も低い要素の創造であったとしても、私たちにとっては奇跡であるという事実は熟考に値するでしょう。クモという小動物を例にとってみましょう。このような驚くべき複雑性を持ち合わせた生物が、 原始スープから進化したと信じている人は本当にいるのでしょうか?この小さな奇跡は最大で七種類の糸を作ることができ、それらの一部は可視光線の波長ほどの細さでありながら、鋼鉄よりも硬いのです。それらは伸縮性と粘着性のある網の罠から、粘着性のない引き網、また獲物を包みこむためのものや卵嚢など、クモは七種の糸から用途に合わせたものを自在に作り出すだけでなく、それらを再吸収・分解した上で再生産するといった、構成要素からの自己再利用をすることも出来るのです。そしてこれは、クモの奇跡におけるほんのひとつの側面に過ぎないのです。

それにも関わらず、人類は傲慢にも奢りたかぶります。ひとときの熟考は、人の心を謙虚さへと傾けるでしょう。建物を目にすればそれを立てた建築士、彫刻を目にすればそれを造った芸術家を連想するはずです。しかし創造における優雅なまでの複雑さに関して調査をしてみましょう。核粒子のバランスの複雑さや宇宙の未知なる広大さから、何も印象を受けないとでも言うのでしょうか?同調する世界の複雑性に囲まれていながら、私たち人間は昆虫の羽さえ作り出すことが出来ません。それにも関わらず、なぜ全世界・全宇宙の完璧なる調和は、偶発的かつ連鎖的な出来事による産物によって宇宙のカオスが完璧な調和へとつながったのであるなどと主張することが出来るのでしょうか?ある人々はそれが偶然であるとしますが、他の人々はそれを創造であるとするのです。

 


Footnotes:

1 N.Y. Times.  13 Apr 1944.  Cummings: Sermon on Bataan, The Philippines.

2 Renan, Joseph E.  Prayer of a Skeptic.

3 Parke, David B.  p. 67.

無神論(2/2):理解の問題

無神論者の議論の大半は、慈愛深き神と人生における不正の数々との両立において挑戦します。しかし宗教者らは、そういった挑戦は知性的な不遜であるとします。つまり私たち人類は自らも創造の一部でありながら、神の創造物がどうあるべきかを神よりもよく知るかのような態度をとっており、それは偉大なる設計に対する感謝の念の欠如を示しているというのです。

多くの人々が人生におけるある側面を理解出来ずにいるという事実ゆえに、神への信仰を思いとどまるべきではありません。人類の役割とは神の性質とその存在を問うことでも、それを否定することでも、自身の才能に慢心することでもなく、人生における人間としての役割を認め、与えられた範囲内で最善を尽くすことなのです。職場である上司の行いが気に入らなかったり、彼の選択した行為が理解できなかったりするという事実は、彼の存在を否定することにはなりません。むしろ各人の任務とは、職務を全うして給与を受け昇格することでしょう。同様に、神による創造物への指令を理解しない、または認めないことは、かれの存在を無効にはしません。そうではなく、間違いを犯すこともある職場の上司とは違い、定義上絶対的真理である神は絶対に正しいために決して間違いを犯すことはなく、人類はその事実を謙虚に認めなければなりません。人類は進んで服従して屈礼し、かれの設計を理解できないことは、かれ自身の失策などからくるものではないことを認知すべきなのです。かれこそは創造主であり、その全知全能性からすべての諸事を命令するのであり、私たちは単にその対象であることに留まり、自分たちの人生を支えられているに過ぎません。

神の存在を認めてはいても、過酷でときには苦痛に満ちた人生を送っている混乱した敏感な魂には、同情された上で説明をしてあげることが必要でしょう。人がもし、神が私たちが何をしているか知っており、私たち自身でさえ知らないことを知るということを認めるのなら、私たちが心の奥底で最初にそうであると感じたことは、実際には異なっているかもしれないという理解の仕方に安堵すべきでしょう。おそらく、人類のなかでも邪悪な者たちは、人には推し量ることのできない理由によって人生での取り分を定められているのかもしれませんし、または現世においては苦難を被り、来世では永久の報奨を受けるのかもしれません。神はその恩寵を受けた創造(諸預言者)に対し、最も偉大な贈り物である確信、導き、啓示などを授けましたが、彼らでさえ現世においては苦難の連続だったのです。事実、諸預言者のそれと比べれば、大半の人々の苦難や試練は色褪せてしまうでしょう。多くの人々がひどく苦しむことは確かですが、神の恩寵を受け授かった人類の模範である諸預言者も、来世での報奨と引換えに現世の苦しみを味わったという希望のメッセージがあるのです。人は現世における苦難や試練に耐えぬき、真の信仰を貫くことで、それと同様の報奨を受けることを期待することができるしょう。

同様に、不信仰な暴君や抑圧者が現世ではあらゆる享楽を受けつつも、来世ではその正反対となることを人が期待するのは無理もないことでしょう。ここで、地獄の住人として知られるある人々が思い浮かびます。たとえば、ファラオは自らを至高の神であると主張するほどまでに優雅な生活を謳歌していました。彼が放屁したのなら、違う意見もあったことでしょうが・・・。とにかく、彼が現住する熱された住処に対していくぶんの不満を持っているであろうことは当然のこととして予測できることですし、彼の贅沢な絨毯、豪華な食卓、甘い香りのする女中たちの記憶でさえ、灼熱の環境においては慰安を失っていることでしょう。

大半の人々は、不愉快な出来事が原因で、素晴らしかった一日にもかかわらず、その日の終わりには機嫌が悪かったという経験があることでしょう。誰ひとりとして豪華な食事の後の離婚、ロマンティックな出来事の後のエイズ感染、祝宴の後の交通事故などには価値を見出さないはずです。あんなことさえなければ・・・という思いで一杯になるはずでしょう。同様に、たとえどんなに幸福で、その期間がいかに長かれ、一瞬にしてその記憶がかき消されてしまうほどに全身を完全に焼け焦がされてしまったのであれば、この世での幸せなど全く意味を成さないのです。片手の一面は人間の身体の表面部の1%を構成しており、台所での指先のやけどは身体の1000分の1の体積に過ぎません。一体誰が灼熱の苦痛を味わっているその瞬間、あらゆることを忘れないでいられるというのでしょう?そこには指を引っ込めたり、飛び退いたりといった緩和の余地の全く存在しない、全身の焼却という人の想像の範疇を超える拷問があるのです。そのような事故から生き延びた僅かな人々は、このことに同意するでしょう。全身燃焼という懲罰が人間には想像できないだけでなく、その経験による苦痛は言葉では言い表せないはずです。その恐怖は、不幸にもそれを経験したことのある者から伝えられることも、それを逃れるという祝福を与えられた者からによっても理解されることはないのです。実に、永遠に全身を覆う炎は、過去のいかなる楽しい思い出をも消し去ってしまうのです:

・・・だが現世の生活は、来世では(はかない)享楽に過ぎない。(クルアーン 1326 

この付録1の主題に関しては、二つの指導意識の要素が考慮に値するでしょう。そのうちの一つとは、心の奥底では誰しもが創造主の存在を知っているという事実です。人間は現世での利便と私欲からこの意識を知的に分析し取り去ってしまおうと試みますが、全人類は本能的に真実を知っているのです。さらに、神は私たちが知ることを私たち自身よりも良く知る御方であり、かれは私たち各人の反抗、もしくは服従の程度でさえも自ら容易に勘定されるお方なのです。

精神的意識を理解し始めるための第二の要素とは、単に無料の食事の提供と同じことを理解するだけなのです。人が何の見返りもなく何かを得ることは、ほとんどありません。人が上司に仕える際、彼がその上司への理解や合意が出来ていなくとも、最終的に給与を得るためには、どの道職務を果たさなければなりません。職場へ行き、何もしないのに給与を得ることを期待している人はいないのですから。同様に、人類は神の報奨を望むのであれば、かれへの奉仕と崇拝に尽くさねばならないのです。結局それは人生における目的だけではなく、私たちの「職務」でもあるのです。それについて、ムスリムたちはそれが人類とジン(ジンとは、西洋の言葉「ジーニー」の語源でもあるジンニー、つまり精霊の複数形です)の職務であると主張します。神はクルアーンにおいて仰せられています:

ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるために他ならない。(クルアーン 5156 

人々の多くは人生の目的に関して問いますが、多くの諸宗教における信仰者たちの立場は、上記のものと全く同じなのです。つまり、人類が存在するのは神に仕え、崇拝するため以外の何ものでもないということです。すべての創造と、そこにおけるあらゆる要素は、人類がその職務を全うすることが出来るかどうかを試しているか、あるいは支援しているのです。職場と違い、人は神に対する自らの責任を避けて通ることが出来ます。しかしながら、現世での生命という一時の保護観察期間が終われば、精算の期日が満期で訪れるのであり、その日を赤字で迎えることだけは避けなければならないのです。

フランシス・ベーコンはこの付録を締めるに相応しい、素晴らしい言葉を述べています:“神を否定する者たちは、人間の高潔さを破壊する。なぜなら人間は肉体において獣と同質だからである。もし彼が魂において神と同質でなければ、彼は卑しくあさましい生き物なのである。”2スタンリー・ミラーとハロルド・ユーリーの原始ブイヤベースの泡(訳者注:進化論を茶化した著者の表現)から数百万年後にバーベキューにでも出来そうなものが発生するということを信じたとしても、私たち皆がそれぞれ内に感じるもの−魂−の重要性について考慮しなければならないのです。人類のすべてはそれを有し、それこそが人と動物とを分け隔てる、形而上学的な根本要素なのですから。

直接体験をすることの出来ないことを疑問視する人々は、魂を否定するための弁明を探すでしょう。しかし彼らは乏しい仲間しか見つけることが出来ないはずです。さらに、議論は真実の性質のひとつである知識と証拠へと進み、それらは必然的に次の項目である不可知論へと突き動かすのです。

 


Footnotes:

1 この記事は元々、同著者による“The First and Final Commandment”という本の付録記事でした。

2 Bacon, Francis.  Atheism.  p. 16.