ハッジ ― 人生一大の旅

ハッジ ― 人生一大の旅

(1/2):アラファの日とその準備

 

人類の5分の1が皆、共通の願望を抱いていることがあります。それは人生で最低でも一度、ハッジと呼ばれる精神的な旅を行なうことです。第一部:ハッジの紹介、そしてハッジで実際に行なわれる儀礼について。

ハッジ、もしくはマッカへの大巡礼は、その起源を預言者アブラハムにまで辿る、イスラームの中心的義務行為であり、それはあらゆる人種と言語からなるムスリムたちを一同に集める、最も感動的かつ精神的な経験です。

14世紀にも渡り、地球の隅々から数えきれない程のムスリム男女が、イスラーム発祥の地であるマッカへの巡礼を行なって来ました。この義務を遂行するにあたって、彼らはイスラームの“五柱” −つまり信仰者による宗教的中心義務の一つ − を果たすことになります。

神によって定められた巡礼の歴史的起源を、ムスリムたちは預言者アブラハムまで辿ります。クルアーンによれば、“神の館”であるカアバを建てたのは、アブラハムと彼の息子イシマエルであり、ムスリムたちはその方角に向かって一日五回の礼拝を捧げます。同様にハッジの儀礼を確立させたのもアブラハムであり、それは彼の人生における出来事、とりわけ妻ハガルと息子イシマエルに起こった出来事を回想させます。

 “巡礼”と名付けられた章において、クルアーンは神による命令であるハッジの義務性、そしてこの慣行の永久性を説きます:

われらがイブラーヒームのために、館の位置を定め(こう言った)時のことを思い起こすのだ。「何一つとして、われと一緒に配してはならない。そしてそこを周回する者のため、また(礼拝に)立ち、立礼し跪拝する者たちのために、われの館を清めよ。そして人々に、巡礼するよう呼びかけよ。彼らは汝の許に歩いて、またはどれも痩せこけたラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばるやって来る。(クルアーン 2226−27 

しかしながら、預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が啓示を受けた頃には、ハッジ元来の儀礼は多神教徒たちの慣習によって汚されていました。預言者は神による命を受け、元来の純粋な儀礼を復活させ、アブラハム由来のハッジを維持したのです。

そのうえ、ムハンマドは信仰者たちにハッジの儀礼を自ら指導しています。彼は二通りの方法でそれを行ないました:自らの実践によるもの、そして彼の教友たちの実践を認可することによるものです。これによって儀礼には多少の複雑さがもたらされましたが、同時に巡礼者たちにとって有益となる、実践における柔軟性を提供したのです。例えば複数の儀礼では、その順番に関して変化をつけることが合法とされていますが、それは預言者自身がそのような行為を認可したことが記録されているからです。従って、ハッジ儀礼は詳細であり多数、かつ変化に富んでいるのです。そういった側面の一部を以下に挙げていきます。

マッカへのハッジは、資力の許す限り、成人男女にとって一生に一度は果たさなければならない義務行為であり、クルアーンの章句によれば、“そこにたどり着くことの出来る者たち”に課されたものです。未成年者にとっては義務となりませんが、実際には両親と共にやって来る子供たちもいます。

出発前、巡礼者はこれまでの全ての不正を修復し、負債を完済し、自分自身の旅のため、そして後に残す家族を養うに十分な資金を蓄えた上で、ハッジを通して良い振る舞いが出来るように準備しなければなりません。

巡礼者たちがハッジの旅に出る際、彼らはそれ以前の何百万人もの人々の歩みを辿ることになります。昨今では70ヶ国以上からの信仰者たちが、陸路、海路、空路から毎年大挙して押し寄せ、過去に比べればずっと早く終わり、比較的困難ではなくなった旅を完遂させます。

19世紀までは、マッカへの長距離の旅は通常キャラバンに加わることを意味していました。主要だった三つのキャラバンは:カイロで結成されるエジプトのもの;バグダッドから出発したイラクのもの;そして(1453年以降はイスタンブールからの出発だった)シリアからのものであり、旅路の途中においても巡礼者たちを集め、ダマスカスからマッカへと旅立ったのです。

ハッジの旅は、順調に行っても数ヶ月間は必要とされたため、巡礼者たちは旅路を乗り越えるに十分な糧を携えていました。キャラバンでは必需品が入念に準備され、安全対策もとられていましたが、それは旅行者が裕福な場合に限られていました。一方貧しい者たちはたびたび食糧を切らしてしまうことがあったため、旅を一旦中止して働き、その稼ぎを蓄えてから旅路を再開しなければなりませんでした。こうした理由によって、一部のケースでは十年以上もの期間に渡る旅となったのです。当時の旅には数々の冒険(危険)が伴ったものです。公道はしばしば盗賊による襲撃の恐れがある危険な場所でした。巡礼者たちの通る道筋も、自然災害や病気などによる危険に晒されており、旅路では多くの人々が命を落としたものです。それゆえ巡礼者たちによる無事の帰還は、その家族にとって喜びに満ち溢れた、感謝すべき出来事となったのです。

マッカのマディーナの神秘性に惹かれた西洋人たちは、その多くが15世紀以来、巡礼の行なわれる二大聖地を訪れています。彼らの一部はムスリムに偽装して、また一部は本心から改宗してその義務を果たしました。しかし彼らは皆、例外なくその経験によって心を動かされ、多くの者がその旅の印象、またはハッジ儀礼を魅惑的な記述で記録しているのです。ハッジ旅行記は数多く存在し、巡礼者たちの出身地ほどの多様な言語で記されています。

巡礼は毎年、ムスリムの採用する太陰暦の12月である、ズル=ヒッジャ月の8日から13日までの間行なわれます。そこでの最初の儀礼はイフラームの状態に入ることです。

男性によって着用されるイフラームとは、白く継ぎ目のない二枚の布またはタオルによって構成される衣装であり、その内の一枚は腰から膝頭までの下半身を覆い、もう一枚は肩の上に掛けられます。これは、アブラハムとムハンマドの双方によってされていた身なりなのです。女性に関しては、彼女らの日常的服装によって行なわれます。男性は頭部を露出させなければなりませんが、男女を問わず日除けがさの使用は認められています。

イフラームとは純粋さを表すシンボルであり、同時に悪や世俗の放棄を意味します。また、それは神の御前における人類の平等性をも表します。巡礼者がこの白い衣装を身につけると、その人物は儀礼的に清浄な状態に入ることになり、口論およびに人間または動物に対する暴力、また夫婦間の肉体関係などといった行為が禁じられます。一旦このハッジの衣装を身にまとうと、巡礼者は剃髪、爪切り、貴金属や宝石を身につけることが出来なくなり、要求される儀礼の終了まで、この縫い目のない衣を着用し続けなければなりません。

既にマッカに在住している巡礼者たちは、イフラームを身につけることによりハッジの開始となります。事前に遠方から到着していた一部の巡礼者たちは、イフラームの着用と共にマッカへ入り、その状態を保つことが出来ます。イフラームの着用は、ハッジにおける主要な祈願であるタルビヤと共になされます:

 “あなたへと馳せ参じます。アッラーよ、あなたへと馳せ参じます。あなたへと馳せ参じます。あなたに同位者は一切存在しません。あなたへと馳せ参じます。称賛と恩恵と主権は、同位者なきあなたにこそ属します。 

旋律的でとどろくようなタルビヤの大合唱は、マッカだけでなく、ハッジの行なわれる隣接する聖地にも響き渡ります。

ハッジの初日、巡礼者たちはマッカを出発し、東に隣接する地であるミナーを目指します。群衆がミナーに到着すると、彼らは預言者が巡礼で行なったように、一般的に唱念や礼拝を行なって時を過ごします。

二日目であるズル=ヒッジャ月9日に入ると、巡礼者たちはミナーを離れアラファの平野へと移動し、そこで一日を過ごします。これはハッジにおける中心的儀礼です。その地において合同することは、審判の日を思い起こさせます。また彼らの内の一部は、預言者によって宗教、経済、社会、政治の改編が宣言された、かの有名な‘別れの説教’が行われた慈悲の山へと集います。ここで巡礼者たちは、崇拝行為や祈願に身を捧げ、感情的に高揚する場面となります。多くの人々は神の赦しを乞い、涙します。この聖地において、彼らは慈悲深き神の存在とその近さを肌で感じ、宗教的人生の最高潮を迎えるのです。

英国人女性として最初にハッジを行なった、イヴリン・カボールド女候爵は、巡礼者としてアラファの地で感じたことを1934年に記しています:

“そこでの強烈な光景を表現するには魔法のペンが必要ですが、人類の集合体において、私はたった一つのちっぽけな個人であることを痛感し、宗教的情熱の中の熱気においては完全に周囲を見失っていました。多くの巡礼者たちの頬には涙がつたっており、またある者は、この情景を過去数世紀に渡って何度も目撃して来たであろう星のきらめく夜空を仰いでいました。輝きに満ちた目、熱烈な懇願、礼拝で差し伸ばされる謙虚な両手は、かつてなかった程に私を感動させ、強い精神的高揚の波へと私を飲み込みました。私は崇高な行為である、至高者の意志への完全なる服従、すなわちイスラームにより、巡礼者たち全体と一体化したのです。”

彼女は巡礼者たちがアラファに立つ際に感じる、預言者への敬愛をこのように表現しています:

“・・・花崗岩で出来た柱の隣に立つと、聖地に着いたのだという実感が沸きました。私は涙する群衆を通し、1300年以上も前に預言者が最後の説教を行なっているのを心の目で見た気がしました。私はここに広がる平野において、多くの説教師たちが数えきれない程の群衆を相手に話すのを心に思い浮かべました。これこそが大巡礼における絶頂点なのです。”

預言者は、アラファに集まる巡礼者たちの罪が赦されるよう祈願し、それが神に認められたということが報告されています。それゆえに巡礼者たちは、この平野での儀礼を終えることの出来るよう喜々として取り組み、罪なく生まれ変わったような状態で、希望に満ちた新たなる人生の一頁を始めるのです。

(2/2):アブラハムの儀礼

巡礼者たちは三日目の夜明け前には、ムズダリファからミナーへと集団移動します。そこで彼らは事前に集めておいた小石を白い諸柱に向かって放ります。この儀礼は預言者アブラハムにまつわるものです。巡礼者たちはこれらの柱へと小石を七個ずつ投げることにより、悪魔の囁きを振り切って神の命令に従い、息子を犠牲に捧げようとしたアブラハムの物語を思い起こすのです。

この投石は、人間による悪の払拭を象徴します。それは1度だけでなく永久性を象徴する数である7度に渡ります。

投石後、大半の巡礼者たちはヤギ、羊、またはその他の動物を屠ります。それらの肉は貧しい人々に分け与えられ、一部は自分たちのものとなります。

この儀礼は、神の意志に従い自分の息子を犠牲に捧げようとした、アブラハムの献身に基づいています。それはムスリムが自らにとってかけがえのないものを失うことをも厭わない決意を象徴し、神の意志への服従が最も重要であるイスラームの精神を想起させるのです。この行為は巡礼者たちが恵まれない人々へと世俗的な糧を配分すること、そして神への感謝の気持ちも思い起こさせます。

この段階になると、巡礼者たちはハッジにおける主要な部分を終了するため、イフラームを脱いで通常の衣服を着用することが出来るようになります。この日、世界中のムスリムたちは巡礼者たちと同様に犠牲を捧げ、“イードル=アドハー”(犠牲祭)という祭日において喜びを分かち合います。清浄な状態から脱する印として男性は剃髪、または断髪し、女性は束ねた頭髪の一端にハサミを入れます。これは謙遜の象徴として行なわれます。夫婦間の肉体関係以外の禁止事項は、この時点で解かれます。

依然としてミナーに留まる巡礼者たちは、次にマッカへと向かい、ハッジにおける次の重要な儀礼を行ないます:それは祈願しつつカアバの周りを七度に渡って周回する、タワーフと呼ばれるものです。神の唯一性を表象化するカアバの周回により、全ての人間による活動は神を中心とされるべきことが示唆されているのです。また、それは神と人間の結束も象徴します。

イスラームへの改宗者であり、作家、そしてナショナル・ジオグラフィック誌の写真家でもあるトーマス・アバークロンビーは、1970年代にハッジを行ない、周回の際に巡礼者たちが感じる統一感と調和をこのように表しています:

“我々はアラビア語の祈願を繰り返しつつ、聖殿を七周した:‘主なる神よ、私は遠隔の地からあなたのもとへ馳せ参じました・・・あなたの玉座の下に私への庇護をお与え下さい。’叙情的な祈願に高揚されつつ渦巻く群衆の中で、我々は原子の法則に従って神の館の軌道に乗り、諸惑星と調和したのだ。”

周回の際、巡礼者たちは黒石にキスするか、または触れることが出来ます。この楕円形の石は七世紀の終わり、銀の枠に初めて埋め込まれましたが、一部のハディースによれば、アブラハムとイシマエルによって建設された建物元来の唯一の残存物とされるため、ムスリムたちにとって特別な位置を占めています。しかしこの石にキスをすることの最大の理由は、預言者がそのようにしたからでしょう。

しかしながらその石に対しては、これまで一度もそうではなかったよう、崇拝の対象では決してないため、信仰における重要性は全く帰属させられません。第二代カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブは、預言者を模倣し、自身でその石をキスした際、このように宣言したことによってこの件を明確にしています:

“私はこれが益のなく害もない単なる石であることを知っている。もし預言者 - 神の祝福と平安あれ - がこれに口づけしたのを私が目にしなかったのであれば、私はそうしなかったであろう。” 

タワーフの終了後、巡礼者たちはアブラハムがカアバ建設時に立った場所であるとされる‘アブラハムの立ち処’後方にて礼拝を捧げ、ザムザムの水を飲みます。

もう一つの、そして場合によっては最後のそれともなり得る儀礼は、“努力する”という意味を持つです。これはクルアーンにおいて、“不毛の渓谷”と呼ばれる場所に連れて行かれたハガルが、その乳児イシマエルのために行なった、忘れ難い逸話の再現です。

では、イシマエルの渇きを癒そうと水を求めるハガルの必死の探索が記念されます。彼女はアッ=サファーとアル=マルワの2つの丘の間を7回に渡って駆け巡り、最終的にザムザムとして知られる聖水の泉を発見しました。この水はイシマエルの小さな足元から奇跡的に湧き出た泉であり、現在でも巡礼者たちは同じ場所から滾々と湧き出るこの水を飲むのです。

これらの儀礼が遂行されると、巡礼者たちは清浄な状態を完全に脱し、通常の活動に戻ることが出来ます。彼らはミナーへ戻り、ズル=ヒッジャ月の12日目、もしくは13日目までそこに留まります。そこで彼らは預言者によって認可された通りの方法で、残りの小石をそれぞれの柱へと放ります。その後彼らはハッジ期間中に出来た友人たちと別れることになります。マッカを去る前には聖地への別れとして、巡礼者たちはカアバ周りで最後のタワーフを行ないます。

巡礼者たちは一般的に、“大巡礼”とされるハッジの前後に、“小巡礼”とされるウムラを行ないます。それはクルアーンにおいて認可されており、預言者も行なっているものです。ハッジとは異なり、ウムラはマッカの中でのみ行なわれ、また年間を通して行うことが出来ます。イフラームタルビヤ、そして清浄な状態において規制される事柄はウムラでも重要であり、そこではハッジと同様のタワーフ、そして剃髪(または断髪)の三つの儀礼が行なわれます。巡礼者や訪問者たちによって遵守されるウムラでは、マッカ独自である聖域への敬意が象徴されるのです。

同様にマッカ訪問の前後には、ハッジウムラによって提供される機会として、巡礼者たちはイスラーム第二の聖地である、マディーナの預言者モスクを訪れます。ここには預言者の埋葬されているシンプルな墓廟が存在します。マディーナへの訪問はハッジウムラの儀礼の一部ではないため義務ではありませんが、この町はムハンマドによるマッカからの移住を歓迎した、預言者そして指導者としての彼を喚起させる感動的な出来事や歴史的場所が数々存在します。

以来ムスリムたちによってこよなく愛されるこの町で、人々は依然として預言者の人生による影響を感じ取ることが出来るのです。ユダヤ系オーストリア人だったムハンマド・アサドは1926年にイスラームへ改宗し、1927年から1932年にかけて5度の巡礼を行ないました。彼はこの町に関してこう発言しています:

“13世紀経った今でも、(預言者の)精神的存在感は当時と同じように生きている。彼によって散在した村落だったヤスリブは一つの都市となり、今日に至るまで未だかつて世界中のいかなる都市も愛されたことがなかった程、あらゆるムスリムによって愛され続けて来たのである。その都市には自らの名前が未だになく、13世紀以上に渡って、マディーナトゥン=ナビー、つまり‘預言者の町’と呼ばれて来たのである。1,300年以上の間、非常に多くの愛情が寄せられて来たため、全ての形や動きは家庭的な雰囲気を見せ、あらゆる外観の違いは共通の音色へと調和したのである。”

多種多様な人種、そして言語を話す巡礼者たちが帰省する際には、アブラハム、イシマエル、ハガル、そしてムハンマドにまつわる大切な記念物を持ち帰ります。それは富裕者、貧者、黒人、白人、若者、老人が一斉に共通の足場に集った、普遍的合同による経験であり、彼らはそれを常に思い起こすでしょう。

彼らは畏敬や平静の念を携えて帰途に就きます。アラファの地において、預言者が最初と最後の巡礼で説教をした同じ場所で、神を近くに感じたことによる畏敬の念、そしてその平野で贖罪をし、重荷から解放されたことから来る平静の念です。彼らにはまた、イスラームにおける兄弟がどのような状況にあるのかに関し、以前よりも良い理解があるでしょう。それゆえ他者に対する思いやりの気持ちと、イスラームという自分たちの豊かな遺産に対する理解といった新たな精神が誕生するのです。

巡礼者たちは希望と喜びに満ちて帰省します。彼らは神によって課された、人類に対しての古代から続く巡礼の義務という訓令を果たしたからです。何より、彼らの口には祈願の言葉がその帰途においてつぶやかれていることでしょう。それが自分たちのハッジを認められたものであることに対する祈り、または彼ら自身の旅において、預言者の言った次のことが現実のものとなることに対する祈りではないでしょうか:

敬虔な巡礼に対する報奨とは、天国以外の何でもないのだ。(アッ=ティルミズィー)