イエスは神なのか

イエスは神なのか

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1. 神は人間ではないとするバイブルの記述

バイブルは述べます:

民数記23:19 “神は人間ではなく・・・”

ホセア記11:9 “わたしは神であって、人ではなく・・・”

バイブルにおいて、イエスは幾度となく人間であると述べられています:

ヨハネ8:40 “・・・あなたに真実を伝えた人間・・・”

使徒行伝2:22 “あなたがたがよく知っているとおり、ナザレのイエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた人間であることを、あなたがたに示されたかたであった。”

使徒行伝17:31 “かれは、お立てになったひとりの人間により正義をもってこの世界をさばくでしょう。”

1.テモテ2:5 “・・・それは人間であるイエス・キリストです。”

神は人間ではありませんが、イエス(彼に神の慈悲と祝福あれ)は人間でした。したがってイエスは神ではないことになります。

2. バイブルでは、神は人の子ではないと述べます:

民数記23:19 “神は人間ではなく・・・人の子でもなく・・・”

バイブルはたびたびイエスを“一人の人間の子”または“人の子”と呼びます:

マタイ12:40 “・・・人の子は・・・”

マタイ16:27 “人の子はやがて来ようとしているのです・・・”

マタイ16:28 “人の子が王国と共に来るのを彼らが見るまでは・・・”

マルコ2:10 “人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために・・・”

ヨハネ5:27 “・・・なぜなら彼は人の子だからです。”

ヘブライ語バイブルでも、“人の子”という言葉は人間に言及するものとして多くの箇所で使用されています(ヨブ 25:6;詩編 80:17;144:3;エゼキエル 2:1;2:3;2:6;2:8;3:1;3:3;3:4;3:10;3:25)。

神は、最初に自らを人の子ではないと言っておきながら、その後“人の子”と呼ばれた人間になるような矛盾行為をすることは決してしないはずです。神は混乱の著述家などではないことを念頭に置かなければなりません。イエスを含むあらゆる人間は、“人の子”ではない神と区別されるよう、バイブルでは明確に“人の子”と呼ばれるのです。

3.バイブルはイエスが自身の神格性を否定したと述べます:

ルカ18:19では、自身を“尊い”と呼んだ男に対し、イエスはこう問いただしています:“なぜ、私を『尊い』と言うのですか。尊い御方は、神御自身のほかにはだれもありません。”

マタイ19:17 “イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、私に尋ねるのですか。良い御方は、唯一です。もし生命を得たいと思うなら、戒めを守りなさい。」”

イエスによる人々への教えとは、彼が神であるということではありませんでした。もしもイエスが人々にそう伝えていたのであれば、彼は人類を称賛していたでしょう。そうではなく、彼は自分が「よいお方であること」を否定することによって自身の神格性をも否定したのです。

4.バイブルは神がイエスよりも偉大であることを述べます:

ヨハネ14:28 “私の父は私よりも偉大な御方です。”

ヨハネ10:29 “私の父はすべてに優って偉大な御方です。”

もしも神がイエスよりも偉大な存在であれば、イエスが神であることは有り得ません。キリスト教の信仰である父と子の同位性は、イエス自身の言葉に真っ向から反するものです。

5.イエスは弟子たちに彼自身または聖霊への崇拝を命じたことは一度もなく、神のみへの崇拝を呼びかけました:

ルカ11:2 “祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。』”

ヨハネ16:23 “その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねません。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれをあなたがたにお与えになります。”

ヨハネ4:23 “しかし、真の礼拝者たちが霊と真理によって父を崇拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を崇拝者として求めておられるからです。”

もしもイエスが神であったのなら、彼は彼自身が崇拝されるように求めたはずです。彼が実際にはそうせず、天にいる神への崇拝を求めたことから、彼は神ではないと結論付けられます。

6.バイブルは、イエスが唯一・真実の神のみを認め、かれに対して崇拝と礼拝をしたことを述べます:

イエスはこう言って神に祈りました:

ヨハネ17:3 “・・・彼らが唯一・真実の神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです・・・”

イエスは一晩中、神に祈りました:

ルカ6:12 “彼は神に祈りながら夜を過ごされた。”

・・・なぜなら:

マタイ20:28 “人の子が来たのは仕えられるためではなく、仕えるため・・・”

イエスはどのようにして神へと祈ったのでしょうか?

マタイ26:39 ‘・・・彼はひれ伏して祈って言われた。「わが父よ・・・」”

またパウロでさえ、こう述べています:

ヘブル人5:7 “イエスがこの世におられたとき、ご自分を死から救うことのできる御方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと懇願をささげ、そしてそのひたむきな献身のゆえに聞き入れられたのです。”

イエスが叫び声をもって懇願し、その顔から地面に屈服されたとき、誰に対して彼は祈っていたのでしょうか?自分自身であることが一体有り得るでしょうか?彼は自分自身に対して涙し、死から救われるように祈ったのでしょうか?たとえ狂人であれ、自分に祈ることなどはしないはずです!実に、この質問に対する答えは明確な「いいえ」でしょう。イエスは“唯一・真実の神”に祈っていたのです。イエスは彼を遣わした御方のしもべなのです。イエスが神ではなかったという、これ以上の明確な証拠があるでしょうか?

クルアーンは、イエスが唯一・真実の神への崇拝を呼びかけていたことを明らかにします。

実に、私の主こそは神であり、またあなたがたの主であられます。だからかれに仕えなさい。これこそが正しき道なのです。(クルアーン 351 

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7.バイブルは、イエスの弟子たちが彼を神とは信じていなかったことを述べまています。

バイブルの使徒行伝では、イエス(彼に神の慈悲と祝福あれ)が天に召された後の彼の弟子たちによる30年間以上に渡る活動の詳細が記されています。この期間中、彼らは一度たりともイエスを神として言及しなかったのです。例えばペテロは11人の弟子たちと共に立ち上がり、聴衆に向けこのように説いています:

使徒行伝2:22 “イスラエルの民よ。今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレのイエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた人間であることを、あなたがたに示されたかたであった。”

ペテロにとり、イエスは神のしもべだったのです(マタイ伝12:18における確証):

使徒行伝3:13 “アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。”

使徒行伝3:26 “神は、そのしもべをお揚げになり・・・”

諸権威による対立に直面した際、ペテロは言いました:

使徒行伝-5:29-30 “人ではなく神に従うべきです!私たちの父祖の神はイエスをお揚げになったのです・・・”

弟子たちはイエスに命じられた通りに(ルカ11:2)、神へと祈り、イエスを神のしもべであると見なしていたのです。

使徒行伝4:24 “・・・人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「至高なる主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた御方です。」”

使徒行伝4:27 “・・・あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに・・・”

使徒行伝4:30 “・・・あなたの聖なるしもべイエスの・・・”

これはクルアーンによって述べられるイエスと全く同じなのです:

クルアーン19:30 “・・・実に、私は神のしもべです。”

8.バイブルはイエスが選ばれた者、寵愛を受けた者、そして神のしもべであったと述べます。

マタイ12:18 “これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心にかなう、わたしの愛する者。”

イエスは神のしもべであったため、彼が神であるということは有り得ません。

9.バイブルは、イエスが自分ひとりでは何も出来なかったことを述べています。

ヨハネ5:19 “子は、父のすることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことが出来ません。父がすることは、子もそれを見て同様に行なうのです。”

ヨハネ5:30 “私は、自分からは何事も行うことが出来ません。”

イエスは彼自身が神と同等であるとは見なしておらず、それどころか自分自身で何かを出来ると言うことさえ主張しなかったのです。

10.またバイブルは神がイエスを通して奇蹟を起こしたのであり、イエス自身には能力の制限があると述べています:

マタイ9:8 “しかし群衆はそれを見ると恐怖し、このような権威を人にお与えになった神を讃えた。”

使徒行伝2:22 “神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた人間であることを、あなたがたに示されたのである。”

使徒行伝10:38 “・・・彼は、神がともにおられたので、巡り歩いて善行し、また悪魔に支配されているすべての者を癒されました。”

もしもキリストが神だったのであれば、バイブルは神に言及することなく、単にイエスが自身で奇蹟を行なったと述べるはずです。神が奇蹟を起こす力を授けていたという事実は、神がイエスよりも偉大であることを証明します。

また、イエスは奇蹟の行ないに関しても制限されていました。ある時イエスが盲人を癒そうとした際、一度目の試みではその人物は癒されず、イエスが二度目の試みをしたことが知られています(マルコ8:22‐26)。またある時には、不治の出血に悩まされていた女性が、彼の背後から近づいてその外套に触れると、彼女は即座に癒されましたが、イエスは触れたのが誰だったのかを知りませんでした:

マルコ5:30 “イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの衣服にさわったのですか?」と言われた。”

マルコ6:5 “それで、そこでは何一つ奇蹟を行なうことができず、少数の病人に手を置いて癒すだけであった。”

そのような制限のある人物が神であるということは、明らかに不可能です。奇蹟の力は、イエスの内にあるものではなかったのです。

11.またバイブルはイエスが弱ったとき、天使たちが彼を助けたと述べます。しかしながら神は手助けを必要としません。

ルカ22:43 “御使いが天からイエスに現われて、(ゲッセマネの花園において)イエスを力づけた。”

マルコ4:11 “それで悪魔は彼から離れて行った。すると見よ、御使いたちが近づいて来て彼に仕えた。”

マルコ1:13 “イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。”

人間は手助けを受ける必要がありますが、神は全能であるためにその必要がありません。イエスが手助けを必要としたのであれば、彼は神ではないことになります。

12.またバイブルは、イエスが自分ではなく神の御心を果たしたいと言ったと述べています。

ルカ22:42 “私の願いではなく、あなたの御心の通りにしてください。”

ヨハネ5:30 “私は自身の望むことを求めません。私を遣わした御方の御心を求めるからです。”

ヨハネ6:38 “私が天から下って来たのは、自分の望みを行なうためではなく、私を遣わした御方の御心を行なうためです。”

三位一体を構成するある一員は、他の者よりも低い地位にあるのでしょうか?それらには個別の意志(“ 私は自身の望むことを求めません”)があるにも関わらず、他者の命令(“私を遣わした御方の御心を求めるからです”)には無条件に従うのでしょうか?イエスは自らの意志を従属したものであると認めますが、三位一体の教義によれば、それらすべては同一の意志を持つと述べられているのです。三位一体の内のある一員は、それを構成する他の者のために自分の意志を差し控えなければならないのでしょうか?それらはすべて同じ意志を持たなければならないようになっているのでしょうか?

13.またバイブルは、イエスが神の証言は彼のものとは別であると見なしたと述べています。

イエスは彼と神はふたつであるとし、“ひとつ”であるとはしなかったのです。

ヨハネ8:17‐18 “私が自分の証人であり、また、私を遣わした父が、私について証言されます。”

ヨハネ14:1 “あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。”

もしもイエスが神だったのであれば、彼は神の証言と自分自身のそれを個別にはしなかったでしょう。

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14.バイブルは、イエスが神へ従属する者であると述べています:

第一コリント人11:3 “あなたがたに知っていただきたいのは、すべての男性の長はキリストであり、女性の長は男性であり、キリストの長は神だということです。”

第一コリント人15:28 “万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたその御方に従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。”

イエスが神に従う者であったということは、彼が神ではなかったことになります。

15.バイブルはイエスが成長の過程で英知と博識を得たと述べますが、神は全能であるため、そもそも学習の必要がありません。

そしてイエスの英知は増加しましたが、神は全能者です:

詩編147:5 “われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。”

ルカ2:52:“そしてイエスはますます知恵が富み・・・”

神には学習の必要がありませんが、イエスは学習しました:

ヘブル人5:8 “彼は御子であるのに従順を学び・・・”

16.またバイブルはイエスの知識の限定性を述べますが、神の知識は無限です:

マルコ13:32 “その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。”

イエス(彼の神の慈悲と祝福あれ)に知らないことがあるとすれば、彼は全能者ではなく、従って彼はあらゆる知識を網羅する者である神ではないことになります。

17.またバイブルはイエスが誘惑を受けたと述べますが、神が誘惑を受けることはありません:

ヘブル人4:15“すべての点で、私たちと同じように、誘惑を受けたのです。”

ヤコブ1:13 “神は悪に誘惑されることのない御方です。”

神が誘惑を受けることはありませんが、イエスはそうではなかったため、彼は神ではないことになります。

18.またバイブルは、イエスの教えが神からのものであり、イエス自身のものではなかったと述べます:

ヨハネ7:16 “そこでイエスは彼らに答えて言われた。「私の教えは、私のものではなく、私を遣わした御方のものです。」”

もしも彼が神であったなら、その教義は彼のものであったため、彼がこのような主張をすることは出来なかったはずです。

19.またバイブルはイエスが死んだと述べますが、神に死はありません。

バイブルはイエスが死んだと説きます。神が死ぬことはありません。ローマ人1:23やその他の節では、神の不死性が説かれています。不死であるということは、“死の対象ではない”ことです。これはただ神のみに当てはまることなのです。

20.またバイブルでは、イエスが神によって生かされていたと述べられています:

ヨハネ6:57 “私は父のおかげで生きているのです。”

イエスは自らの存在を神に委ねていたのですから、神ではなかったことになります。

21.またバイブルは、イエスの力が与えられたものだったと述べています:

マタイ28:18 “一切の力は私に与えられたものです。”

神は全能であり、何者も神に力を与えることはありません。さもなけれ神は弱い存在だということになってしまいます。それゆえ、イエスは神ではないことになります。

22.またバイブルは、イエスが神による教えと戒めを受けたと述べています:

ヨハネ8:28 “私の父が教えられた通りに、私はこれらのことを話します。”

ヨハネ12:49 “私を遣わされた父が、私に命じられたのです。”

ヨハネ15:10 “私は父の戒めを守り・・・”

神は全知であるため、誰一人として神に教えることは出来ません。さもなければ神はその師に借りを作ることになってしまいます。イエスは神によって教えと戒めを受けたため、彼自身が神であることはありません。師と弟子、命令する者とされる者は同じではありません。

23.またバイブルは、神がイエスを“主”にしたと述べます:

使徒行伝2:36 “神がこのイエスを・・・主、そしてキリストにしたのです。”

バイブルにおいて“主”という表現は多くの意味で使われており、神とイエス以外にも“主”という呼称が使われています。例えば:

1)資産の保有者(マタイ20:8)

2)世帯主(マルコ13:35)

3)奴隷の所有者(マタイ10:24)

4)夫(第一ペテロ3:6)

5)子供は父親を主と呼びました(マタイ21:30)。

6)ローマ皇帝は主と呼ばれました(使徒行伝25:26)。

7)ローマ人の諸権威は主と呼ばれました(マタイ27:63)。

“主”は“神”とは異なる言葉です。バイブルにおいて“主”(ギリシャ語でクリオス)は頻繁に使われる男性形の敬称です。もしもイエスが神だったのであれば、彼が主に“された”という表現は不可解なものとなります。

24.またバイブルは、イエスが諸天使よりも低い存在であったと述べます:

ヘブル人2:9 “ただ、諸天使よりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。”

諸天使の創造主である神は、自らの創造よりも低い存在であることはありませんが、イエスはそうでした。したがって、イエスは神ではなかったことになります。

25.またバイブルは、イエスがその父を“私の神”と呼んだと述べます:

マタイ27:46 “我が神よ、我が神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?”

ヨハネ20:17 “私は、私の父でありあなたがたの父、私の神でありあなたがたの神のもとに上るのです。”

黙示録3:12 “・・・私の神の聖所・・・私の神の御名・・・私の神の都・・・私の神のもとを出て天から下って来る・・・”

イエスは自分自身を神と見なしてはいませんでした。彼は私たちの神と彼の神は同じ神であると説いていたのです。

26.またバイブルでは、神を見ることは出来ませんが、イエスは見ることが出来ると述べます:

ヨハネ1:18 “未だかつて神を見た者はいない。”

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27.バイブルは、イエスが二度に渡り神であると人々に主張されかけたにも関わらず、彼自身それを否定したと述べています。

バイブルには二度の場面のみにおいて、イエスが神であると名乗ったこと、または神と同等であると主張したことが原因で、ユダヤ教徒たちが彼に反発したことが述べられています。もしも本当にイエス(彼に神の慈悲と祝福あれ)が自身を神であると主張していたのであれば、それを元にした反発がもっと頻繁にあったことでしょう。上記の二場面、つまり一度は彼自身が神であると、そしてまた別の折には彼自身が神と同等であると主張したことに対し、彼は無実を主張したのです。神との同等性に関する主張に対し、彼は直ちにこう述べています:

ヨハネ5:19、30 “子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。”

そしてこの後すぐに、こう述べています:

“私は、自分からは何事も行なうことができません。”

自らを神とするという主張に対し、彼はユダヤ教徒に対してこう訴えかけています:あなたがたの啓典はモーゼを神と呼び、あなたがたの行政長官を神々と呼んでいるではありませんか。実に私は彼らより劣った存在ではありませんが、私自身を神と言ったことはなく、ただ神の“子”であると言っただけなのです(ヨハネ10:34‐36)。

これがイエスによる実際の対応であったことは考えにくいとされています。Hastingsによる“The Dictionary of the Bible(バイブル辞典)”によれば、“イエスが自分自身に対し、その言葉を用いたかどうかには疑いがあります。”と述べられています。またGrolierの辞典では、“イエス・キリスト”の見出しの下にこうあります:“実際にイエスによって父/子の表現(マルコ18:32;マタイ11:25‐27 par.; John passim)が使われていたのかどうかは、不確定である。”またリッチモンド大学教授のロバート・アリー博士は、新たに発見された古代の文献研究の結果、このように結論付けています:

“・・・イエスが神の子について話している(バイブルの)数箇所は、後世になって付け加えられたものであり・・・それは教会が彼について主張するものである。自らに神性を帰属させるそのような主張は、我々が再構築し見て取ることの出来る、彼の人生全般において首尾一貫したものではないのだ。イエスの死後三世紀に渡り、キリスト教はユダヤ教の一宗派として存続していた。キリスト教会の初期三世紀はシナゴーグ(ユダヤ教会)の一部だったのである。そういった状況の中、彼ら(キリスト追従者たち)が大胆にもイエスの神性を主張していたというのはとても考え難いことである。”

では仮に、イエスが自分を神の“子”と名乗ったとしましょう。それは何を意味したでしょうか?私たちはまず、彼の語りかけていた対象、すなわち彼の時代の人々であるユダヤ人たちの言語に関して知る必要があります。

まず、旧約・新約聖書において大半の人々は、イエス以外の他の人物に対しては神の子の地位を認める節、またはそれを否定する節が一切存在しないと考えていますが、バイブルはイエスの他に何人もの“神の子たち”が存在していたと記しています:例えばアダム1、神の長男とされるヤコブ2、そしてソロモン3、またエフライム4  も神の長男とされ、一般大衆さえも神の子供たちと呼ばれます5。また福音書全四巻は、イエスがこのように述べたことを記録しています:平和を調停する者に祝福あれ。彼らは神の子と呼ばれるであろう。

バイブルにおける“子”という表現は、神によって選ばれた忠実なしもべを指す言葉であることが明白であり、神はそれらしもべたちの多くを“子”、“子供たち”と呼んでいるため、逐語的に捉えられるべきではありません。ヘブライ人たちは文字通り子や妻を持たない神の唯一性を信じました。よって“神の子”という表現は、その信仰深い献身ゆえにあたかも父と子のような関係である、“神のしもべ”を指していることは明らかなのです。 ギリシャ、あるいはローマから来たキリスト教徒たちは、後にこの言葉を誤用してしまいました。彼らの伝統では、“神の子”とは神の化身や男女の神々の姿をして生まれた者のことを表していたのです。これは使徒行伝―14:11―13において、パウロとバルナバがトルコの町で布教した際に、多神教徒たちが彼ら二人を神の化身と呼んだことからも分かります。彼らはローマ神話にちなんでバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだのです。

さらに、新約聖書で“子”と翻訳されているギリシャ語の“ピアス”または“パイダ”は、“しもべ”や、しもべに近いニュアンスを持つ“子”を意味しています。バイブルでは、これがイエスに対しては“子”と翻訳され、その他の者たちに対しては“しもべ”と翻訳されています。このように、他の節々と照らし合わせてみれば、イエスはただ彼自身を神のしもべであると主張していたことが分かります。

三位一体におけるその他の問題

キリスト教においては、神は人間の姿になることによって人間の苦しみや誘惑を理解しなければなりませんでしたが、このような概念はイエスの明確な言葉に基づいたものではありません。反対に、神は全能者かつ人類の創造主であるため、人間を理解し、その罪を赦すために誘惑を受けたり苦しみを味わったりする必要がないのです。この事実は以下の節で述べられています:

出エジプト記3:7“主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」”

神はイエスの出現以前から罪を赦して来ましたし、いかなる助けをも必要とせずに、これからも赦し続けるのです。信仰者が罪を犯しても、神の御前で真摯に赦しを請い、悔悟すれば赦されるのです。実に、神の御前で謙遜し、救いを受ける機会は全人類に提供されているのです。

エザヤ―45:21―22(ヨナ―3:5―10と比較のこと)“わたしの他に神はいない。正義の神であり救い主であるわたしをおいて他にはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない。”

バイブルにおいても、人々が真摯に悔悟し、神に直接祈願をすることによって赦しを受けることは出来るのです。これはあらゆる時代、あらゆる場所において適用されます。贖罪に関してイエスの持つとされる、いわゆる神への執り成しのような役割は、全く必要とはされないのです。真実は自ずと明らかになるものです。イエスが私たちの罪のために死に、救済がイエスによってのみもたらされるというキリスト教の信条は、真実味がありません。そうであればイエス以前の人々の救済はどうなるのでしょうか?イエスの死によって贖罪がもたらされることもなければ、それによってバイブルの予言が実現されることもないのです。

キリスト教ではイエスの誕生によって、神が人間の姿になるという奇蹟が起きたという主張をします。神が実際に人間の姿になったと言うことは、数々の疑問を呼び起こします。“人間の姿をした神であるイエス”に関して、以下の問いかけをしてみましょう:割礼後、彼の包皮はどうなってしまったのでしょうか(ルカ2:21)?それは天に昇ったのか、それとも人間の肉体の一部がそうなるように、腐敗した後に分解されたのでしょうか?彼の生前、その頭髪や爪、傷口からの出血はどうなったのでしょう?彼には通常の人間と同じようなな細胞組織の死があったでしょうか?もしも彼の肉体が真の人間と同じように機能しなかったのであれば、彼は真の人間とは言えなかったはずであり、同様に真の神でもなかったと言えるでしょう。しかし、もしも彼の肉体が人間と全く同じ機能を持っていたのであれば、それは彼の神性に関するいかなる主張をも無効とするのです。たとえ神の化身であれ、その一部が腐敗や分解をしてもなお神と見なされることは有り得ないことでしょう。唯一で不滅の神は、あらゆる観点から死、分解、腐敗などをすることはないのです:

マラキ3:6“主であるわたしは変わることがない。”

イエスの肉体は彼の死後、安置されたのでしょうか?イエスの肉体がその生前に“腐敗”を経験しなかったのでもない限り、彼が神であることは不可能であり、もし“腐敗”をしなかったのであれば、彼は真の人間ではなかったことになります。

 


Footnotes:

1 “アダムは神の子である。”(ルカ3:38)

2 “イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。”(出エジプト記4:22)

3 “わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。”(第二サムエル7:14)

4 “わたしはイスラエルの父となろう。そしてエフライムはわたしの長子である。”(エレミヤ31:9)

5 “あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。”(申命記14:1)