イスラームに関してよくある7つの質問

イスラームに関してよくある7つの質問

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(パート1/2)

1.      イスラームとは何か?

イスラームは宗教の名前ですが、もっと正確に言えば神により啓示され、神から人類に遣わされた全ての預言者と使徒達によって実践された“生き方”のことです。その状態をよく表しているところの“イスラーム”という名前自体、宗教とは異なっています。というのもそれはキリスト教や仏教、ゾロアスター教などのように特定の人物に由来するものでなく、またユダヤ教のように特定の部族に由来するものでもなく;またヒンズー教のように特定の国家に由来するものでもありません。イスラームというアラビア語の単語の語源には、平和、安全、挨拶、保護、欠陥のない、健全な、服従、受容、降伏、救いなどの意味があります。しかし専門用語としてのイスラームには神への服従、唯一神の崇拝、そして神の律法を敬い受け入れ、従うという意味があります。

この服従、平和、平安、安心、健全であることを通してこそ、イスラームの文字通りの意味が達成されます。それゆえ男女を問わず、ムスリムとはこの服従状態にある人のことを指します。その人のイスラームは罪や無知、間違った行いなどによって弱くなり、また神に何かを並べたリ、否定したりすることで完全に無効化します。

2.      ムスリムとは何か?

アラビア語の“ムスリム”いう語は直訳で、“イスラーム(神の律法とそのご意思への服従)の状態にある人”のことを意味します。イスラームのメッセージは普遍的なものであり、このメッセージを受け入れた者は誰でもムスリムになることが出来ます。ある人々はイスラームをアラブ人の宗教であると誤解していますが、それは真実ではありません。事実、世界のムスリムの80%以上がアラブ人ではないのです!大半のアラブ人はムスリムですが、キリスト教やユダヤ教、そして無神論者のアラブ人もいます。ナイジェリアからボスニア、そしてモロッコからインドネシアなど、ムスリム世界に住む様々な人々を一瞥しただけでも、ムスリムがあらゆる人種や民族、文化や国籍に受け入れられていることが十分分かります。

イスラームは世界的なメッセージを、常に全ての人々へ向けてきました。これは預言者ムハンマドの初期の友人達がアラブ人だけではなく、ペルシア人、アフリカ人、ビザンチンのローマ人などであった事実からも見受けられます。ムスリムになるということは、明らかにされた教えと至高なる神の律法の完全な受容と、それに対する積極的服従を必要とします。ムスリムとは全能の神のご意思のもとに、その信念と価値と信仰を築く者のことなのです。今日では余り見られませんが、過去にはムスリムを表す言葉として“ムハンマド教徒”という名称がよく使われました。このレッテルは間違ったものであり、故意に歪曲されたものか、あるいは全くの無知の結果からきたものです。誤解の一つの理由はヨーロッパ人が何世紀にも渡り、キリスト教徒がイエスを崇拝するのと同じように、ムスリムが預言者ムハンマドを崇拝していると教わってきたからでしょう。しかしこれは全く事実に反しています。というのも神以外の何かを崇拝している時点で、その人はムスリムではないからです。

3.      アッラーとは誰か?

イスラームに関する議論では、しばしばアラビア語の“アッラー”という言葉を耳にします。“アッラー”という言葉はアラビア語で全能の神を意味し、アラビア語を話すキリスト教徒やユダヤ教徒によっても同じように使われています。そして実際のところ英語は比較的新しい言語なので、アッラーという言葉は英語の神という言葉が存在する以前からありました。もしアラビア語訳の聖書をみれば、そこには英語で“神”とされる部分が“アッラー”となっていることに気づくでしょう。例えばアラビア語を話すキリスト教徒は、教会信仰に基づいてイエスはアッラーの息子だと言います。また他のセム系の言語での神という言葉は、アラビア語の全能の神“アッラー”とよく似ています。例えばヘブライ語で神は“エラー”です。様々な理由から、ある種の非ムスリムはムスリムがモーゼやアブラハム、イエスらととは違う神を崇拝していると誤解しています。しかしそうではなく、イスラームという純正な一神教は全ての人々をノア、アブラハム、モーゼ、イエス、そしてその他全ての預言者(彼らに平安がありますように)にとっての同一の神を崇拝するように呼びかけているのです。

4.      ムハンマドとは誰か?

神が人類に遣わした最後の預言者がムハンマド(彼に神のご慈悲とご加護がありますように)です。彼は40歳の時、神の啓示を受けました。そしてその後、残りの人生を神が彼に啓示したイスラームの教えを説き、かつ実践することに費やしました。預言者ムハンマドは多くの理由において全ての預言者の中でも最も偉大ですが、その第一の理由は、神によって人類世界を最後の日まで導くための最後の預言者として選ばれたことです。また彼は、全人類に対する慈悲として遣わされました。彼の布教の結果、他の預言者の時代よりも多くの人々が唯一神に真の信仰を見出したのです。太古の昔から神は預言者を地上に遣わし、その全ては特定の民族に向けて遣わされました。このような中、預言者ムハンマドのみが全人類への最後の使徒として送られたのです。他の宗教教団にも唯一神を信じていると主張する者たちが存在しますが、彼らは過去の 改ざんされた情報がその信仰に混ざってしまったことで、預言者達の真の一神教から遠ざかってしまったのです。彼らの内のある者は、彼らの預言者や聖人を全能の神の仲介者と誤解してしまいました。またある者は、彼らの預言者が神の顕示や神の化身、あるいは神の息子であるなどと信じてしまいました。このような全ての誤った概念が人々を、創造主の代わりに被造物を崇拝させ、何らかの仲介者を通して全能の神に近付くという偶像崇拝的信仰へと導いてしまったのです。預言者ムハンマドはこういった過ちを防ぐため、彼が神の言葉に従い、それを伝達する任務を遂行するだけのただの人間であることを常に強調していました。

彼はムスリムたちに自分のことを、“神の使徒で神のしもべ”であると言いました。また彼の人生と教えを通して、神はムハンマドを全ての人に対する完全なる見本とされました。彼は模範的な預言者であり、政治家、軍事指導者、法律家、教師、隣人、夫、父であり、また友人でした。他の預言者や使徒とは違って預言者ムハンマドは歴史の明るみを生き、彼の全ての言行は厳密に記録され収集されました。ムスリムは彼が存在した、またはその教えが保管されているという単なる“信仰“を持つ必要がないだけではなく、それを真実として知っているのです。神はムハンマドに示されたメッセージが歪曲されたり、忘れられたり、失われることのないように自ら保護されました。これは神がムハンマドを人類への最後の使徒とされたことによるものです。神の使徒たちは皆イスラームのメッセージ‐神の立法への服従と唯一神の崇拝‐を唱えましたが、ムハンマドは最後の日まで決して変わることのない完全かつ最後のメッセージを伝えたイスラームの最後の預言者なのです。

(パート2/2)

5.      イスラームの教えとは何か?

イスラームの信仰の基礎は絶対的唯一神の信仰です。これはかれ以外に崇拝に値するものや神聖なものは何もなく、宇宙の全ての創造主かつ維持者は唯一であることを意味します。事実、神の唯一性を信じることとははただ単に“唯一神”を信じる以上のことであり、二つ、三つ、四つといった複数の神を信じることとは全く対照的です。多くの宗教が“唯一神”信仰を標榜し、宇宙の創造者、維持者はただ一人であると言いますが、本当の一神教とは神が遣わした使徒に従って、唯一神のみが崇拝されるべきであることを信じることです。イスラームは神と人との間のあらゆる仲介者を拒否し、全ての人々が神に直接近づき、そしてかれだけに全ての崇拝行為を向けるように強調しています。またムスリムは全能の神が思いやりのある、愛情に満ちた慈悲深い神であることを信じています。

よくある間違った考え方の一つに、神はその被造物を直接お赦しにはならない、というものがあります。罪の重荷と罰の過剰な強調、また神は人間を直接赦すことが出来ないという主張は、時に人々を神の慈悲に対して絶望的にさせます。そして一旦神に直接近づくことが出来ないと確信すると、人は英雄や政治家、救世主、聖人、天使など偽の神々に助けを求めるようになります。私たちはしばしばこれらの偽の神々を崇拝し、それらに祈り、またそれらにとりなしを求める人々を見出します。彼らは唯一神の信仰を主張しますが、ただ神に近付くために神以外のものに祈ったり崇拝したりするだけなのだ主張します。イスラームでは、創造者と被造物に明らかな違いがあります。神性の問題に不明瞭さなどありません。いかなる被造物も崇拝に値するものはなく、創造主であるアッラーのみが崇拝に値するのです。ある宗教は神自身がその被造物になったのだと誤解してしまい、それゆえに創造主に近付くためには神以外の何らかの被造物を崇拝することが出来ると人々に信じさせてしまったのです。ムスリムは神が唯一であり理論的理解を超越した至高の存在であると信じていますが、決してかれに仲間や共同者、対等者や競争相手、子孫などはないのです。ムスリムの信仰によればアッラーは文字通りの意味でも寓話的意味でも、また比喩的意味でも物質的・形而上的意味においても、“御産みなさらないし、御産れになられたのではない”のです。かれは完全に唯一で永遠です。彼は全てをコントロールしていて、その無限の慈悲と赦しを誰でもかれの選んだ者に与えることが可能なのです。これがアッラーが全能で最も慈悲深い方と呼ばれるゆえんなのです。アッラーは人間のために宇宙を創造し、全人類のために最善のものを創造しました。ムスリムは全宇宙の中に全能の神の創造性と慈悲心の印を見出します。また、アッラーの唯一性への信仰はただの形而上的概念ではありません。それは人間性、社会、そして実生活の全ての側面に渡る考え方に影響するのです。アッラーの唯一性に基づいたイスラーム信仰の論理的帰結は、人間性と全人類の唯一性への信仰です。

6.      クルアーンとは何か?

クルアーンは至高なるアッラーご自身により、大天使ジブリエルを通して預言者ムハンマドにアラビア語の音色と言葉と意味でもって伝達された、全人類に対するアッラーからの最後の啓示です。クルアーンは(しばしば誤ってコーランとされる)はその後、預言者の教友たちへと受け継がれましたが、彼らはそれを勤勉に暗記し、正確かつ綿密に書におこしました。クルアーンは預言者の教友たちとその後継者たちによって、今日まで継続的に暗唱されてきました。要約すると、クルアーンはアッラーから全人類への導きと救いのために啓示された神の啓典なのです。

今日でもクルアーンは多くの人により暗記され、学ばれています。クルアーンの言語であるアラビア語は、今でも大勢の人に話されている生きた言語です。他のある種の宗教の啓典とは違い、クルアーンは現在も数多くの人々に原典そのままの言語で読まれ続けています。クルアーンはアラビア語において生きた奇跡であり、模倣不可能なその文体、精神的インパクト、またそこに含まれる独特な知識で知られています。クルアーンは預言者ムハンマドに23年間に渡り、連続した啓示として伝えられました。他の多くの宗教書とは対照的に、クルアーンは常にアッラーの正確な言葉として信じられてきました。クルアーンは預言者ムハンマドの生存中も、そしてそれ以後も、公共の場においてムスリム、非ムスリム大衆両方の前で暗唱されてきたのです。

また全クルアーンは、預言者の数多くの教友によって一字一句啓示された通りに暗記され、また預言者の生存中に完全に書き留められました。クルアーンは常に一般信者の手に会ったのです。またクルアーンは常に神の言葉として考慮され、広まった暗記により完全に保存されたのです。そこには、宗教委員会などにより変更されたり新たに定められたりしたいかなる箇所もありません。またクルアーンの教えは‘選ばれた人々’や特定の部族などではなく、全人類への万人の啓典として構成されています。そこには何も新しいものはなく、ただ“唯一神アッラーに服従し、かれのみを崇拝し、そして現世の成功と来世での救いのためにアッラーの使徒たちに従う”という他の全ての預言者と同一メッセージが含まれているだけなのです:このようにクルアーンにおけるアッラーの啓示は、人類にアッラーの唯一性の信仰と、また彼らがイスラーム法の中で明確にされたアッラーの導きに沿ってその生活を形作ることに重点を置いています。クルアーンにはノア、アブラハム、モーゼ、イエス(彼ら全てに平安がありますように)など以前の預言者たちの説話と同様に、神からの命令と禁止事項も含まれています。多くの人々が疑いや精神的絶望、そして社会・政治的疎外に巻き込まれているこの現代において、クルアーンの教えは今日の私たちの生活の空虚さや世界の注目を集めている騒動の解決策を示しています。

7.      ムスリムは人間の本質、人生の目的、そして来世の生活についてどのように考えるのか?

聖クルアーンの中でアッラーは、人間はかれを崇拝し称えるために創造されたのであり、そして真の全ての崇拝行為の基礎は神への自覚であると教えています。アッラーの全ての創造物は先天的にかれを崇拝していますが、人間だけが創造主であるアッラーを崇拝するかそれを拒否するかの自由意思を持っています。これは偉大な試練ですが、同時に偉大な名誉でもあります。イスラームの教えは生活や倫理など全ての側面を網羅しているので、神を自覚することは人間の全事象において推奨されています。イスラームは、もし何らかの行為を神の神聖な啓典と法に従って神のためだけに行ったのであれば、いかなる人間の行動でも崇拝行動になりうることを明確にしています。イスラームでの崇拝行為は宗教的儀式だけに限らないことから、イスラームは宗教というよりはむしろ‘生き方’と言った方がより正確でしょう。イスラームの教えは人間の魂に癒しや慈悲を与えており、また慎み深さや誠実さ、忍耐強さや慈善の精神などといった特性が強く推奨されています。また全能の神だけが人間の公正を審判することから、イスラームは高慢さや独りよがりを非難しています。人間の本質についてのイスラームの考えもまた現実的でバランスのとれたものです。人間は本質的に罪深いとは考えられていませんが、善悪の両方であることが同等に可能であるとみられています。それは彼らの選択なのです。イスラームは信仰と行動は連動していると教えています。神は人々に自由意思をお与えになられました、そして人の信仰はその行いと行動により量られるのです。しかしながら人間は生まれつき弱く、かつ罪に陥りやすく創造されたので、アッラーが望まれる崇拝行為の一形式でもある継続的な導きと悔悟を必要としているのです。神のその威厳と英知によって創造された人間の本質は、生まれながらに‘堕落’しているのでも、矯正が必要なわけでもありません。改悛の道は常に全人に向けて開かれているのです。全能の神は人間が過ちを犯すことをご存じであり、ゆえに本当の試練は彼らが罪を後悔してそれを断ち切るか、あるいは彼らがそれが神が御悦びにはならないことであることをよく知っていながらも、罪と適当さの人生を優先させるかということにかかっているのです。

イスラーム的生活の本当のバランスは、犯罪や罪に対するアッラーの公正な罰に対する健全な畏れと、私たちの善行とアッラーへの真摯な崇拝ゆえにかれがその無尽の慈悲でもってその報酬を悦んで与えてくれるということへの誠実な信仰の上に成り立っています。アッラーへの畏れのない生活は人を罪や不従順へと導き、また神がお赦し下さらないほど多くの罪を犯してしまったなどと信じることはただ絶望へと人をいざなうのです。イスラームはこの真実を考慮して、神の慈悲への間違った絶望と邪悪な犯罪者のみが創造主で審判者であられるアッラーへの畏怖の念に欠けていると教えます。また預言者ムハンマド(彼に平安あれ)に啓示された聖クルアーンはまた、来世での生活と審判の日についての莫大な量の教えを含んでいます。ムスリムは全人類が最後に絶対的統治者そして審判者であられるアッラーにより、彼らの信仰と現世的生活での行動に関して裁かれることを信じています。崇高なるアッラーは人間を裁かれる際に、本当に罪深く反抗的で後悔のない犯罪者のみを罰し、またかれの英知によってその慈悲に値する者をそれでもって裁くのであり、完全に慈悲深く、かつ完全に公正なお方なのです。誰も彼らの能力以上のことや、または実際にしなかったことについては裁かれません。全ての人間がアッラーの御前で彼らが現世で行ったことの責任を問われるということは、イスラームが人生の創造主であり全能で最も賢明であるアッラーにより設計された試練であると教えていることを十分伝えています。来世の生活への誠実な信仰こそは、バランスのとれた道徳的生活へ導く鍵です。この信仰がなければ人々は人生をそれっきりのものと見なして自分勝手になり、倫理や道理を犠牲にしてさえも盲目的快楽を追及するという物質主義的かつ不道徳な状態に陥ってしまうことでしょう。