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著者 :

A. Zahoor

日付 :

Sun, Aug 03 2014

カテゴリー :

Introducing Islam

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イスラーム文明に関する引用

イスラーム文明に関する引用

 

(パート1/2)

ナポレオン・ボナパルト

クリスティヤン・シェルフィ著「ボナパルトとイスラーム」(Christian Cherfils, ‘Bonaparte et Islam,’ Pedone Ed., Paris, France, 1914, pp. 105, 125)からの引用。 

-         原典:“Correspondance de Napoléon Ier Tome V pièce n° 4287 du 17/07/1799...”

「モーゼは神の存在をその民に示した。同様にイエス・キリストはローマ世界に、そしてムハンマドは旧世界に・・・

「アラビア世界はイエスの6世紀後、ムハンマドがアブラハムとイシュマエル、モーゼとイエスの神の崇拝を紹介した時、偶像崇拝の中にあった。またアーリア人とその他の集団は、父と子と精霊の性質に関する質問を激しく訴え、東洋の静寂を乱していた。そしてムハンマドは、父も子もいない唯一の神しかおらず、三位一体論は偶像崇拝的理念の導入である旨宣言した・・・

「私は、全ての国の賢人や教養ある者が一堂に会し、クルアーンの原理に基づいた統一政体を構築出来る日が遠からずやって来ることを望む。クルアーンこそは唯一の真実であり、また唯一人類を幸福へと導くことの出来るものなのだ。」

ジョージ・バーナード・ショー卿

「真のイスラーム」(‘The Genuine Islam’Vol. 1, No. 8, 1936.)からの引用。 

「もしイギリス、いやヨーロッパを今後数百年間支配するチャンスのある宗教があるとすれば、それはイスラームであろう。」

「私は常に、その素晴らしい生命力ゆえ、ムハンマドの宗教に高い敬意を払ってきた。私には、イスラームこそが存在の変わり行く側面を消化する許容力を備えた、あらゆる時代に訴えることの出来る唯一の宗教であるように思えるのである。私はムハンマド—傑出した人間であり、私の意見ではアンチ・キリストなどからは縁遠い存在—を研究したが、彼こそは人類の救世主と呼称されるべきである。」

「私は、もし彼のような男性が現代世界の絶対権を担うならば、待望されている平和と幸福をもたらしつつ、諸問題を解決することに成功するだろうと思っている。私はムハンマドの信仰が、今日のヨーロッパにとって許容可能なものになり始めているように、明日のヨーロッパにとっても許容可能なものであると予測している。」

バートランド・ラッセル

「西洋哲学史」(History of Western Philosophy,’ London, 1948, p. 419)からの引用。

「西暦699年から1000年に渡る期間を覆った、“暗黒時代”と 我々が用いる言い回しは、西ヨーロッパへの不当な偏りを示している・・・

「インドからスペインにかけて、イスラームの輝かしい文明が花開いた。当時のキリスト教国にとっての損失は文明にとっての損失ではなく、むしろ完全に逆のものであった

「私たちにとっては西ヨーロッパ文明こそが文明であるように映るが、それは一種の視界狭窄なのである。」

ハーバード・ジョージ・ウェルズ

「イスラームの教義は公正かつ穏やかな取引や素行に、偉大な伝統を残した。また人々を高貴さと忍耐さでもって鼓舞した。これらは、最も高い位階にある人間の教えであり、同時に実行可能なものでもある。これらの教えは、それ以前の社会と比較して冷酷さや集団抑圧や不正が最小限に抑えられる社会をもたらした・・・イスラームは、優しさと礼儀と友愛で満ち溢れているのだ。」

ウィリアム・ドレーパー博士

「ヨーロッパの知的発展の歴史」(‘History of Intellectual Development of Europe’)からの引用。

「カリフ時代、教養あるキリスト教徒やユダヤ教徒らは非常に尊重されただけでなく、重要なポストに任命されたり、高い階位にある政府職を任されたりした・・・彼(カリフ・ハールーン・アッラシード)は学識ある人物の国籍や信条などではなく、その知識分野においてその者が有する卓越性こそを考慮したのである。」

トーマス・カーライル

「歴史上の英雄、英雄崇拝、そして英雄的なもの」(‘Heroes, Hero Worship, and the Heroic in History,’ Lecture 2, Friday, 8th May 1840)からの引用。

「私たちのいかなる者にとっても、マホメット教徒(ムスリム)になることにおいていかなる危険性もない。私は、私が公正にそうすることが出来る限りにおいて、彼の全ての美徳を述べるつもりである・・・

「ポーコックが、エンドウ豆をマホメット(ムハンマド)の耳から拾い上げ、彼に筆記させる一人の天使のもとを通り過ぎたハトの物語の証明はどこにあるのですか、とグロチウスに尋ねた時、グロチウスは、証拠などありません、と答えたのである!(つまり、その当時流布されていたイスラームに対する悪評は、捏造されたものだったということ。)・・・

「彼は勤勉だったが、窮乏した状況に置かれていた。しかし俗世において人々が稼ぐものには全く無関心であった。彼は決して悪い人物ではなかった。そうであったのなら、23年間にも渡り彼の元に忠実に従い、数々もの戦いを繰り広げてきた荒々しいアラブ人たちは彼についてはいかなかったであろう。彼らにとって、どのような空腹感にも優る何かが彼にはあったのである。過去において、彼らは常に暴発し、取るに足らないことを理由に言い争いや、あらゆる種類の残忍な単純さへと結びつける野蛮な男たちであった。相応の権利と勇気がない限り、彼らに命令出来る者はいなかったのである。このような人々が彼を預言者と呼んだのである。彼は彼らに対して毅然とした態度で向き合った。それもなにひとつ包み隠さず、ありのままの姿で。彼は自らの外衣や靴を繕い、彼らの中心となって戦いに参加し、指導し、命令した。彼らは彼がどのような人物であったかを目にし、良く理解していたはずなのである。彼がいかなる名で呼ばれていたのであれ、冠を戴く皇帝でさえも、自ら繕っていた外衣を纏っていた彼ほどに従われたことはなかった。そして史実に残されている、23年にも渡る厳しい試練といった事実を見ても、私はそのようなことが真の英雄には欠かせないことであると考えるのだ・・・

「これらのアラブ人たちとマホメットという男、そしてその一世紀は、デリーからグラナダまで天高く燃え上がった世界の火薬粉を示すことになった、一閃の火花ではなかったろうか!その偉大なる男はいつも、天の彼方の電光のようであった、と私は言おう。そしてその他全ての人類は、まるで燃料であるかのように彼を待ち受けていたのであり、それから彼らも同様に火を噴くことになるのである…」

(パート2/2)

フィリップ・ヒッティー

「簡潔にみるアラブ人の歴史」からの引用

“中世初頭、アラブ人—アラビア半島に住む人々だけでなくアラビア語を話す人々を含めた場合—よりも人類の発展において重要な寄与をした人々は他にいません。極東を除いて、数世紀もの長きに渡って学問や文化に代表されるような文明世界の知的発展に関わった言語がアラビア語だったのです。9世紀から12世紀にかけて、哲学、医学、歴史、宗教、天文学、地理学などの学問の記述に関し、アラビア語よりも頻繁に使用されていた言語はなかったのです。”

カルラ・デヴォー

「イスラームの哲学者たち」(パリ、1921年)からの印用

“また、インドのムガール帝国(1526—1857)が、タージ・マハル(1648年完成)や、アブル・ファズルの‘アクバル・ナメ”といった、それまで世界の人々が見たこともなかったような建築美を同時にもたらしたことは、忘れることの出来ない事実です:

‘人生におけるあらゆる側面が考察、描写され、生き生きしたアイデアと知識による並外れた成果、そして人々を眩惑させ続ける進歩は、東洋文明が堂々と誇るべき功績である。この本でその天才性をあらわにした男たちは、政治技巧の実践において時代を遥かに先取りしており、また彼らは恐らく宗教哲学に対する推測に関しても進歩していたのである。それらの哲学者と詩人たちは、世界や物質と接する方法を知っていたのだ。彼らは観測、分類、計算、実験をした。彼らに浮かんだアイデアはすべて事実に照らされて検査されたのである。彼らはそれらを雄弁さをもって表現するが、それらは同時に統計からも裏付けられていたのである。’

・・・寛容の精神、正義、そして人間性が、アクバルによる長期の統治によって顕現したのです。”

マルセル・クレルジェ

「 La Turquie, Passe et Present(トルコ―その現在と過去)」(パリ、1938年)からの引用

“スレイマン大帝による統治のオスマン帝国において、法と科学の発展に基づいた高い文化レベルの証拠がたくさん発見されています。そこからは、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語によって花を咲かせた文芸作品、イスタンブール、ブルサ、エディルネに見られる近代的建築物、豪華産業の急騰、宮廷貴族や高官たちの贅沢な暮らし、また重要なものとして宗教的寛容さなどが観察されます。トルコ、ビザンチン、イタリアによる様々な影響の混合が、オスマン帝国による最も画期的な時代を創り上げたのです。”

長老マイケル

 Michael the Elder, Chronique de Michael Syrien, Patriarche Jacobite d’ Antioche(長老マイケルアンティオキアのシリア正教会・総主教による年代記」(J.B. Chabot, Editor, Vol. II, Paris, 1901)からの引用

“これこそが、唯一にして全能であり、いずれは滅ぶべき運命にある帝国の運命を握り、それを御心のかなう人物に授け、その支配において我々の教会や修道院から冷酷にも略奪し無情にも我々を破滅に導いたローマ人たちの凶悪性をあらわにし、南方からイシマエルの子孫(訳者注:アラブ人のこと)を、彼らによってローマ人の手から逃れることの出来るよう差し向けた、復讐の神によるものなのである。そしてもし現実に我々が何らかの被害を被ったのであれば、それはカトリック教会が奪われ、カルケドン派に譲渡され、そのまま彼らの所有に留まったことによるのだ。アラブ人たちは町を占有すると、各宗派に教会を割り当てたが(そしてその当時、既にホムスとハッラーンの大教会は我々から奪われてしまっていたのだ。)、それにも関わらず、ローマ人の我々に対する凶悪性、獰猛性、そして残虐性、また我々が人々のもとに戻ることの出来たことは我々に取って少しも好都合なことではなかったのだ。(シリア正教会の総主教であるアンティオキア[現在はトルコの一都市]の長老マイケルは、ムスリムがその地域を征服した5世紀後の12世紀後半にこの文章を記しています。628年にシナイ山の聖カトリーヌ修道院の修道士宛として送られた関連書簡を読むにはここをクリックして下さい。)

ジョン・バゴット・グラブ卿

“カリフ・マアムーンの支配(813—833)は科学と知識習得における黄金時代であったということが出来ます。彼は常に書物や知識の探求に身を捧げました。彼の優れた知性はあらゆる分野の知的活動に興味を示し、詩ばかりでなく哲学、神学、天文学、医学、そして法学に自らの時間をつぎ込んだのです。”

“マアムーンの時代になると、バグダッドにおける医学教育は極めて活発となりました。ハールーン・アッ=ラシードの時代には、初の無料公立病院がバグダッドに開設されました。技術が発達すると共に、内科医、外科医は医学生たちへの講師として任命され、実践の基準を満たすとみなされた生徒達へ免状を発行しました。エジプト初の病院が872年に開設すると、その後スペイン・マグリプからペルシャを跨いだ帝国全体に公立病院が普及するようになったのです。”

フラグによるバグダッド・ホロコースト(1258年)について

“街は組織的な略奪、破壊の後に火打ちの憂き目に遭いました。当時80万人もの人々が殺害されたと言われています。カリフ・ムスタアスィムは袋詰めにされ、モンゴル軍の軍馬に踏みつぶされて処刑されました。

 “500年間に渡り、バグダッドは宮殿やモスク、図書館、そして大学を有する学術都市でした。その大学と病院の数々は、世界の最先端を行く優秀なものだったのです。しかし現在では瓦礫の山や人の死臭の他には何も残されていません。