イスラームの包括性

イスラームの包括性

(その1):預言の終結

 

ここでの「イスラームの包括性」とは、イスラームが全ての場所と時代にあてはまる宗教であるという意味です。その人が誰であれ、イスラームこそが人の宗教であり生き方です。これは預言者ムハンマド(神の平安と祝福あれ)の時代もそうでしたし、(もしそのような時代が来ればということですが、)西暦2525年に住む人々にとっても、またそうなのです。

このことに関しての正しい理解に関しては、いくつかの事柄を考慮しなければいけません。まず最初の重要な点は預言者ムハンマドによって確定された預言の終結です。そして二番目の重要な点は、すべての人類を導く事ができるこの宗教とその行いの完璧さです。

預言の終結

神は、預言者ムハンマドがかれの最後の預言者であると啓示しました。神はこう仰っています。

「ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、神の使徒であり、また預言者たちの封緘である。本当に神は全知であられる。」(クルアーン33章40節) 

預言者ムハンマド自身も、こう言いました。

「私は全ての人類のために送られ、預言は私で封印されました。」(サヒーフ•ムスリム) 

彼は、こうも言いました。

「イスラエルの子孫たちは預言者たちによって導かれ、一人の預言者が死ねば、その次の預言者が送られました。しかし、私の後に誰も預言者は現れません。」(サヒーフ•ムスリム、サヒーフ•ブハーリー) 

それゆえ、自分が最後の預言者であると主張する者がついに現れたのです。預言者ムハンマドの前に生きた預言者たちは、彼らの言録を見る限りでは、そのような主張をしたことはありません。たとえば申命記の18章17から9節では、神がモーゼに、彼のような預言者を将来誕生させると言っています。新約聖書のヨハネ14章15〜16節ではイエスが神から送られるであろう「他の慰め」について話しています。(またヨハネの16章7〜8節、12〜13章でも、後に送られるであろう預言者について、イエスが話していることが書かれてあります。)しかし預言者ムハンマドは、彼の後には誰も預言者は現れない、とはっきりと言っているのです。

最後の預言者として、彼はいくつかの特別な点を兼ね備えていました。

第一に、その後に、間違いや歪曲を正してくれる人が誰も現れないので、最後の預言者に与えられる啓示は完璧に保存されなければなりません。そのことに関してはこの短い記事内で語りきられるものではありませんが、クルアーンとスンナの歴史の研究により、そのいずれも細かく保存されているということが分かっています。

第二に、最後の預言者である印の性質も違います。なぜならその印は、その当時生きていた人だけでなく、後世にも分かるものでなければならないからです。預言者ムハンマドの印はクルアーンであり、その奇跡は現在でも後世でも理解されるものです。

第三に、最後の預言者は、ある特定の共同体だけに遣わされるというわけにはいきません。そうだとしたら、各共同体それぞれに最後の預言者が遣わさられ、相違が生まれることになります。最後の預言者は全人類のために遣わされなければならず、彼が預言者の交代に終止符を打ち、世界全体のための存在であるべきなのです。預言者ムハンマドは唯一、自らが特定の共同体にではなく、全世界の人々のために神に送られた預言者であると述べました。例えばユダヤ教徒は自分たちが選民なのだと考え、彼らの宗教は彼らだけのものだと考えています。なので、彼らの多くは改宗を信じません。新約聖書でも、イエスはイスラエルの子孫たちのために送られたのだと書かれてあります。マタイ10章5〜6節にはこう書かれてあります。

「イエスは12人の使徒を送り彼らにこう言いました。異邦人の都市やサマリア人たちの町にいかず、イスラエルの子孫たちの迷える羊たちのもとへ行きなさい。」 

カナンの女性が彼に助けを求めに来たときに、イエスはこう言ったと記されています。

「私はイスラエルの子孫の迷える羊たちのもとだけに遣わされたのです。」(マタイ15章24節)1

このイエスの制限された使命についてはクルアーンの中でも述べられています。(61章6節)しかし預言者ムハンマドについて神はこう言っています。

「言ってやるがいい。人びとよ,わたしはアッラーの使徒として,あなたがた凡てに遺わされた者である。」(クルアーン7章158節)

また別の節にはこうあります。

「われらは、全人類への吉報の伝達者また警告者として、あなた(ムハンマド)を遣わした。だが人びとの多くは、それが分らない。」(クルアーン34:28)

同じことを述べている節は、他にもあります。預言者ムハンマドは五つの点で、他の預言者と自分は異なるのだと述べています。

「預言者たちはいつも彼らの人々のために遣わされていたが、私は全人類のために遣わされたのだ。」(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)

第四に、最後の預言者が伝える法や教えは、審判の日までに全ての人類が取り扱う事象について取り扱ってなければならず、時代の変化とともに変えられるべき事柄については柔軟でなければなりません。これについてはまた詳しく説明します。

これら全ての点において、預言者ムハンマドがあてはまるということがお分かりでしょう。さらに、これらの点から預言者ムハンマドが全ての人類のために送られた預言者であり、人類全てがイスラームを受け入れるべきだということは明確なのです。

 


Footnotes:

1 同じ内容で、マタイ15章26節ではイエスがカナンの女性に「子どものパンを奪って犬にあげるのは正しくない。」と述べたと書かれてあります。もちろん、福音のどの部分が本当にイエスの述べた言葉かは神だけが知るところです。

(その2):全人類のための宗教

全ての人が預言者ムハンマドに従わなければならないこと

イスラームの法が普遍的であるということを説明する前に、過去の預言者たちに従っている人々について簡単に説明すべきでしょう。そうした人々は、「預言者ムハンマドは真実を述べたかもしれないが、過去の預言者たちだけに従えば十分だ」と主張するかもしれません。

実際には、他の預言者たちに従いながら預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)に従わない、というわけにはいきません。つまり誰も「預言者ムハンマドが真実なのは分かるが、私はイエスやモーゼに従います。」と言うことは可能ではないのです。理論的に考えて、それは神によって受け入れられません。神は、以前遣わされた預言者たちの教えに取って変えるために、最後の預言者を送ったのです。神はクルアーンの中で、そのような態度について説明しています。

 彼らに向かって,「あなたがたは,神が下されたものを信じなさい。」と言われると,彼らは,「私たち(ユダヤ人)は,私たちに下されたものを信じる。」と言う。それ以外のものは,たとえ彼らが所持するものを確証する真理でさえも信じない。(クルアーン291節)

神は、このようなことを言う人々を不信仰者と呼んでいます。神はこう仰りました。

 “神とかれの使徒たちを信じないで,神とかれの使徒たちの間を,分けようと欲して,「私たちはあるものを信じるが,あるものは信じない。」と言い,その中間に,一つの路を得ようと欲する者がある。これらの者こそは,本当に不信者である。われらは不信者のために恥ずべき懲罰を備えている。だが神とその使徒たちを信し,彼らの間の誰にも差別をしない者には,われらはやがて報奨を与えよう。神は寛容にして慈悲深くあられる。(クルアーン4150152節)

預言者はこう言いました。

「私の魂を御手に握られる神に誓って、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でも、啓典の民の中で、私のことを聞き、私と共に神に啓示されたもののことを信じることなく死に行く者の住処は、地獄の劫火です。」(サヒーフ・ムスリム)

預言者は彼の教友の一人に、こう言いさえもしました。

「もしモーゼが今日生きていたら、私に従わざるを得なかったでしょう。」(アフマド、アッ=ダリミー)

つまりイスラームの普遍性は、以前の預言者に従っていた人たちにも当てはまるのです。理論的に言って、預言者ムハンマドを受け入れて従うしかないのです。

イスラームの普遍性と永遠性

前述のように、預言者ムハンマドは全人類に送られた最後の預言者だと言っています。それと同時に、慈悲あまねき神の慈悲を知りながら、神がいかなる形であっても、明確な導きを人々に残してはおかなかったと考えるのは非理論的です。つまり、神がこの預言者に与えたものは、審判の日まで全ての人類にあてはまるものに違いないのです。彼はこの事実を明確にしました。

「私は、私の後に二つのものを遺していきます。あなた方はそれに従えば、私が去った後でも道からそれることはありません。その二つのものとは神の書、そして預言者のスンナです。」(サヒーフ・ムスリム)

また、神はこう言いました。

「今日われはあなたがたのために,あなたがたの宗教を完成し,またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし,あなたがたのための教えとして,イスラームを選んだのである。」(クルアーン53節)

つまりこの宗教は完全で、後からの改ざんや変更を一切必要としないのです。審判の日まで、この教えは正しいものであり続けます。全人類のために遣わされた預言者は、既に到来したのです。

つまり預言者ムハンマドの教えは正しく、それに従うことは全ての人類の義務です。彼の教えと模範は当時のアラブ人のためのものだけではなかったのです。というよりも、その当時の人たちと同じように、その宗教は今でも、たとえばニューヨークやマレーシアでも正しく大切なものなのです。

この時点で、ある人は論理を用いてこのような質問をするかもしれません。「審判の日まで変わらず守られることのできる法とは、どういうものでしょうか? 時代は変化します。どのような法がいつの時代でも守られることのできるものなのでしょうか?」その答えこそが、その法の美点なのです。預言者ムハンマドによって広められた法について研究してみると、それが現代でも預言者ムハンマドの時代と同じように実践することが出来る必要な柔軟性を備えていたことが分かります。つまり基本的には、恒常的であるべき事柄に関しては、そのような法が設けられていますし、柔軟であるべき事柄に関しては、異なる時代の異なる人々が異なる形で実践できるよう、柔軟に対応できるようになっています。よって、神によって授けられたその生き方は、審判の日まで全ての人間にあてはまり、全ての人が従うことのできるものなのです。

(その3)完全かつ十分であり続ける導き

まず第一に、現実的に言って、人間の性質は時が経っても変わりません。道徳や品行に関する法は不変であるからです。人間の性質は変わらないため、ある時に魂に害を及ぼすものは常に害を及ぼすものであり続けます。たとえば嘘や不倫は神の怒りを買うものであり、魂を傷つけるという事実は変わりません。ゆえに、このような人間の性質に関わることに関する教えは既に決まっていて、それは審判の日まで同じです。人間の性質の基礎となる宗教儀礼も変わる必要はありません。神だけが、どのような崇拝行為が良いのかを知っていますし、もし神が特定の行為が審判の日まで正しいとするなら、他の誰もそれを変えることはできません。そのような宗教儀礼を説明すると、イスラームは厳格だと言う人がいるかもしれませんが、その点に関してだけは厳格であるべきなのです。その点ではイスラームの普遍性や実用性は変えることはできません。

第二に、人間が避けるべき有害なものもあります。そういう類のものは明確に、そして永久的に禁止されています。例えばアルコールやその他の有害物質は、常に人間にとって有害です。クルアーンにも言及されていますが、時として人は、アルコールが体に有益であると言います。しかしアルコール消費が良い事であるとは、どの社会も主張することはできません。アメリカだけを見ても、アルコールが何をもたらすかがお分かりでしょう。アルコールの悪用のせいで沢山の家庭が崩壊しています。アルコールを摂取した後の運転は危険で、様々な措置が試みられてはいますが、いまだにそのせいで多くの命が奪われ、沢山の人々が大けがを負っています。アルコール中毒者たちは仕事につけず、国や自治体に生活保護を受けていますが、それも他の市民たちの負担になっているのです。こういったことに関しては、アルコールが許されるべきいかなるまともな議論もないことから、イスラームではそのような習慣を永久的に禁じています。(確かに、中毒者たちからアルコールを奪うことはほぼ無理なので、いまだにアルコールは合法なのだと主張する人もいるでしょうが、これこそアルコールがいかに有害かということを示しています。)

第三に、人間にはいくつかの細かい法と、時代や場所を問わず、従われるべき一般的な法の両方が必要です。その両方を提供するのが、イスラーム法です。神は私たちが何を食べるべきか、遺産、結婚、国際関係などについては、細かい法を与えて下さります。学者はこの細かい法から、新しい事例の中での法を見つける事ができるのです。また一般的な法からは、例えば預言者の時代には起こらなかった出来事などに関する法を考えることができます。

第四に、例えば商取引・社会活動における契約に関しては、大概のことはそれが法外であるという根拠がない限り、合法ということになります。つまり、イスラーム法はかなりの融通がきくということです。例えばビジネスでは、イスラームにおいて利子、危険すぎる金銭取引、ギャンブル、詐欺、虚偽、法外な商品の取り扱い、強制などを禁じています。これらがビジネスにおいて有害となる、禁じられた取引です。つまり、時代が変わりビジネスの形態が変わったとしても、全ての人が、どの取引が合法であるかということがイスラーム法では分かるのです。ゆえにイスラーム法は1400年間遵守されているのであり、イスラームの教えによれば、審判の日まで遵守できるものなのです。2人のビジネスマンは、それが有害なもの、法外なものでない限り、新たな契約形態を開発することができます。イスラームでは無数の取引が合法なのです。

最後に、審判の日まで有用であり続ける完全で総括的なイスラーム法が神からの偉大な祝福であり、それゆえに私たちは神に従うべきなのだということが認識されなければなりません。過去に幾度もの試みはありましたが、人々は一部の地域の限られた時間の中で守られるべき完全な法を作る事さえもできません。サイイド・クトゥブはこの点について雄弁に記しています。

人が自分の力で哲学的なコンセプトや生き方を構築しようとするとき、それらは包括的にはなり得ません。それが部分的に正しく、またある特定の時、場所では正しいかもしれませんが、別の時と場所では当てはまらないということになるからです。さらに言えば、人はたった一つの問題を解決しようとするときでさえ、全ての面からその問題を見ることは出来ないため、解決策に導く状況の全てを考えることができません。なぜなら、問題が時と場所を超えたものであったり、人間の理解は観察の域を超えた前例や仮説に関わったりするからです。

つまり結論として、人によって作られたいかなる哲学も生き方も、包括性を有する事はできません。大体は、人生のある一面において正しいか、ある特定の時期に当てはまるだけで、その限られた範囲のために、多くの欠点が出てきます。その一過性のため、後に改ざんが必要になった場合には問題が生じるからです。人々や国家は、その社会的、政治的、経済的システムを、人が作った哲学から作り上げようとすれば、多くの矛盾や弁証にぶつかることになります。

神がつくった法が全ての場所と土地で、人間にとっていかに最善なのかということを理解するために、最近物議をかもしている一例を見てみましょう。割礼はイスラームの良く知られた慣習の一つです。ここ数十年間は医者や科学者たちは、人間の限られた知性のために、割礼の善し悪しを決められずにいました。あるときには、割礼は良い慣習だとし、あるときには、それは有害無益だとしました。今の時点で発見されたことは、もちろんそれがまた間違いとされることになるかもしれないのですが、割礼はエイズの予防に最適だとしています。アフリカの各地で今、多くの人に割礼を施そうとしています。

おそらくこのようなケースが沢山見られたあとは、人々は神から送られた完全で、時の場所に関係なく人間にとって最善の導きがあると理解することでしょう。

永久に完全かつ十分である導き

要約すると、イスラームの教えは完全で、時と場所を問わずに従われうる教えであるということになります。それは、現世と来世の幸せのためにムスリムが必要な全てなのです。ゆえにそこでは、何の追加も、改ざんも、削除も必要とされません。神が送ったものを自分たちの手でより良くできると思っている人々は傲慢なのであり、その人が達成できることではないのです。これらの理由から、預言者ムハンマドは宗教的革新、異説そして棄教に対して厳しく警告しています。そのようなことは全く必要のないことであり、それはイスラームの完璧さや美しさを奪うものなのです。預言者はこう言いました。

「最悪なものは宗教的革新です。すべての宗教的革新は墜落に導きます。」(サヒーフムスリム)

彼はまたこう言いました。

「すべての墜落者の行き先は地獄の業火です。」(アン=ナサーイー)

預言者はこう言いました。

「この宗教に新たなものを持ち込もうとする者は私たちの仲間ではなく、拒否されます。」(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)