誠実と罪

誠実と罪

 

(前半):誠実さとは良い性格のこと 

 

 

アン=ナウワース・ブン・サムアーンは預言者ムハンマドがこう言ったと伝えています。

「誠実さとは善い性格のことであり、罪とはあなたが気にしてしまうことで、あなたはそれを人に知られたくないと思うことです。」(サヒーフ・ムスリム) 

アン=ナウワース・ブン・サムアーンは、預言者の著名な教友です。彼はカッラーブというアラブ部族に属し、預言者の死後シリアに移り住みました。

彼の報告は、875年、イラン北西のニーシャープールという都市に生まれたハディース学者、ムスリム・ブン・ハッジャージによって収集されました。ムスリムは15歳で預言者のハディースを学び始め、イラク、ヒジャーズ(サウジアラビア西部)、シリア、エジプトへと行き、アル=ブハーリー、アフマド・ブン・ハンバルやその他の偉大なハディース学者たちのもとで学びました。彼はサヒーフ・ムスリムと呼ばれる9,200のハディースを集めた本を完成させました。彼の本はサヒーフ・アル=ブハーリーに次いで最も真正なハディースの本として知られています。

誠実さと罪の細かな点について説明されているという点で、このハディースは両者を定義する大事なものです。イスラームでは唯一の神を信仰することを重要視しているために、ある人は誤ってそれだけが重要だと考えてしまいます。正しい、本当の信仰の産物は良い性格であり、誠実さの本質的な性質です。誠実さと、正しい信仰と崇拝は人間の正しい行いであるという神の教えを強調しています。

 “正しく仕えるということは,あなたがたの顔を東または西に向けることではない。つまり正しく仕えるとは,アッラーと最後の(審判の)日,天使たち,諸啓典と預言者たちを信じ,かれを愛するためにその財産を,近親,孤児,貧者,旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やし,礼拝の務めを守り,定めの喜捨を行い,約束した時はその約束を果たし,また困苦と逆境と非常時に際しては,よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり,またこれらこそ主を畏れる者である。(クルア2177節) 

崇拝自体を目的とするのではなく、その目的は人と社会に有益な性質をもたらすということです。神はサラー(礼拝)についてこう述べています。

 “本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。(クルア2945節)

それゆえ私たちは自信をもって、イスラームは良いマナーをもたらすと言うことが出来ます。預言者自身も、こう言っているのです。

「私は完璧な性格というものを示すために送られました。」(サヒーフ・ムスリム)

イスラームは単なる宗教ではなく、人の生き方の模範です。イスラームは生活の様々な面に関わり、善いマナー自体が、他の崇拝活動と同じように報酬を得られる崇拝活動としてみなされます。預言者(彼の上に神の平安と慈悲あれ)はこう言っています。

「信仰者はマナーと善い行いによって、よく断食しつつ夜の礼拝を行う者と同じ地位が得ることが出来るのです。」(アブーダウード)

事実、預言者はイスラームにおける義務行為と同じく、善いマナーは最高の崇拝行為だとまで言いました。

「審判の日、善い行いほど預言者にとって重く計りにかけられるものはありません。そして神は軽く宣誓し、みだらである人間を嫌います。」(アブー・ダーウード、アッ=ティルミズィー)

善い行いをすることで、人は神に愛された僕(しもべ)になることができます。預言者はこう言いました。

「神に最も愛される僕とは、最も優れたマナーを有する人です。」(アル=ハーキム)

イスラームの目標である誠実さを定義する際、善い行いがいかに大事かに気付いたとき、イスラーム教徒はそれに達する事ができるように努力することでしょう。なぜなら善い行い無しに、ただ神を信じ崇拝するだけでは、誠実にはなれないからです。

では善い性格とは何でしょう?クルアーンとスンナからの様々なテキストによって、それは自分自身や他人にとって有益な特徴と言えます。しかしそれは、イスラームで禁じられたものであってはいけません。

 “怒りを押えて人びとを寛容する者,本当にアッラーは,善い行いをなす者を愛でられる。”(クルアーン3章134節)

誠実さとは家族に対しても、公正で礼儀正しくあることです。預言者はこう言っています。

「最も完璧な信仰を持つ信者とは、最も完璧なマナーと振る舞いがある者のことです。そしてあなた方の中で最も優れている人とは、家族に対して最も優れた行いをする人です。」(アッ=ティルミズィー)

誠実であるということも楽園に入るために重要な特徴です。預言者はこう言っています。

「まさに誠実さとは正しさであり、まさに正しさは楽園へと導きます。」(サヒーフ・ムスリム)

これらは、イスラーム教徒に性格とマナーをより善くするため努力するよう勧める、多くのテキストの中の一例にすぎません。もちろん誠実さとは人間の意識に自然と合うものではありますが、それを定義するのは宗教です。例えば、たとえ一見誠実な行いに見えても、利益より害が大きいものは、誠実さと定義されません。預言者はこう言っています。

「旅の間に断食することが誠実さというわけではありません。」(サヒーフ・アル=ブハーリ)

断食は最も素晴らしい行いの一つですが、旅の間に断食をすることで自身や周りの人たちに与えられる害のために、その断食が誠実な行いと見なされないのです。豊かな人から盗み貧しい人に与えるということも、イスラームで盗みが禁じられているため、誠実ということにはなりません。

同時に、教育のため、ある年齢の子どもを叩くなどといった一見厳しく見える行いが誠実とみなされることもあります。預言者はこう言いました。

「子どもが7歳のときに礼拝をするように教え、10歳になってもしないようなら叩きなさい。」(アブーダウード)

それゆえに私たちは何が善いマナーで性格なのかを神の導きによって決めます。それは預言者から学ぶことなのです。神はこう言いました。

 “本当にあなた(預言者ムハンマド)は,崇高な徳性を備えている。”(クルアーン68章4節)

神はこうも言いました。

 “本当にアッラーの使徒は,立派な模範であった。”(クルアーン33章21節)

預言者の妻であるアーイシャは、預言者の性格を尋ねられたとき、こう答えました。

「彼の性格はクルアーンそのものでした。」(サヒーフ・ムスリム、アブー・ダーウード)

(後半):罪と良心

上記のハディースの後半部分では、預言者は罪についての細かな点、つまり罪とは人の誠実な心がとがめられることであり、人が他人から隠そうとすることであると述べています。この言葉を聞いて、沢山の過去の行いを思い出す事でしょう。

限定的なものではありますが、神は人の心に真実と間違いを理解させる能力を授けました。

 “邪悪と信心に就いて,それ(魂)に示唆した御方において(誓う)。”(クルアーン91章8節)

人が誠実であろうとすることで、悪い事をした後に、言い訳を沢山思いつくことが出来たとしても、意識の中で悪事に気付くことができます。そのことを恥ずかしく思うために、誰にも知られたくないと感じるのです。恥の心によって宗教心は豊かになります。預言者はこういいました。

「恥ずかしさや羞恥心は完璧な信仰からくるものです。」(サヒーフ・アル=ブハーリー)

恥とは悪事を働くことから人々を防ぐものです。預言者はこう言いました。

「恥ずかしいと思わないなら、好きなようにしなさい。」(サヒーフ・アル=ブハーリー)

恥の中でも、神の前で罪を犯す事を恥ずかしいと感じる最高のレベルでの恥は、罪を犯すことを避けるために重要な鍵であり、その行いが罪であるかそうでないかを判断する重要な基準です。

この意識や恥といった感情は正しい信仰から生まれるものであり、イスラームが個人の中で育てるものです。これらが人々をその生涯の中で導いていくのです。

この内面の意識が人の心の状態、つまり真実を求める、生きた心であるか、この世の欲望に満たされた、仮死状態の心であるかを見定める基準になります。宗教心の欠落と罪を犯し続けることは人々の意識を奪い、導きの対象としてその意識を使うことはできなくなってしまいます。

 “わが災厄がかれらに下った時,何故謙虚でなかったのであろうか。かれらの心はかえって頑固になり,悪魔はかれらに対し自分たちの行ったことを立派であると思わせた。”(クルアーン6章43節)

 “かれらは心に悟りが開けるよう,またその耳が聞くように,地上を旅しなかった。本当に盲人となったのは,かれらの視覚ではなく,寧ろ胸の中の心なのである。”(クルアーン22章46節)

真実を求めることを容易にするために、心は、天啓と知性と共に導きとして使われます。真実を求める心こそが生きた心です。そして生きた心が真実を熱望するのです。このような人は、神に与えられた宗教以外に心の安らぎを得る事は出来ず、その心が真実を熱望する限り、真実の宗教を探すまで心休まる事はありません。もしその人が誠実なら神は正しい道に彼らを導くでしょう。

 “しかし導かれている者たちには,(一層の)導きと敬度の念を授けられる。”(クルアーン4717節)