記事について

著者 :

عائشة ستاسي

日付 :

Fri, Dec 26 2014

カテゴリー :

For New Muslim

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イスラームにおける健康

イスラームにおける健康


 

(一/4):包括的アプローチ 

 

イスラームは、「ムスリム(イスラームの教えに従う者)」、「サラーム(平安)」同様、「サ・ラ・マ」という語根から発生する言葉です。「サ・ラ・マ」という語根は、平安、安全、無事、そして全能なる神への服従、降伏を意味します。この安全とは、唯一なる神への服従において内在するものです。人が神の意志に従ったとき、その人は内的な安寧と穏やかさを経験します。また、神は既に存在する、そしてこれから存在するであろうあらゆるものの創造者であること、そしてすべてのことが出来る者だということが理解されなければなりません。こうした服従と理解により、本物の、達成可能である、永続的な平和が訪れるのです。

時の始まりから、神は唯一の教えを携えた諸預言者や諸使徒を介し、ご自身を明らかにしてきました。それは同位者や子の存在しない唯一・真実なる神を崇拝せよ、というものでした。戒律や法は、特定の時代・場所の人々に適用されたため、時には異なりましたが、すべての使徒たちの信条は同一だったのです。それはつまり、神を崇拝すれば、現世と来世での成功が得られる、というものです。西暦7世紀に預言者ムハンマドが現れたとき、彼の教えはそれまでとは多少異なったものでした。彼は唯一神への崇拝を呼びかけましたが、その対象は全人類でした。その教えは完全となり、あらゆる時と場所に啓示されたものだったのです。

イスラームは、終末の時である審判の日まで、あらゆる存在のための恩恵として完全なものとされました。預言者ムハンマドはアラブ人ではあったものの、イスラームはアラブ人のための宗教ではありませんし、アジア諸国、もしくは第3世界の宗教でもありません。ムスリム人口はあらゆる大陸、人種、民族から成り立っています。ムスリムは、例えばニューヨーク、シドニー、ケープタウン、ベルリン、カイロ、クアラルンプール、ドバイなど、世界中のどこにでもに住んでいます。ムスリムの多様性は、この地球そのものと同じほど壮大なものです。またイスラームはパートタイム、もしくは中途半端な献身を認める宗教ではありません。イスラームは生き方そのものなのであり、それは包括的な生活規範なのです。

神は世界を創ったとき、それを不安定なものとはしませんでした。かれは導きを下しました。かれは堅固な綱を下し、それをしっかりと掴むことによって小さな存在である人間でさえ、偉大さと永久なる平安を達成することを可能にさせたのです。ムスリムは、神の導きであるクルアーンと、預言者ムハンマドの真正な伝承に基づいた教えに従うことによって、神の戒律の遵守に励むのです。

クルアーンは導きの書であり、預言者ムハンマドの慣行はその導きを解釈し、ときには拡張させます。人生における規範であるイスラームは、健康の維持を強調し、病気ともうまく付き合える方法を提供します。クルアーンは英知の書であり、そこには奇跡と神の賛美に満ち溢れ、かれの慈悲と正義を証言するのです。

その果てしない慈悲から、神は私たちに対し、精神・感情・身体のすべての側面を含有する、人生への包括的アプローチを提供されました。神が人類を創造された目的とは、かれを崇拝させるためだけです。

 ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。(クルアー5156 

イスラームはその包括性により、睡眠から沐浴、礼拝から仕事まで、人生のあらゆる側面を崇拝行為とします。神に真に服従する者は、自らの人生における数え切れない祝福と、神の寛大さ、親切さ、慈悲に感謝します。預言者ムハンマドは、私たちはその良し悪しに関わらず、あらゆる状況において神に感謝すべきだと説明しています。神は公正であるため、信仰者はどのような状況においても、そこには善きものと英知が潜んでいることを見出すのです。

 驚くべきは、信仰者の行いである。それは、彼にとっての益としかならないのである。彼に安がもたらされると、彼感謝それはにとってのとなる。彼困難がもたらされると、彼忍耐それはにとってのとなるムスリム 

現世での人生は、安定したものではありません。誰しもが様々な局面や段階を通過しなければなりません。感情の起伏や信仰心の増減は神の御意に委ねられたものです。負傷や病気のあとには健康が訪れるかも知れませんが、真の信仰者であれば、ほんの少しの痛みでさえ、罪の許しが与えられるのです。

 いつであれ、ムスリムが病気などによって損害を被るなら、神はあたかも木から葉が落ちるように、彼の罪を贖って下さるのです。ブハームスリム 

イスラームは、人生のすべての側面において配慮するよう説きます。神の導きと戒律に従うことは、病気や怪我に忍耐することを可能とさせるのです。自らの状況について不平を述べ、嘆くことで達成することは何もなく、更なる苦痛を呼び寄せるだけです。私たちの心と体は信託されたものであり、私たちはそれに対する責任を持つのです。神の導きは人生のあらゆる側面を包含し、健康問題においても特定の手段が存在しますが、それらについては第2部で見ていきましょう。

2/4):治癒としてのクルアーン 

イスラームは健康に対し、包括的アプローチを取っています。世俗生活と宗教生活が切り離すことの出来ないように、身体・感情・精神的健康は切り離すことが出来ません。それらは、健康な人物を構成する3つの要素です。それらの内の一つでも害されるか、または不健康であれば、別の部分も影響をうけるのです。人が身体的に病気になるか、怪我を負うのであれば、その痛み以外に集中することは困難となります。人が感情的に優れないとき、その人は自分自身への適切な配慮や、生活上の現実問題への取り組みが難しくなります。

預言者ムハンマドは彼の追従者たちに、神の御前においては、強き信仰者たちの方が弱き信仰者たちよりも優れているということを述べています。ここでの強いという言葉は、信仰や性格における強さを意味しますが、それは健康にも当てはまるものです。私たちの肉体は神により信託されたものであり、私たちは自らの健康の維持における責任を有しています。身体的・感情的健康は共に重要ではありますが、私たちの人生においては精神的健康が最優先されなければなりません。人の精神的健康に問題があれば、その人の人生は崩壊し始め、あらゆる面で問題が発生しかねません。

怪我や病気は多くの原因によって発生しますが、この世では神の御意なしに起きる物事など存在しないということを認識し、受け入れることは重要なことです。

 “幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。”(クルアーン6:59)

現世はつかの間の滞在場所に他ならず、配偶者、子女、富、贅沢品などの、私たちが熱望するものによって美化されています。しかし、楽園におけるこの上ない満足感と美しさに比べ、それらは一刻の儚い享楽に過ぎないものです。私たちが確実に楽園に入るのを手助けるため、神は私たちの前に試練や障害を置かれました。神は私たちの忍耐や感謝の念を確かめ、それらの障害を乗り越えるための方法や手段を提供されます。神は慈悲深く公正であるため、私たちがいかなる試練を受けようとも、それらが永遠の至福の場を確実に得ることの助けとなるように、それらを設計されています。怪我や病気とは、忍耐と寛容、そしてそれを甘受する覚悟と共に直面しなければならない試練なのです。

試練を甘受することとは、何もせずにいるということではなく、それを乗り越え、そこから学ぼうと努力することを意味します。甘受することとは、神が私たちに授けてくださった武器と共に忍耐を持って試練に向き合うことです。その武器の中でも最高のものとは、慈悲と治癒に満ち溢れた、導きの書クルアーンです。クルアーンはテキストブックでも医学書でもありませんが、良き健康と治癒を促す導きが含まれています。

 “人びとよ、あなたがたの主から確かに勧告(クルアーン)が下された、これは胸の中にある(病い)を癒し、また信者に対する導きであり慈悲である。”(クルアーン10:57)

 “われがクルアーンで下したものは、信者にとっては癒しであり慈悲である。”(クルアーン17:82)

クルアーンの節々、語句には、人類の苦しみや病に対する治癒が含まれていることに疑いの余地はありません。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)にまつわる言行録には、特定の章や節々には、神の御意によって病や苦悩に対する治癒がもたらされると述べられています。時間の経過と共に、私たちは徐々に、イスラームによって処方された精神的療法よりも、薬品や物理的療法に頼るようになりました。もしも信仰心が揺らぎなく確固としたものであれば、精神的療法の効能は迅速かつ効果的なのです。

預言者にまつわる言行録には、預言者が使者として遣わした教友の逸話が収録されています。その教友は、彼にもてなしの精神を全く見せなかった人々の近くに野営しましたが、彼らの長が蛇に噛まれた際、彼らは教友の元に助けを求めて来ました。彼が男のためにクルアーンの開扉章を唱えると、男は「鎖から解き放たれたかのように」起き上がったのです

預言者ムハンマドによって処方された同じ方法で、クルアーンから治癒を求めることは重要ですが、医者から薬を処方してもらうことも許されており、それが時には義務行為となることを理解することも同じように重要です。私たちの身体が私たちのものであるというのは、それが信託されたものという意味です。私たちはそれを敬意をもって扱い、最善の方法で維持しなければなりません。許された形の精神的療法と共に、医学からも治癒を求めることは、イスラームが健康に対して包括的なアプローチを取ることと一致しており、矛盾しないのです。

預言者はこのように述べています。“神はそれに対する治癒をお創りになることなしには、いかなる病をもお創りにはなることはなかったのである。”

また、彼はこのようにも述べています。“あらゆる病気には治癒があるが、病気に治癒が施されたとき、それが治るのは全能なる神のお許しあってこそである。”

クルアーンは、心と体にとっての治癒です。人生が耐え難い程の困難に陥るとき、または怪我や病気、憂鬱な気分に悩まされるとき、クルアーンは私たちの道を照らし出し、重荷を軽減してくれます。それは安堵・安楽の源泉であるからです。現代社会においては、多くの人々が富と贅沢を享受しますが、幸福感を味わえずにいます。私たちの住む先進諸国においては、医者や薬品、伝統的療法、近代的療法、または代替療法などへのアクセスが容易であるにも関わらず、多くの魂は無感情や無気力さの中にいます。そこに欠けているものとは、信じること――つまり神への信仰なのです。

過去数十年間において、宗教の信仰と実践が、身体的・感情的健康の双方に大きな影響を及ぼすということは広く認められるようになりました。医学的研究により、宗教の実践は情緒障害・病気・負傷を予防・治癒し、回復を促進することが分かっています。神への信仰、そして神の御意への服従は、健康における最も根本的な部分です。クルアーンの言葉や朗誦は、心と精神を癒し、病気や負傷を乗り越えさせますが、神への完全なる信頼は、それを合法的な範囲内で使用するに限り、医学の効能を否定するものではありません。神はまさしく全能であるため、私たちはかれにすべての信頼を寄せ、かれの導きの書であるクルアーンとの絶え間ない関係を築き、預言者ムハンマドの真正の教えに従うことによって、治癒を求めるべきなのです。

 


Footnotes:

サヒーフ・ブハーリー

ムスリムにとって、天国と楽園は同じ場所ではありません。天(アラビア語でサマー)は、審判の日に破壊される諸天の一部で、楽園(アル=ジャンナ)は地獄の対極であり、永遠の平安と満足の与えられる住処です。

サヒーフ・ブハーリー

サヒーフ・ブハーリー

サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム

Matthews, D. (2000) Is Religion Good for Your Health in Stannard, R. (Ed) God for the 21st Century Philadelphia: Templeton Foundation Press.

3/4):食生活

イスラームは、人生における規範です。ムスリムは週末や冠婚葬祭のときだけ宗教を実践するのではなく、彼らにとっての宗教とは日常生活における現在進行形のものなのです。イスラームは精神的・倫理的な系統を持ち、人の内的な欲求をも考慮します。イスラームの教義はクルアーン、そしてスンナとして知られる、預言者ムハンマドにまつわる真正の言行録に基づいています。啓示によるこれら二つの源泉は導きであり、人生の教範なのです。

最初はそれが奇妙な類推のように映るかもしれませんが、イスラームの生活規範をコンピュータの取扱説明書と比較してみましょう。過去数十年間のテクノロジーの進歩を全く知らないまま、新型のノートパソコンを購入することを想像してみてください。あなたは電源入/切のスイッチがどこにあるか分かるでしょうか? もしコンピュータの電源を入れることに成功したとしても、その使い方や、システム・リストア、ウイルス・スキャンやメンテナンスの方法が分かるでしょうか? 取扱説明書を抜きにしては、コンピュータは「猫に小判」なのです。

コンピュータの設計者も同様に、特定の指示なしにはコンピュータの性能が生かされないことを熟知するからこそ、取扱説明書を作成するのです。通常、ハイテク製品には、製造業者の指示に従わない限りは何の役にも立たない保証書が付いてくるものです。それゆえ、私たちは高価なハイテク製品を最も有効に使いこなすために取扱説明書を読み、そのガイドラインに従うのです。

同様にイスラームは、永久なる楽園という保証の付いた特定の指示を提供します。その保証には保証期間というものはなく、無期限の延長を許します。もし過ちを犯したり、間違った「ボタンをクリック」したとしても、その説明書は修正や「復元」の方法を明確に指示します。神は特定の方法によってかれが崇拝されるよう、人類を設計・創造し、それを容易とするために使徒と預言者を遣わして特定の指示をもたらしたのです。しかし、神によるガイドラインが存在しなければ、人類は明確な意味を持たず、真の安寧や満足感のない世界において道を外すでしょう。生命は目的や意味もなく生き、多くの人々は、生きるに価する人生というものをほとんど提供しない存在から逃げ惑うのです。

預言者ムハンマドにまつわる伝承は、健康を大切にし、その真の価値を神による数え切れない程の祝福のひとつであることを自覚するよう、教えます。

 その時、主は宣告された。「もしあなたがたが感謝するなら、われは必ずあなたがたに(する恩恵を)増すであろう。だがもし恩を忘れるならば、わが懲罰は本当厳しいものである。」(クルアーン147

イスラームの健康に対する包括的なアプローチには、私たち自身の身体を敬意をもって養い、信仰だけでなく合法的な健康食によって栄養を摂ることが含まれます。創造主の指示による人生の生き方とは、その大部分が適切な食生活を送ることです。健康に良い食事を選び、健康に悪い食事を避けることがその基本となります。神はクルアーンにおいてこう述べます。“信仰する者よ、われがあなたがたに与えた良いものを食べなさい。”(クルアーン2:172)“人びとよ、地上にあるものの中良い合法なものを食べ…”(クルアーン2:168)

クルアーンには、身体的・精神的健康の連結に関わる、健康的な食習慣を忠言する多くの節々が含まれています。健康的かつ清浄な食事だけを摂ることへの推奨は、神を想念し、悪魔を避けることへの警告とたびたび結び付けられています。健康的な食習慣は、空腹を満たすだけでなく、いかに良く崇拝するかへの影響もあるのです。

 人びとよ、地上にあるものの中良い合法なものを食べて、魔の歩みに従ってはならない。当にかれは、あなたがたにとって公然の敵である。(クルアーン2168

誰であれ、不健康な食事やジャンクフードを過剰に摂取するであれば、身体が弱くなったり、神を奉仕するという本来の目的を達成できなくなったりします。一方で、精神的熟達のみを追求し、健康と栄養について無頓着なのであれば、弱さ、怪我、病気などによって義務の崇拝行為の不履行という結果につながってしまうでしょう。クルアーン、そして預言者ムハンマドの言行録において見出すことの出来る導きからは、人類がそれら二つの両極端の中庸を維持することが説かれています。

健康的な食習慣とは、神がその創造に対して提供するすべての食物からバランスよく摂取することです。身体が必要とする栄養分は、炭水化物、ミネラル、ビタミン、タンパク質、脂肪、アミノ酸などによって満たされます。クルアーンにおける多くの節々では、私たちの身体が必要とする栄養分を満たすため、神によって提供された食物について言及されています。それは細かく記された栄養分の必要リストなどではありませんが、健全な身体を保ち、病気を防ぐ食物の種類についての概説なのです。

 “またかれは、家畜をあなたがた(人間のため)に創られた。あなたがたは、それらにより暖衣や種の便益を得たり、またそれらを食用とする。(クルア165

 “かれこそは、海洋を(人間に)使役させられる方で、それによってあなたがたは鮮魚を食べ…”(クルアーン1614

 “かれはそれであなたがたのために、穀類とオリブとナツメヤシとブドウその外各種の果物を育てられる。(クルアー1611

 “また家畜にもあなたがたへの訓がある。われはその腹の中の雑物と血液の間から、あなたがたに飲料をえる。(その)乳は飲む者にとり、清らかであり(喉に)快適である。(クルアーン1666

 “それらは、腹の中から種異った色合いの飲料を出し、それには人間を癒すものがある。本当にこの中には、反省する者への一つの印がある。(クルアーン1669

 “かれこそは棚を備えた果樹園、また棚のない果樹園を創られる御方であり、またナツメヤシや様々な味の異なった農作物、とオリーブ、ザクロその外同類異種のものをも(創られた御方である)。が熟したならば食べなさい。(クルア6141

 “…穀物をそれから生産し、それをかれらが食べることがあげられる。(クルアーン3633

また神は、私たちに禁じられた食物を指定され、それ以外はすべて合法であると見なされました。

 あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラ以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食いしたもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に牲とされたもの…”(クルア53である。(クルアーン590

甘いものやジャンクフードは禁じられてはいませんが、それらは最適な健康のためのバランスのとれた食習慣の一環として、僅かな摂取にとどめられておかなければなりません。現在、多くの一般的な慢性病は、不健康な食習慣が原因です。冠動脈性心疾患、高血圧、糖尿病、肥満、鬱病などの病気は、不適切な食習慣と関連付けられています。預言者ムハンマドの伝統においては、健康を維持する方法として中庸が称賛され、クルアーンではいかなる両極端の中でも、バランスを取ることが強調されています。

真の信仰者たちは、正しい方法によって神を崇拝するための、健康な心と体を必要とします。健全な精神を維持するためには、純粋な心と健康な身体に特別な注意が払われるべきです。心と精神は神を想念すること、そして合法的な方法で行われる崇拝行為によって養われ、身体は神によって提供される健康的で合法な食物を摂ることによって養われます。健康的な食習慣への配慮は、イスラームとは切り離すことのできない、包括的な健康システムの一部なのです。

4/4):運動

預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、強き信仰者は弱き信仰者に勝る、と述べています。彼は信仰心と性格について述べたのですが、そこには身体的強さの意味もほのめかされています。つまり、神がそれを得ることをお許しになったのであれば、最適な健康状態と力強さを持つことは望ましいことなのです。イスラームによる人生、そして健康への包括的なアプローチは、私たちが力強く健康的であるための能力を提供します。もし神が、病気や怪我が私たちの人生の一部であるとされたのであれば、イスラームはそれらを受け入れ、さらにはそうした試練を感謝する手段と方法を提供するのです。

イスラームによる健康への包括的アプローチについてのシリーズ最終部であるこの記事では、イスラーム、預言者ムハンマド、そしてイスラーム学者たちが運動について述べることに関して検証します。これとは別のシリーズでは、私たちが病気や怪我に遭遇した際、いかに振舞うべきかについてイスラームが述べることを題材にしています。

イスラームの信仰者は、自身の精神的・感情的・肉体的健康を管理し、維持していかなければなりません。精巧な仕組みを持つ私たちの体は、神により信託されたものです。それは乱雑に扱われたり、蔑ろにされてはならず、きとんと好ましい状態に保たれなければなりません。既述されたように、健康的な食習慣と栄養の摂取は、最善の体調を維持するための大きな役割を担っています。運動習慣を取り込んだ生活スタイルもまた同様です。イスラームは、質素な食生活に運動習慣を組み合わせることを強調します。

イスラームにおける「5行」の義務を遂行するには、ムスリムが良い健康状態にあることが求められます。一日5回の礼拝もそれ自体が運動の動作であり、規定された動きには体中の筋肉と関節が関わり、礼拝における集中は精神的ストレスを緩和します。またラマダーン月の断食の達成や、数日間の過酷な肉体的奮励を要するマッカへのハッジ巡礼を行うにも、良い健康状態が必要となります。

預言者ムハンマドは彼の追従者たちに対し、働き、精力的であり、早起きするよう忠言しています。それらのすべては健康な身体にとっての条件でもあります。彼はこう述べています。「神よ、早朝の時間帯を私の共同体にとっても祝福としてください。」2肥満、不適切な食生活、怠慢、弱さはすべて、やがて私たちがその責任を問われることになるものです。病気や怪我の予防は私たちの能力の範囲外であることがしばしばですが、多くの場合においては食生活や健康に対する私たち自身の注意不足によってもたらされるものです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこのように述べています。「神の想念を伴わないいかなる行いも、次の4つ以外は逸脱行為か無頓着さである:(弓術の練習における)標的から標的への徒歩、調馬、家族との戯れ、水泳の練習である。」

預言者ムハンマドと教友たちは、当然のことながら健康でした。生活は厳しく、長距離でも徒歩をし、男性たちは狩りと畑仕事もしました。そして当時は無用な娯楽などが存在せず、それによって怠慢となり多くの時間を無駄にするようなこともありませんでした。21世紀の現在、私たちの周りは怠惰や病気を助長する娯楽に満ち溢れています。

高度なテクノロジーには多くの利点がありますが、テレビやゲームによって時間を無駄にし、それによって健康を損ねたりしないことは重要です。子供の肥満率は、テレビの視聴時間の長さに比例することが証明されています。別の研究では、それが大人にも同様に当てはまることが示されています4。一方で、運動は多くの利益をもたらします。

運動は筋肉の張りを増加させ、柔軟性を向上し、持久力を高め、心臓を強化し、鬱病にも効果的です。また運動は体重の減少にも大きく貢献します。有酸素運動は心臓病と高血圧を予防し、糖尿病のリスクを減らします。ウエートトレーニングは筋力を高め、脂肪分を減少させ、骨密度を増加させ、関節炎への効果、そして精神衛生の向上に寄与します。

著名なイスラーム学者であるイブン・アル=カイイムは、運動は代謝を促し、免疫を高めると述べています。また彼は、身体器官にはそれぞれに適した運動があり、乗馬、弓術、格闘、競争は身体全体を益する運動であると述べています5

運動はムスリムの人生における不可欠な要素の一部ですが、それが宗教的義務行為の妨げや、家族団らんを代償としたものであってはなりません。人生に対する包括的アプローチとしてのイスラームに適するよう、あらゆることは中庸でなければなりません。そこには極端さや、狂信的態度の余地はないのです。運動の習慣やスポーツが人生を乗っ取ってしまうようなことは、中庸性を掲げるイスラームの教えに反することです。また運動においては異性との不必要な混合、または覆われるべき身体の箇所があらわにされてもなりません。

イスラームは、それが罪とならず、有害でもなく、宗教的義務に差支えのない限り、心をリフレッシュし、身体に活力を与えるすべてのことを推奨します。預言者ムハンマドの伝統からは、健康的な生活習慣、同胞愛、そして家族の団らんを促進させるものが明確に激励されています。

サヒーフ・ブハーリーには次のような伝承が収録されています。「預言者は弓で射的の競争をしていたアスラム族の人々のもとを通りがかり、彼らにこう語りかけています。『的を射るのだ、(預言者)イシュマエルの息子たちよ。射なさい、私は何某(のチーム)と共にいる。』すると別のチームが射るのを止めました。預言者はこう尋ねます。『なぜ射るのを止めるのだ?』彼らは答えます。『あなたが彼ら(のチーム)と共にいるのに、どうして射ることが出来ましょうか。』すると彼は答えました。『射なさい。私はあなたがた皆と共にあるのだから。』」別の伝承では、預言者ムハンマドがこよなく愛した妻アーイシャが、彼らによる娯楽と競技への愛着について言及しています。彼女はこう述べています。「私は(ラクダの競争で)預言者と競い、彼に勝ちました。後年、私の体重が増えたときに再び競うと、彼が私に勝ちました。すると彼はこう言ったのです。『これでおあいこだ。』」6

真の信仰者は、人間の身体の驚異性を認識し、創造主に感謝します。こうした感謝の念は、最適な健康状態を維持しようとする関心や態度に現れます。イスラームによる健康への包括的アプローチは、精神・身体・心のすべての側面を含有します。健康への意識が本当に高い人物は、食習慣、栄養摂取、運動習慣を、神への想念、さらに宗教的義務行為のすべてを遂行しようとする意図に組み合わせるのです。

 


Footnotes:

サヒーフ・ムスリム

2 イマーム・アフマド

アッ=タバラーニー

4 この結果は、バッファロー大学、ジョン・ホプキンス大学、アメリカ国立癌研究所、アメリカ疾病管理予防センターの研究者らによって報告されています。Carlos J. DrPH, MS; Smit, Ellen, PhD; Troiano, Richard P., PhD, RD; Bartlett, Susan J., PhD; Macera, Caroline A., PhD; Andersen, Ross E., PhD (2001, March 15).  Television watching, energy intake and obesity in US children.  Archives of Paediatric and Adolescent Medicine, 155, 360-365.

5 ザード・アル=マアード

6 サヒーフ・ブハーリー