記事について

著者 :

Abd Al-Rahman Mahdi

日付 :

Sun, Aug 17 2014

カテゴリー :

Morals & Ethics

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病人を見舞うこと

病人を見舞うこと

IslamReligion.com

(パート1/2)

 

イスラームは全ての善行を勧め、全ての悪を回避するよう忠告しています。それらの徳のある良い行いの一つに、病人や苦難の中にある人を見舞うことがあります。人々は健康な状態にある時でも、互いを訪問し合う際には、その同胞愛や友人の絆が強くなるものです。それではその訪問が病気や貧困、不健康などの状態にある時であればどうなるでしょうか?ムスリムが互いに示し合うことを要求されている同情や感情移入をよく描写しているものとして、預言者ムハンマド‐彼に神の慈悲と祝福がありますように‐次のような言葉があります:

信者の互いの愛と慈悲におけるたとえは、まるで生きている一つの肉体のようです。もしそのある部分が痛みを感じれば、体全身が睡眠不足と熱で苦しむのです。 [1] 

病人を見舞うことはそのような相互愛、慈悲、そして感情移入の最も明白な印です。それどころか、病人を見舞うことは全ムスリムが果たすべき一つの大きな責任なのです。預言者ムハンマドはこう言いました:

他のムスリムに対するムスリムの権利はこの6つです:彼に会った時、その平安を祈る挨拶をすること(例えばアッサラームアレイクム(あなた方に平安あれ)などと言うこと)。彼があなたを招待した時、彼の招待を受け入れること。彼があなたに問題を相談する時、彼に誠実な助言を与えること。彼がくしゃみをし、神を賞賛した時、彼に神の慈悲が与えられるよう祈ること。彼が病気の時、彼を見舞うこと。そして彼が死んだ時には、彼(の埋葬)に付き添うこと。[2] 

この預言者の伝承で、私たちはムスリムがイスラームの同胞を、健康、病気、そして死という3つの状態において気にかけるよう勧められていることが分かります。

まず健康な状態において、ムスリムは彼の信仰上の兄弟に、平和と保護を祈る挨拶をすること、及び彼の招待を受け入れること、そして彼に誠実な助言を与えることが義務付けられています。

それからムスリムが風邪やアレルギーなどの原因でくしゃみをした時も、イスラームの兄弟は彼に対し、神の慈悲があるように祈る義務があります。また同様にムスリムが病気の時は、イスラームの同胞は彼を見舞う義務があります。

そして最後に、ムスリムがこの世を去る時には、信仰上の同胞は彼の葬儀、葬儀のための祈り、そして埋葬に付き添う義務があります。

病人を見舞う者に偉大な報いが約束されていることは、預言者‐彼に神の慈悲と祝福がありますように‐が以下のように説明したことでも明らかです:

病気同胞を見舞うムスリムは、そこから帰宅するまで天国果樹園にまり続けるのです[3] 

また神の慈悲の使徒ムハンマドは、こうも言っています:

 “病人を見舞うために歩いている訪問者は、神の慈悲の中を歩くのです。そして訪問者が病人と座る時、彼らはそこから戻るまで慈悲の中にいるのです [4] 

また神ご自身、病人を見舞うことの報奨の偉大さと重要さを説明しています。預言者は言われました;

最後の審判の日に、全能で威厳ある神は言われるであろう:「アダムの子よ!私は病気になったのに、お前は私を見舞わなかった!」その者はこう言います:「主よ、どうして私が全存在の主であられるあなたを見舞えるでしょうか!」すると神はこう言われます:「私の僕の何某が病気になった時、お前は彼を見舞わなかったのではないか?もし彼を見舞っていれば、お前は彼の中に私を見いだしたであろうことを知らなかったのか?” (サヒーフ・ムスリム)

その他の徳ある行いや崇高な義務行為と同様、預言者ムハンマドはこの件に関しても模範によって人々を導きました。彼は病人を見舞うために時間をとったり、あるいは他人を通して人の安否を気遣ったりしたものでした。

例えば彼のマッカ時代において、ある異教徒の女性は、預言者が彼女の家を通るかかる際にはいつでも、彼に汚物やごみを投げつけたものでした。しかしある日を境に、その虐待者は現れなくなりました。そのことは彼を非常に心配させ、彼は彼女の安否を尋ねるほどだったのです。彼は彼女が病気であると知ると、彼女を見舞いました。そして彼女は彼の慈悲深い気遣いに驚き、イスラームに帰依したのです。

善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層の善行でもって悪を追い払え。そうすれば互いの間に敵意ある者でも,親しい友のようになる。” (クルアーン 41:34)

また博学な教友アナスは、神が人類に遣わされた最後の預言者の人生から、以下のようなエピソードをとりあげています:

預言者に仕えていたあるユダヤ教徒の少年が病気になったので、預言者は「彼を見舞おう」と言われました。彼ら(預言者と彼の教友達)が彼の家を訪問すると、彼の父が彼の頭のそばで座っていました。神の御使い‐彼に神の慈悲と祝福がありますように‐は言われました:「崇拝するに値する真の神はアッラー以外にないことを証言しなさい。そうすれば私はあなたのために、審判の日にとりなすでしょう。」 少年が彼の父を見上げると、父親は言いました:「アブ・アル=カーズィム(ムハンマド)に従いなさい!」そして少年はこう言いました: 「アッラー以外に崇拝に値する神はなく、ムハンマドは彼の使徒です。」神の使徒はそれから言われました: 「全ての賞賛は、地獄の業火から彼を救われた神のためのものです。[5] 

預言者の人生におけるこれら二つの例から、私たちは病人が見舞われることがイスラーム教徒となるための前提条件ではないことが分かります。それにも関わらず、私たちはこの二つの例から、預言者ムハンマドによって示された病人や苦しむ人を見舞うという行動が、「不信仰」という最も致命的な病気さえも治してしまうような感動的な出来事になりえる、ということを知ることが出来ます。

本当にアッラーの使徒は,アッラーと終末の日を熱望し,アッラーを多く唱念する者にとって,立派な模範であった。」(クルアーン 33:21)

 


Footnotes:

[1] Saheeh Muslim. サヒーフ・ムスリム

[2] Related by Abu Hurayra in Saheeh Bukhari.サヒーフ・アル=ブハーリーにおけるアブー・フライラの伝承。

[3] Saheeh Muslim.サヒーフ・ムスリム。

[4] Imam Ahmad and Ibn Hibban.アハマドとイブン・ヒッバーン。

[5] Ibn Hibban. イブン・ヒッバーン。

(パート2/2)

病人を訪問することに対しての報奨は、数も規模も偉大です。預言者ムハンマドは言いました:

 “もし人が、彼の病気のムスリム同胞を訪ねるならば、彼は腰を下ろすまで天国の果実を手に取りつつ歩くようなものです。また彼が腰を下ろせば、彼は慈悲を浴び、そしてもしそれが朝であれば、七万の天使が彼のために夜まで祈り、そしてもしそれが夜なら、七万の天使が朝まで彼のために祈るのです。” (アッ=ティルミズィーの伝承)

そして彼は、こうも言いました:

誰でも病人を訪問する者は腰を下ろすまで慈悲へと向かっているのであり、そして彼が座した時、彼はその中に包み込まれるのです。” (スィルスィラトゥッサヒーハ収録)

預言者はまた、こうも言っています。

誰でも病人またはイスラームの同胞を見舞う者は、呼ぶ者が彼にこう叫びかけます: ‘あなたに幸せがありますように、あなたの歩む道が祝福され、そして天国にて尊厳に溢れた位階を占めますように。’” [1]

幸福と楽観主義は神への信頼と希望から湧き出ているものである限り、イスラームの美徳です。また同様に、全能の神に対する絶望の状態を反映する時の悲しみや悲観主義は、罪深いものです。それゆえどれだけ病人の病状が悪かろうと、あるいは“不治”の病にかかっていようと、病人を見舞う者は、慢性の病気や末期の病などを問わず全ての物事を可能にする神への希望をもって、彼を元気づけなければならないのです。

それでも彼には、死者をよみがえらせる御力がないとするのか?!” (クルアーン 75:40)

“…だから信者は、(不断に)アッラーを信頼するべきである.”  (クルアーン3:122)

一方で見舞う者は‐例えそれが短い間であったとしても-、病人の痛みや苦しみ、不快感や困難を忘れさせるようにします。またお見舞いは、病人の気持ちを高め、彼らの精神と決心を強めるようなものでなければなりません。預言者のいとこで教友のアブドッラー・ブン・アッバースは、病人を訪問する際に関し、神の御使いがこう言ったと述べています:

堅固でありなさい。神はあなたを清められるでしょう。” (サヒーフ・アル=ブハーリーの伝承)

また見舞う者は、彼の訪問の機会を彼自身と訪問される者の全ての完全な依拠は神のみにあることを思い起こさせるために利用すべきです。また来世よりはこの世で苦しむ方がよいこと、そして至高の神は試練において辛抱強く揺るぎない信仰者に報奨を授けて下さる、ということを想起させるのです。

(正しく仕えるということは)また困苦と逆境と非常時に際してよく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり,またこれらこまた時宜をわきまえた、機転の利くスピーチも勧められます。病人を訪問する者は、苦しむ者を前にしている時は特に、言葉の使い方に敏感で注意深くならなければなりません。とりわけ患者の心痛を更に増やすようなことは、彼らの身体状態の悪化を招きかねません。そして彼らが病気のために何も出来ない状態にあるということは、彼らが自らの家で指導する権利を奪われたり、また彼らの私生活が尊重されなくともよいといったりすることを意味するわけではありません。イスラーム学者のイブン・アブドル=バッルは彼のイスラーム法学書「アル=カーフィ」の中でこう記しています:

訪問するなら、健康な者であろうと病人であろうと、言われた場所に座るべきです。主人は彼らの家のプライバシーをどのように守るかよく知っています。病人を訪問することはスンナ(預言者の慣習)とされています。短い訪問が最善でしょう。訪問者は病人が近しい友人で彼らの同伴を楽しむことを望むのではない限り、病人のもとに長居すべきではありません。

また訪問の時間に関して言えば、もし訪問者が彼の意図において真摯であるならば、それだけで彼の訪問の目的は達成され、彼が病人のもとに長居することや不必要な妨害をする必要はないのです。シリアの学者アブドル=ファッターハ・アブー・グッダは彼のイスラームのマナーの著書にこう記しています:

訪問の長さは金曜の二つの説法の間より長くてはいけない。こういった観点から、訪問は挨拶の言葉を伝え、病人の状態を尋ね、その回復を祈り、そしてさよならを言った後すぐに去るのに十分な時間だけ確保すればよいのです。

また訪問者は常に思いやりを示す必要があります。例えば彼の言葉の適切さによる思いやり、彼の正しい行いを通しての思いやり、そして彼の短い滞在を通しての思いやり。これら全ては、そうすることによって神の哀れみへと導かれるのだという確実な知識ゆえのものです。彼の最愛の預言者はこう言いました:

地上のものに慈悲を示しなさい。そうすれば天の上のお方があなたに慈悲を示されるであろう。

そして最も慈悲深い行動は、預言者ムハンマドが病人を見舞った際のスンナ(慣習)を模倣することです。なぜなら彼が言ったように言い、行ったように行うことは、現世と来世の両方で訪問者と訪問される者両方にとっての成功をもたらす最も確実な方法だからです。この件に関して私たちに伝わっている預言者の伝承の多くは、次に示す預言者の妻アーイシャのものでしょう:

もし誰かが病気になると、預言者は以下の祈りを唱えながら彼の右手をその者に置かれました: ‘人類の主よ!, 苦しみを取り去り、回復をもたらして下さい。病を根こそぎにするあなたの治癒以外に、治癒はありません。(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリムの伝承)

また病人を訪問した時の預言者の行いからも、引用してみましょう:

心配はいりません。神がそう望まれるならば、それは(罪からの)清めです。” (サヒーフ・アル=ブハーリー)

私たちが味わう全ての苦難は祝福の隠れ蓑です。それは肉体と精神の両方を、あらゆる害と不浄から洗浄し、清めてくれるものであるということに希望を持ち、祈りましょう。そして人々が病の時、私たちの彼らに対する訪問によって、私たちと彼らに最も高貴なお方からの報奨が授けられますように。私たちは神の保護を願います。

 


Footnotes:

[1] Al-Tirmidhi.アッ=ティルミズィー