イスラームにおける崇拝の精神

イスラームにおける崇拝の精神

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(その1):崇拝と礼拝

 

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イバーダ(崇拝)とはアラビア語のアブド(奴隷、しもべ)という言葉に由来し、服従を意味します。その言葉は、神があなたの主であり、あなたはかれのしもべであることであり、しもべが服従行為として行うこと、かれの主の喜びのために行うことは何でも、イバーダなのです。イスラームにおけるイバーダとは、広範なものです。もしあなたが下品な会話、嘘、悪意のある言葉、乱暴な言葉を避け、たとえ外見では世俗的に見えたとしても、真実を言い、良い言葉を話し、これらのことを神への服従のために行うなら、これもイバーダです。もしあなたが、商業や経済において言葉と精神によって神の法に従い、あなたの両親、親戚、友人、その他あなたに関わる全ての人との関係において、神の法に従うのなら、あなたの全ての行動はイバーダです。あなたが貧者を助け、空腹の者たちに食べ物を与え、病人や災害にあった者たちに施し、それらの行動が自分自身の利益のためではなく、神のためであるなら、それらもイバーダ以外の何ものでもありません。あなたの経済活動、つまり、あなたが生活のために稼ぎ、扶養家族を養うための仕事においても、あなたが正直で誠実であり、神の法に従うのなら、それもイバーダです。つまり、あなたの人生の中で行う事は、それが神の法に従ったもので、あなたの心が神への畏怖に満ちており、それらの行動の最終的な目的が神の喜びを得ることであるのなら、それはイバーダとなるのです。

それゆえ、神への畏れからあなたが善行を行い、悪行を避けるのなら、それが人生のどの時点であっても、その活動がどの分野のものであっても、あなたはイスラームにおける義務を果たしていることになります。これがイバーダにおける最も大切なことなのです。つまりそれはアッラーの喜びのための絶対服従であり、あなたの人生にイスラームの造型をはめこむことであり、どんな小さなこともそれにあてはめることなのです。この目的を果たす為に、形式的なイバーダ(崇拝活動)も課せられており、それがいわば訓練として役立っています。これらのイバーダは、イスラームという建築の柱となるのです。

サラー(礼拝)が主要でもっとも重要な義務です。では、サラーとは何でしょう? それはあなたが心をよせる信仰を一日に五回、くり返し新たにさせる礼拝のことです。早朝に起き、自らを清め、祈りのために神の御前に立ちます。礼拝の中でする様々な姿勢はまさに服従の精神を体現化したものです。様々な朗誦はあなたの神への約束を思い出させます。あなたは神の導きを求め、彼に繰り返し、神の怒りを買う行動を起こさないで済むようにと願います。主の啓典を読み上げ、預言者(彼の上に神の慈悲と祝福あれ)の真実を証言し、審判の日に対する信仰を自らに思い起こさせ、あなたの記憶の中で、あなたが主の前に立ち、自分の人生を説明しなければならないという事実を生かすのです。それが一日の始まりです。

そして、ムアッズィン(礼拝を呼びかける者)が礼拝の呼びかけをしてから数時間後、またあなたは神に従い、彼との約束を新たに守るのです。あなたは自分の世俗的な活動から数分離れ、神との対話を求めます。このことで、あなたの人生における本当の役割が思い出せるのです。こうして再び神に従った数時間後、また普段の活動から離れて神の前に立ちます。これもまた、あなたに自分の役割を思い出させ、あなたは信仰における契約に自分の気持ちを持っていくことができるのです。太陽が沈み、あたりが暗くなった時に、またあなたは礼拝という形で神の前に服従を示し、暗闇があたりを覆う時に、あなたが自らの役割と義務を忘れないようにするのです。そして眠りにつく前に自らの信仰を新たにし、神の前に額ずきます。そしてこれで一日の終わりです。礼拝の回数と時間帯のために、あなたは決して人生の意味を忘れず、世俗の中で道を失わないのです。

礼拝がどのように、あなたの信仰の基礎を固め、神に従うための正しい生活を可能にし、勇気と誠実さと目的意識と純粋な心と魂の発達、そしてモラルを与える信仰を新たにするのに役立っているかということを理解するのは簡単です。

ではそれがどのように達成されるか見てみましょう。ムスリムは預言者が教えた通りに身を清めます。そして預言者の教え通りに礼拝を行います。それはなぜでしょう? それは単純に、預言者ムハンマドが神の使徒であるということを信じているからで、彼に余すところなく従うという義務を果たしているからです。どうしてわざとクルアーンを誤って朗誦しないのでしょう? それは彼らがその啓典を神の言葉と考え、一文字誤ることが罪だと知っているからだと思いませんか? 礼拝では、彼らは多くの言葉を静かに朗誦しますが、朗誦しなかったり、誤って朗誦したとしても、それを確認する人などいません。しかし、彼らは決してわざと、そんなことはしません。なぜでしょうか? それは彼らが神は常に彼らのことを見ており、彼らが朗誦する全てを聞いており、隠された事も、公にされた事もすべて分かっていると信じているからです。

(その2):礼拝と断食

誰にも頼まれず、またそれを確認する人もいないのに、ムスリムが礼拝を守るのはなぜでしょう? それは、神が常に彼らの礼拝を見ているという意識からではないでしょうか? 彼らに、重要な仕事やその他の作業から去らせ、礼拝のためにモスクに向かわせるものは何でしょう? 彼らが温かい寝床を夜明け前に去り、午後の熱い日差しの中モスクへ向かい、仕事後の楽しい時間を抜けて礼拝堂に向かうのはなぜなのでしょう? それは義務感、つまり、彼らが主への責任を果たさなければいけないという意識以外の、何ものでもありません。なぜ彼らは、礼拝中に間違いを犯すことを怖れるのでしょう? それは彼らの心が神への畏怖で満たされ、彼らは、私たち全員が審判の日に神の前に立ち、私たちの人生について裁かれるということを知っているからです。

考えても見て下さい。礼拝をすること以上に、モラルと精神の訓練において優れたものがあるでしょうか? これこそが人を完全なムスリムにする訓練なのです。礼拝がムスリムに、神との契約を思い出させ、彼の信仰を新たにさせ、最後の審判の日への思いを保持させるのです。それによって預言者(彼の上に神の平安と祝福あれ)に従うことができ、彼に与えられた義務を果たす訓練を受けられるのです。

これは確かに、彼の習慣をその理想へと近づけるための厳しい訓練です。間違いなく、その人が彼の、主に対する責任を常に念頭においており、全ての世俗的な楽しみの上に彼の宗教を置き、礼拝でその気持ちを常に新たにしていくことができるなら、彼が、心から避けたいと願っている神の怒りは避けられるでしょう。彼は人生の全ての面において、礼拝に毎日忠実に従ったように、神の法を守りながら生きていくことができるでしょう。こういう人は、罪や虚偽を犯す危険にさらされたときも、神への畏怖からそれを避けるよう努力するので、他の活動分野でも信頼を置けます。もちろん、そのような訓練の後でも、間違いを犯すこともありますが、それは彼本人の内在的な欠陥なのです。

そして、ムスリムは、特に金曜礼拝のときは集団で礼拝をしなければなりません。これによりムスリム同士の愛情と理解が生まれ、団結力と同胞愛が育まれるのです。ムスリムたちは皆、集団で礼拝を行う事から同胞愛が芽生えると言っています。礼拝はまた平等さの象徴です。全てのムスリムが、貧富の差、身分の違い、教育、人種の違い関係なく一列に並び、彼らの主の前に額ずくのです。また礼拝は、自制心と選ばれたリーダーへの忠誠を教えます。つまり礼拝によって、これらの美徳を学び、個人として、そして団体の一員としての豊かな生活を発展させることができるのです。

以上は、無数にある礼拝の徳のごく一部です。これらの徳を得ようとしなければ、自分たちが敗者になるだけです。もしムスリムの中で礼拝をしない者を見つけたら、それには二つのことが考えられます。つまり彼らは礼拝を自分たちの義務と気付いているか、もしくは気付いていないかです。もし前者であるなら、彼らの信仰は偽善に満ちたものです。なぜならアッラーの命に背くということは、かれの権威を認めていないということになるからです。後者なら、かれの権威を認めていることにはなりますが、それでもなおその命に背くというのであれば、この地球上で最も信用できない人間の一人であるというだけのことです。世界で最も権威ある主に背く事ができるなら、他の人間に対して背くのは簡単でしょう。欺瞞が社会を覆うとき、全ては歪んでしまうでしょう。

断食

礼拝は一日に五回することになっていますが、ラマダーン(太陰暦の9月)は一年に一度の義務です。この一ヶ月間、日の出から日没まで、たとえどんなに美味しそうな食事が目の前に出されても、どんなに喉が渇いていようとも、ムスリムは一切の飲食を断ちます。なぜ彼らは自ら、このような辛そうなことをするのでしょう? それは、神と審判の日への信仰と畏怖から来るもの以外の何でもありません。この断食のときは常に、ムスリムはその情念と欲望を抑え、神の法の偉大さを体で表現するのです。この一ヶ月の断食を乗り切る義務感と忍耐は、ムスリムの信仰を強めます。この月の苦難と鍛錬が、生活の現状と向き合い、残りの一年を主の意思に仕えるものにするよう、彼らを鍛えるのです。

また別の視点から見てみると、断食は全てのムスリムに多大な影響を与えます。その社会的地位に関係なく、全てのムスリムは断食をしなければなりません。そのことで、全ての人々が平等であるということが強調され、そのために次第に同胞愛が生まれてくるのです。ラマダーンの間は、悪は潜み、善が表に出され、全体の雰囲気が信仰と純潔に満ちます。この決まりは、ムスリム自身のためになるものです。この規則を守らない者は、他の義務においても信用を置けません。しかし、ラマダーンの間に公の場で飲食する者もいます。この人たちはアッラーからの命令を全く意識しておらず、彼らの創造主であり、扶養者である御方に対して偽りを述べる者です。それだけではなく、彼らはイスラーム共同体の仲間ではなく、全く関係ない人たちだと自ら示しているのです。神から与えられた命令と信頼関係において、このような事ができるのは偽善者たちだけなのです。

(その3):ザカーとハッジ

ザカー

3つめの義務はザカーです。経済的にある一定以上の蓄えがあるムスリムは、年間の蓄えの2.5パーセントを貧しい仲間たちのために払わなければなりません。これは最小値で、多く払えば払うほど、神からの報酬も高くなるのです。

私たちがザカーとして払うお金は、それを神が受け取るわけでも、かれがそれを必要だから課しているのでもありません。神にはお金や施しなど必要ありません。かれはかれのご慈悲により、私たちが他のムスリムを手助けすれば、それに応じて報酬を与えてくれるのです。しかし報酬を受けるための重要な条件があります。神の名のもとで喜捨を出すときには、世俗的な利益を一切求めず、また博愛主義者として名声を得る事も望んではいけません。

ザカーとは礼拝や断食のような他の宗教行為と同じくらい基本的なものです。ザカーの最も基本的な重要性とは、私たちに献身することを教え、自己中心的な欲求や豪遊から逃れるというところにあります。ムスリムであるためには、神の道において世俗的で私的な報酬を考えずに汗水流して蓄えた私財を投げ打つことができなければなりません。けちではいけないのです。本当のムスリムとは、ザカーですでに犠牲を払うことを学んでいるので、必要とあらば神の道に自分の持っている全てのものを投げ出すことができます。

ザカーによって社会には、大きな利益がもたらされます。十分な財産がある全てのムスリムには、貧しい同胞を助ける義務があります。彼の財産は自分の快適さや贅沢のためだけに使われるべきではありません。なぜなら、孤児や寡婦、貧者や病人、能力はあるのに働き口がなく持てあましている者、能力や知性があるのに、金銭的な理由で学業に励めず、社会の役に立てる状況までいけていない者たちなどといった、その財産を分け与えられるべき人々がいるからです。彼の私財の中からそのような人々に施しをしようと思わない人は残酷です。何千人もの人々が飢えによって死に、非雇用に苦しんでいるときに、自らの私財を肥やしているだけの人ほど残酷な人はいません。イスラームはそのような自己中心的で、貪欲で、欲ばりな人間を敵と見なします。そのようなモラルがない人間は、他の人々への愛情がなく、ただ私財を増やしていくことしか考えません。イスラームはそのような考え方とは無縁です。人はその私財を他人と共用し、今弱い立場にいる人たちに、自力で立ち、社会の有用な一員になれるように手助けするべきなのです。

ハッジ

ハッジとはマッカへの巡礼のことをいい、イスラームの4つめの義務です。これは経済的にそうする余裕がある人が、最低一生に一度は行うべきものです。ムスリムが巡礼に行く際には、欲望を抑制し、争いを避け、言動ともに純粋であることが求められます。神は誠実さと従順さに報酬を与えると約束しています。

ハッジとはある意味で、すべての崇拝活動の中で最も大きなものです。人は神を愛していなければ、愛する身近な人たちをおいてそのような大きな旅には出ないからです。今では自動車や飛行機がありますが、昔の困難で空腹に耐えなければならない、時には命がけの、何年もかかる旅路を渡ったムスリムのことを考えてみてください。

この巡礼は他のいかなる旅とも異なります。ここでは巡礼者の考えは神に集中しており、この多大なる献身が原動力なのです。彼らはこの神聖な場所に辿り着いたとき、信仰心と神々しさに満ちた空気を感じます。彼らはイスラームの素晴らしさを確認するために各所におもむき、それらの場所は彼らの心に忘れがたい印象を残し、彼らはそれを最期のときまで覚えているのです。

さらには、ハッジには他の崇拝活動と同じように、ムスリムが得られる利点が沢山あります。マッカはムスリムが一年に一度集い、お互いの関心ごとを話し合う場所でもあります。ハッジではムスリムがすべて平等であり、その国籍や文化の違いに関係なく、同胞愛や共感されるべき存在であるということを思いだします。それゆえハッジは世界中のムスリムたちを国境を越えた同胞愛で一つにするのです。