質問

護符やそれを掛けること。護符で邪眼やハサド(妬み)を避けることができるのですか。

お守りが許されるか知りたいのです。キターブ・タウヒードやビラール・フィリップの本を読みましたが、 アル・ムワッタの中で、ある種のお守りを認めているハディースが有りました。キターブ・タウヒードはサラーフを認めていると書いています。アル・ムワッタのハディースは第五十巻、ハディース4、11、14です。これらのハディースの信憑性を教えてください。そしてこの問題について詳しく説明してください。ありがとうございます。
回答
回答

アッラーに讃えあれ。 まず、私たちは、質問者が尋ねているアハディースの文章を知りませんので、その信憑性を判断することはできませんでした。質問者はアル・ムワッタの第五十巻と言っていますが、アル・ムワッタは第1巻しかありません。 この問題について述べているアハディースを引用し、インシャアッラー、この問題に関する学者の規則を説明します。それが質問者の求めているものであることを願います。 1. アブドッラー・イブン・マスードの伝承によると、アッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)は次のように申された: 「アッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)が嫌いなものが10ある。それは、黄色の染色、ハルーク(サフラン製の香水)、白髪染め、引きずったコート、金の指輪、博打、マハラム以外の人の前で着飾る女、ムアッウィドハタン以外で呪文(ルキヤ)を使うこと、護符を付けること、授乳中の女性と性交することである。しかし彼はそれらが禁じられているとは明言しなかった。」 (アル・ナサーイ 50880、アブダウード 4222の伝承) 「授乳中の女性との性交」は、母親が妊娠した場合、授乳中の子供にとってよくないという意味である。 このハディースはダイーフ・アルナサーイ3075の中で、アル・アルバーニがダイーフ(弱い)と分類された。 2. アブドッラー・イブン・マスードの妻ザイナブはアブドッラーの言葉を伝えている: 「私はアッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)が『お守り(ルキヤ)、護符、まじないはシルクである』と言われるのを聞いた。『あなたはどうしてそう言われるのですか。アッラーにかけて、私の目から目やにが出ていましたので、ユダヤ人がお呪いをしてくれました。その後よくなったのです』と尋ねると、アブドッラーは『それは目を彼の手でつついていた悪魔の仕業に過ぎない。ユダヤ人が呪文を唱えると、悪魔はその手を止めた。あなたにとって必要なことは、アッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)が申されたように、『アドヒビル・バスラッバル・ナアス・イシュフィ・アンタ・アルシャーフィ・ラア・シファア・イッラー・シファーウカ・シファアン・ラア・ユガアディル・サカマン(人類の主よ、苦しみを取り除いて治してください。あなたは癒す方であられる。あなたの癒しの他に癒しはない。病を後には残さない。)』 と言うことである』」 (アブ・ダウード 3883; イブン・マアジャ 3530の伝承) このハディースはアル・シルシラート・アルサヒーヒ331、2972の中で、アル・アルバアニがサヒーヒに分類している。 3. ウクバン・イブン・アアミールの伝承によると、「私はアッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)が「アッラーは護符を付けるものは誰でも、かれらの必要なものを満たしてはくれない。アッラーは貝殻を身につけるものには、誰も平安を与えてくれない。」 (アハマドの伝承16951) このハディースはダイーフ・アルジャアミ5703の中で、シャイク・アルアルバアニがダイイフに分類している。 4. ウクバン・イブン・アアミル・アルジュハニが伝えるところによると、ある一団がアッラーの預言者(彼に平安とアッラーの御加護を)のところにやってきた (かれに同盟(バヤア)を誓った)。彼はその中の9人のバヤアを受け入れたが、一人だけ認めなかった。その一団は「アッラーの使徒よ、あなたは一人をのぞいて9人のバヤアを受け入れた。」預言者は答えた。「彼はお守りを身につけている。」その男は(シャツに)手をおいて、それを取り除いた。その後、預言者(彼に平安とアッラーの御加護を)は男のバヤアを認めた。彼は「お守りを付けるものはシルクの罪を犯している」と申された。 (アハマドの伝承、 16969) このハディースはアル・シルシラート・アルサヒーヒ492の中で、アル・アルバアニがサヒーヒに分類している。 第二: 護符 (タミーマ、タマーイム(複数形)) は真珠や骨で造られ、子供や大人の首にかけたり、家や車の中に掛けて、魔除け、特に邪眼を避けたり、福をもたらす。 いろいろな護符に関する学者の見解とそれぞれに対する規則が以下に述べられている。これらのコメントは重要で、有用な観点を述べている。 1. シャイク・スレイマン・イブン・アブドル・ワハブの言葉 「クルアーンの言葉や、アッラーの御名や属性だけが書かれた護符を掛けることが許されるかどうかについて、サハーバとタアビーンの学者とその後に続く学者の間で、見解の違いがある。」 一方のグループはこれを認めている。この見解はアブドッラ・イブン・アムル・イブン・アルアースなどが支持している。これはアイシャの伝承で明らかであり、一つの伝承によると、アブ・ジャファル・アルバアキルおよびアハマドの見解であった。かれらは、このハディースがシルクを含む護符に関するものとして解釈している。クルアーンの言葉、アッラーの御名や属性を含む護符に関して、それらは同じ言葉を使うルカイヤのようなものである。 これをイブン・アル・カイイムの見解に示される。 別のグループは、この護符を認めない。イブン・マスードおよびイブン・アッバースの見解であり、フダイファ、ウカバ・イブン・アアミール、イブン・アキーム(かれにアッラーの恩寵を)の見解で明示されている。これはまた、イブン・マスードやアハマドの教友を含むタアビーンのグループの見解であり、教友の大半が選んだ伝承である。これは後世の学者の見解であり、かれらはこのハディースや類似のアハディースを証拠として引用している。明らかに、護符全般についてであり、クルアーンを含む護符と他の言葉を含む護符の違いを区別していない。違いを認めるルカイヤとは異なる。この説は、上記のイブン・マスードが引用されているように、ハディースを伝えるサハーバが一般的な意味として理解した事実によって、支持されている。 アブ・ダウードはイーサ・イブン・ハムザの言葉を伝えている。「私がアブドッラー・イブン・アキームを訪ねると、彼の顔が高熱のため赤くなっていた。私が『どうして護符をかけないのか』と尋ねると、かれは『我々はアッラーに救済を求める。アッラーの使徒(彼に平安とアッラーの御加護を)はなにかを掛けるものは、それにすがることになると申された』」 この学説の違いは、クルアーンの言葉、アッラーの御名や属性を含む護符を掛ける行為についてであり、後世に創り出されたものについてはどう思いますか。シャイターン(悪魔)等の名前を使った呪文(ルカイヤ)をしたり、それを掛けたり、シャイターンに依存したり、助けを求めたり、シャイターンのために動物を殺したり、護身や恩恵をシャイターンに頼むこと、これらは明らかにシルクの行いでないだろうか。預言者(彼に平安とアッラーの御加護を)の言葉、サハーバやタアビーンの行い、そして後世の学者がこの問題について述べていることを考えなさい。後の世代がどうなったかを観察しなさい。使徒(彼に平安とアッラーの御加護を) の宗教が本来どうであったのか、そして現在、あらゆる方面で逸脱してしまったことがはっきり分かるでしょう。我々がすがることができるのはアッラーだけである。 (タイシール・アルアジーズ・アルハミード、 p. 136-138) 2. シャイク・ハーフィズ・フクミの言葉 明確に書かれたクルアーンの節やサヒーヒ・アハディースが護符に含まれる場合、サラーフ−サハーバ、タアビーン、彼らに従う人々の間で、これらの護符が許されるかどうかについて見解の相違がある。 一部のサラーフは、この種の護符を認めている。サラーフの中で、アイシャ(彼女にアッラーの恩寵を)、アブ・ジャラファル・ムハンマド・イブン・アリその他の人々が伝えている。 サラーフの中で、これを認めない人々がいる。彼らはこの種の護符をマクルーとみなして、認めていない。アブドッラー・イブン・アキーム、アブドッラー・イブン・アムル、ウクバン・イブン・アアミール、アブドッラー・イブン・マスードおよび彼の教友アル・アスワード、アルカマー、そしてイブラヒーム・アルナハイなど後世の人々である。アッラーが彼らにご慈悲を賜らんことを。. 明らかに、護符を認めないことは、特に現代においては、誤った信仰に陥ることを防ぐための安全な予防措置である。サハーバやタアイビーンの大半が、彼らの心の信仰が山よりも大きかった当時の高潔な時代に、このような護符をマクルーとみなしていたならば、現代の困難な時代に、マクルー と見なす方が適切であり、より安全であるといえる。認めた場合、人々が完全にハラームであることを行ったり、ハラームを行う手段にするのではないだろうか。たとえば、護符を作るときに、クルアーンの節や章、ビスミッラー・ヒルラハマーン・ニッラヒーム(慈悲深く、慈愛あまねきアッラーの御名において)を書いて、その下に邪悪な戯言を入れる。その内容は本を読んだことのあるものしか意味が分からない。またそれらは一般の人々が心からアッラーに委ねることを忘れさせ、彼らは自分が書いたことに頼るようになり、何かが起る前に、人々を脅かすことになる。お金を騙し取ろうと目論んでいる人間がやってきて、相手が自分のことを信じていることが分かっているため、「あなたの家族、またはあなたの財産やあなたに、こんなことが起る」とか、「ジンの中のカリーン(背後霊)がいる」と言ったり、シャイタンーンが彼に囁いたことを相手に説明することで、彼には真の洞察力があり、相手のことを心配して、幸運をもたらしたいと思わせる。無知な愚か者の心が恐怖でいっぱいになると、主から遠ざかり、この山師に心魂を委ねてしまう。彼は山師に心服し、アッラーの代わりに信頼を寄せて、山師に「あなたが話してくれたことから抜け出すにはどうすればよいのか。それらを避ける手段は何ですか 」と尋ねる。まるで彼(この山師)が損得を支配しているように錯覚する。この時点で山師は自分の望みを達成し、貪欲になって、どれだけ相手から騙し取れるかを思案する。山師は愚か者に「いくらいくらもらえば、こんなに長くて大きなお守りを書いてあげましょう」と言う。かれは抜け目ない話し方で説明する。その後、愚か者はお守りを掛けて、病気から守られると期待する。あなたがたはどう思いますか。このような信仰は、ある種の些細なシルクだとおもいますか。そうではありません。これはアッラーの外のものを神と見なし、アッラーの外に信頼を寄せ、アッラーの外のものに向かって、創造物の行為に依存し、本来の宗教から逸脱する行為である。シャイターンは、人間の中の邪悪な人々の助けなしにこのような計略をすることができるだろうか。 「言ってやるがよい。『慈悲深き御方(アッラー)(の怒り)から、昼夜誰が、あなたがたを守れようか。それでもかれらは、主を念じることから背き去る。』 [預言者章(アル・アンビヤーゥ 21:42 – 意味の解釈) そして、護符の邪悪な戯言の横に、クルアーンの言葉を書いて、タアヒル(清浄な状態)でないときや、小不浄や大不浄のときに身につける。またそれを大切にせず、他のものから遠ざけておく。アッラーの敵でさえ、このような自称ムスリムの異端者の不遜な態度で、聖典を扱ったことはない。アッラーにかけて、クルアーンは朗誦し、従うために啓示された。クルアーンの命令に従い、禁じられたことを守り、教えを信じ、規則を守り、格言や物語を教訓にし、それを信じることである。 “これは凡て (明らかな章も、明らかでない章も)主から賜ったものである…” [アーリ・イムラーン 3:7 – 意味の解釈] しかしこれらの人々はその凡てを無視し、自分たちの背後に放り出した。かれらは生活の糧に必要な最小限度の言葉を覚えているに過ぎない。それは許されたことではなく、禁じられたことをするために必要な生活の糧を稼ぐ他の手段と同じである。王や統治者が自分の家臣に手紙を書いて、家臣に許されることと禁じられることを話し、彼の領地内で人民に許される行為と禁じられた行為を命じているにもかかわらず、家臣がその手紙を読まず、その指示のことを考えずに、家臣が伝えるべき人民にその命令を伝達せず、そのかわりに自分の首か腕に掛けて、その内容に全く注意を払わなければ、王は彼を厳罰に処するであろう。それでは天と地の大権者、天と地の最高者、最初と終わりに全てが讃えられる御方、凡てのものが戻る御方、我々の崇拝と信頼を凡て委ねる御方、自足される御方、他に神はなく、私の凡ての信頼を委ね、大いなる玉座の主である御方から啓示されたことはどうなるのであろうか。 護符が二つの啓示 (クルアーンとサヒーヒ・スンナ)以外のものを含む場合は疑いなく、シルクであり、イスラームの本質から大きく逸脱したアズラム(ジャヒリーヤの時代に、運を求めたり決断を下すために使われた矢)のようなものである。 護符が二つの啓示以外のものを含み、ユダヤ人や寺院、星、天使、その他ジンの助けを借りたものの崇拝者の戯言を含むもの、真珠、紐、鉄の輪などで作られ、それらを壁に掛けたり、身につけることは明らかにシルクである。それらは許される手段ではなく、病を癒す手段としては認められない。いわゆる特別な徴のために、問題や痛みを取り除くと彼らが信じているに過ぎない。これは偶像を信じる偶像崇拝であり、無明時代に人々が至る所に携帯し、決断を下すときはいつでも使ったアズラーム(賭矢)と同じである。三本の矢があり、第1は「やりなさい」、第2の矢は「やめなさい」、第3の矢は「もう一度試しなさい」と書かれている。「やりなさい」と書かれた第1の矢を取ると、即断して物事に取り掛かる。「止めなさい」と書かれた第2の矢を取ると、止めておく。「もう一度」と書かれた第3の矢を取ると、もう一度矢を取る。アッラーは賭け矢の代わりに、素晴らしいイスティハーラの祈りを授けられた。 最後に、クルアーンやスンナの書かれていない護符は、アズラムのようなものであり、誤った信仰に陥り、シャリアに反しており、イスラームの本来の教えから逸脱している。真のタウヒードを信じるものは、できるだけこういったものから遠ざかる方が良い。彼らの心の中に、このような逸脱が入り込む余地がない。真の信仰者の位置は高く、彼らの信仰は確固たるものであり、アッラーの外に信頼を寄せたり、御加護をアッラーの外に求めはしない。アッラーは強さの源である。 (マアリジュ・アルクブール、 2/510-512) 我々のシェイクの見解では、クルアーンの言葉が書かれていても護符を認めない。 3. 宗教委員会の学者の言葉 学者は、クルアーンの言葉以外のものを含む護符を付けることはハラームと定めている。しかしクルアーンを含むものに関して見解の相違がある。一部の学者は認めているが、他の学者は認めていない。認めていない学者の見解の方が、アハディースの一般的な意味、およびシルクを避ける手段として、より正しいと思われる。 シェイク・アブドル・アジーズ・イブン・バース、シェイク・アブドッラー・イブン・ガダイヤン、シェイク・アブドッラー・イブン・カウード (ファトワ・アル・rジュナ・アル・ダイマー、 1/212) 4. シェイク・アル・アルバアニ (彼にアッラーのご慈悲を)の言葉 この誤った教えがベドウィン、フェラヒン(農夫)、市民の間で広がっている。車の中やバックミラーに真珠を掛けるドライバーがその一例である。車の前後に古靴を掛けるものがいる。馬の蹄鉄を家や店の前に掛けている。これらはすべて邪眼を避けるためであり、そう言われている。タウヒードの無知が原因で広がったものや、シルクや偶像崇拝の行為としてタウヒードを無効にする行為がある。この偶像崇拝を終わらせるためにだけ使徒が送られ、聖典が啓示されてきたのである。我々は今日のムスリムの無知、彼らが宗教から遠ざかっていることをアッラーに訴えているのである。. (シルシラート・アル・アハディース・アル・サヒーヒ、 1/890, 492) アッラーはすべてご存知である。
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