記事について

著者 :

Uri Avnery

日付 :

Sun, Dec 07 2014

カテゴリー :

Muhammad (PBUH)

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ムハンマドの剣

ムハンマドの剣

 

 

(前半) 

 

ローマの諸皇帝が、キリスト教徒たちをライオンに食わせて処刑した日々以来、諸皇帝と教会との関係は多くの変化を遂げました。

ちょうど1700年前、西暦306年に帝王の座に就いたコンスタンティヌス大帝は、当時パレスチナを擁していた帝国内においてキリスト教を公認し、その実践を促しました。その数世紀後、キリスト教会は東方(正教会)と西方(カトリック教会)に分裂しました。西方では、教皇の称号を獲得したローマ司教が、自身の優越性を認めるよう皇帝に要求しました。

諸皇帝と諸教皇による対立は、ヨーロッパの歴史における中心的役割を担い、人々を分裂させました。ある皇帝は教皇を解任、または追放し、またある教皇は皇帝を解任、または破門しました。皇帝ハインリヒ四世がカノッサ城の前、雪の中を裸足で三日間立ち尽くし、教皇から破門の解除を願ったと言われる「カノッサの屈辱」は有名です。

しかし、皇帝と教皇が平和裡に共存した時代もありました。私たちは今日、それを見て取ることが出来ます。現在の教皇であるベネディクト16世、そして現在の皇帝であるジョージ・ブッシュ二世は、素晴らしき調和を見せています。世界的な議論を巻き起こした、教皇による先週のスピーチでは、「文明の衝突」という文脈上、ブッシュの「イスラムファシズム」に対する聖戦に見事にマッチするものです。

ドイツの大学での講義で、第265代目教皇は、彼にとってのキリスト教とイスラームの間の大きな違いについて説明しました。彼はキリスト教が理性に基づいているのに対し、イスラームはそれを否定すると言いました。キリスト教徒が神の行為について論理を見出すのに対し、ムスリムはアッラーの行為に論理はないと否定すると言うのです。

私はユダヤ人無神論者として、この議論の輪に加わるつもりはありません。教皇の論理を理解するのは、私の能力を超えたものです。しかし、私は「文明戦争」の断層線近くに居住するイスラエル人として、ひとつのくだりを見過ごすことは出来ません。

教皇はイスラームに理性が欠如していることを証明するため、預言者ムハンマドが彼の追従者たちに剣で彼らの宗教を広めるよう命じたと断言しました。教皇によれば、信仰とは魂から生じるもので、身体からではないことから、そういった強制が理性的でないとしたのです。つまり、なぜ剣が魂に影響を及ぼすことが出来るのかと言うのです。

教皇は自身の主張を支えるものとして、こともあろうに対抗勢力だった東方正教会のビザンチン皇帝を引用しました。14世紀末、皇帝マヌエル2世パレオロゴスは、自身がペルシャ人ムスリム学者と持った議論について言及しました(それが実際にあったのかについては疑わしいとされています)。白熱した議論において、皇帝は彼の相手に対して次の言葉を放ったとされています:

「では、ムハンマドがもたらしたものに、何か新しいものがあるのならそれを示しなさい。ただそこには、彼が説いた信仰を剣で広めよという命令のような、邪悪で非人道的なものを見出すであろう。」

これらの言葉は、以下の問いかけを喚起します:(1)なぜ皇帝はそのような発言をしたのか。(2)それは事実なのか。(3)なぜ現在の教皇はそれを引用したのか。

マヌエル2世がこの書簡をしたためた当時、彼の帝国は既に死に体となっていました。彼は1391年に権力を握りましたが、輝かしかった帝国の属州の数々は、もはやいくつかを残すのみとなっていました。それらさえも、既にトルコの脅威に晒されていたのでした。

当時、オスマン・トルコはドナウ川岸にまで到達していました。彼らはブルガリアと北ギリシャを攻略し、東ヨーロッパを守ろうとヨーロッパによって送り込まれた部隊を二度に渡って打破しました。1453年の5月29日、マヌエルの死から僅か数年後に、彼の首都だったコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)はトルコの手に落ち、千年以上に渡って続いてきた帝国の歴史は幕を閉じたのです。

彼の統治期において、マヌエルはヨーロッパの各首都を周り、より多くの支持を得ようと試みていました。彼は教会の再統一を約束しました。彼が宗教的書簡を書いたのは、トルコに対してキリスト教諸国を鼓舞し、新たな聖戦開始を説得させるため以外の何でもなかったのです。その目標は実践的であり、神学が政治に奉仕していたのです。

このような意識により、例の引用は現在の皇帝であるジョージ・ブッシュ二世に対して全く同じ奉仕をします。彼も同様に、主にムスリム諸国によって構成される「悪の枢軸」に対してのキリスト教世界の統一を望んでいます。さらに、今回は平和的にですが、トルコは再びヨーロッパの扉をノックしているのです。教皇がトルコの欧州連合の加盟に反対する勢力を支持していることは周知の事実です。

マヌエルの主張には、何らかの真実が含まれているのでしょうか?1

 


Footnotes:

1注意:この著者による意見・見解は、その全てがIslamReligionと同じものであるとは限りません。

(後半) 

教皇自身も警告の言葉を発しました。厳粛かつ著名な神学者として、彼は明文を改ざんすることは出来ませんでした。それゆえ、彼はクルアーンが強制によって信仰を広めることを明確に禁じていることを認めたのです。彼は第2章256節(教皇は間違えましたが、実際には257節)を引用しました:

「信仰に強制があってはならない。」 

このような決定的主張を、誰が無視出来るでしょうか?教皇は、この命令がただ、まだ預言者が権力のなかった使命の初期に下されたものであり、後に信仰を広めるため剣の使用を命じたのだと論じます。そのような命令はクルアーンのなかには存在しません。実際、ムハンマドは国家形成期において、アラビア半島の敵対部族(キリスト教徒、ユダヤ教その他)との戦争時に剣の使用を呼びかけましたが、それは国政上の行為であり、宗教的なものではありません。つまり領土争いのものであり、信仰を広めるためのものではありませんでした。

イエスはこう言いました:「あなたは、その果実によって彼らを認識するであろう。」イスラームによる他宗教への処遇は、簡単な検査によって判断することが出来ます。つまり、1000年以上前から「剣によって信仰を広める」ことの出来たムスリム為政者が、実際にはいかに振る舞ったかを確かめるのです。

現実には、彼らはそうしなかったのです。

数世紀に渡り、ムスリムたちはギリシャを支配しました。ギリシャ人たちはムスリムになったでしょうか?あるいは、誰かが彼らをイスラームへ改宗させる試みすらあったのでしょうか?逆に、ギリシャ人キリスト教徒たちは、オスマン朝における行政の高官という地位を得ていたのです。ブルガリア人、セルビア人、ルーマニア人、ハンガリー人、及びにその他のヨーロッパ諸国は、一時はオスマン朝の支配下となりましたが、彼らのキリスト教信仰は保たれていました。誰も彼らを無理やりムスリムにしようとはせず、彼らは皆、敬虔なキリスト教徒として生活することを許されたのです。

確かに、アルバニア人やボスニア人はイスラームに改宗しました。しかし、彼らが脅迫されそうしたのではないことは誰の目にも明らかです。彼らがイスラームを許容したのは、政府による優遇を受け、その果実を得るためでした。

西暦1099年、十字軍はエルサレムを征服し、慈愛深きイエスの名のもとに、そこに住んでいたムスリムとユダヤ人を無差別に殺戮しました。当時、ムスリムによるパレスチナ占領から400年が経過していましたが、キリスト教徒の人口は依然として過半数を超えていました。こうした長い期間のなかで、彼らにイスラームを押し付ける働きはなかったのです。十字軍の駆逐後、居住者の大半がアラビア語とムスリムの信仰を受け入れ始めたのです。そして彼らこそが、今日の大半のパレスチナ人の祖先にあたるのです。

ユダヤ人にイスラームを強制したという証拠は、全く残っていません。スペインにおけるユダヤ人は、ムスリムによる統治下によって、今日以外では、それまでどの地においても味わうことのなかった自由の開花を享受したのです。詩人イェフダ・ハレヴィやマイモニデスは、アラビア語でそのことを記しています。ムスリム統治下のスペインで、ユダヤ人は大臣、詩人、科学者などをしていました。ムスリム統治下のトレドでは、キリスト教、ユダヤ教、ムスリム学者らが一緒になって古代ギリシャ哲学や科学書の翻訳を進めていました。実に、当時は黄金期だったのです。もし本当に、預言者が「剣による信仰の伝播」を命じていたのなら、これは可能だったでしょうか?

その後に起こった出来事は、より多くを物語ります。カトリック教会がムスリム統治だったスペインを再征服したときは、宗教的テロの支配を制度化したのです。ユダヤ人とムスリムは、キリスト教徒になるか、虐殺されるか、または逃亡するかという酷い選択肢が与えられたのです。信仰の放棄を拒否した数万人のユダヤ人はどこに逃亡したでしょう?彼らのほぼ全員は、ムスリム諸国によって大手を広げて歓迎されたのです。セファルディム・ユダヤ人(スペイン系)は、西はモロッコ、東はイラク、北はブルガリア(当時はオスマン帝国の一部でした)、南はスーダンといった、ムスリム世界の全般に渡って定住しました。彼らはそれらのどこに行っても迫害されることはありませんでした。彼らは異端審問での拷問、火刑、ポグロム(集団虐殺)、または最近ではホロコーストのような、キリスト教国のほぼすべてで行われていた集団追放などのようなことは経験しなかったのです。

それはなぜなのでしょうか?なぜならイスラームは「啓典の民」1へのいかなる迫害をも明確に禁じているからです。イスラーム社会において、ユダヤ教徒とキリスト教徒には特別な地位が与えられているのです。彼らは完全に同等の権利を与えられていた訳ではありませんが、それに非常に近いものでした。彼らは人頭税を払わねばなりませんでしたが、従軍の義務が免除されており、それは多くのユダヤ人たちにとっては歓迎すべき折り合いだったのです。ムスリムの為政者たちは、たとえ丁寧な説得によってでもユダヤ教徒たちをイスラームに改宗させる試みに難色を示したと言われています。なぜならそれは税収の損失を意味したからです。2

自分たちの歴史を知るすべての誠実なユダヤ教徒たちは、彼らを「剣によって」迫害し、信仰を奪おうと試みたキリスト教徒たちにではなく、50世代にも渡ってユダヤ教徒たちを保護し続けてきたイスラームに対する深い感謝の念を抱かずにはいられないのです。

「剣によって信仰を広めた」という話は悪質な伝説であり、キリスト教徒によるスペインのレコンキスタ、十字軍遠征、そしてウィーンを制覇しそうになったトルコ人への嫌悪感から、ムスリムに対する戦争時にヨーロッパで広められたでっちあげなのです。私はドイツ人教皇も、この寓話を心から信じていたと見ています。これは、キリスト教神学者でもあったカトリック世界の指導者が、他宗教の歴史を学ぶ努力をしなかったことを意味しています。

なぜ彼は公の場所でこれらの言葉を放ったのでしょうか。そしてなぜ今?

「イスラムファシズム」や「対テロ戦争」といったスローガンを掲げるブッシュとその複音主義の支援者らを新たな十字軍と見なすことは避け難いものです。「テロリズム」はムスリムと同義語にされています。ブッシュの頭目らにとって、これは世界の石油資源の支配を正当化するひねくれた試みなのです。経済的利権の露出を宗教的外套によって包み隠すことは、歴史上初めてのことではありません。強奪者による遠征が十字軍のそれとなったのは、初めてのことではないのです。

教皇のスピーチは、こうした努力に調和します。悲惨な結果を予測出来るのは誰でしょうか?3

 


Footnotes:

1           「啓典の民」だけでなく、それ以外のすべての人々の対する抑圧も含まれます。―IslamReligion

2           ノン・ムスリムに対して課された税は他の公的所得に比べると微々たるものだったため、著者はここで間違った主張をしています。ムスリムたちは他者がイスラームに入ることを奨励し続けてきましたし、これからもそうし続けるでしょう。―IslamReligion

3注意:この著者による意見・見解は、その全てがIslamReligionと同じものであるとは限りません。