神によるスンナの保持

以下では、預言者ムハンマドの教え−すなわちスンナ−が歴史を通していかに改変や修正から守られ、その信頼性を保ち続けたのかについて論考します。第1部:彼について嘘を言う者に対する預言者の警告と、それについての教友たちの理解。

神によるスンナの保持

1/7):教友たちによるその大きな責任への理解 

Jamaal al-Din Zarabozo 

 

概説:イスラームにおけるスンナの位置

スンナとは、預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の言行、そして彼の教えのことを指します。それはイスラームを全体としてみた場合、非常に根本的な要素を構成しています。神はクルアーンの中で、ムスリムに対して預言者を模範とし、彼の言葉に従うよう直接命じています。スンナとはイスラームにおける基本的な行動規範であり、クルアーンそのものに対する決定的な注釈でもあるのです。それなしでは、イスラーム実践についての真の理解は出来ません。1

預言者のスンナは、ハディース文学として保持されています。スンナとハディースの保持問題は、実際に宗教としてのイスラーム自体の純粋性に関わる問題です。この問題は、いかにハディースが保持されてきたかについての誤解により、預言者のハディースに対する信頼の欠如という残念な影響を招いているため、非常に重要なものです。

神がスンナを保持させた方法

神は人類を通して、スンナを保持する多くの方法を用意しました。それらの方法の一部は、ムスリム世界独特のものです。重要なこととして、それらの保持法は最初期の段階から隔たりなく実践されてきたため、スンナの元来の内容が失われることはありませんでした。

以下に、スンナの保持に貢献した要素と方法の一部を挙げてみましょう:

重責に対する教友たちの理解

クルアーンの中では、古代の人々が啓示された教えを細部に渡って保持することに失敗し、捏造や改変を加えたことが明確にされています2。預言者の教友たちは、預言者ムハンマドが人類にとっての最後の使徒であること、そして彼の教えを保持することは彼らの双肩にかかっていることをよく理解していました。過去の諸預言者の教えに起こったことが、預言者ムハンマドの教えに対しても起こらないようにすることは、彼らの役割だったのです。さらに、預言者自身も彼らがその教えを他者に伝達する責任があることを印象づけています。たとえば預言者は、巡礼時に群衆の前でこのように語りかけています:

“この場にいる者はこの場にいない者に伝えるのだ。この場にいる者は、それを彼よりも良く理解できる者に伝えるかもしれないのだから。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム) 

預言者によるこの指導は、数々の場面において複数の教友たちの伝承によって伝わっています。たとえば預言者は、このように言っています:

“私の言葉を聞いて記憶の中に留め、それを他者に伝達する者を神が光り輝かせますよう。伝達をされた人物は、伝達した人物よりも良く理解するかもしれないのだ。”3 

また預言者はいかなることであっても、彼の言いもしなかったことを伝達することに対し、厳しい警告を発してもいます。預言者の使った「カザブ」というアラビア語は、「嘘をつく」だけでなく、正しくないことを伝達することの意味合いでも使われました:

“たとえそれが(クルアーンの)一節であれ、私から伝達しなさい。古代イスラエル人の逸話を伝えても、害はない。そして誰であれ私に虚偽を帰属させる者は、地獄の炎に据え付けられることになるのだ。”(サヒーフ・ブハーリー) 

預言者は複数の場面でこの警告を発しており、その言葉は50人以上の教友によって記録されています。4

それゆえ、教友たちはその伝達行為において非常に慎重でなければならないことを認識していました。彼らは、預言者に何らかの虚偽を帰属させることへの警告は、それが意図的であろうとなかろうと適用されると理解していました。サヒーフ・ブハーリーにおいて伝えられている報告の中で、教友の1人アッ=ズバイルは、なぜ他の者のように多くのハディースを伝承しないのかと問われ、こう答えています:“私は、彼(預言者のこと)と袂を分けているわけではない。しかし私は、彼がこう言うのを耳にしたのだ:「誰であれ私に虚偽を帰属させる者は、地獄の炎に据え付けられることになるのだ。」”このハディースを注釈したイブン・ハジャル5によれば、アッ=ズバイルがこのように言ったのは、彼自身が預言者の言葉を捏造することなどではなく、多くの伝承を伝えることで、その中に誤りが含まれるかもしれないことを恐れたのです。というのもそのような誤りもまた、ハディースの中で述べられている警告の対象に含まれるからです。[1]

また、アナス・ブン・マーリクもこのように述べています:“もし私が自分の間違いを恐れなければ、神の使徒から耳にしたことをもっと沢山伝えただろう。しかし私は彼がこう言うのを聞いたのだ:「誰であれ私に虚偽を帰属させる者は、地獄の炎に据え付けられることになるのだ。」7これは教友アナスが、ハディースで述べられている警告が、意図に反して間違ったハディースを伝承することにも適用されるということを理解していたことを示しています。

実際、アブー・フライラのような教友は預言者からのハディースを学び、暗記し続けていたため、誤りを犯すことについてはそれほど怖れてはいませんでした。一方、ハディース学習に専念していなかった者たちに関しては、神の使徒のハディースを伝達することに関して記憶力が付いていかないことを怖れていたようです。

 


Footnotes:

1 著者はその著The Authority and Importance of the Sunnah (Denver, CO: Al-Basheer Company, 2000)において、イスラームにおけるスンナの地位と、それが果たす役割において詳しい論じています。

2 過去の人々による諸啓典の改変と、啓示に対する隠蔽の試みは、クルアーンによって言及されています。クルアーン5:14−15、そして4:46を参照してください。

3 Abdul Muhsin al-Abbaad, Diraasat Hadeeth Nadhara Godu imraan Sama Muqaalati...: Riwaayah wa Diraayah (no publication information givenをご参照のこと。

4  Cf., Sulaimaan al-Tabaraani, Turuq Hadeeth Man Kadhaba Alayya Mutamadan(Beirut: al-Maktab al-Islaami, 1990), passim.

5  サヒーフ・ブハーリーの注釈者として最も有名な学者の一人。

[1]   Ahmad ibn Hajar, Fath al-Baari Sharh Saheeh al-Bukhaari (Makkah: Maktabah Daar al-Baaz, 1989), vol. 1, p. 201.

7  この伝承はアッ=ダーリミーによって記録されています。アブドッラフマーン・アル=ビッルによれば、その伝承経路はサヒーフ(真正)であるとされています。Cf., Abdul Rahmaan al-Birr, Manaahij wa Adaab al-Sahaabah fi al-Taallum wa al-Taleem (Al-Mansoorah, Egypt: Daar al-Yaqeen, 1999), p. 183.

2/7):ハディースの記録 

このトピックについて論じる前に、何かが保持されるためには記録、または筆記されることが前提条件ではない、ということが明確にされなければなりません。すなわち、何かが書き留められなかったからといって、それが正しく正確に保持されなかったということを意味するわけではない、ということです。さらに言うと、書き留めること自体が何かの保持に十分であるとも言えません。何かが間違って記録される可能性もあるのです。これらの可能性はハディース学者によって適切に考慮されています。彼らはハディースの認可に関して、それが筆記されていることを条件とはしませんでした。しかしそのような物理的な記録を重要視しましたし、多くの場合、伝承者の個性を考慮しつつ、口伝よりも筆記を優先しました。また彼らは、単に何かが書き留められていることだけで十分である、ともしませんでした。まずそれが適切に記録されていることが確認されたのです。それゆえハディース学者らが記憶による伝承よりも筆記された伝承を優先したのは、それらを伝えた学者らが、筆記において熟練していた場合のみだったのです。

ハディースは当初から記録されていたのではなく、ヒジュラ暦(イスラーム暦)の2世紀頃になって口伝で受け継がれるようになった、というのは多くの東洋学者らが常々行なってきた主張です。彼らはそれゆえに、ハディースは民間伝承や伝説の類であり、でたらめに過ぎないとします。残念なことに、こういった誤認は浅薄な研究で満足した者たちの間に普及しました。実際にこの虚偽の主張と間違った見解は、大勢のムスリム学者らの博士論文によって、ムスリム社会だけでなく西洋社会の大学においても論駁されています。それらの代表的なものは、ムハンマド・ムスタファー・アル=アザミーによるStudies in Early Hadeeth(「初期ハディースの研究」、1967年)、またイムティヤーズ・アハマドによる1974年の The Significance of Sunna and Hadeeth and their Early Documentation (初期の記録におけるスンナとハディースの重要性)などが含まれます。

預言者(神の慈悲と祝福あれ)のハディースの記録は、預言者時代に既に始まっていました。アル=バグダーディーは、預言者が明確にハディースの記録を許可した伝承を記録しています。以下はその一部です:

1.アッ=ダーリミーとアブー・ダーウードは、彼らのスナン(著書)の中で、アブドッラー・ブン・アムル・ブン・アル=アースが預言者から耳にしたことを全て記録していたことを述べたと記録している。預言者は人間であり、時に喜怒の感情をあらわにしたことから、そうすることに対して警告されていたという議論もある。アブドッラーは彼らが預言者にこの件について尋ねるまで、ハディースの記録を止めた。預言者は彼にこう言った:

(私のハディースを)書きなさい。私の魂がその御手の中にある御方にかけて、(預言者の口からは)真実以外の何も発せられません。1 

つまり、預言者は怒っていても喜んでいても、真実以外は語らなかったということです。

2.アル=ブハーリーはサヒーフ(彼の著書)の中で、アブー・フライラがこう語ったということを伝えています。“神の使徒からの伝承を、私よりも多く伝えている教友はいない。だがアブドッラー・ブン・アムルだけは別である。というのも、彼は私がそうしなかったときにもハディースを記録していたからである。”2

3.アル=ブハーリーは、マッカ無血入城の日に、ある人物がイエメンから預言者を訪ねて来て、彼が預言者の発言記録を取っても良いか質問したところ、預言者はそれを承認してこう言ったと記録しています:

何某の父のために書き留めなさい。

4.アナスはこのような言葉を伝えています:“書き留めることによって知識を確保するのです。”このハディースは複数の権威から伝えられていますが、その大半の伝承経路は弱いものです。それが実際に預言者自身の言葉なのか、あるいは教友たちによるものなのかで意見の相違があります。しかしアル=アルバーニーは、アル=ハーキムなどによって記録されたこのハディースは真正であるとしています。3

それゆえ、預言者が生きていた時代に既にハディースの記録が始まっていたことに疑いの余地はありません。ハディースを書き留める行為は預言者の死後も続けられました。アル=アザミーは、彼の著書Studies in Early Hadeeth Literature (初期ハディースの研究)で、ハディースを記録した50人程の教友たちについて議論しその名を挙げています。4次に注目してください:

アブドッラー・ブン・アッバース(ヒジュラ紀元前3年−ヒジュラ暦68年)…彼は知的探究心が強く、一つの出来事に関して30人の教友に尋ねたほどである…彼は聞いたことを書き留めたようであり、時にはその目的のために自らの奴隷にもそうさせたとのことである…以下に挙げるのは、彼から書面の形でハディースを伝えた者たちである:アリー・ブン・アブドッラー・ブン・アッバース、アムル・ブン・ディーナール、アル=ハカム・ブン・ミクサーム、イブン・アブー・ムライカ、イクリマ…クライブ、ムジャーヒド、ナジュダ…サイード・ブン・ジュバイル。5

アブドッラー・ブン・ウマル・アル=ハッターブ(ヒジュラ紀元前10年−ヒジュラ暦74年)。彼は大量のハディースを伝え、その伝承において厳格であり、たとえそれにより意味が変わらなかったとしても、ハディース内の言葉の配列が変更されることを許さなかった…彼は複数の書を所有していた。彼の持っていた一冊のキターブ(書)は父ウマルからのもので、ナーフィウによって彼の面前で何度も復誦されていた…以下に挙げるのは、彼から書面の形でハディースを伝えた者たちである:ジャミール・ブン・ザイド・アッ=ターイー…ナーフィウ(イブン・ウマルの庇護下にあった)、サイード・ブン・ジュバイル、アブドル=アズィーズ・ブン・マルワーン、アブドル=マリク・ブン・マルワーン、ウバイドッラー・ブン・ウマル、ウマル・ブン・ウバイドッラー…6

またアル=アザミーは、ハディースを記録した“第一世紀における継承者たち”の一覧表を作成し、その49人の個性を一人ずつ論じました。7さらにアル=アザミーはハディースを記録した “一世紀終盤と二世紀初期の学者”として87人の名を連ね、8ハディースを記録・収集した251人の“二世紀初期の学者”も記しています。9このように、アル=アザミーはハディースを記録した437人の学者たちの一覧表を作っており、彼らは皆ヒジュラ暦250年を前に他界しています。彼らの大半は、ハディース収集を最初に命じた人物であると誤認識されているウマル・ブン・アブドル=アズィーズの時代に生きた人々です。実際、ウマル・ブン・アブドル=アズィーズの逸話は誤解されており、彼以前には誰もハディースを収集していなかったというわけではありません。10

アル=アザミーは述べます:“近年の研究は、預言者のハディースのほぼすべては、一世紀終わりまでの教友の時代に書き留められていたことを証明しています。”11この言明は部分的に、筆記されたハディースを所有していた多くの教友たちとその次世代の者たちに言及した、アル=アザミー自身の研究に基づいています。また他の箇所で、彼自身このように述べています:

私は自らの博士論文 Studies in Early Hadeeth Literature で、ヒジュラ暦一世紀からすでに数百のハディース冊子が流布していたことを確証した。そこからさらに100年加えれば、どれほどの数の冊子や書物が出回っていたのかを羅列することは困難である。最も控えめな推測であっても、数千を超えるとされるのだ。12

 


Footnotes:

1 アル=アルバーニーによって、このハディースはサヒーフとされています。参照:Muhammad Naasir al-Deen al-Albaani, Saheeh Sunan Abi Dawood (Riyadh: Maktab al-Tarbiyyah al-Arabi li-Duwal al-Khaleej, 1989), vol. 2, p. 695.

2 このハディースの注釈をしたイブン・ハジャルは、いかにアブー・フライラがアブドッラー・ブン・アムルよりも多くのハディースを伝承出来ただろうかについて説明しています。(参照:Ibn Hajar, Fath, vol. 1, pp. 206-8.  )また彼が言及しなかったこととして、アブー・フライラがアブドッラー・ブン・アムルの約16年後に逝去したことが挙げられます。

3 Al-Albani, Saheeh al-Jaami al-Sagheer, vol. 2, p. 816.

4  Muhammad Mustafa al-Azami, Studies in Early Hadeeth Literature (Indianapolis, IN: American Trust Publications, 1978), pp. 34-60.

5 Azami, Studies in Early Hadeeth, pp. 40-42. In Azami’s work, “b.” stands for ibn or “son of.”

6 Azami, Studies in Early Hadeeth, pp. 45-46.

7 Azami, Early Hadeeth, pp. 60-74.

8 Ibid., pp. 74-106.

9 Ibid., pp. 106-182.

1 アル=ブハーリーによって記録されているこの逸話とは、ウマル(H.61−101)がアブー・バクル・ブン・ムハンマド(H.100没)にこのような手紙を書いたとするものです:“ハディースの知識を求め、書き留めるのだ。私は宗教学者らが死に絶え、宗教知識が消滅することを恐れている。預言者のハディース以外は何も容認してはならない。”また彼はサアド・ブン・イブラーヒームとアッ=ズフリーにも手紙を書き、同じことを求めています。このことから、たとえばM.Z.スィッディーキーのように、ウマルによるこの指示がハディース収集の開始につながったという誤った主張をする者たちも一部存在しています。

1 Al-Azami,  Methodology, p. 30.

1              2Ibid., p. 64.

3/7):イスナードの重要性とその歴史 

ハディースの保持におけるもう一つの重要な方法とは、ムスリム共同体において発達したイスナード体系です。イスナード体系とは、伝承者の経路を預言者(神の慈悲と祝福あれ)にまで辿らせつつ、情報源に言及することです。

イスナードの重要性は、アブドッラー・ブン・アル=ムバーラクによってよく表現されています:“イスナードは宗教の一部である。イスナードがなければ、誰でも思いのままに主張することが出来るからだ。”1実際にイスナードは、ハディースが真正であるか、根拠の弱いものであるかを見分け、捏造されたハディースの識別を可能とする重要なものです。現在においても、ハディースの源泉すら提供せずにハディースを引用することは大それた行為です。イブン・アル=ムバーラクは続けます:“誰かにどこからそのハディースを聞いたのか尋ねれば、彼は黙りこむだろう。” イスナードは一種の保証、または信頼性の保護という役割を担っているのです。初期のハディース学者らは、イスナードのないハディースをハディースとして考慮すらしませんでした。

イスナードの重要性について、スフヤーン・アッ=サウリー(H.161年没)はこう言っています:“イスナードは信仰者の剣である。剣なくして、彼は何と戦うというのか。” イスナードを使用することによって、ムスリム学者らは一部の人々がイスラームに持ち込もうと試みた宗教的革新を根絶やしにする(または戦う)ことが出来るのです。ムハンマド・ブン・スィーリーン(H.110年没)、アナス・ブン・スィーリーン、アッ=ダッハーク、ウクバ・ブン・ナーフィウらは皆、次のように言ったと報告されています:“この知識(ハディース)は宗教そのものであるため、あなたの宗教を誰から根拠としているのかを確認しなさい。”2 スンナはイスラームの根本的要素を構成しているため、特定の人物からのハディースを採用することは、その人物から自らの宗教を採用していることに類似しています。したがって、私たちはその発言を預言者にまで遡る、信頼のおける人物からのみ宗教を採用するよう用心すべきです。そしてそれは、イスナードを用いることによってのみ可能なのです。

この制度は、今日の刊行物や著作権システムよりも安全な保護手段でした。ハミードッラーはこう述べています:

“近代学者らは、学術的研究において重要な主張の典拠を引用する。しかし、それが最も慎重な研究文書であっても二つの欠点がある:

(a)出版された本の場合、そこにある誤植やその他の間違いを確証させる方法は全くと言っていいほどありません。しかし、著者から直接聞いたのであったり、または著者から認定された抄本を受け取ったのであったり、または古い本だったりすれば、著者から聞いた人物か、著者によって認定された伝達者に頼ったりするのであれば、そういったことはないはずなのです。

(b)昨今では、典拠の元になる典拠を調査するということがなされず、眼前にある典拠のみで人々は満足し、その出来事の直接の目撃者にまで証拠を辿ろうとしません。ハディース研究においては、ケースは全く異なります…”3

結論として、イスナードはすべてのハディースにおける重要な構成要素であり、それなしでは誰も伝承の信頼性を確証することが出来ないものであると言うことが出来ます。イスナードがなければ誰でも自分の好きなように主張することができ、それは宗教の一部であるとも言ったアブドッラー・ブン・アル=ムバーラクは、確かな真実を述べているのです。4 実際にイスナードの重要性は非常に明快であり、その重要性を疑った人々は過去にも非常に稀だったのです。それゆえ重要な議論はイスナードがいつ頃から用いられ出したのかという問いであり、それがもし預言者逝去後のずっと後からだったのであれば、それは使い物にならないでしょう。

ウマル・フラータは彼の博士号の論文で、イスナードの歴史について非常に詳しく論じています。ここでは字数の制限からその詳細について述べることは出来ませんが、以下の重要な結論が導き出されています:

ハディースの伝承においてイスナードが最初に使用された時期に関して、彼はこう言っています:教友たちはイスナードを元々使用していましたが、通常は彼らと預言者との間にはいかなる仲介者もいなかったため、彼らがイスナードを用いて伝えていたことは明確にはなっていませんでした。ただ教友たちは預言者から直接ハディースを聞いたか、または預言者から直接は聞かなかったか、ということを明確にしたのです。フラータは、教友たちによる圧倒的多数のハディースは、彼らが預言者から直接聞いたものであると述べています。それゆえ、イスナードは最初に教友たちの時代に用いられ始めたものの、顕著なものではなかった、と言うことが出来そうです。

 


Footnotes:

1  イマーム・ムスリムによって、著書サヒーフの序説「イスナードが宗教の一部であることの解説」と題された章において引用されているもの。

2 引用元:Umar ibn Hasan Uthmaan al-Fullaatah, al-Widha fi al-Hadeeth (Damascus: Maktabah al-Ghazzaali, 1981), vol. 2, p. 10.

3 Muhammad Hamidullah,  Sahifah Hammam ibn Munabbih (Paris: Centre Culturel Islamique, 1979), p. 83.

4 ここでは、パウロと多くのキリスト教宗派の起源の関係について思い起こされます。パウロはもちろん、イエス(彼に平安あれ)とは会ったこともありませんでした。彼はその教えをイエスに帰すことができなかったのであり、事実、彼はイエスの本当の教えを知っていた弟子たちの反対を受けたのです。残念ながら、歴史的信頼性の確立と、教えを説いた当人であるイエスに典拠を辿るという伝統はキリスト教では形成されませんでした。それゆえ、彼らの宗教は非常に歪曲され、イエス元来の教えから遠く離れ去ってしまったのです。

4/7):イスナードの保持 

フラータは、伝承者がそれを聴く者によってイスナードの言及を強いられた件について、預言者の死後わずか2年後に亡くなったアブー・バクルこそが、伝承者がその伝承の信頼性を証明するよう最初に命じた者だと述べています。なぜかといえば、時々彼はハディースの証人を提示しない限り、それを認めなかったことがあるからです。ウマルも同様、それに従っています。そうすることにより、伝承者が実際に預言者からその言葉を直接聞いたのか、または仲介者を通してだったのかを識別することが出来たのです。彼らの目標は伝承の信頼性を確証することであり、伝承者にハディースのイスナードを明言させていました。そのため彼らの時代(預言者逝去直後)に、伝承者たちはイスナードの明言を義務付けられたのです。第四代目正統カリフであり、フィトナ(試練)の時代の当事者だったアリーは、預言者から直接ハディースを聞いたと誓った人物に誓約をさせたほどでした。したがって明らかに、フィトナの後は伝承者がその典拠を述べるという同じ手順が踏まれるようになったと見るべきでしょう。1

フラータは、伝承者自身がハディースのイスナードを主張し始めた時期について、根拠の弱い伝承者と不道徳な人々がハディースを伝え始めたことから、イスナードの必要性が明白になったと述べています。その時代からは、伝承者自身がハディースのイスナードを確実に言及するようになったのです。アル=アァマシュはハディースを伝承する際に、“ここからが重要な部分だ” と言ってイスナードに言及しました。シャーム地方出身のアル=ワリード・ブン・ムスリムは述べています:“ある日アッ=ズフリーは言った。「ハディースの最も重要な部分について言及しないあなたたちは、一体どうしたというのですか?」その後、我々の教友たち(つまり、アラビア半島北部シャーム地方の人々)はイスナードを確実に言及するようになったのだ。”2 また学者たちは、イスナードなしにハディースを教える教師から学んだ彼らの生徒たちを叱りました。3 実際彼らはイスナードが付属しない全てのハディースを拒否したのです。バハズ・ブン・アサドはこう言っています:“「彼は私たちにこのように伝えた」と言わない者からハディースを受け入れてはいけない。” それはつまりイスナードのことを指しています。教養のあるムスリムたちは、たとえば歴史やタフスィール(クルアーン注釈学)、または詩など、ハディースとは関係ない分野でさえもイスナードを求めるようになったのです。

それによって、この問題についての詳細を論じたフラータは、次のような結論に行き着きました:

1.イスナードは、教友たちの時代から使用され始めたこと。

2.伝承者がその典拠を述べるよう最初に命じたのは、アブー・バクルであるということ。

3.上記を踏まえ、伝承者自身も各ハディースに付属するイスナードの言及に労を惜しまなかったこと。4

結論を言うと、ハディース伝承者がイスナードを全く言及しなかった時代はなかったのです。教友たちの時代においては、伝承者と預言者との間に仲介者が(通常は)存在しなかったため、イスナードの使用ははっきりとしたものではありませんでした。(教友たちの時代は、ヒジュラ暦110年に最後の教友の死をもって「公式に」終わりました。)アブー・バクルとウマルは、ハディースの信頼性を入念に確認していました。後に現れたアッ=シャアビーやアッ=ズフリーなどの学者たちは、ハディースと共にイスナードを言及することの重要性をムスリムたちに認識させました。この傾向は、大規模な敵対勢力の出現(そしてウスマーンの暗殺)によって、人々がハディース伝承は宗教そのものであると認識した際に特に顕著になりました。それゆえ彼らは、自分たちの宗教の源泉となるものの受容に非常に気を遣ったのです。初期以降はイスナードの適切な使用が標準化され、その知識はハディース学として独立しました。これは、ヒジュラ暦3世紀に有名なハディース諸集が編纂されるまで続いたのです。5

現実に、元来の教えの保持ということにおいて、神はイスナードの使用という独自の方法でムハンマドの共同体を祝福しました。ムハンマド・ブン・ハーティム・ブン・アル=ムザッファルは書いています:

“実に、イスナードによって神はこの共同体に名誉と特性を与え、他者から際立たせたのである。現在と過去において、我々以外にはいかなる共同体も連続したイスナードを保有していないのだ。彼らは(古代の)書字板を保有するが、彼らの書物には歴史的な言い伝えも入り交じっており、そこからは元来のトーラー、または福音書による教えと、後世になって追加された信頼に値しない(または不明な)伝承の違いとを識別することが出来なくなってしまったのである。”6

 


Footnotes:

1 Fullaatah, vol. 2, pp. 20-22.

2 Quoted by Fullaatah, vol. 2, p. 28.

3 Ibid., vol. 2, pp. 28-29. See the stories of al-Zuhri, Abdullah ibn al-Mubaarak and Sufyaan al-Thauri on those pages.

4 Fullaatah, vol. 2, p. 30.

5 実際に、ハディースの伝承にイスナードを言及する伝統はヒジュラ暦5年まで続きました。それ以降はほとんどがイジャーザ(学んだハディースまたは本から教えることの出来る免許状のようなもの)として書籍の形で受け継がれてきましたが、一部の学者たちは依然として預言者にまで遡る伝承者経路を述べ連ねることが出来るのです。参照:Khaldoon al-Ahdab,  Asbaab Ikhtilaaf al-Muhadeetheen (Jeddah: al-Dar al-Saudiya, 1985), vol. 2, p. 707.

6 Quoted in Abdul Wahaab Abdul Lateef, Al-Mukhtasar fi Ilm Rijaal al-Athar (Dar al-Kutub al-Hadeethiya, no date), p. 18.

5/7):初期のハディース論評と伝承者の評価 

ハディース保持におけるもう一つの重要な側面は、初期のハディース論評、そして伝承者たちによる評価でした。預言者の生前においても、教友たちはたびたび彼を訪ね、耳にした預言者にまつわる伝承の真偽を確認していました。アザミー教授はアル=ブハーリー、ムスリム、アン=ナサーイー、アハマドといったハディース集に言及しこのように述べています:

“(ハディース)批評が物事の正否を見極めるための努力なのであれば、それは預言者の生前に始まっていたと言えるでしょう。しかしこの段階においては、ただ預言者の元へ行き、伝えられたものに関して確認するだけのことでした…

“私たちはそのような調査や確認がアリー、ウバイ・ブン・カアブ、アブドッラー・ブン・アムル、ウマル、イブン・マスウードの妻であるザイナブなどによって行われていたことを知ります。これらの出来事を考慮すると、ハディースの調査、すなわち初歩的なハディース論評は預言者時代に始まったと言えるのです。”1

伝承を確証するためのこういった実践は、預言者(神の慈悲と祝福あれ)の死と共に終りを迎えることは明らかです。教友たちの時代では、アブー・バクル、ウマル、アリー、イブン・ウマルなどの著名な教友たちによって、お互いのハディースが確認され合っていました。たとえばウマルはハディースの適切な普及に関して厳格でした。サヒーフ・ムスリムにおいて、アブー・ムーサー・アル=アシュアリーの例を見て取ることも出来ます。ウマルは彼が伝えているハディースの証人を提示しなければ、彼を罰すると迫りました。アブドル=ハーミド・スィッディーキーによるこのハディースの注釈によれば、ウマルはアブー・ムーサーに疑念を抱いていたのではなく、ハディースの伝承において厳格な監査を求めていたのだとします。2

これに似た多くの例があります。アブー・フライラ、アーイシャ、ウマル、イブン・ウマルはハディースの確認をしていました。時に彼らは(上記のウマルとアブー・ムーサーの例のように、)お互いのハディースを参照し合っていましたし、時には“時間差検査”と呼べるような方法も用いていました。イマーム・ムスリムの記録によると、アーイシャがアブドッラー・ブン・アムルからあるハディースを聞いた一年後、彼女はアブドッラー・ブン・アムルに使用人を遣わしてもう一度同じハディースを聞かせ、彼は預言者から聞いたものが以前と同じのものであること、そして何も過ちや追加がなされなかったことを確認したのです。3

このような伝承経路の調査は、「アル=ジャルフ・ワッ=タアディール」という卓越した独自の学問を生み出すに至りました。そこでは文字通り、何千人もの伝承者たちの人生、学問的能力、道徳的資質などが詳細に渡って吟味されました。ハディースが認められるには、伝承者一人一人の道徳的・学問的な資質が共に求められたのです。どちらか一方が欠けていてもだめでした。優れた記憶力を持っていたり、情報の正確な記録に長けていたりしても、その人物が誠実かつ信頼に価する人物でなければ彼の伝えたハディース、すなわち最も重要な情報であるべきものは認められなかったのです。同様に、もしある人物が非常に敬虔で誠実であったとしても、文学的・学問的な素質がなく、情報を正確に伝えることが出来なかったのであれば、その人物の伝承は信頼性のないものと見なされました。

したがって、学者たちはハディースの伝承者の熟練度・正確性を確認するための様々な方法を生み出したのです。アザミーは、伝承者の熟練性を確かめるには4通りの方法があるとしています。彼はそれぞれの例を挙げていますが4、それらは以下の通りです:

(1)同じ学者を師として持つ異なる生徒のハディースの比較。例えば、ハンマード・ブン・サラマの書を17人のハンマードの生徒に読ませたヤヒヤー・ブン・マイーンの場合が挙げられます。彼はそうすることにより、(他の学者が伝えたものと比較することによって)ハンマードの過失と、(ハンマードの他の生徒のものと比較することによって)それぞれの生徒の誤りを見抜くことが出来ると述べています。

(2)異なる年代における、一人の学者の主張の比較。アーイシャのハディースで既述したように、彼女はアブドッラー・ブン・アムル・アル=アースに、一年前に述べたハディースの確証をさせています。彼女は彼がハディースに何の変更も加えていないことを確認することで、彼が預言者から聞いたことをそのまま暗記していたことを確信したのです。

(3)口述と著述された文書の比較。アザミーは以下の例を示しています:

アブドッラフマーン・ブン・ウマルはアブー・フライラによるズフル(昼)の礼拝についてのハディースを伝承し、それが夏場は早い時間帯からは遅延することが出来ると伝えました。アブー・ズラアはそれは間違いであると言いました。このハディースは、アブー・サイードの権威において伝承されています。アブドッラフマーン・ブン・ウマルはこのことを真剣に受け止め、忘れたりはしませんでした。彼は地元に戻って彼のハディース書を確認し、自分が間違っていたことに気が付きました。そして彼はアブー・ズラアに手紙を書き、自らの間違いを認め、彼の生徒とそれを聞いたその他の人々にその間違いを伝えてくれるよう、彼の手助けを求めたのです。そして彼は恥辱は地獄よりもましであり、そこには神の報奨があると言ったのです。5

(4)ハディースとクルアーンのテキスト比較。この実践は教友たちによって始められました。ハディースはまず、クルアーンとの比較に合格しなければなりませんでした。教友たちはクルアーンに矛盾するハディースは一つも認めず、そうでない場合は教友たちが間違えたか、もしくは預言者から聞いたものを誤解したかのどちらかであると結論付けたのです。彼らはクルアーンとスンナが本質的には一つの啓示であり、互いに矛盾することはあり得ないということを知っていました。

アザミーは伝承者の熟練度を確認するための上記の4通りの方法のみに言及していますが、他の方法も存在します。次のものは非常に一般的に使われる方法です。それらは一人の伝承者が伝えたものを他者の伝えたものと比較する方法(すなわち同じ師を持つ生徒同士によらないもの)、一つのスンナを他のものと比較し、ハディースのテキストを歴史的事柄に照らし合わせる方法などです。

 


Footnotes:

1 Mustafa Muhammad Azami, Studies in Hadeeth Methodology and Literature(Indianapolis, IN: American Trust Publications, 1977), p. 48.

2 Abdul Hamid Siddiqui, trans. and commentator, Sahih Muslim (Lahore, Pakistan: Sh. Muhammad Ashraf, 1972), vol. 3, pp. 1175‑6.

3 Ibid., vol. 4, p. 1405.

4 Azami, Methodology, pp. 52‑58.

5 Azami, Methodology, p. 56.

6/7):ハディース探求の旅

スンナの保持方法として現れたもう一つの現象は、情報源を確認し、より多くのハディースを収集するためのハディース探求の旅でした。世界中のあらゆる宗教的共同体において、イスラーム共同体だけが、二つの方法によって元来の純粋な教えの数々を保持し、その喪失を免れるという祝福を受けています。これら二つの方法の一つとは、既に言及されたイスナードの使用によるもの、そして二つ目はこれから述べられるハディース探求の旅によるものです。ムスリムたちの間に沸き起こった宗教的知識を求めようとする強い願望は、単に預言者(神の慈悲と祝福あれ)の言葉を集め、確認するためだけに彼らに数ヶ月もの旅をさせたのです。こうしたハディースへの献身と、現世における大きな犠牲をも厭わない姿勢が、預言者のハディースの完全なる保持に大いに貢献したのです。M・ズバイル・スィッディーキーは述べています:

これら「伝統主義者」たちの様々な世代によるハディース探求の活動は、驚嘆すべきものを見せつけたのである。彼らの目的に対する情熱は極めて強かったのだ。また彼らの意気込みは留まるところを知らなかった。そして彼らは、そのために災難を被ることもまったく厭わなかった。彼らの中の裕福な者はその富を捧げ、貧しい者はその命を捧げたのである。1

初期のムスリムたちにとって、知識に対する願望が非常に高かったのはなぜでしょう?この問いかけに完全に答えることの出来る者はいませんが、この高い願望を説明することの出来る多くの理由があったはずです。それらの理由として以下のものが含まれるでしょう:

(a)ハディースの知識は敬虔な者たちを預言者の慣行へと導き、さらに彼らはその前例に従うことにより、より神に近づくことが出来ることを知っているのです。

(b)クルアーン、そして預言者は共に知識取得の重要性とその功徳を強調しています。神はこう仰せられています:

“…言え。「知識ある者と知識のない者が同じであろうか。」…”(クルアーン 39:9

“…アッラーのしもべの中で知識のある者だけがかれを畏れる。…”(クルアーン 35:28

この件に関する預言者の多くの発言には以下のものが含まれます:

知識を求め旅立つ者のために、神は楽園への道を容易にされよう…”2(サヒーフ・ムスリム)

預言者はまた、このようにも述べています:

アダムの子が死ぬと、次の三つ以外のすべての善行は絶たれる:不断の喜捨、(彼の遺した)有益な知識、そして彼のために祈願する敬虔な子である。3(サヒーフ・ムスリム)

初期の学者たちは知識習得の重要性と共に、創造主に関する知識よりも優れたものはないということを認識していました。それゆえ彼らは預言者の教えを学ぶことにおいて、最善を尽くしたのです。

初期の例を知ることにより、ハディース探求の旅に関するはっきりとしたイメージが湧いてくるでしょう。実際には、ハディース探求の旅は預言者の時代には既に始まっていました。当時から人々は特定の問題に関して預言者に尋ねるために、マディーナの外からやってきていました。時には、預言者の代理人によって報告されたものを預言者本人に確認しに来る場合すらありました。アル=ブハーリーとムスリムの伝承集の中では、教友たちがそういった出来事を待ち望んでいたことを見て取ることが出来ます。なぜなら教友アナスが述べたように、彼らは預言者に多くの質問をすることを禁じられていたため、聡明なベドウィンが預言者を訪れて特定の質問をしてくれることを期待していたのです。

以下は、預言者に関して耳にしたハディースを確認するために旅をした教友たちの例です。4

イマーム・アル=ブハーリーはサヒーフの中で、ジャービル・ブン・アブドッラーが、アブドッラー・ブン・ウナイスによるたった一つのハディースを手に入れるため、一ヶ月の旅をしたことを記録しています。アッ=タバラーニーによって記録されたバージョンでは、ジャービルがこう言ったとされています:“私は懲罰について、預言者に関するハディースを聞いていたが、それを(預言者から直接)伝えていた人物はエジプトにいたため、私はラクダを購入してエジプトへと旅立った…”5

また教友の一人アブー・アイユーブは、ウクバ・ブン・アムルにたった一つのハディースについて尋ねるため、遥かエジプトまで旅をしました。彼はウクバに、この特定のハディースを預言者から直接聞いたのは、彼とウクバしか残っていなかったことを告げています。彼のエジプトでの任務であったそのハディースの確認を終えると、彼はマディーナに戻りました。

また、ある教友の一人はファダーラ・ブン・ウバイドのもとに旅をしました。そして彼は、ファダーラを訪れるために来たのではなく、ただ彼ら双方が聞いたとされるハディースのことを尋ねるために来たのであること、そして教友たちはファダーラがそのハディース全文を保存していることを望んでいるのを伝えたのです。6

これらの教友たちの逸話から、彼らがハディース探求の旅に出たのは基本的に二つの理由からであると結論付けられます:

(a)彼ら自身が預言者から直接聞くことの出来なかったハディースを、教友仲間から聞き出すため。すなわち、そうすることによってハディースの知識を増やすため。

(b)彼ら自身、または他の教友たちが預言者から直接聞いたハディースの内容、そしてその意味を確認するため。そのため、教友たち自身も常に確認を繰り返し、彼らの伝えるハディースの純粋性を保護していたのです。

教友たちの弟子(タービウーン[追従者たち]と呼ばれる者たち)の時代になっても、ただ預言者のハディースを聞くためだけ、あるいは確認するためだけに旅をする願望は消えうせませんでした。マディーナは預言者が長年に渡って生活したスンナの発祥地でもあり、教友たちの多くは預言者逝去後もそこに住み続けたため、知識探求の中心地でした。しかし実際にはある特定のハディースが伝えられていれば、そこがどこであれ「旅行者」の目的地となったのです。

そのような例には枚挙の暇がありません。アル=ハティーブ・アル=バクダーディーは、ハディース探求の旅に関する著作を残しています。アッ=リヒラ・フィー・タラブ・アル=ハディース(「ハディース探求の旅」)と題されてた書です。この書が、ただ単にハディースを学ぶために旅した学者たちに関することだけを取り上げているわけではないことは、この著作への関心をさらに高めます。ハディース探求の旅はほぼすべての学者たちによって、イスラームの歴史を通して行われていたのです。実際、もし学者が旅をしなければ、それは奇妙なことであるとさえ見なされていました。つまりこの本は、編集を行ったヌール=ッディーン・イトルにより指摘されているように、たった一つのハディースを求めてなされた数々の旅について書かれたものなのです。7

 


Footnotes:

1 M. Z. Siddiqi,  Hadeeth Literature: Its Origin, Development, Special Features and Criticism (Calcutta: Calcutta University Press, 1961), p. 48.

2 サヒーフ・ムスリム

3サヒーフ・ムスリム

4 更なる例を知りたいお方は、この文献をご参照ください:Akram Dhiyaa Al-Umari,Buhooth fi Tareekh al-Sunnah al-Musharrifah (Beirut: Muassasah al-Risaalah, 1975), pp. 203f.

5 イブン・ハジャルはこのバージョンの伝承経路を良好のものであるとしています。参照:Ibn Hajar, Fath al-Baari, vol. 1, p. 174.

6 この出来事はアブー・ダーウードによって記録されています。

7  See Noor al-Deen’s introduction to al-Khateeb al-Baghdaadi, al-Rihlah fi Talab al-Hadeeth (Beirut: Daar al-Kutub al-Ilmiyyah, 1975), p. 10.

7/7):要約

ここまでは、アッラーによって預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)のスンナが保持されてきた重要な方法の一部について、ごく簡潔に見て来ました。特筆すべきことは、事実上、預言者の時代からこれらの保護手段が用い始められていたことです。そこには膨大な情報の消失や歪曲のための扉を開く、時間のずれがありませんでした。

以下では、M・Z・スィッディーキーによって、初期のスンナ保護がどういったものだったのかが非常に良く要約されています:

ムハンマドの言行録としてのハディースは、イスラームの最初期から現在に至るまで、ムスリム世界の信仰者たちによる熱心な追求と、不断の研究が続けられてきました。ムハンマドの生前、多くの教友たちは彼が何を言ったのであれ、それを暗記しようと試みましたし、彼の行動を注意深く観察してそれらを他人に伝えたのです。彼らの一部は彼の発言をサヒーファ(羊皮紙)に書き写し、後に彼らの生徒に読まれ、彼らの家族や追従者たちによって保存されました。ムハンマドの死後、彼の教友たちが諸外国に拡散した際、彼らの一部とその追従者たちは貧困を顧みない辛く厳しい長旅に出て、それらの収集に努めたのです…彼らによるハディースの保持と伝達の驚愕すべき活動は世界における文学史上、独特であり…(その学問としての卓越性は未だに)今日に至るまで、他には類を見ないものです。1

究極的には、これらの過程がハディース学と、預言者へとつながる伝承経路の詳細な等級制度を磨き上げたのです。一般的に学者たちは、信頼に値する伝承者たちからなる、預言者にまで遡る完全な伝承経路でない限り、真正なハディースとして認定しません。それ以外のものは、どういったものであれ脆弱なハディースとして却下されるのです。

人はハディース学問を学ぶほど、アッラーがクルアーンにおいて明言されているように、預言者の教えが細部に至るまで保持されていることを確信することが出来るのです。その分野における専門家であり、その研究に生涯を費やすハディース学者がハディースの真正性に合意するとき、そこに議論や質問の余地はありません。私たちに唯一残されたことは、それを信じ、そのハディースの意味合いを日常生活において適用することに最善を尽くすだけなのです。

他の啓典との比較

一部の欧米人たちによって、預言者のハディースが言及される際は「伝説」といった誤解を与える用語が使われるのが一般的です。これはただちに、でたらめで非学問的な伝承といった印象を与えます。上記で仄めかされたように、現実は完全に異なります。それゆえ、この「伝説」という単語の使用は、ハディースが保持されていなかったという印象を与える目眩ましに過ぎません。別の一般的に用いられる説明は、ハディースの保持が、福音書のそれと似たようなものだったというものです。

これは明らかに、多くの人々に間違った印象を与えかねない狡猾な表現です。事実、大勢の改宗者たちは福音書を学習し、それらの信頼性がいかに低いかを知っています。これこそが、彼らがキリスト教以外の宗教を探求し出した原因なのです。それゆえこういった表現は、彼らのハディースへの信念を揺らがせます。

揺らぎない真実とは、預言者のハディースの詳細かつ科学的な保持と、初期の諸啓典(旧・新約聖書)とは対等な比較が出来ないということです。初期の諸啓典の保持法(またはその欠落)に関するごく簡潔な説明でさえ、ハディース保持のそれとの明瞭な差を指し示すのに充分だからです。

トーラーの歴史に関する長い議論を終えたあと、ダークスはこう結論付けています:

我々の手元にあるトーラーは、一冊の単一的な書物ではありません。幾層にも重なる、切り取りと貼り付け作業の繰り返された編纂書なのです。トーラーが象徴するともいうべき、元来の啓示を下されたモーゼが生きた時代は紀元前15世紀とされ、大目に見積もっても紀元前13世紀以降には生きていませんでした。そして私たちの手許にあるトーラーは、その時代よりもはるか後のものなのです。識別可能な最古のトーラーの断片は、紀元前10世紀のものであり…さらに、異なる断片同士が組み合わされたのは紀元前およそ4世紀のことで、それはモーゼの死後1,000年も経ってからのことでした。また、トーラーは一度も標準化されたことがなく、西暦1世紀、つまりモーゼの死後1,500年後には4つもの異本が存在していました。それに加え、もしもマソラ本文を公式なトーラーのテキストであると見なすのなら、現存する最古の写本は西暦895年、つまりモーゼの死後2,300年も経った時代のものなのです。つまり、トーラーには元来のテキストが一部混ざっているかも知れませんが、その典拠の大半は不明であり、モーゼに遡るものであるとすることは到底出来ません。

イエスはモーゼの数世紀後に現れましたが、彼の受けた啓示も同じ運命を辿りました。 Fellows of the Jesus Seminar(フェローシップ・オブ・ジーザス・セミナー)と呼ばれるキリスト教学者による団体が、イエスの言葉のどれが実際に真正のものかを分析したところ、“福音書において彼の言葉であるとされるものの82%は、実際には彼によるものではない。”2と結論付けています。福音書の歴史に関しても、彼らはこのように述べています:“揺るぎない事実として、ギリシャ語福音書は1世紀の創作から3世紀初頭にその写本が発見されるまで、その歴史が知られておらず、未知の領域なのである。”3バート・イーアマンの著書The Orthodox Corruption of Scripture では、啓典が時間と共にいかに改変されてきたかが分析されています。彼の論文では、詳細とともに次の主張が証明されています:“私の論題は単純に、次のように述べることが出来る:律法学者らはたびたび彼らの聖典に改変を加え、自分たちの主張をより明白に正当化し、異端的な視点を持つキリスト教徒らによる使用を妨げようとしたのである。”4 信条とは伝達されたテキストに基づくべきものであり、信条に沿うよう改変されたテキストであってはならないのです。

クルアーンに関する備考

クルアーンとは、預言者の言行録とは極めて異なる性質のものです。当然ながら、言行録の総量は膨大な数に及びますが、クルアーンは非常に限定的です。クルアーンは分厚い本とは言えませんし、預言者ムハンマドの時代から記憶と筆記の双方によって保持され続けて来ました。他の宗教界に見られた堕落を恐れた預言者の教友たちは、その多くがクルアーンを全暗記し、いかなる歪曲からも守られるような必要措置を取りました。預言者の死後まもなく、クルアーンは一冊にまとめられ、テキストの純潔性が保たれるよう、その後すぐに公式な写本が各地に配布されました。現在に至るまで、世界のどこかの国へ行ってクルアーンを手にとってみれば、他のものと全く同じクルアーンを見出すことが出来るのです。クルアーン保持の任務と、大量にあるスンナの保持とは比較の対象にすることが出来ません。それゆえ、当時のムスリムたちの姿勢からも見て取れるよう、クルアーンが完全に保持されていることはそれほど驚くことでもないのです。

 


Footnotes:

1 M. Z. Siddiqi, pp. 4-5.

2  Robert W. Funk, Roy W. Hoover and the Jesus Seminar, The Five Gospels: What did Jesus Really Say?  (New York: MacMillan Publishing Company, 1993), p. 5.

3 Funk, et al., p. 9.

4  Bart D. Ehrman, The Orthodox Corruption of Scripture: The Effect of Early Christological Controversies on the Text of the New Testament (New York: Oxford University Press, 1993), p. xi.