記事について

著者 :

M. Abd As-Salam

日付 :

Fri, Dec 12 2014

カテゴリー :

Muhammad (PBUH)

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ムハンマドによる非ムスリムへの慈悲

ムハンマドによる非ムスリムへの慈悲

(前半)

 

預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)は、「全世界への慈悲」であると形容されています。神はクルアーンの中でこう述べています:

「われらはただ全世界への慈悲として、汝を遣わしただけである。」(クルアーン21107 

この特質はムスリム国家に限らず、預言者と彼の使命に対して危害を加えようと努力した、ある種の非ムスリムに対しても向けられていました。慈悲と寛容は、預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)により明確に実践されました。彼は決して個人的な復讐をせず、最も頑強な敵でさえ赦したのです。アーイシャによると、預言者は決して個人的な理由から誰かに復讐したことはない、と伝えられています。また彼女は、彼は決して悪を悪で返さず、容赦し放免したと伝えてもいます。神が御望みであれば、以下による彼の人生の綿密な分析によって、それらは明らかになるでしょう。

預言者としての使命を授かった初期の頃、預言者はマッカに程近い山岳地帯にあるターイフの町へと向かい、人々をイスラームへといざないました。しかしターイフの長は預言者に対し、無礼かつ粗暴な振る舞いをしたのでした。彼に対する横暴な態度だけでは満足しなかった彼らは、更に町のごろつきを扇動して彼を迫害したのです。彼らは預言者につきまとって、彼が果樹園に避難せざるを得なくなるまで怒鳴り付けたり石を投げたりの暴行をしました。それゆえ預言者は、マッカで味わった以上の苦渋をターイフでも味わうことになったのです。これらのごろつきは道の両側から預言者に投石し、彼の足は負傷して血まみれになりました。ここでの迫害は預言者を非常に落胆させ、彼を深い悲しみに陥れました。無力さとみじめな気持ちから神に助けを求めると、次のような言葉が自然と彼の口からついて出て来ました:

「神よ、私はこれらの人々を前にした自らの弱さ、の欠乏、そして屈辱に関して、あなたに嘆願します。あなたこそは最も慈悲深き御方、弱き者の主、私の長です。あなたは私を誰に委託されるのですか?疎遠かつ敵意を抱く者、または私を支配する敵に委ねられるですか?もしあなたが私に何の価値もあてがわれなわなくとも、私は気にかけません。私に対するあなたの恩恵は、限りなく豊かであるからです。私はあなたの御怒りと御不興が私に降り掛かることに対し、あらゆる暗闇を照らし、現世と来世におけるあらゆる諸事を正しく規定される、あなたの御顔の御光に御加護を求めます。私が求めるのはひとえにあなたの御満悦であり、あなたこそが私に善行をさせ、悪行を禁じさせる唯一の御方なのです。あなたを差し置いて、いかなる威力も強大なるものもありません。」 

すると主は山々の天使を遣わしました。彼らは預言者に、二つの丘を押し合わせて、その中間に位置していたターイフの町を押しつぶす許可を求めました。しかしその大いなる慈悲と寛容の精神から、預言者はこう答えたのです:

「だめだ!私は神が彼らの子孫から、神のみを崇め、かれに何ものをも配さない人々をもたらしてくれることを望むからだ。」(サヒーフ・ムスリム) 

彼の慈悲と情けの念が余りにも深かったことから、神は数回に渡って彼を叱責した程でした。マディーナに住んでいた偽信者らの長アブドッラー・ブン・ウバイイは、イスラームの最大の敵の一人でした。外面ではイスラームを標榜しつつ、密かに預言者の使命とムスリムに対しての多大なる損害を与えたのです。預言者ムハンマドはこのことを知りながらも、彼の葬儀礼拝を執り行ない、彼への慈悲を神に懇願しました。この出来事に関してクルアーンは以下のように述べています:

「(ムハンマドよ、)彼らの中の誰かが死んでも、汝は決して彼のために、(葬儀の)礼拝を捧げてはならない。またその墓の側に立ってはならない。本当に彼らは、アッラーとその使徒を信じないまま主の掟に背く者として死んだのである。」(クルアーン 984

アブドッラー・ブン・ウバイイは、生涯をかけてムハンマドとイスラームに敵対し、彼の悪評を広め、その使命を頓挫させることに尽力しました。彼はウフドの戦いにおいて、自らの300人の追従者を戦場から撤退させ、そのためムスリムたちは危うく致命的な一撃を被りかけたのです。彼はイスラームの預言者とムスリムに対する策謀を巡らせ、敵対行為を続けました。彼こそは、預言者の妻アーイシャに対する不貞疑惑を捏造し、預言者そして彼の教えの評判を落し、面目を潰そうと試みた人物なのです。

(後半)

預言者による慈悲は、彼の叔父であり、彼の最も愛した人物の一人でもあったハムザを殺害し、その死体を残虐にも損傷した者にまで及びました。ハムザは初期のイスラーム改宗者の一人であり、クライシュ族におけるその地位と影響力により、ムスリムに対する危害を最小限にくい止めた人物でした。アブー・スフヤーンの妻、ヒンドのエチオピア人奴隷は、ウフドの戦いにおいてハムザを探し出して殺害しました。マッカの無血入城の前夜、アブー・スフヤーンはイスラームに改宗しましたが、そのことについての預言者(神の慈悲と祝福あれ)による復讐を危惧しました。しかし預言者は彼を赦し、長年に渡る敵対行為に対しての償いを一切要求しなかったのです。

ヒンドはハムザの殺害後、その遺体を切り開いて肝臓や心臓を取り出し、切り刻みました。後に彼女が静かに預言者のもとを訪れイスラームに改宗したとき、彼は彼女の姿を認識しましたが、何も言いませんでした。彼女は彼の雅量と荘厳さに心を打たれてこう言いました:「神の使徒よ、私の目にとってあなたの天幕よりも忌々しいものはありませんでした。しかし今日、私の目にとってあなたの天幕よりも愛おしいものはありません。

アブー・ジャハルの息子イクリマは、預言者とイスラームにとっての大敵でした。彼はマッカの無血入城の後にイエメンへと逃走しました。彼の妻がイスラームへ改宗した際、彼女は自らの庇護のもと、彼を預言者ムハンマドのもとに連れて来ました。預言者は彼を目にすると非常に喜び、次の言葉で挨拶をしたのです。

「騎手の移住者よ、ようこそ

マッカの支配者の一人であったサフワーン・ブン・ウマイヤも、ムハンマドとイスラームにとって大敵の一人でした。彼はムハンマド殺害の見返りとして、ウマイル・ブン・ワハブに報酬を約束しました。マッカが攻略された際、サフワーンはイエメンへと逃れるための船を探しジェッダへと向かいました。ウマイル・ブン・ワハブはムハンマドのもとにやって来て言いました:「神の使徒よ!彼自身の部族の長であるサフワーン・ブン・ウマイヤはあなたによる危害を恐れて逃亡し、海に投身すると脅していますぞ!」預言者は、彼の身の安全を保証する知らせを彼に送りました。そして彼は戻って来ると、2ヶ月間の選択の猶予をくれるようムハンマドに要請しました。彼には4ヶ月間の猶予が与えられ、その後自らの自由意志でイスラームに改宗したのです。

ジャービル・ブン・アル=アスワドも、ムハンマドとイスラームの危険な敵でした。彼は聖預言者の娘ザイナブがマディーナへの移住を決意した際、彼女に深刻な傷を負わせました。彼女は移住を始めた際に妊娠しており、マッカの多神教徒らは彼女の出発を阻止しようとしました。この男、ジャービル・ブン・アル=アスワドは彼女を襲い、意図的に彼女がラクダから転落するよう仕掛けたのです。その落下によって彼女は流産し、彼女自身も重傷を負いました。彼はそれだけでなく、ムスリムに対して他にも多くの犯罪を犯しました。彼はペルシャへの逃亡を望みましたが、ムハンマドは自分のもとを訪れた彼を寛大にも赦したのです。

またクライシュ族はイスラームの最大の敵でした。ムハンマドが預言者としてマッカに住んでいた13年間に渡って彼らは彼を非難し、嘲笑し、暴行を加え、肉体的にも精神的にも迫害したのです。彼らは預言者の礼拝中に、彼の後からラクダの胎盤を投げつけたり、彼と彼の部族をボイコットし、堪え難い社会的制裁を課したりしたのです。彼らは預言者の殺害を何度も策略した上、彼がマディーナへ脱出した際には、アラブの諸部族を総勢して幾度にも渡る戦争を仕掛けて来たのです。しかしながら、彼が1万の軍勢を連れてマッカに勝利の入城をした際、彼は誰一人に対しても復讐することがありませんでした。預言者はクライシュ族にこう言ったのです:

「クライシュ族の人々よ!あなた方は、私があなた方に何をすると思うか?」

良い反応を期待し、彼らはこう言いました:「あなたは善いことをするでしょう。あなたこそは高貴な兄弟の息子である、高貴な兄弟なのですから。」

すると預言者は言いました:

「ならば、私はヨセフが彼の兄弟に言ったことと同じことを言おう:『あなた方に咎めはない。』行くのだ!あなた方は自由の身だ!」1

私たちは歴史をくまなく見回しても、これ程までに慈悲がかけられた例を滅多に見つけ出すことは出来ません。イスラームに対する数々の戦争を仕掛けた危険極まりない敵、アブー・スフヤーンでさえ、家に留まり全く危害を与えなかった他の人物同様に赦されたのです。

預言者は寛容に徹した人物でした。いかに大きな犯罪または侵略であれ、彼にとっての赦しに勝るものはなかったのです。次のクルアーンの節も言及しているように、彼は寛容と慈悲における最も完全な例なのです。

「(ムハンマドよ)寛容を守り、道理にかなったことを勧め、無知の者から遠ざかれ。」(クルアーン 7199

彼は常に寛容さと親切な態度による善をもって悪を退けました。それは彼による、解毒剤は毒に優るという観点からでしょう。愛は憎悪に優り、侵略は寛容によって勝利するという教訓を彼は信じ、実践しました。彼はイスラームの知識によって人々の無知を、そして親切で寛容な処遇によって人々による愚かさと悪を乗り越えたのです。彼はその寛容さによって、罪の奴隷となっていた人々を解放し、彼らをイスラームの大きな味方に変えたのです。彼は次のクルアーンの節を体現していたのです:

「善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。」(クルアーン 4134

 


Footnotes:

1 “Mukhtasar Seeratur Rasool”, Muhammad ibn Sulayman at-Tameemi.