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Author :

Jamaal Zarabozo

Date :

Sun, Aug 03 2014

Category :

Introducing Islam

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平和と安全

平和と安全

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(その1):神との平和

イスラームと平和(サラーム)の相互関係

おそらくイスラームと平和、そして安全の相互関係を議論するにあたっての最善の出発点は、最近よく聞かれる「イスラームとは平和という意味である。」という言葉について話し合うことでしょう。もしその言葉を口にする人が、イスラームという言葉自体が平和を意味すると言うのなら、それは全くの間違いです。イスラームという言葉が、アラビア語の平和(サラーム)という言葉と同じ語源であるというのは事実です。このことは、イスラームと平和との間に何らかの関係があることを示しています。この二つにどんな関係があるのか、そしてその相互関係がどのように生じたかを見ることは、とても大切です。

イスラームとは、「アスラマ」という動詞の動名詞です。この動詞は、「自らを差出す」と定義されています。そしてこれが神について使われるとき、その意味は「彼は神に服従する」1  というものになります。つまりイスラームとは、人が自分の主は誰かということに気付き、かつその主に対して服従と崇拝という態度をとるべきだと認識することなのです。

イスラームという言葉の意味を理解することは、イスラームと平和の関係を理解することにおいてとても重要です。イスラーム、または神への服従こそが、人々を真の意味での平和に導くものなのです。外面的にも内面的にも、本当の平和とは、イスラームを受け入れてこそ得られるものです。もちろんここでの平和とは、単に戦争が行われていない状態を表すわけではありません。戦争の中になくとも、不安や絶望に苦しみ、平和な状態ではいられない人もいます。ここで意味するのは、完全な意味での平穏のことです。イスラームは完全な心の平穏と安らぎをもたらしますが、その安らぎは、人々が主の導きによって信じ行動することによって得られるものです。この心の安らぎは家族、コミュニティ、社会、そして世界全体へと広まります。2  この特別な心の安らぎは、神への正しい信仰によってのみ得られます。神はこう仰っています。

これによってアッラーは、御好みになる者を平安の道に導き、またその御許しによって、暗黒から光明に連れ出し、かれらを正しい道に導かれる。(クルアーン516 

事実、神は人々を永遠の住処へといざなっているのです。

本当にアッラーは,人を平安の家に招き,また御好みになられた者を正しい道に導かれる。” (クルアーン1025) 

この道に従う人々の最終的な報酬は、平和の住処なのです。

かれらは,主の御許に平安な住まいを得る。(クルアーン6127 

 

結論として、「イスラームとは平和という意味である」というのは正しくはないのですが、真の平和とはイスラームを通してこそ確実に得られるものなのです。

イスラームがどのように平和をもたらすか

本当の完全な意味での平和とは、個人が内面的な安らぎを得たときにのみもたらされます。イスラーム、つまり神への完全服従によってもたらされるのです。この生き方だけが、人間の本来の性質にあったものです。実際には、この生き方だけがいわゆる本当の人生なのです。神はこう言っています。

信仰する者よ,アッラーと使徒の呼びかけに応えなさい。アッラーが(使徒を通じて)あなたがたを(現世と来世で)生かすために呼びかけたときは。(クルアーン824 

神を知ることは、魂に真の満足をもたらします。主を知らなければ、人の魂はその人生で欠けた何かを探し続けるのです。彼は常に動揺し、困惑し続けます。そして彼が神以外の何かを求めるならば、たとえそれが彼が神と信じるものであったとしても、結局それらは彼の心が本当に求めているものではないのだと気づき、絶望に陥ることになるでしょう。

イブン・タイミーヤはこう述べました:

人の神に対する必要3‐かれだけを崇拝し、他の何者とも並べないということ‐は、他に想定可能な比較対象が存在しないほどの必要性なのです。このことはある意味、体が食べ物や飲み物を欲するのと同様のものです。しかしながら、両者には多くの違いがあります。

人々の真実とは、心と魂にこそあります。そしてそれは他に並ぶべき者のない存在である神との関係によってしか、栄えることがないのです。この世では、神に思いを馳せることでしか、平静を得ることはできません。人は主に向かって確実に進んでおり、いつかかれに会うことになっているのです。主にお目にかかること以上にすばらしいことはありません[1]。神以外のものによる喜びや幸せは、長続きしません。そのようなものは別の性質のものへと移り変わったり、ある人のもとから他の人へと移転したりするものです。そのような喜びはその場限りのものか、少しの間続くだけです。人がそれゆえに喜んだり、幸せを感じたりしているものは、実際には喜びや幸せをもたらしているわけではありません。それどころか時には、その訪れと共に人を傷つけたりもします。そして時には、さらなる害さえもたらしたりもします。しかし神はどのような状況でも、彼のそばにいるのです。どこにいようと、神はその知識とご援助と共に、彼と共にあるのです。

もし人が神以外のものを崇拝するのなら、たとえ彼がそれによって愛や喜びを得たとしても、やがて毒を服するよりも大きな害がその人にもたらされ、破滅に陥ることになります。

人が誰かを神以外のものにおいて愛するのなら、その愛するものはその者にとっての害悪や罰の理由となることを知っておかなければなりません・・・人が誰かを神以外のものにおいて愛するなら、その対象は、たとえ彼のそばにあろうがあるまいが、彼に害をもたらすことになるでしょう。5

世界中のいかなる財産や物質も、人間に真の内面的満足をもたらすことはできません。教友アブー・フライラは、預言者(彼の上に平安と祝福あれ)がこう言ったと伝えています:

「本当の豊かさとは、沢山の財産や所有物のことではなく、自ら満ち足りることなのです。」6

また、他のハディースではこう伝えられています。

「本当の豊かさとは心の豊かさであり、本当の貧しさとは心の貧しさなのです。」7

人は、自らが平穏かつ内面的に動揺がない状態にあれば、他人とも平和な関係を築けるものです。彼には、他の人々、つまり内面的な平穏に恵まれてはいない人々に怒りを抱く理由がないのです。事実、彼の目的地は死後の世界なのであり、他人がこの世界で何を手に入れたかということに関して、彼らとの平和な関係を害する妬みや怒りなどを抱かなくてもよいのです。

 


Footnotes:

1 E. W. Lane, Arabic-English Lexicon (Cambridge, England: The Islamic Texts Society, 1984), vol.1, p. 1413.

2 参照:Sayyed Qutb, Islam and Universal Peace (Indianapolis, IN: American Trust Publications, 1977), passim.

3  イブン・タイミーヤがここで使用した用語は「アブド(しもべ、または奴隷)」ですが、そこには全人類が含まれます。

[1] これはつまり魂が、その天性ゆえに、神との拝謁を待望するからです。

5 Ibn Taimiya, Majmoo, vol. 1, pp. 24-29.

6 Recorded by al-Bukhari and Muslim.

7 イブン・ヒッバーン収録。アル=アルバーニーによれば、真正な伝承。参照:al-Albaani, Saheeh al-Jaami al-Sagheer, #7816.

(その2):社会

内面的確執がないことは、間違いなく他人との付き合いに影響を与えるでしょう。それは家族の中の一番近い人から、隣人、コミュニティ内の人々、そして最終的には全人類へと広がります。イスラームは、人と人とが関わり合う社会構造を、相互関係、権利、そして義務を土台として確立し、平和的共存をもたらします。子どもは親に対する彼らの権利を認識し、親は子どもに対する義務を認めます。夫婦は競い合う相手ではなく、家庭を愛と平和にあふれたものにするために努力するパートナーなのです。神はこの夫婦関係を、一つの大きな徴として挙げています。

またかれがあなたがた自身から,あなたがたのために配偶を創られたのは,かれの印の一つである。あなたがたはかの女らによって安らぎを得るよう(取り計らわれ),あなたがたの間に愛と情けの念を植え付けられる。本当にその中には,考え深い者への印がある。(クルアーン30:21

それゆえに神は、家庭の神聖さを守るために、姦淫、貫通や中傷といったものに関する厳しい法制度を定めました。というのも家庭とは、社会全体の基礎であるからです。もし家庭内が平穏でなければ、そのような家庭を混乱した状態で後にした人々が、社会の一員として平穏にその役割を果たすことができるとは考えにくいでしょう。

イスラームでは古典的な意味での法律だけでなく、道徳的な行動規範も網羅しており、社会の人々が関わりあう中でのマナーについて細かい指針を有しています。各人は権利と義務を伴う大きな共同体の一員であることを意識し、お互いに尊重し合うことに非常な重きが置かれています。このお互いへの気遣いが平和な社会を築き、お互いの生活や必要を補い合うのです。

それゆえイスラームが社会の中で実践されているときには、個人から湧き出て社会全体へと広がる、平和に満ちあふれているのです。実際に、真の世界平和とは、正義と公正さによってのみもたらされるのです。昨今では多くの人々がこの事実に気付き、「正義のないところに平和はなし」(正義、とは戦争のときにだけ使われるスローガンでしたが、本来それはただのスローガン以上のものです)と主張し始めました。しかし人々が、国家的または民族的な経済利益や、政治的利益を超えたものの考え方をしない限り、平和も正義もありません。例えば人々が、他の土地の資源を搾取するといった経済的利益のための戦争は可能であると考えるのなら、そこには平和も正義もありません。本当の正義とは、人々がその決断において欲望や傲慢さを回避しつつ神の導きに従い、かれに敬虔に仕えることによってのみ生まれるのです。

来世ではもちろん、神への信仰と神の法への服従によってのみ、永遠の平和が得られます。繰り返しますが、神がこのことへと人々をいざなっているのは明らかです。

本当にアッラーは,人を平安の家に招き,また御好みになられた者を正しい道に導かれる。(クルアーン10:25

平和についての問いに答え終わる前に、話し始めたらこの記事には入りきれないほどの重要な問いがあります:人は、この世界における彼の人生が、来世における彼の待遇について何の手がかりも与えてくれないとき、真の内的平安を得ることが出来るものでしょうか?あるいはその両者間には、完全な断絶があるのでしょうか?それともその間には、いくらかの矛盾が見て取れるのでしょうか?たとえば、資本主義、社会主義、そして民主主義はすべて、私たちに現世で何らかの利益を約束してくれますが、来世においては何も与えてはくれません。それゆえに人生の中に空白が生まれ、それが真の平和を発見することから遠ざけてしまうのです。

その結果として、彼はその人生を二分化してしまうかもしれません。つまり、現世のことに関しては世俗的でありながらも、来世に関する信仰はいくらか残しておくということです。しかし、それなら彼はどのようにして、彼の世俗的な目標が、彼の信仰が来世に起こると伝えているものと両立するかどうか分かるのでしょう?彼は精神分裂の状態で生きていかなければならないのでしょうか?さらには、もし彼の信じる精神的な教義が、欲望やこの世界が悪であるなどといった、彼の世俗的人生を否定するものであったらどうするのでしょうか?このような性質の人々は自分自身で、いかに本当の平安に到達できるというのでしょう?

イスラームはどのように安全をもたらすか?

安全は平和と平行的に考えられます。平和をもたらす要素が、安全性の確立に役立つからです。

安全と聞いて、人々が最初に思い出すのは法律でしょう。何が受け入れられるべき行動かという範疇を示すという点で、法律は安全においてとても重要です。実際に、イスラームでは人生のおおまかな規則を示すだけでなく、細かな規範も示しています。これらの規則が平和と安全をもたらすのです。平和と安全は間違いなく、全社会の目標です。しかし神だけが、私たちに平和と安全をもたらす法制度を定めることの出来る、創造物に関する知識を有しているのです。人間は、ただ推測し続けるだけなのです。例えば、死刑(極刑)が例として挙げられるでしょう。死刑は、大罪に対しての最も重要な抑止力の一つだと言われています。しかし欧州連合は、それを完全に禁止しています。アメリカでは大衆が揺れ動き、それが良いことなのか、悪いことなのか結論が出せないままでいます。現実的に、彼らは決して結論を出すことはできないでしょう。なぜなら彼らは、人間を使って、死刑が良いことなのか悪いことなのか実験することができないからです。それゆえ、彼らはただ推測するしかないのです。死刑を完全に禁止している欧州連合も、推測からそうしているだけです。一方で、イスラームの主な目的の一つとして、種の保護と存続というものがあります。その目的の一環として、懲罰や死刑もイスラーム法の一部です。これらの法は、ただ刑罰の目的だけであるのではありません。これらの法は事実、人々を守るためにあるのです。神はこう仰っています。

この報復(の掟)には,あなたがたへの生命(の救助)がある。思慮ある者たちよ,恐らくあなたがたは主を畏れるであろう(クルアーン2:179

この言葉は、このようなことが言えるたった一つの、事実を知る存在から発されたものです。それゆえ神の導きに背けば、人々は常に模索しなければならないことになります。しかし、彼らは真の平和と安全を築く完全な社会的構造を、自らにもたらすことはできないでしょう。創造主の宗教であるイスラームこそが、安全を確立できる唯一の生き方なのです。

(その3):篤信

しかし現実的に、法律だけでは平和と安全をもたらすことはできません。このことはイスラームを、人々の平和と安全を試みる他の挑戦から際立てる重要な要素です。安全において最も重要なことは、法律ではなく、人々の心の中にあるものです。イスラームの最終目標は、個人と社会全体の中で信仰を確立、強化し、支え合うことです。前述の通りこの信仰は、お互いに対する凶暴な感情を抑える安らぎを心にもたらします。さらに、個人の心に篤信を植え付けることは、この信仰の一部でもあります。前述の通り、信仰や篤信は、心に平穏をもたらすだけでなく、人の行動も律します。個人は、一般的規則に従って行動しなければなりませんが、それらの規則の目的の一つが、平和と安全の確立なのです。例えば、昨今の米国でよく見られる光景ですが、人は自分の機嫌が悪いときでも、職場で手当たり次第誰にでも当たりちらすことはできないということを理解しています。つまり、安全と平和を守る行動規範というものがあるのです。

平和と安全をもたらす人生の全体的展望を強調する、非常に大事な要素があります。信仰と篤信は人に人生の目的と、彼自身が高貴な創造物であるという理解を与えてくれます。人生には意味があるのです。ただ物質が融合し合った結果などではありません。また同様に、人々は単なる他の動物の子孫などでもありません。このような理解は、人の人生に大きな影響を及ぼします。私には米国の刑務所で働いた経験があります。受刑者たちになぜ犯罪を犯したのか尋ねると、決まって返ってくる答えは「なぜ(犯罪を)犯してはいけないんだ?」というものでした。彼らにとって重要なのは、罪を犯した後に逃亡し、捕まらないことだけだったのです。主への責任とか、人生の目的とかいう問題は一切ありません。この人生が、ただの偶然で、目的のないものだと信じるほど愚かならば、彼らの考えに対して多く議論することはできないでしょう。

しかし信仰と篤信があれば、行動を抑制できるだけでなく、それに応じて善行をしたいという気持ちも出てくるのです。これに関しては、1919年に施行された米国のアルコール禁止令が例として挙げられるでしょう。この法は、犯罪と暴力、そして飲酒が広まったために施行されたものです。人々はもちろん、その法の良さを知り、信じていましたが(だからこそ施行されたのです)、多くの人の心には、その法に従おうとする何かが全く欠けていたのです。しかし神の法への信仰と篤信があるなら、状況は全く違います。禁止された行動に対する憎しみすら生まれるのです。というのも信仰者には、その行動自体が悪であり、主の怒りを招くものだと理解できるからです。それゆえ、信仰者はできる限り違法な行動を避けます。こうして神の法の施行により、安全が導かれるのです。

さらに安全をもたらす神の法の施行に貢献するものとして、イスラームが共同体精神に重きを置くということが挙げられます。米国で近年、平和と安全が欠如していることを鑑み、「地域住民による警備団」というものを取り入れるコミュニティが増えてきました。近隣の住民同士はこれにより、互いの面倒を見合い、目を見張らせ合います。この目的はただ、安全や平和をかき乱す何かを見つけるだけでなく、人々に、彼らは共同体の一部なのだから、近隣の人々に何が起こっているか心配する必要があると理解させることでもあります。もちろんこれも、イスラームに備わっている、共同体意識と同胞意識とは比べ物になりません。現実としては、自らの欲望や他の邪悪な人々に左右されてしまう弱い人もいます。彼らには、正しい道へと導き、弱さを克服できるように助けてくれる頼りになる人々が必要なのです。それゆえイスラームにおける同胞意識は、お互いの面倒を見合い、善行を勧め悪行を禁じることによって浸透していくのです。神はこう仰っています。

男の信者も女の信者も,互いに仲間である。かれらは正しいことをすすめ,邪悪を禁じる。(クルアーン971

また預言者(彼の上に平安と祝福あれ)は、こう言いました。

信仰者同士の関係は建物のようなものです。お互いが強化し合うのです1

このような社会の個人間の関係は「地域住民による警備団」プログラムの精神と似てはいますが、実際のところは共同体の構成員に、より多くの安全と平和をもたらします。

イスラームは、現世と来世のいずれをも配慮します。実際イスラームは、それら二つをしっかりと結びつけるのです。この二つの密接な関係によってのみ、本当の平和と安全が得られると言ってよいでしょう。信仰と法、安全と平穏へと導くステップを知るにあたって、導きは神からのものでなければならず、実際それは神からだけのものなのです。人はイスラームによって、内的な平穏さを見出すことが出来ます。そしてそれにより、他人とも平穏な関係が築けるのです。そして同時に、彼は社会全体の平和と安全を保障するに必要なステップと法を有しているのです。

 


Footnotes:

1 Saheeh Al-Bukhari and Saheeh Muslim.