イスラームにおける 女性

イスラームにおける 女性

イスラームにおける
女性
    
そしてその一般的な誤解に対しての反論

المرأة في ظلال الإسلام باللغة اليابانية

 

アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ博士著

 

アブドッラー坂田訳


 
www.islamland.com


 
 
本書で用いられている専門用語

・ []サッラッラーフ・アライヒ・ワサッラム:一般に、預言者ムハンマドの名が言及される時に用いられる、彼に対する祈願の言葉です。時に「彼に平安あれ」と訳されますが、これは正確なものではありません。より忠実に訳すとすれば、「アッラーが彼の誉れを称揚され、彼と彼の系譜をあらゆる中傷や汚名からお守り下さい」というところでしょう。
・ []ラディヤッラーフ・アンフ:「アッラーが彼をお悦びになられますよう。」一般に、預言者ムハンマドの教友への祈願の言葉として用いられます。
・ [u]アライヒッサラーム:「彼に平安あれ。」一般に、預言者や使徒などに対する祈願の言葉として用いられます。
・ [I]スブハーナフ・ワ・タアーラー:「いかなる不完全性からも無縁で崇高であり、至高であられるお方。」アッラーを讃える言葉の一つです。

 

 

 

 

 
この本では、以下に示される疑問と問題点が議論されます:
    
歴史的に見た女性の地位:イスラーム以前のアラブ社会における女性;インド社会;中国社会;ギリシャ社会;ローマ社会;伝統的ユダヤ社会;伝統的キリスト教社会;そして現代世俗社会。

イスラームにおける男女同権:基本的人権;義務の適用において;現世と来世における報奨と懲罰において;財産の所有とその使用の自由において;名誉の保持において;義務教育において;そして社会改革への責任において。

ムスリム社会における女性の地位と権利:乳児として;子供・少女として;姉妹として;妻として;母として;親類、隣人、そして一般女性として。

イスラームにおける女性の権利と義務への誤解、及びそれに対する反論:一夫多妻に関して;指導力と責任に関して;婚姻契約と後見人に関して;妻としてのしつけに関して;名誉殺人に関して;離婚に関して;証言に関して;相続に関して;血の代償金に関して;就職に関して;そしてヒジャーブ(頭部の覆い)に関して。

 

 

 

 

 
目録

まえがき
序説
女性の権利の要求
歴史に見る女性の地位:イスラーム以前の社会と文明における女性
イスラームにおける女性の権利:一般女性としての権利/子供・娘として/姉妹として/妻として/母として/親戚・隣人として。
1.女性への一般的配慮と、イスラームにおける男女同権、そして男女の相互補助的な性質
2.子供・娘としての女性
3.妻としての女性
4.母親としての女性
5.親戚・隣人としての女性
イスラームにおける女性への誤解
1.イスラームにおける一夫多妻
2.婚姻契約における後見人の力
3.家庭における経済的・道徳的責任
4.妻としての躾け
5.名誉殺人について
6.離婚の決定権は夫にあり
7.女性の相続権
8.血の代償金
9.女性による証言
10.近親の男性を同伴しない旅
11.女性の働く権利
12.ヒジャーブ(頭部の覆い)について
結論

 

 
まえがき

至高者アッラーにこそ全ての賞賛あれ。そしてかれがその使徒ムハンマドと彼の御家族を称揚され、彼らをあらゆる悪からお護り下さいますよう。

私は、イスラームにおける女性の地位、及び女性の権利に関する新しい情報の提示についての困難さを鑑み、この問題に関する既出の情報を収集・整理し、要約したものを読者の皆様のために提示しようと試みました。至高なるアッラーが私を導き、この目標に到達することが出来ることを望んでいます。
女性に対する犯罪と抑圧をイスラームと結びつけることは大いなる不正であり、アッラーによる啓示の書であるクルアーン、そして預言者ムハンマド () の教えによってそういった虚偽の主張は否定されています。至高なるアッラーはこう仰せられています:
人類よ、われらは一人の男と一人の女から汝らを創造し、種族と部族とに分けた。これは汝らを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も高貴なる者は、汝らの中最も主を畏れる者である。アッラーこそは全知者であり、すべてを見透す御方である。[49:13]

また至高なるアッラーはこうも仰せられています:

またかれが汝らの中から、汝らのために配偶を設けられたのは、かれの徴の一つである。汝らは彼女らによって安らぎを得るようにされ、汝らの間に愛情と慈悲の念を植え付けられる。その中にこそは、思慮深い者たちへの徴がある。 [30:21]

また預言者ムハンマドは述べられています:

“実に女性は、男性の片割れなのである。”[アブー・ダーウード 234番、ティルミズィー 113番、その他による伝承]


 
序説

今日、女性の自由化や解放運動、同権運動など多くのスローガンが世界中で耳にされるようになっています。現実に一部社会において女性たちは抑圧や虐待、不正の下に暮らしており、その基本的人権さえも奪われています。このような中、イスラーム法は女性の権利に関し、人権と義務の双方において包括的かつバランスの取れたシステムを提唱していますが、一部のムスリム(イスラーム教徒)が、基本的なイスラーム教義と信条から逸脱していることも事実です。そして国際的な女性解放運動などによって喧伝されているスローガンに着目すると、三つの要素を中心に回転していることが分かります。それらは女性の解放、そして男性の権利と女性の権利の平等です。私たちは一部の無知で逸脱したムスリムの誤った実践とは別に、それらをイスラームの教えに基づく、イスラーム法に照らし合わせた観点から分析していこうと思います。
まず“解放”という言葉は、女性に対する手かせ足かせ、または束縛といったような何らかの拘束の存在と、女性たちが隷属的地位にあるため、解放の必要性があるということを仄めかしています。実際には男女に関わりなく、完全なる自由というものは不可能であり、それは抽象的かつ誤解の生じる表現です。人類とは本来その能力に制限があるため、社会的な集団生活が必要になります。男女は共に、様々な日常生活の諸事を管理し体系付ける一定の法と規則に基づいた社会的環境に住まなければならないのです。
それは、人間が自分自身の行いに関して自由かつ独立した存在ではないことを意味するのでしょうか?それとも人は自分自身の行いに対していかなる責任も持たないということでしょうか?能力的限界と法的規制に縛られない人間というものは存在するでしょうか?彼らが奴隷であれば、その質問は「一体誰から?」というものに変わるでしょう。いわゆる自由と解放にはいかなるものであれ先天的なもの、そして法的なものによる限界があり、それを超えてしまえば、誰もが性悪かつ野蛮で、犯罪行為であると認めるような破滅的行為につながります。イスラーム法において偶像崇拝、圧政、搾取、不正からの自由と解放の探求は、男女共に認められています。神によって啓示された原理と法は、厳格な一神教、正義、そして高潔な倫理を説き、主張します。この枠組みの中で、男性と女性は相互依存と補足的な役割を果たします。イスラーム法は女性に対し、社会における多くの状況の中で、後見人を伴うことなく、直接的に関与することを許可しています。イスラームでは女性が公的な責任を有し、経済的・社会的分野や、またそれ以外の分野においても、他の多くの社会の女性と同様に諸々の任務を遂行することが可能であるとしています。彼女の父親、兄弟、叔父や夫などの男性近親者は、彼女の生涯に渡ってその名誉を守り、経済的支援をし、適切な生活環境を彼らの能力に応じて提供することが義務となります。これは彼女の品位を落すものでしょうか、それとも上げるものでしょうか?イスラームは男女同様に公の場で猥らな行為を禁じていますが、それは自然な理由によって、それぞれの性別に異なった解釈が与えられています。私的な場では誰しも徳を守らなければならず、公的な場では自らを守らなければなりません。イスラーム法は女性を脅迫や痴漢などから守り、いかなる男女も他者に対して性的挑発や誘惑的行為を行わないよう命じています。こうした理由により、イスラーム法は女性の保護の為に、外出の際に謙虚な衣服を見に付けることを求め、異性との自由な交流やスキンシップを禁じるのです。
イスラームは、個人がその行為によって他者への害悪、または社会への破壊的結果をもたらすことのないよう、その自由と解放の概念を説きます。これは次のアッラーの使徒 () からの真性の伝承による言葉をもって鮮やかに表現されています:
“アッラーの法を守る者とそうでない者とを比べると、それらは一隻の船に乗り込み、お互いの場所を分割した二つの集団のようである。一方の集団は船の上部にある甲板を彼らの場としたが、他方の集団は船の下部を彼らの場とした。下部にいる人々が水を欲する時には、上部の甲板にいる人々の場所を通らなければならない。下部にいる人々はこう考えた:“もし我々がこの部分に穴を開ければ、上部にいる人々を邪魔することなく水を手に入れることが出来るのではないか。”そして、もし上部の人々が彼らの計画の実行を許せば、船に乗っている人々は全滅に追いやられるが、彼らの計画を禁じるのであれば、皆が助かるのである。”[ブハーリー 2361番 その他]

また有名なドイツ人思想家・哲学者のショーペンハウアーはこう語っています:

“女性に対し、完全かつ絶対的な自由と解放を一年間のみ与えてみるとしよう。そしてその後、その自由がどういった結果をもたらしたかを私と共に確認しようではないか。あなたは(皆)私と共に、徳と貞節、そして善き倫理を受け継ぐことを忘れてはならない。もし私が(その前に)死ねば、あなたは“彼は間違っていた”、あるいは“彼は真実を語ったのだ”と言うことが出来る。”
米国人女性リポーターのヘレスィアン・スタンベリーは250以上の通信社と関わり、報道・放送の分野で20年以上に渡り活躍し続けました。彼女は数々のイスラーム国家を訪れ、あるイスラーム国家の訪問後、このように語っています:
“アラブ・イスラーム社会は健全・健康な環境にあります。男女に対し、合理的な範囲内で規制するある種の伝統を、この社会はこれからも保護していかなければならなりません。この社会はヨーロッパ・アメリカ社会とは明らかに異なっています。アラブ・イスラーム社会は女性に対し一定の規則と制限を課し、両親へ特別な敬意と地位を与える独自の伝統を持っているのです・・・まず第一に、最も厳しい規則と制限は、欧米社会の家族を本物の危機に陥れている、性的自由に対して課せられています。それゆえアラブ・イスラーム社会によって課せられている制限は合理的かつ有益なものです。私はあなた方が自らの倫理規定に従うことを強く勧めます。男女共学を禁じ、女性の自由を制限、いえ、完全な‘プルダ’(覆い)の実践に回帰すべきです。本当にこれはあなた方にとって欧米の性的自由に優るものなのです。男女共学を禁じるのは、私たちがアメリカでそれによる害悪を蒙っているからです。アメリカ社会は性的自由において、あらゆる形や表現を受け入れた複雑なものになってしまいました。性的自由と男女共学の犠牲者は牢獄、道端、バー、居酒屋や売春宿を満たしています。私たちが少女や娘たちに与えた(偽りの)自由は、彼女らを麻薬、犯罪の手に染めさせ、そして彼女らは白人奴隷となってしまっているのです。欧米社会における男女共学や性的自由に代表される、あらゆる種類の“自由”は、家族の基盤を脅かし、道徳と倫理観を揺るがすものなのです。”
女性解放の提唱者に向けられる質問は、自ずとこうなるでしょう:何が女性の名誉・尊厳・保護に関して最善かつ最も有益で、最も保護をもたらすシステムなのでしょうか?

女性の権利の要求

世界中の女性たちは権利を求めています。そして過去と現在を見渡しても、イスラーム法ほど女性の権利を保護し、維持するシステムは存在しません。このことは本書でその確認と実証がされるでしょう。
著名な英国人思想家・哲学者であるハミルトン卿は、その著「イスラームとアラブの文明(Islam and Arab Civilization)」でこう述べています:
“イスラームによる女性に対する決まり・規制・法規定は明瞭かつ率直であり、オープンなものです。イスラームでは、女性が個人的に蒙る可能性のあるあらゆる害悪や、彼女の人格への誹謗中傷などに対し、付与されるべき保護を第一に優先するのです。”
また著名なフランス人心理学者であるギュスターヴ・ル・ボンは、その著「アラブ文明(The Arab Civilization)」でこう述べています:
“イスラームにおける徳行は女性への名誉の授与、敬意の表明に限られたものではない。イスラームこそが、女性に名誉と尊厳を与えた最初の宗教であると付け加えることも出来るのだ。イスラーム以前のあらゆる宗教や国家が、女性に対しての大きな害悪と侮辱をもたらした事実から、我々はこれを容易に証明することが出来るのである。”[p.488]
また、彼はこうも指摘しています:
“聖クルアーン、そしてその注釈書の翻訳によって叙述されている夫婦間の権利は、ヨーロッパにおける夫婦の権利よりも卓越しているのである。”[p.497]
イスラームは1400年以上も前に、アッラーの預言者であるムハンマド・ブン・アブドッラー () の宣教により、マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)を中心として世界中に広がりました。イスラームは、アッラーによって啓示された栄光の書であるクルアーンと、イスラーム法において確証されたもう一つの法源である預言者 () のスンナ(預言者の言行集)の教えによってその光を輝かせました。イスラームによる教えとその法体系は、イスラーム信徒にとって非常に大きいインパクトをもたらし、その結果ムスリムたちが移住した土地の社会にも影響を与えました。イスラームは世界に向けて驚くべき程の急速な広まりを見せ、人生の全ての需要を満たす包括的システムを残したのです。イスラームは、人間の存在と生存にとって必要とされるあらゆる合法かつ健全で意義のある要素と矛盾することもなく、またそこに軋轢も生じず、かつそれを否定もしません。
さてイスラームが女性にもたらした変化を理解するためには、イスラーム以前のアラブ人社会、そして世界の他の地域の文明における女性の地位を簡潔に考察していかなければなりません。

歴史に見る女性の地位
イスラームにおける以前の社会と文明における女性

女性は多神教アラブ社会において多大なる損害を被り、アッラーの使徒 () による使命以前には、様々な類の屈辱に晒されていました。彼女らは男性後見人の気まぐれと独断によって扱われ、あたかもその所有物であるかのようでした。彼女らには、両親や夫から相続する権利もなかったのです。アラブ人たちは、相続する権利のある者とは戦闘や馬術に長けた者、戦利品の獲得や部族の領土を守ることの出来る技術を有する者たちである、と信じていたのです。多神教アラブ社会の女性たちには一般的にそのような資質が無かったため、負債のある夫が死ぬと、彼女たち自身が動産または資産のように相続されました。もし死亡した夫に、他の妻による成人した息子がいたのであれば、その長男はあたかも他の家財を父親から受け継ぐように、死亡した父の未亡人を自分の一家に加えることが出来ました。女性は自分の解放金を支払わない限り、彼の一家から出ることは許されませんでした。
一般的な慣行として、男性は数の制限なく、欲するままに何人もの妻を所有することの出来る自由を持っていました。そこには、男性が妻たちに対して不正を働くことを禁じさせる法律と司法制度がなかったのです。女性は結婚相手を選ぶどころか、相手を配偶者として合意する権利も有さず、単に男性側に提供されただけに過ぎませんでした。そして夫が妻と離縁すると、彼女は再婚することすら禁じられていたのです。
またイスラーム以前のアラビア半島では、家庭に女児が生まれると、通常その父親はそのことに激怒し、羞恥心を感じたものでした。それを不吉な予兆であるとする考え方もあったほどなのです。至高なるアッラーは、女児が生まれたことを知った父親に関してこう述べられています:
彼が知らされたもの(女児の誕生)が悪いために、(恥じて)人目を避ける。不面目を忍んでそれをかかえているか、それとも土の中にそれを埋めるか(を思い惑う)。ああ、彼らの判断こそ災いである。 [16:59]

その当時の女性は、最も正当な権利さえ行使出来ませんでした。たとえばある特定の食べ物は男性にしか認められていませんでした。至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこう仰せられています:
また彼らは言う。「この家畜の胎内にあるものは、私たち男の専用であり、私たちの女には禁じられる。だが死産の場合は、誰でも皆それにあずかることが出来る・・・」 [6:139]
彼らの女児に向けられた憎悪は、彼女らを生き埋めにすることすら思い付かせました。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて、審判の日に関しこう仰せられています:

生き埋められていた(女児が)どんな罪で殺されたかと問われる時。 [81:8-9]
 
また一部の父親たちは、女児に病気があったり体が不自由だったりすると、その子を生き埋めにしました。アッラー () は聖クルアーンにおいてこう仰せられています:
貧困を恐れて汝らの子女を殺してはならない。われらは彼らと汝らのために給養する。それらを殺すのは、実に大罪である。 [17:31]

尚イスラーム以前に女性に与えられていた名誉としては、彼女自身と家族、そして部族の保護と、誰であれ彼女の名誉を傷つけた者、あるいは恥辱した者に対する復讐でしたが、それですら女性に与えられたものというよりは、男性の自尊心、尊厳、そして部族の名誉に関わるものでした。
このようなアラブ社会における女性の地位に関して、第二代正統カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブ()はこう述べたとムスリム(ヒジュラ暦3世紀頃活躍したハディース学者)による伝承があります:
“アッラーに誓って。アッラーがクルアーンによって彼女らに関する啓示を下し、かれが女性たちに相応しいものを分配されるまで、我々は女性に何らかの権利があるなど考えもしなかったのだ。” [ブハーリー 4629番、 ムスリム 31番]

インド社会における女性

インド社会では、女性たちは意志や欲求のない存在であるかのように、一般的に女中または奴隷のように扱われていました。そして彼女らは全ての事柄において、夫に従わなければならなかったのです。女性たちはギャンブルにおける損失に対する支払いとして手渡されたり、また夫に対する献身度を示すべく、死去した夫の火葬の際に、積み薪の中に身を投げて焼身自殺をしなければならない場合もありました。この“サティー”と呼ばれる行為は17世紀末に違法化されるまで続きましたが、その後に及んでさえもある種のヒンドゥー教指導者たちの間には反感が広まりました。そして公式に禁止されたのも関わらず、サティーは19世紀末まで広く行なわれ、インドの遠隔地の一部では現在なお続けられている所もあるそうです。またインドの一部地域では、女性が司祭への慰安婦として、または搾取される娼婦として捧げられました。そして他方ではヒンドゥー教の神々を満悦させるため、あるいは雨を降らせるための生け贄ともされたりしました。ヒンドゥー教の法では、このようにさえ宣言されています:

“運命の忍耐、強風や竜巻、死、地獄、毒、ヘビ、そして炎は、女性の悪性に優るとも劣らない。”

またヒンドゥー教の聖典ではこう述べられています:

“マヌ(ヒンドゥー教の創造神)は人類創造に際して、女性に寝床、座席及び装飾(化粧)への愛着を持たせ、(あらゆる種類の)穢れた性欲、不正、悪意、悪行を賦与した。”

またマナ・ヘルマ・スィストラの教えは、次のように述べています:

“少女、熟女、老女に問わず、女性の人生に選択肢が与えられてはならない。少女は父親の命令と選択のもと生活せねばならない。妻は夫の命令と選択のもと生活せねばならない。寡婦は息子の命令と選択のもと生活せねばならず、決して(夫の死後)自立してはならない。寡婦は夫の死後に決して再婚してもならないし、彼女の余生を通して衣食や化粧など彼女の好むようなあらゆるものから禁欲した生活を送らなければならない。女性は何も所有してはならず、女性が取得・収益する物は何であれ、直ちに夫の所有物として譲渡されなければならない。”

また一部の稀な事例として、一人の女性が複数の夫を持つ場合もありました。 こうすることでその女性は、その社会における娼婦のような存在となったのです。

中国社会における女性

女性は中国社会において、惨めで低い地位を占めていました。彼女たちは伝統的に最も軽んじられるような、忌避される立場と仕事を与えられていました。また男児は神々による“贈りもの”と見なされ重宝されましたが、女児に関しては走ることも出来なくなる纏足という慣習の存在など、幾多もの難儀を耐え忍ばなければなりませんでした。中国の諺にはこのようなものもあります:
 
“妻の話は聞け。しかし彼女の言葉は決して信じるのではない。”

中国社会における女性の地位は、イスラーム以前の多神教アラブ社会、そしてインド社会のものにも決して劣らない類のものでした。
ギリシャにおける女性
ギリシャでは、男性によって“女性は悪の根源である”と言われる程に卑下されていました。社会において女性保護のシステムは存在していませんでしたし、彼女らは教育の権利を奪われており、動産・商品のように売買され、相続権利を剥奪され、所有物・資産の取り扱う権利のない未成年と同じように見なされていました。女性はその生涯に渡って男性の意志に従属させられ、離婚は男性の一方的な権利でした。この社会における女性の一般的な状況に関して、ギリシャ人思想家たちはこう述べています:
“女性の名前は、その体同様に、家の中に閉じ込められていなければならない。”
フランス人思想家のギュスターヴ・ル・ボンは、その著The「アラブ文明(Arab Civilization)」の中で、ギリシャ社会における女性の地位に関してこのように述べています:
“ギリシャ人は一般的に、女性を最も低俗な生物であると考えていた。彼女らは生殖と家事以外には何の役にも立たないと見なされていたのである。もしも女性が醜い子、または先天的に障害のある子を生むと、男性にはその子を殺す自由があったのだ。”
古代ギリシャの政治家・思想家であったデモステネスはこう述べています:
“我々ギリシャ人は、性的欲求を満たしてくれる娼婦の同伴を好む。結婚をするのは、我々の日常的要求に応えてくれる恋人・愛人に合法な子供を持たせるためである。”
高位かつ著名な思想家による、このような奔放なダブルスタンダードと道徳観に乏しい声明をもって、私たちはその社会に属していた女性がいかなる対応を受けて来たかを伺い知ることが出来るでしょう。

ローマ社会における女性の地位
ローマにおける女性もまた、独立した行動をとることも出来ない劣等した存在であると見なされていました。全ての権威は男性の手中にあり、彼らは公私に渡ってあらゆる諸事を支配していました。更に、もし特定の犯罪について告発された場合、男性はその妻に死刑の判決を下すことの出来る権威さえあったのです。ローマ社会において男性が女性に対して持っていた権威の中には、女性の売却の権利、拷問による処罰、国外追放、そして殺害などまでも含まれていました。ローマ社会の女性には、男性によるあらゆる命令に対して従順でなければならない義務が課せられていたのです。彼女らには相続の権利すらありませんでした。
ユダヤ社会における女性
伝統的ユダヤ社会における女性は、前述されたものに比べても決してましであるとは言えないものです。旧約聖書の記述によれば、女性は次のように述べられています:
“私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪行と狂った者の愚かさを学びとろうとした。そして私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。その心は網を仕掛ける罠であり、その手はかせである・・・” [伝道者の書 (7:25-26)]
またセプトゥアギンタ(七十人訳聖書)では、こう述べられています:
“人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人に気に入られない時は、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女は娘に関する定めに従って取り扱われなければならない。もし彼が他の女を娶るのなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。”[出エジプト記 (21:7-11)]

つまり、もしユダヤ人女性が結婚したのであれば、彼女への後見責任は彼女の父親から彼女の夫に移され、彼女は彼の家、奴隷、女中または財産と同じようにその所有物の一部と見なされたのです。
  ユダヤ教の教えと律法は、その女性に兄弟がいた場合、彼女の父親からの相続権を剥奪することを認めています。セプトゥアギンタ訳旧約聖書では、こう述べられています:
“汝はイスラエルの民に告げ知らせなければならない。人が死に、その人に男子がないときは、汝らはその相続を娘に渡しなさい。” [民数記 (27:8)]
更に、ユダヤ人男性は決して月経中の女性と同じベッドで眠ること、また飲食を共にすることがありませんでした。ユダヤ人男性は、女性の月経が完全に終了するまで彼女らを隔離していたのです。
キリスト教社会における女性
キリスト教宣教師たちは、女性を“原罪”の根源であり、全世界が被害を被るあらゆる大惨事の原因であるというような極端な見解を示しています。こうした理由により男女の肉体関係は、たとえそれが合法的な婚姻関係に基づいて行なわれたものであっても、伝統的に“穢れ”ており、“猥ら”であるとされ続けて来たのです。
 聖トロトリアンは述べています:
“女性とは男性の心にとって悪魔への道だ。女性は“呪われた木”へと男性を誘い込む。女性は神の法を破り、彼(男性)の実像を損なう。”
またデンマーク人作家のウイート・クヌートゼンは中年女性の地位をこう描写しました:
“女性を二級市民とみなすカトリック信条によって、女性には僅かな配慮と気配りしか与えられなかったのです。”
またフランスでは1586年、女性を人間であるかどうかについて討論する評議会が開かれました。そしてこの評議会では、次のような結論が導き出されたのです:
 “女性は人間であるが、男性への奉仕のために創造されたのである。”
つまり、それまで人間であるかどうかということさえ疑われていた女性が、この評議会によって人間であるという権利を認められたというわけです。更に、評議会の参加者たちは女性の完全な権利を認めず、女性は男性の追従者であり、奉仕役であって、個人的な権利はないとされました。女性が自らの経済活動を行ったり、自己名義で銀行口座を開設したりすることを禁じた全ての法が廃棄される1938年までこの決定は有効だったのです。
ヨーロッパ人は中世の時代を通して女性を蔑視し、その権利を剥奪してきました。英国の法律は、妻の売却に関して黙認していたという驚愕の事実も存在します。異性間の溝は深まるばかりだったことから、ついには女性が男性の完全な支配下に置かれる状況となりました。女性のあらゆる権利や所有は完全に剥奪されました。女性の所有物は全て男性のものとなったのです。例えばつい近年まで、フランス法では女性が個人資産において独自の財政的判断を下すことは出来ないと見なされていました。フランス法第217条では、このように記されています:
“既婚女性には、売買取引において夫の同伴または同意書なしに承諾、振込、保証、(支払いの有無に関わらず)所有する権利はなく、それは婚姻契約の中に夫婦の所有する品目の権利がそれぞれの当該者に対し完全に分離・独立すると明記されていたとしても同様である。”
フランス法が後に受けた多くの修正や変更にも関わらず、私たちは依然としてこれらの法がフランス人既婚女性に影響を及ぼしていることを窺い知ることが出来ます。これは一種の文明化された奴隷制度であると言うことも出来るでしょう。
更に、女性が結婚して婚姻契約を結べば、その時点で彼女は姓(名字)を失います。女性は夫の姓を名乗らなければなりません。無論、これは女性の夫に対する従属義務を示しており、このようにして彼女は自らの出自の概念を失ってしまうのです。
有名な英国人作家のジョージ・バーナード・ショーはこのように言っています:
 “英国法によれば、女性は結婚したその瞬間、全ての財産が彼女の夫のものとなるのである。”
西洋社会が女性に及ぼした不正としてもう一つ挙げられることは、法的・宗教的教説に従って婚姻契約が永久に続くものとされていることです。それは(少なくともカトリック教会においては)離婚の権利がないということを意味します。夫婦が離れるのは物理的な肉体だけであるとされるのです。こういった離別の概念は、一方による浮気、愛人関係、男女の友人関係構築、また売春、同性愛など、あらゆる形態の社会的腐敗と崩壊に貢献することになるでしょう。更に未亡人には再婚の可能性さえ与えられておらず、夫の死後に通常の暮らしを送ることさえ許されていないのです。

疑いの余地なく、地球の支配を試みる近代的西洋文化と呼ばれるものは、その市民社会の基礎においてギリシャやローマの伝統から恩顧を受け、その宗教的・思想的基盤にはユダヤ・キリスト教の伝統が流れているのです。科学的・社会的近代化によって、上記で述べられたような虐待は、思想家、教育者、ロビイスト、人権行動家などによる集団的な社会的女性権利の向上運動といった予想通りの自然な反応を引き起こすことになりました。このようにして、振り子は別の方向に揺れる準備が整い、女性世論は男性優越主義からの完全な解放、ならびに男女同権を要求し始めたのです。多くの近代的世俗主義社会においては、実際に女性たちには男性と同様の数々の権利が与えられています。しかしその一方で女性たちはその平等性ゆえの嫌がらせを受けたり、性的欲望、売却、契約または賃貸の対象として市場に出されるという、不道徳な物質主義文化によるダブルスタンダードの犠牲者となってしまっているのです。その結果もたらされる家族の崩壊、乱れた性的価値観、性病、妊娠中絶、同性愛、そして犯罪的な淫蕩は、特に宗教界の保守層による社会的反発を生みましたが、その傾向の波を押し戻すほどに、現在ではこういった傾向が強くなっているのです。
私たちはこうした現代の世界的な価値観に基づいて、また歴史的な教訓からも、自分たちの欲望や都合によって法を作り出す「人間」でなく、「アッラー 」の御導きに従うことの優越性を示すために、イスラームにおける女性の権利としての顕著な内容をご紹介し、一般的に認識されている誤解に関して光を当てていこうと思います。


 
イスラームにおける女性の権利
一般的女性の権利/子供・娘として/姉妹として
/妻として/母として/親類・隣人として

イスラームは、女性問題を包括的に取り扱います。それは彼女と彼女の主であり創造者でもあるアッラーとの関係、また人類の一員としての彼女自身との関係、そして彼女の家族であり配偶者でもある男性に対する関係などが含まれます。後に紹介されるように、他の社会が女性に与える権利、そしてイスラームが女性に享受する権利の違いを念頭に入れて読み進めてみて下さい。特筆に値するのは、イスラームの教えは弱者や被抑圧者のニーズや権利に答えるものであるということであり、それが娘、姉妹、妻、母といった立場であれ、イスラーム社会の一員はその一生に渡って、必ずその権利が保護されるということなのです。

1.女性への一般的配慮とイスラームにおける男女同権、
そして男女の相互補助的な性質

ある観点から見れば、男女は共に人間であり、似通った魂、脳、心臓、肺、肢体等を備えていることから、同権は可能であり、そしてそれは道理にかなうものです。しかしもう一つの観点から見てみると、物理的、精神的、感情的そして性質や能力的観点からも、男女同権は不可能かつ不条理なのです。私たちはこれらの観点の間に足を踏み入れ、いかに男女双方が対等であり相互補助的であるかを照らし出さなければなりません。
男女のいずれに関わらず、そしてたとえ同性間であっても、個人の体力などの先天的な資質は異なっています。そして同性間において完全に対等であることが不可能であるならば、異性間において不可能であることは言うまでもありません。至高かつ全能者であるアッラーは、クルアーンの中でこう仰せられています:
またわれらは、全てのものを両性に創った。汝らは訓戒を(アッラーの慈悲として)受け入れるであろう。 [51:49]

このような相互関係の役割を持つ二元的な要素は、陽と負の性質を有する分子やイオンといった原子レベルの世界にも存在し、いわゆる二元体として全体の組織においてそれぞれ重要な役割を担っています。ほとんどの生命体には生殖の目的により、雄と雌の性が存在します。生物学が私たちに教えるように、全ての哺乳類は性別を特定する分子と外分泌腺の構造に共通性があるのです。こういった物理的、心理的、性的な基本的性質は、人生の他の領域においてもはっきりとした影響を与えているのです。
男性が女性から安楽を求め、それを得ようとすることはごく自然であり、その逆も同様であることは、それぞれがお互いのために創造されていることによります。お互いは引き離すことの出来ない存在なのです。お互いにとって、友であり配偶者であるという合法かつ尊敬すべき相手を持たずして、安楽を得ることは出来ません。アッラー () はその聖なる書クルアーンにおいて、二つの節でこのように仰せられています:

人類よ、われらは一人の男と一人の女から汝らを創造し、種族と部族とに分けた。これは汝らを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も高貴なる者は、汝らの中最も主を畏れる者である。アッラーこそは全知者であり、すべてを見透す御方である。[49:13]
 
イスラームでは多くの場面において、女性と男性が同等に扱われています。その一部を以下に挙げてみましょう。またこれ以降の章では後述されるような様々な内容のテーマに関し、この小冊子の残りを使って拡大しつつ展開させていきます。
1)男女は共に人類として同等であるということ。イスラームでは、例えばアダム () が楽園から追放された原因となる“原罪”によって女性を悪の根源であるとしたり、パンドラの箱を開けることにより世界に悪をもたらしたいう寓話や、一部宗教の教義にあるような手法でもって女性を分類したりしません。
至高かつ全能なるアッラーは、聖クルアーンにおいて仰せられています:

人類よ、汝らの主を畏れなさい。かれは一つの魂(アダム)から汝らを創り、またその魂から配偶者(イブ)を創り、両人から、無数の男と女を増やし広められた御方であられる。 [4:1]

またアッラーは、聖クルアーンでこのようにも仰せられています:

人間は、(目的もなく)そのままで放任されると思うのか。元々彼は射出された、一滴の精液ではなかったか。それから一塊の血となり、更にアッラーが、(均整に)形作り、かれは、人間を男と女の両性になされたのではなかったか。それでもかれには、死者を甦らせる御力がないとするのか。 [75:36-40]
 
アッラーは上記の節において、御自身によって一つの根源から両性が創造されたことを描写されています。人類としての資格には両性に違いはないこと、そして一つの種族として、相互補助的な役割がお互いに与えられていることが分かります。イスラームは、女性が本質的に劣等であると貶めるような、過去の不正な法を廃棄したのです。預言者 () はこのように述べられています。

“実に女性とは、男性の片割れなのである。" [アブー・ダーウード 234番、 アッ=ティルミズィー  113番、その他]

2)男女には共通の宗教的義務と儀礼が課せられています。信仰宣言(シャハーダ)、礼拝(サラー)、義務の喜捨(ザカー)、斎戒(サウム)、そして巡礼(ハッジ)はそれぞれ等しく両性に課せられているものです。特定の場面においては、女性が困難を見出さないように条件が緩和される場合もあります。例えば月経中や産後の出血といった場合においては、女性の健康と身体的状態が考慮され、礼拝と斎戒の義務が免除されます。斎戒の出来なかった日数分は後日にやり直さなければなりませんが、礼拝については負担となることからそのやり直しは要求されません。
3)従順への報奨と不従順への懲罰は、現世と来世において男女双方にとって同様のものであること。聖クルアーンにおいて、アッラーはこのように仰せられています:

誰であれ善い行いをし、(真の)信仰者ならば、男でも女でも、われらは必ず幸せな生活を送らせるであろう。なおわれらは彼らが行った最も優れたものによって報奨を与えるのである。 [16:97]

また最も荘厳なる主は、こうも仰せられました:

本当にムスリムの男と女、信仰する男と女、献身的な男と女、正直な男と女、堅忍な男と女、謙虚な男と女、施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、貞節な男と女、アッラーを多く唱念する男と女、これらの者のために、アッラーは罪を赦し、偉大な報奨を準備なされる。 [33:35]
 
4)男性と同じように、女性にも貞節、誠実さ、個人の名誉などの保護を保障する一般的権利が与えられており、また道徳的義務に関しても同様のものが課されています。ここにおいてダブルスタンダードは一切認められていません。例えば貞節な女性に対し、姦通をしたという虚偽の告発をした者は公開の鞭打ち刑に処せられます。至高なるアッラーは、聖クルアーンの中でこのように仰せられています:
貞節な女を告発して四名の証人を上げられない者には、八十回の鞭打ちを加えなさい。決してこのような者の証言を受け入れてはならない。彼らは主の掟に背く者たちである。 [24:4]

5)女性の金銭取引や資産保有は男性同様に認められ、かつ女性はその資格を有します。イスラーム法では、女性が後見人の同伴なしに所有や売買などの経済活動を行うことが、規制や制限を課されることなく認められています。こういったことは近代に入るまで、いかなる社会にも見られませんでした。
6)イスラームでは、女性に栄誉を与え、敬意を示し、正当に、かつ誠実に女性と接する男性は健康的で真摯な性格を備えた者であるとし、女性を不当に扱う男性は不誠実で敬意に値しない者であるとしています。預言者() はこのように述べられています。
“最も完全な信仰者とは、最も良い性格を備えた者である。そしてあなた方の内最善の者とは、女性たちに最善を尽くす者なのである。” [アッ=ティルミズィー 1162番 ]

7)イスラームでは、女性が男性と同じように教育を受け、教養を身に付ける権利を有します。伝承学者により真性の評価がされている次の伝承において、預言者()はこのように述べたとされます。
“知識の探求は、全ムスリムにそれぞれ課されているのだ (つまり男女双方に対して)。” [イブン・マージャ 224番と、アル=バイハキー ]

上の括弧内で示されているように、ムスリム学者たちは啓典における“ムスリム”という言葉が、男女双方を指していることで合意しています。従ってイスラームは女性に対し、宗教・社会的義務を理解出来るように教育の権利を与えると共に、女性が最善の努力によってイスラーム的な子供の養育をするよう義務付けているのです。もちろん子供の養育に関しては、自身の能力に相応しい方法を用いるといった特定の義務が女性にはあり、男性には家族単位の共同責任に加え、経済的援助や家族の保護、扶養の責任といった補足的義務があります。
預言者 () はこう述べられています:

“誰であれ、二人の少女を思春期に達するまで養育する者は、私と共にこのようにして復活の日を迎えるだろう。” そう言うと、アッラーの使徒 () はご自身の2本の指を合わせてその様子を表現しました。 [ムスリム 2631番]

また奴隷少女に関して、預言者 () はこう述べられています:

“誰であれ、奴隷少女を保有する者(奴隷の後見人の立場の者)が最善の態度でもって彼女を訓練しつつ良い処遇をし、かつ彼女を解放した上で結婚する者には、二重の報奨があるだろう。” [ブハーリー 97番、 ムスリム 154番]

8)男女には同様に、その能力の許す範囲において、社会を改善し正していく義務と責任が属します。男女は共に勧善懲悪の責任を等しく担います。至高なるアッラーは、クルアーンにおいてこう仰せられています:

男の信者も女の信者も、(互いに助け合い、支え合う間柄の)仲間である。彼らは正しいことを勧め、悪を禁じる。また礼拝の務めを守り、ザカー(定めの喜捨)を施し、アッラーとその使徒に従う。これらの者に、アッラーは慈悲を与える。アッラーこそは全知全能であられる。 [9:71]

9)男女にはザカー(定めの喜捨)を施す義務があるのと同じように、規定された量の遺産相続を受ける権利があります。全てのムスリム学者たちはこれについて合意しています。多くの社会においては想像もつかなかった、女性の相続権に関する詳細は後述することにしましょう。

アッラー () はこのように仰せられています:

男は両親および近親の遺産の一部を得、女もまた両親及び近親の遺産の一部を得る。その際には遺産の大小に関わらず、規定されたように配分しなさい。 [4:7]

10)女性は男性と同じように、避難を求めるムスリムに対して保護することが出来ます。至高なるアッラーは仰せられています:

もし多神教徒の中に、汝に保護を求める者があれば、保護し、アッラーの御言葉を聞かせ、その後彼を安全な所に送れ。 [9:71]

またアッラーの使徒 () はこのように述べられました:

“・・・そしてムスリムへの保護は一つであり、それらの内でも最も少ない者には保護を与えるべきである。また誰であれ、ムスリムの権利を奪う者にはアッラーとかれの天使たち、更に全人類による呪いがあり、悔悟や贖罪は彼からは受け入れられないのである・・・”  [ブハーリー 3008番]
これは、アッラーの使徒 ()の教友女性の一人であるウンム・ハーニー(ハーニーの母)の有名な物語からも、同様に証明されています。彼女はマッカ解放の日に彼女の元に避難して来た、(過去の確執から)殺害の脅迫を受けていたある多神教徒を保護しました。それについてアッラーの使徒 () はこう言われました:
 “ウンム・ハーニーよ、私たちはそれが誰であれ、あなたがかくまう者をかくまい、保護を与える。” [ブハーリー 350番]


2.子供・娘としての女性

至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて、人間の最初の権利である新生児に対する世話と保護の重要性と、その必要性について仰せられています:

貧困を恐れて汝らの子女を殺すのではない。われらは彼らと
汝らのため給養する。彼らの殺害は実に大罪である。 [17:31]

イスラームでは、両親が子供に美しい名前を命名し、収入に見合った適切な扶養を与えること、そして尊厳と名誉ある、適切な人生の保障を求めます。

預言者に遡る真性の伝承にはこう記されています:

“確かにアッラーは、あなた方が母親に対し不従順であること、そして感謝しないこと、または女児を生き埋めにすることを禁じられたのである・・・” [ブハーリー 1407番、ムスリム 593番]
                                         
従ってもし女性が殺害された場合、「血の代償金」が生じるのです。アッラーの使徒 ()の妻の一人であったアーイシャは伝えています:
“フザイル族の二人の女性が喧嘩をし、一方が石を投げ、妊娠中だった相手をその胎児と一緒に殺してしまったことがありました。預言者 () はそれに対する血の代償を奴隷の男の子または女の子一人であるとされ、被害女性の代償金(100頭の雌ラクダ)は殺害した女性の部族によって支払われるという判決を下されました。” [ブハーリー 3512番、ムスリム 1681番]

また至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられました:

母親は、乳児に満2年間の授乳をする。これは授乳を全うしようと望む者の期間である。そして子供の父親は彼らの食料や衣服の経費を、公正に負担しなければならない。 [2:233]

子供の養育と扶養は、母親による授乳の次に重要な権利です。母親には、子供の性別を問わず幼少期である1〜13、14歳まで、後見人としての資格が与えられています。これは特に夫婦間の不和による離婚の際に適用されます。イスラームが子供の幼少期において母側に養育権を与えるのは、一般的には女性の方が子供の要求に対してより関心が高いという理由によります。教友アブドッラー・ブン・アムルによる伝承には、ある女性が預言者 () のもとを訪れ、夫のことに関して不満を述べた様子が以下のように伝えられています:
“私のお腹は私の子を胎児として宿し、私の胸は私の子に乳を与えて育て、そして私の膝は私の子を長きに渡り運びました。しかしその子の父は私から離婚したとたん、私から私の子を引き離そうと言うのです!
彼は言われました:“あなたが再婚しない限り、その子の養育にはあなたの方がふさわしい。” [アブー・ダーウード 2276番その他]

両親には、同情心をもって子供たちに慈悲深く接することが義務付けられています。教友アブー・フライラ () はこう伝えています:
アッラーの使徒が教友アクラア・ブン・ハービス・アッ=タミーミーの前で、(彼の孫である)ハサン・ブン・アリーにキスをした際、アクラアは言いました:“私には十人の子供がおりますが、彼らにキスをしたことはこれまで一度もありません。”
すると預言者は彼を見て言われました:“慈悲心のない者は、慈悲を受けることもないのだ。” [ブハーリー 5651番 ]

イスラーム法は、両親が子供たちを気遣い、彼らへの十分な配慮、特に女児の特別なニーズを満たすことを要求しています。
預言者はこのように述べられました:

“誰であれ、二人の少女を思春期に達するまで養育する者は、私と共にこのようにして復活の日を迎えるだろう。” そう言ってアッラーの使徒は、ご自身の二本の指を合わせてその様子を表現されました。  [ムスリム 2631番]
                                                                                  
イスラーム法とその教えでは、両親が子供を最善の方法で養育し、健全で有益な教育を施すよう指示します。預言者 () はこう述べられました:
“養育される権利を持つ者を放っておくことは、その責任を持つ者にとって十分な罪である。”    [ムスリム 996番]
                                                          
また教友イブン・ウマル () は、アッラーの使徒 () がこのように語ったと伝えています:
“あなた方は皆指導者であり、あなた方はそれぞれ保護する者たちに対する責任を負っている。統治者は指導者であり、その市民に対する責任を負う。また男性は一家の指導者であり、彼らに対する責任を負う。そして女性もまた彼女の夫の家における指導者であり、彼女の世話するものに対する責任を負う。また召使いはその主人の富の管理者であり、彼の世話するものに対する責任を負う。あなた方は皆指導者であり、あなた方は皆自分が保護する者たちに対する責任を負うのだ。” [ブハーリー 853番、ムスリム 1829番]

イスラームはあらゆる事柄において正義を命じます。この概括的裁定は性別を問わず、全ての子供に適用されます。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいてこう仰せられました:

本当にアッラーは公正と善行、そして近親に対する贈与を命じ、また全ての蛮行と悪事、そして暴虐を禁じられる。かれは勧告している。必ず汝らは訓戒を心に留めるであろう。 [16:90]

また預言者の妻、そして信仰者の母であるアーイシャはこう語っています:

「ある貧しい女性が二人の少女を抱え、私の戸口にやって来ました。私は(他に何もなかったため、)彼女らにナツメヤシを三つ与えました。彼女は少女二人にそれぞれ一つずつナツメヤシを与え、三つ目を持ち上げて自分の口に入れようとしました。しかし二人の少女がそれをも要求したため、彼女は最後のナツメヤシを半分に割き、その二人に一つずつ与えました。私はその女性に感心し、そのことを預言者に話しました。彼はその話を聞いてこのように言われました:
“実に、彼女のそういった行いによって、アッラーは彼女に天国を約束された。”(またはこう言われました:)“彼女のそういった行いによって彼女を地獄から救い出された。” [ムスリム 2630番]

そして別の真性な伝承によると、彼はこう言われています:

“誰であれ、娘たちの世話に関して試みられる者は、それが地獄の炎からの覆いとなるのだ。”  [ブハーリー 1352番、ムスリム 2629番]

イスラームは、両親がその子供たちに対し、性別に関わりなく感情的にも物質的にも公平な待遇をするよう呼びかけます。男児が女児よりもひいきされてはなりませんし、その逆もしかりです。
預言者 () は、自分の子供たちの内の一人だけにしか贈り物をあげなかった教友に対し、このように言われています:
“あなたは自分の子供たち全員にこれと同じような物をあげましたか?”
彼は答えました:“いいえ。”
彼は言われました: “アッラーを畏れなさい。自分の子供たち全員に平等にするのです。” [ムスリム 1623番]
 
またイスラームは孤児に対する配慮の重要性を強調します。孤児には精神的・感情的状態に大きな負の影響があります。こういった状態は、特に孤児が社会において親切にされず、世話さえ受けず、見向きもされない環境なのであれば、その子が道を外れ、堕落する可能性をもたらすのです。
こうした中、イスラームは(男女の)孤児への福祉に大きな重要性を置いてます。イスラームはまず、孤児の近親者が彼らへの良い世話を施すよう求めます。そしてもし近親者がいないのであれば、彼らの扶養責任はイスラーム国家に負わされます。至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこう仰せられています:
孤児を虐げてはならない。 [93:9]
 
また至高なるアッラーは、聖クルアーンの中でこのようにも仰せられています:

孤児の財産を不当に貪る者こそは、腹の中に火を食らう者。やがて彼らは業火で焼かれるであろう。 [4:10]

また預言者はこのように言っています:

“実に、私は(社会的)弱者の有する権利の重大さを宣言する。それらは孤児と女性のものである。” [ハーキム 221番、タバラーニー]

ここで彼は、たびたびその権利を否定されている、これら双方の社会的弱者に対しての不正や危害は大罪であることを示しています。
預言者 () はこのように述べられています:

“破滅をもたらす七つの大罪を避けるのだ。”  
教友たちは尋ねました:“アッラーの預言者よ!それらの罪とは何でしょうか?”  
彼は言われました:“崇拝行為においてアッラーに他者を配すこと、魔術の実践、正当な理由のない殺人、利子の取り立て、孤児の富をむさぼること、戦場からの脱走、貞節で無実の女性信仰者に対する不貞の告発である。” [ブハーリー 2615番、ムスリム 89番]

その他多くの預言者の伝承でも、信仰するムスリムに対し、孤児の保証人となること、世話をすること、親切にすること、そして愛情や同情心を示すことなどが奨励されています。例えば、彼 () はこのように述べられています:
“私と孤児の後見人は、楽園でこれら二つのようになるのだ。” そう言って彼は、自分の人差し指と中指を示されました。[ブハーリー 4998番 ]

またイスラームは、自分たちには全く罪がないにも関わらず、婚外関係によって生まれたため、両親に認知されずに見捨てられてしまった、いわゆる非摘出児の福祉に関しても配慮を示しています。イスラーム国家にはそういった子供たちの扶養責任があり、彼らは孤児と同じように手厚く保護され、社会の一員として一般的なよい生活が出来るように支援されます。預言者 () は慈悲心に関する概括的裁定として、このように述べられています:
 “あらゆる生き物に対して(の善行により)、報奨が与えられるのである。”    [ブハーリー 2334番]
                                                          
イスラーム法は父親(もしくは後見人)が娘の婚姻に際し、彼女の意見を考慮することを義務付けています。彼女の合意は婚姻の合法性に欠かせない要素であるからです。彼女の結婚は強制されてはならず、彼女は候補者による申し込みを受け入れるか、または拒否するかを自分で選ぶことが出来ます。

預言者 () は言われています:
“離婚歴のある女性または寡婦は、許可ない限り結婚されてはならないし、合意のない限り処女とは婚姻関係を結んではならない。”
人々は尋ねました:“アッラーの使徒よ、彼女の合意とはいかなるものですか?”
彼は言われました:“彼女の沈黙である(つまり恥じらいによるものであり、不承認の意志を示さないこと)。”  [ブハーリー 4843番]

またイマーム・アハマドらは、アーイシャ () がこのように言ったと伝えています:
ある女性が預言者()を訪れて言いました:

“アッラーの預言者よ、私の父は自分の社会的地位を上げるため、彼の甥と私を結婚させました。”
 預言者 () はこの問題に際し、結婚を合意するか拒否するかについては彼女自身が決断をするよう委ねました。すると女性は言いました:
“私の父が行なったことについては合意をしますが、私は別の女性たちに対し、彼女らの父親にはそういった権利(つまり結婚の強要)がないことを教えたいのです。” [アハマド 25027番]
これは娘たちがかけがえのない存在だからです。アッラーの使徒()は真性の伝承においてこう言われています:
“娘や少女たちを強要してはならない。彼女らは喜びをもたらす、かけがえのない同伴だからである。” [アハマド 17411番]


3.妻としての女性

至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられました:

またかれが汝ら自身から、汝らのため配偶を創られたのは、かれの徴の一つである。それは汝らが彼女らによって安らぎを得ることの出来るためであり、かれは汝らの間に愛情と慈悲の念を据えられる。 [30:21]
 
至高なるアッラーによるご慈愛、ご慈悲、御力の大きな兆候の一つとして、かれは人類に配偶者を与え、安らぎや満足感が得られるようにし、お互いを助け合う関係とされました。

社会の基礎をなす単位とは家族であり、夫婦とはムスリム家庭が作られるための協同者です。家族の成功と家庭内の平安のため、イスラームは夫婦の双方に対する特定の権利と任務を与えています。以下の項目では、妻の権利に的を絞って見ていくことにします。

結婚の際の贈与財:結婚の際の贈与財は、婚姻における全新婦の権利です。結婚の際の贈与財が取り決められるまでは、婚姻契約は合法かつ完全とは見なされません。この権利は、たとえ新婦がその免除を承認したとしても、婚姻契約の完了までは完全に喪失することはありません。結婚の際の贈与財は婚姻関係に入る女性の所有下に属し、彼女には婚姻契約完了後、自分の所有物をいかに使用するかを選択する自由があります。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいてこう仰せられています:

そして(結婚する)女に結婚の際の贈与財を贈り物として与えよ。だが彼女らが自らの意志でその一部を戻すことを願うならば、喜んでこれを納めよ。 [4:4]
 
もし離婚という状況になった場合、たとえそれが結婚の際の贈与財の一部であったとしても、夫はそれを取り戻すことが出来ません。至高なるアッラ、ーは聖クルアーンにおいて仰せられました:

汝らが一人の妻の代りに、他と替えようとする時は、たとえ彼女に巨額を与えていても、その中から少しも取り戻してはならない。汝らは、ありもしない中傷という明白な罪を犯して、これを取り戻そうとするのか。汝らは、どうしてそれを取り戻すことが出来ようか。既に互いに深い関係もあり、彼女らは堅い誓約を汝らから得ているというのに。  [4:20-1]

この節では、婚姻契約の荘厳さ、婚姻関係の親密さ、また離婚の際に結婚の際の贈与財を保持する権利が顕著に示されています。至高なるアッラーはこのようにも仰せられています:

汝ら信仰者たちよ、当人の意志に反して、女を相続してはならない。また汝らが、彼女らに与えた結婚の際の贈与財の一部を取り戻すために、彼女らを手荒に扱ってはならない。明らかに不貞の事実があれば別である。出来るだけ仲良く、彼女らと暮らすのだ。汝らが、彼女らを嫌おうとも(忍耐しなさい)。いずれ(嫌っている点に)アッラーから多くの善いことを授かるであろう。 [4:19]
 
この節では、たとえ何らかの理由によって夫が妻を嫌ったとしても、彼女には完全な権利と公正さが保障されていることが明記されています。このことは教友アブー・フライラによる真性な伝承においても、見出すことが出来ます。アッラーの使徒はこのように言われました:

“信仰者は、女性信仰者(彼の妻)を嫌悪してはならない:もし彼が彼女の性格の一部を嫌っても、他の部分が気に入るかもしれないのだから。”   [ムスリム 1469番]

扶養義務:夫には自分の地位と資力に応じて、家族を十分かつ満足に養う責任があります。至高なるアッラーは仰せられています:

裕福な者には、その裕福さに応じて支払わせよ。また資力の乏しい者には、神が彼に与えたものの中から支払わせよ。神は、誰にもかれが与えられた以上のものを課されない。神は、困難の後に安易を授けられる。 [65:7]

もし経済的に裕福な男性が、自分の家族にその財を費やすことを拒否するのであれば、妻は彼の富の一部から、無駄遣いや浪費をしないことを前提に、自分と子供に必要最低限のものを抜き取ることが出来ます。ヒンド・ビント・ウトバは預言者のもとを訪れ、このように夫の不平を述べました。

“私の夫は吝嗇家で、私と子供たちに十分な出費をしません。”  
彼は答えて言われました:“度を過ぎないように、あなたと子供たちに必要な分だけ取り出しなさい。” [ブハーリー 5049番]

もし夫に大きな経済的負債があり、家族の扶養が出来ないような場合、または妻を長期に渡り見捨てた場合、妻が婚姻の解消を望むのであれば、イスラーム法に基づいた裁定による法廷の介入を求める権利があります。
預言者は次のようにそれらの権利を説明されています:

“あなたがアッラーの御名における宣誓をして娶り、アッラーの神聖なる御言葉によって肉体関係を合法とされた女性(の事柄)に関し、アッラーを畏れなさい。あなたの権利とは、あなたの嫌悪する人物があなたの憩いの場(または部屋に入って)に座ることを禁じることであり、もしもそれが起きたのであれば、彼女らを軽く打ちなさい。そして彼女らの権利とは、あなたが彼女らの衣食を必要に応じて養うことです。 ” [ムスリム 1218番]

   また預言者 () は、彼の教友であるサアド・ブン・アビー・ワッカース () にこう言われました:
“アッラーからの報奨を求めつつ家族に費やしたものは、それがたとえあなたの妻の口に運んだ一口の食べ物であれ、全て報奨を受けるのである。” [ブハーリー 2592番、ムスリム 1628番]

正義・平等・公正:二人以上の妻を持つ男性は、彼女たち全てに正義と平等、公正さに基づいた待遇をしなければなりません。これには衣食住、時間や関心事の共有、性的関係なども含まれます。慈悲深きアッラーはこのように仰せられています:
汝らがもし孤児に対し、公正にしてやれそうにもないならば、汝らがよいと思う(他の)二人、三人または四人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば、ただ一人だけ(娶るか)、または汝らの右手が所有する者(奴隷か捕虜の女)で我慢しておきなさい。これが不公正を避けるため、最も公正である。 [4:3]

また預言者 () はこう言われています:

“二人の妻を持つが、いずれか一方のみに(不公平に)偏っている者は、審判の日に体の片側が凋落した姿で現れるであろう。” [アブー・ダーウード 2133番、ティルミズィー 1141番その他]

これは夫が、正義や公正さにおいて全ての妻を平等に扱わなければならないことを示しています。彼は来世における麻痺や奇形を警告されているのであり、それは現世で彼の妻の内の一人の権利を軽視し矮小化したことへの罰なのです。
またそれがいかなる形であれ、男性が妻への虐待、嫌がらせ、中傷、冷遇、暴力、いわれのない仕打ち、妻の財産や資金の乱費、外出の禁止などを手段として彼女を離婚の申し出へと追いやり、彼女の富の全てをその和解金として支払わせようという試みは禁じられています。イスラーム法は、男性が特定の制限を妻に課すことを認めてはいますが、それらは不道徳で下品な行為や、男性と彼の家族にとって不名誉なもの、また社会全体の秩序にとって有害なものに対してのみです。こういった制限の目的は、彼女を適切な状態に戻すことにあります。無思慮な行動を繰り返し、実際に不貞の疑惑を抱かせるような女性に対しては、男性側によって離婚の申し出をすることが出来ます。それは女性側が男性に対して結婚契約の解消を求めることの出来る“フルア”と同様の権利なのです。

保護と援助:夫は自分の妻子に対し、力の及ぶ限り、あらゆる害悪から保護する責任があります。至高なるアッラーは仰せられています:

汝ら信仰者たちよ、人間と石を燃料とする業火から汝ら自身と家族を守れ。そこには厳格で容赦無い諸天使が(任命されて)おり、かれらは神の命令に違犯せず、言い付けられたことを実行する。 [66:6]
 
尚妻子を不法な物事や下品な行為から保護することは推奨されますが、行き過ぎはその限りではありません。預言者はこのように言われています:

「嫉みには、アッラーの好まれるもの、そしてかれの嫌われるものがある。かれの好まれるものとは疑いを抱かせる行為についてであり、かれの嫌われるものとは疑いを抱かせる根拠のないものである。」 [アブー・ダーウード 2659番、ナサーイー 2558番]
                                                  
預言者が上で述べられているように、ある種の嫉みは認可、あるいは推奨されますが、ある種のものは認められていません。真性なる伝承の一つに、彼がこのようにも言われていることが伝えられています:

  “実に、アッラーはお嫉みになられ、信仰者たちも嫉むのである。アッラーのお嫉みとは、信仰者たちによる不法な行為を目にされた時である。” [ブハーリー 4925番、ムスリム 2761番]
                                             
よき付き合い・気配り・肉体関係:夫は妻を気遣い、優しさと敬意をもって共に暮らすべきです。また彼が家庭でくつろぐ際には、妻がきちんとした衣服を身につけることを望むのと同様に、清潔で許容範囲の衣服を身につけることを心がけるべきです。なぜならこれは相互の尊重と礼儀の一環であるからです。預言者は、良い性格と態度における普遍的原則をこのように説明して奨励されています:

“最も完全な信仰者たちとは、最も良い性格を備えた者たちである。またあなた方の内の最善の者たちとは、身内の女性たちに最も良くする者たちである。” [ティルミズィー 1162番、イブン・ヒッバーン]

アッラーの使徒は、普段から自らの衣服や靴を繕ったりして妻たちの雑用を手伝っていました。ある時、彼の妻だったアーイシャはこのように尋ねられました:

“アッラーの使徒は御自宅では何をされていたのでしょうか?”
彼女は答えました:“彼は進んで家事を手伝い、礼拝の呼びかけ(アザーン)を耳にすると礼拝へ出掛けたものでした。” [ブハーリー 644番]

アッラーの使徒は常に心持ちが良く親切で、周りの人々を気遣いました。時には家族と戯れたり談笑したりもしました。預言者はこのように言われています:

“アッラーを念じることのない行いは次の四つ以外、全て娯楽と戯れ事に過ぎない:妻との戯れや談笑、馬の調教、二つの目的地の間の徒歩、水泳技術の習得である。” [ナサーイー、8939番]

この伝承が示すのは、余暇を過ごす娯楽の殆どは単なる戯れ事であり、時間を無駄にしているということです。従って、上記のような合法かつ有益な目的のもの以外には、そこにおける報奨もないということです。預言者 () は快活で、家族と談笑したり、楽しませたりすることにおいても良く知られていました。このような楽しい余暇の好例は、信仰者の母アーイシャ () によって語られています:
「私がまだ成長しておらず体重が軽かった頃、私は預言者()と(乗馬の)競争をして勝つことが出来ました。私が若干年を重ね、体重が重くなって来た頃にまた競争をすると、今度は彼が勝ちました。預言者()は競争に勝った時、私にこのように言われました:
“これはあの時の借りだぞ。”」 [アハマド 26320番、アブー・ダーウード 2578番]
 
またアッラーの使徒は夜の礼拝を行った後、就寝前に家族団らんのひと時を過ごし、彼らへの優しさや慈悲を示していたことが報告されています。真性な伝承において、イブン・アッバースはこのように報告しています:

“私はある夜、預言者の夜間礼拝を見るためにマイムーナ(彼の叔母で、預言者の妻)の家に泊まった。彼は妻としばらく話した後、眠りについた。夜が更けると彼は起き上がり、アッラーが彼に定められたものを礼拝した。”  [ブハーリー 4293番、ムスリム 763番]

また至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこう仰せられています:

本当にアッラーの使徒は、アッラー(との拝謁)と終末の日を熱望する者、アッラーを頻繁に念じる者にとって、立派な模範であった。 [33:21]

従って、私たち信仰するムスリム全員にとり、預言者は最良の模範なのです。ムスリムはその人生における諸事一般において、公私に渡り預言者の例に倣わなければなりません。
尚、妻の秘密の全ては厳守され、彼女の欠点も覆い隠されるべきです。全ての私的な出来事は公にされるべきでなく、会話の種とされてもなりません。たとえそれが親友のような間柄に対してであってもです。アッラーの使徒はこのように言われています:
 
“復活の日において、アッラーの御前で最悪の者たちの一人とは、妻または夫と肉体関係を持ち、その私的な内容を他人に暴露する者である。” [ムスリム 1437番、その他]

既婚女性には、夫と共に夜を過ごし、性的な満足、達成感や悦びを得る権利があります。この権利はイスラームにおいて最も強調されるものの一つであり、それは男性側の権利と等しいものです。夫には、配偶者の性的権利を満たす責任と義務がイスラーム法により定められており、妻が恥ずべき行為へと傾かないように(アッラーがそれを禁じられますよう)、彼女を満足させなければなりません。他の女性たちと同様、妻は配偶者として愛され、大事にされ、気遣われることを必要としていますが、同様に彼女の自然で正しい生理的欲求も満たされなければならないのです。

イスラームでは、夫が礼拝や斎戒などの崇拝行為に励むあまり、配偶者の身体的・性的・心理的欲求などを顧みない姿勢を禁じます。教友サルマーン・アル=ファールスィーは、次の有名な出来事を報告しています:
 
  “私が信仰上の兄弟である、アブー・ダルダーを訪れると、彼の妻、ウンム・ダルダーが出迎えてくれた。彼女が乱れた格好をしていたため、私は彼女に尋ねた:‘一体貴女はどうしたと言うのですか。なぜ夫に配慮もせずにそのような状態なのですか?’
彼女は言いました:‘あなたの兄弟、アブー・ダルダーは現世とその諸事に関心がないのです。彼は夜を礼拝で過ごし、日中には斎戒をします。
やがてアブー・ダルダーがやって来て、サルマーンを歓迎し、食事が出されるとサルマーンは言いました:‘なぜ私と一緒に食べないのですか?’
アブー・ダルダーは言いました:‘私は断食中なのです。’
サルマーンは言いました:‘アッラーに誓って、あなたは断食を解き、私と一緒に食べなければなりません。’
それでアブー・ダルダーは断食を解き、サルマーンと共に食事をしました。サルマーンはその夜をアブー・ダルダーと過ごしました。そしてアブー・ダルダーが夜間に起き上がり、深夜の任意の礼拝を捧げようとすると、サルマーンは彼を止めて言いました:‘あなたの身体にはあなたに対する権利があり、あなたの主はあなたに対する権利があり、あなたの家族はあなたに対する権利があります。斎戒すればそれを解き、あなたの妻に(性関係のため)近づくのです。あらゆる者に対しそれ相当の権利を認めなければなりません。’
そして日の出間際になると、サルマーンはアブー・ダルダーが起き上がり礼拝を捧げることを許しました。彼ら双方は起床し、清めを行い、礼拝を捧げた後、ファジュル(日の出前)の礼拝のためにモスクへ向かいました。そして預言者との集団礼拝を済ませると、アブー・ダルダーはサルマーンとの出来事を預言者に報告しました。それに関し、預言者はこう言いました:‘サルマーンは真実を話したのだ。’” [ブハーリー 1867番]

また夫は妻のニーズを考慮し、家を長期に渡り離れるべきではありません。カリフだったウマル・ブン・アル=ハッターブは彼の娘ハフサとの相談の末、妻が夫を忍耐強く待つことの出来る期間を最長で六ヶ月間と定めました。
アブドッ=ラッザークらは、以下の有名な話を伝えています:
 
“ウマル・ブン・アル=ハッターブが夜の見回りをしていると、女性の嘆き声を耳にしました:

夜は長く、その終わりは暗黒
ここで私は眠りにつけず、戯れようにも愛しき人も居らず
もしその玉座が天よりも高きにある御方がなければ
この寝床は転げ落ち、動揺に震えよう

翌朝、彼は彼女の元を訪れ、その詩の理由を尋ねました。彼女によると、夫は長期に渡り軍隊の遠征に出ているということでした。それでウマルは娘のハフサと話し合い、女性が夫の帰還を待ち続ける期間を制定しました。彼はそれがムスリム大衆にとっての一般的公益であることを彼女に説得すると、彼女はしばらく躊躇し恥じらいながらも、それが六ヶ月だと応えました。”
この後、戦士たちがその期間内に妻の元へ戻ることの出来るよう、ウマルは遠征を六ヶ月以内に終了させるようになりました。    
この期間は概算であり、状況によってはそれ以下が可能になるかもしれませんし、それ以上を強いられるかもしれません。彼女は六ヶ月以上の夫の不在を許可することも出来ますし、それ以内に戻ることを強制することも出来ます。

また夫には正当な理由がない限り、妻の合法的要望を拒否・否認することが出来ません。また夫は妻が認可しない限り、彼女の代理として財務決定を下すことが出来ませんし、夫には妻の認可なしに、彼女のいかなる資産を取り上げる権利もありません。

また彼は、子供に関する諸事やその他のお互いに関わる問題、そして家庭における大きな決断の際にも、妻と相談して決定べきです。妻の意見が正論で思慮深いもので限り、それを受け入れず、男性が他の家族に対し彼の独断を強要することは賢明なこととは言えません。預言者はこの問題に関し、次の実用的な例を挙げられています。
クライシュ族との協定が結ばれた日、預言者は彼の教友たちに頭髪を剃り‘イフラーム ’の状態を解くよう命じましたが、彼らはそれを渋り、命令を速やかに遂行しませんでした。彼の妻であるウンム・サラマは、まず彼自身がそれを行い、教友たちの前に進み出ることを提案しました。預言者は妻の提言を聞き入れてそれを実行し、教友たちは彼の行為を見ると急いで自分たちもそうしました。

夫は妻の小さな失敗を一つ一つ数えるべきではありません。例えば預言者はこのように言われています:

“旅から戻って来た夫は、深夜に帰宅すべきではない(つまり、事前に帰宅の時間を伝えずにそうすること)。”   [ブハーリー 4948番、ムスリム 715番]

このような忠告がされているのは、妻が髪の毛を梳かしたり、入浴したりすることの出来る時間を与えることにより、夫にとっての不満の原因となるかも知れないような、準備の出来ていない状態での妻との再会を避けるためです。もちろん現在は近代化による通信技術によって昼夜であれ、夫が妻に帰宅の日時を事前に伝えることは容易なものとなっています。

また夫の妻に対する優しさや親切心、忍耐、思いやり、意見の共有は義務とされます。彼は誠心誠意、彼女に尽くさねばならず、彼女の人間性も考慮に入れなければならないのです。女性というものは愛情をもって優しくされ、尽くされるのを好むものです。夫は彼自身による思い入れの深さ、愛情、感謝の気持ち、誠実さ、純粋な熱意を妻に対して示すことが出来なければなりません。

またイスラームにおける離婚のシステムは、女性の権利と利益を保護し、和解の十分な機会と時間をもたらすよう設計されています。この詳細に関しては後述しますが、離婚では結婚と同じように誠意をもって振る舞い、双方の関係者たちの権利を配慮しなければなりません。最も思慮深きアッラーは仰せられています:
 
離婚(の申し渡し)は、二回までである。その後は公平な待遇で(合意の上)同居(復縁)させるか、あるいは親切にして(合意の上)別れよ。  [2:229]


4.母親としての女性

慈愛遍きアッラーは、一般的な両親の権利、徳に母親のものを繰り返し強調されています。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて仰せられました:
 
汝の主は命じられる。かれの他に何者をも崇拝してはならない。そして両親には孝行せよ。もし両親かまたそのどちらかが、汝の許で老齢に達したとしても、彼らに無礼な言葉を使ったり不満を表したりせず、親切な言葉で話しなさい。  [17:23]
 
この節において、アッラーの崇拝される権利が両親の権利と並列されていることからも分かるように、イスラームにおける両親の権利は甚大であり、アッラー以外の全てに優先されることを学者たちは認めています。

両親に対する従順さは、妻を含むあらゆる人よりも優先されなければなりません。これはいかなる問題であれ、妻が恥をかかされたり、中傷されたりすることを意味するのではなく、それはただ両親が至高なるアッラーとかれの預言者()に背いていない限り、他の誰よりも服従されなければならないことを示しているのです。

人に対するアッラーの御満悦、または御怒りは、両親の子供に対する満悦か怒りによって表わされるということについて、預言者()は次のように言われています:

“人に対するアッラーの御満悦とは両親の満悦を通してのものであり、かれの御怒りは両親の怒りを通してのものである。” [イブン・ヒッバーン 429番、タバラーニー]
                                   
“ビッル・アル=ワーリダイン”とは、両親に従順であること、親切心を示すこと、彼らを喜ばせ、特に老齢であるならばその世話をし必要を満たしてあげることです。彼らに奉仕することは義務であると見なされ、ジハード(アッラーの道における奮闘)のへの参加志願などの様々な行為よりも好まれます。ある時、ある男がアッラーの使徒()を訪ねてジハード出征の許可を求めました。すると彼は男の両親が生きているか尋ねました。そして男が肯定すると、彼はこう言ったのです:

“ならばそのために努力し、尽力(ジャーヒド)するのだ。” [ブハーリー 2842番、ムスリム 2549番]

これは、イブン・マスウード()によって伝えられた真性な伝承においても確認されています:

“私は預言者()に尋ねました:‘アッラーの預言者よ、アッラーの御前で最も愛される行為とは何でしょうか?’
彼は言いました:“定められた時間内に礼拝を行うことである。”
私は尋ねました:‘アッラーの預言者よ、その次は何でしょうか?’
彼は言いました:“あなたの両親に対し孝行し、敬意を示し、従順であり、世話をすることである。”
私は更に尋ねました:‘アッラーの預言者よ、その次は何でしょうか?’
彼は言いました:“アッラーの道において奮闘することである。” [ブハーリー 5625番、ムスリム 139番]
 
また別の伝承では、アブドッラー・ブン・アムル・ブン・アル=アース()がこう伝えています:

“ある男がアッラーの使徒()を訪れて言いました:‘アッラーの使徒よ、私はアッラーの報奨のみを求め、あなたに忠誠を誓い、移住し、アッラーの道に奮闘します。’
それを聞いた預言者()は男に尋ねました:“あなたの両親はまだ生きていますか?”
男は言いました:‘はい、どちらもまだ生きています。’
彼は言いました:“あなたはアッラーの報奨を求めるのでしょう?”
彼は言いました:‘はい。’
彼は言いました:“ならば両親のもとへ行き、彼らの最も良い同伴者となり、孝行を尽くしなさい。” [ムスリム 2549番]

また別の真性な伝承によれば、ムアーウィヤ・アッ=スラミーはアッラーの使徒()にこう言いました:

‘私はアッラーの道におけるジハードに出たいと思います。’
アッラーの使徒()は尋ねました:“あなたの母親は生きていますか?”
彼は言いました:‘はい。’
彼は言いました:“彼女のもとに留まりなさい。なぜなら天国は彼女の足元にあるのだから。” [アハマド 1557番、ナサーイー 3104番]

こうした表現は、子供が母親に対して示すべき敬意と従順さの段階、そして継続的な世話と奉仕によって、誠実で導かれた信仰者たちが得ることの出来る、アッラーの御満悦と天国を得ることを示しています。

母親には多大なる権利があり、父親よりも親切、手助け、良い待遇、同伴を受けるに相応しいとされています。なぜなら母親は最初に子供の世話をし、日々の養育において直接的な困難を被る存在であるからです。ブハーリーらは教友アブー・フライラ()が、次のように語ったことを伝えています:

“ある男が預言者()を訪れて質問をしました:‘アッラーの預言者よ、私の同伴に最も相応しい人物とは誰でしょうか?’
預言者()は答えました:“あなたの母親です。”
男は尋ねました:‘彼女の次は誰ですか?’
彼は言いました:“あなたの母親です。”
男は再び尋ねました:‘彼女の次は誰ですか?’
彼は言いました:“あなたの母親です。”
男は再び尋ねました:‘彼女の次は誰ですか?’
彼は言いました:“あなたの父親です。” [ブハーリー 5625番、ムスリム 2548番]

この包括的な教訓は、母親がその人生を通して従順さ、慈愛、そして配慮に関して最も相応しいことを証明する概要であると言えるでしょう。
またこの伝承では、母親には子供の人生における様々な段階で被る難儀により、父親より三倍もの権利があることが示されています。それらの難儀とは妊娠や出産、授乳、そして育児です。
至高なるアッラーは、聖クルアーンの中で仰せられています:
 
われらは、両親への態度を人間に指示した。人間の母親は、苦労にやつれてその(子)を胎内で養い、更に離乳まで2年かかる。だから、われと汝の父母に感謝するのだ。われに最後の帰り所はあるのである。 [31:14]

母親は、親切さ、奉仕、任務、扶助、従順さに関して父親よりも優先されなければなりません。イスラームの教えと原則においては、彼らが創造主に背く行為を子供に命じない限り、両親の双方に対して従順であり、敬意が払われなければならないのです。もし彼らが子供に対しアッラーの背く行為を命じたのであれば、その特定の行為については彼らに従ってはならず、その他の一般的行為については引き続き両親に従わねばなりません。子供は両親に奉仕し、現世の諸事における手伝いをし、必要に迫られている時には援助することが求められます。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて仰せられています:

だがもし汝の知らないものを、われに(同等に)配することを彼ら(両親)が汝に強いたとしても、彼らに従ってはならない。だが現世では懇切に彼らに仕え、悔悟してわれの許に帰る者に従うのだ。やがて汝らはわれに帰り、われは汝らの行ったことを告げ知らせるのである。 [31:15]
 
たとえ両親がイスラーム以外の宗教に従っていたとしても、それがアッラーへの不服従的行為ではない限り、子供は彼らに対して敬意を払い、服従し、経済的援助をしなければなりません。アスマー・ビント・アブー・バクル()は言いました:
 
まだ多神教徒だった母が私のもとを訪れました。私はアッラーの使徒()へ行って、彼の判断を求めました。私は言いました:“彼女は私を訪れ、イスラームにも関心を持っています。私は彼女との関係を保つべきでしょうか?”
アッラーの使徒()は言いました:“もちろんそうです。母親との関係を保ちなさい。” [ブハーリー 2477番、ムスリム 1003番]

また子供による母親への親切心と従順さ、いたわりはイスラームによって奨励されており、また両親の日常的ニーズを満たしたり、家事や雑用などの手助けをすることの奨励は、アブー・フライラ()による次の長い伝承における預言者()の言葉によって表されています:
 
“揺りかごの中にいる時から話すことの出来たのは、三人の乳児だけである。最初の者とはマリアの息子、イエス()である。
二人目は、ジュライジの時代のイスラエル人であった。ジュライジは庵の中に隠遁して、礼拝やアッラーへの崇拝行為に自らの人生を捧げた修道僧であった。ある日彼が礼拝を捧げていると、ジュライジの母親が彼に助けを求めにやって来た。それで彼は言った:‘アッラーよ!私はあなたへの礼拝と私の母親のどちらを優先すべきかで困惑しています。’しかし結局彼は礼拝を続け、母親の求めを無視してしまった。ジュライジの母親はその場を去ったが、翌朝も彼の母親は同じことをし、ジュライジは礼拝を続けて母親の呼びかけを再び無視した。翌日、ジュライジの母親は過去二日間と同じように、再度彼のもとを訪れて助けを求めたが、ジュライジは反応を示さなかった。それを見た母親は言った:‘アッラーよ!ジュライジが死ぬ前に、娼婦たちの顔を彼に見せてあげてください。’
当時、イスラエル人たちはジュライジによる献身的な崇拝、礼拝、隠遁やその方法を高く評価していた。しかし人々の間で人気を誇っていた、あるとても美しく魅惑的な娼婦がイスラエル人たちに提案した:‘もしあなた方がお望みなら、私はジュライジを誘惑して、彼と不法な性行為をしてみせましょう。’
娼婦はその計画を遂行しようと努力し、ジュライジを姦通へと誘惑したが、そのもくろみは失敗に終った。次に彼女は、ジュライジの庵の近くで放牧する羊飼いに接近し、彼女の体を捧げた。羊飼いはまったく躊躇しなかったため娼婦は妊娠し、彼女が出産するとその子供の父親はジュライジであると主張した。イスラエル人たちはジュライジの庵へ行くと彼をそこから引きずり出し、庵を破壊して彼を殴打し始めた。彼は言った:“どうしたというのですか?なぜ私に暴力を振るうのですか?”
彼らは言った:“この娼婦と姦通し、子供を産ませたというのに、あなたが敬虔な男を演じているからだ。”
ジュライジは言いました:“ここにその子供を連れて来てくれないでしょうか。礼拝を捧げ、私がその子供の父親ではないことを証明してみせましょう。”
イスラエル人たちはジュライジが礼拝を捧げるのを認め、赤ん坊を連れて来た。ジュライジが礼拝を終えると彼は赤ん坊へ近づき、赤ん坊の腹を指してこう聞いた:“お前の本当の父親は誰だい?”
まだ揺りかごの中にいた赤ん坊は言った:“父親は羊飼いです。”
赤ん坊の宣言と告白を聞いたイスラエル人たちはジュライジに口づけし、彼の祝福を求めつつ言った:“我々はあなたの庵を金で再建しようと思います。”
彼は言いました:“いえ、以前と同じような土と泥で作り直して下さい。”
彼らはその通りに従った。

そして揺りかごの中から話すことの出来た三人目の乳児の話はこうである:彼が母親の乳を飲んでいる時、華麗な衣服をまとい、美しい馬に乗った騎士が通りかかった。それで授乳していた母親はこう言った:‘アッラーよ!私の子供を将来この騎士のようにして下さい。’
この祈りを聞いた乳児は母親の乳から口を離し、騎士を見ながら言った:‘アッラーよ!私を将来この騎士のようにしないで下さい。’そして乳児は再び乳を吸い始めた。

(このハディースの伝承者であるアブー・フライラはこう言いました:
‘私は預言者()が、乳児が乳を吸うような仕草を模倣して、人差し指を口に入れて吸ったのを覚えている。’)

それから母親と乳児は、ある女中の前を通りかかった。その女中は、他者から姦通と窃盗の罪で告発されたため、主人によって暴力を振るわれていた。女中は言った:‘私にはアッラーだけで十分であり、かれこそが私の保護者です!’
母親は言いました:‘アッラーよ!私の子供を将来この女のようにしないで下さい。’
この言葉を聞いた乳児は、母親の乳から口を離して言った:‘アッラーよ!私を将来この女性のようにして下さい。’  
この言葉を聞いた母親は、自分の息子に言った:‘息子よ!一体あなたはどうしたというのですか?きちんとした身なりで立派な馬に乗った、身分も高く権力もある騎士が通りかかった時、私はあなたが将来彼のようになることを願ったというのに、あなたはそれを拒否しました。そして私たちが姦通と窃盗の容疑で体罰を受け懲戒されている女中の前を通りかかった時、私はあなたがあのような拷問と告発を受けないよう、アッラーに祈ったと言うのに、またもあなたは私の祈りを拒みました。’
そこで乳児は言った:‘母親よ、あの騎士は抑圧者だったため、私は彼のようにならぬよう、アッラーに祈ったのです。そして拷問と告発を受けた女中は、姦通と窃盗のいずれも犯してはいませんでした。ゆえに私は彼女のように無垢で純粋になれるよう、アッラーに祈ったのです!” [ブハーリー 3253番]
 
両親への反抗、無礼、そして彼らの権利を果たさないことは、最も大きな罪の一つです。この罪に対するアッラーの懲罰は来世だけでなく、現世にも及びます。これに関し、アッラーの使徒()はこう言ったと伝えられています:
 
“二つ(の種類の罪)をアッラーは現世において(その懲罰を)前倒しにするだろう:暴力的な罪、そして子供による両親への不従順である。” [ティルミズィー 2511番、イブン・マージャ 4211番]

またアッラーの使徒()はこのようにも言われました:

“実にアッラーはあなた方が母親に背くこと、人々の権利を妨げること、人々に対し自分にその資格もないものを要求すること、そして女児を生き埋めにすることを禁じられた。またかれはあなた方の噂話、過度の質問、富の浪費を厭われる。” [ブハーリー 5630番]

預言者()は、人の祈願や礼拝が叶えられるためには、全人生を通しての両親への孝行が非常に重要であることを説明されています。教友イブン・ウマル()は次の長い伝承の中で、預言者()がこう語られたことを伝えています:

“その昔、ある三人の男たちが旅に出た。夜が近づいたため、彼らが山麓にあった洞窟の中で睡眠を取ろうと中に入ると、岩が崩れ落ちて入り口を塞いでしまった。彼らは話し合った結果、礼拝と祈願以外には脱出の方法はないという結論に達した。
‘我々の人生で行なった、最善かつ最も有徳な行為に言及してアッラーに救いを求めよう。’
最初の男は言った:‘アッラーよ!私には二人の年老いた両親がいました。そして私は、先に彼らへ食事を差し出すまでは、自分の妻子には決して何も与えませんでした。ある日私は家畜の群れを率いて遠出し、帰宅が遅れてしまったことがありました。帰宅すると両親は既に眠っていました。私は彼らの夕食のために羊の乳を搾ったのですが、彼らを起こすことに気が引けたため、乳の器を手に持って彼らの傍らに立ち、彼らが目覚めるのを待ちました。そして彼らにそれを差し出すまでは、妻子には何も与えませんでした。やがて日が昇ると彼らは目を覚ましましたが、その時には子供たちが乳を欲して私の足元で泣いていました。彼らが起きると私は乳を差し出しました。アッラーよ!もし私がそうしたのがあなたのためであったことをご存知なのであれば、どうか我々をこの洞窟から救い出して下さい。’

すると岩は少しだけ入り口から動いたが、彼らが脱出するには至らなかった。
それから二人目の男が言った:‘アッラーよ!私には父方の従姉妹があり、彼女を地上で最も愛していました。私は彼女への強い想いを抱いていましたが、彼女はそれを拒みました。ある時、飢饉のため彼女は財政的に圧迫された状況にありました。彼女は私のもとに助けを求めて来ました。私は彼女を手に入れることと引き換えに120ディナール分の金を差し出しました。切迫した状況と財政的な必要性から、彼女は合意しました。しかし私が行為を始める段になって、彼女はこう言いました:‘従兄弟よ!神を畏れなさい!そして正しい方法でない限り、処女の封を取り去ってはなりません。’私にとって彼女は最も望ましい、愛すべき女性でしたが、それを聞いた私は立ち上がり、彼女に手を触れませんでした。そして彼女に与えた金も取り返したりはしませんでした。’
それから彼は両手を天に掲げてこう言った:‘アッラーよ!もし私がそうしたのがあなたのため、そしてあなたのご満悦を得るためであったことをご存知なのであれば、どうか我々をこの洞窟から救い出して下さい。我々が脱出出来るよう、洞窟の入口の岩を取り除いて下さい!’
 
すると再び岩は少しだけ動いたが、まだ彼らが脱出するには至らなかった。
最後に三人目の男が言った:‘アッラーよ!あなたは私が一度何人かの労働者を雇い、その日の終わりに彼ら全員に賃金を払ったことをご存知のはずです。しかし一人だけ、賃金を受け取らずに帰ってしまった者がいました。私はこの賃金を自分の事業に投資しましたが、その分をきちんと記録し、特別に計算していました。この労働者のものである賃金は時を経つにつれ増幅し、長い年月の後、彼はまだ受け取っていなかったあの日の労働分の賃金を求めて私のもとにやって来ました。私は大きな羊、牛、ラクダの群れと、奴隷たちや使用人たちを指差し、彼にこう言いました:‘あなたが目の前にあるこれら全てはあなたのものだ!これがあなたに対する私の借りだ!’その労働者は驚いて言いました:‘どうか私をからかわないで下さい!私はただ一日分の賃金が欲しいだけなのです。’雇い主は言った:‘私はあなたをからかっている訳でも、ひやかしている訳でもない。これらは全てあなたのものだ。’それで労働者は提供されたもの全てを受け取って立ち去った。
それから男は両手を天に掲げ、こう言った:‘アッラーよ!もし私の行いがあなたのためと、あなたのご満悦を得るためだったのなら、私たちを苦しめているこの状況から救い出して下さい。’
 
すると岩は洞窟の入り口から転がり、三人の男たちはそこから出て再び自由の身となったのである。” [ブハーリー 2152番]

イスラームは、両親の生涯を通して彼らの満悦を求めること、そして彼らに孝行し、懇切を尽くし、手助けし、敬意を示し、世話をすることが私たちの現世での罪の重荷を償い、それらを取り除く大きな手段であると教えます。教友アブドッラー・ブン・ウマル()はこう言っています:

“ある男が預言者()を訪れ、こう言った:‘預言者よ!私は大罪を犯してしまいました。どうすれば私にそれを償うことが出来るでしょうか?’
彼は尋ねました:“あなたの母親はまだ生きていますか?”
男は否定しました。
預言者()は男に尋ねました:“あなたの母方の叔母は生きていますか?”
男が肯定すると、預言者()は彼に言いました:“彼女に良くし、親切にするのだ。” [ティルミズィー 1904番、イブン・ヒッバーン 435番]

この伝承は、イスラーム法の一部の事柄において、母方の叔母には実の母親と同様の地位があることを指し示しています。預言者()はこうも言っています:

“母親の姉妹には、母親同様の地位がある。” [ブハーリー 2552番]

こういった広範囲の指針は、両親(特に母親の)の有する一般的権利の大きさ、そしてイスラームの教えにおいて母親に与えられている独自の敬意を表しています。

5.親戚・隣人としての女性

イスラーム法では、男性に制定されている一般的権利と同様のものが女性にも同様に定められています。公共社会の福祉に対する配慮、および相互補助の精神はイスラーム的社会システムならではのものです。預言者()は言われています:
 
“信仰者たちはお互いへの思いやり、愛情、慈悲において一つの身体のようであり、身体の一つの部位に問題があると身体全体に熱が広がり、落ちつくことが出来ないのである。” [ムスリム 2586番]
                                                                        
また彼()はこうも言われました:
 
“信仰者たちはそれぞれ堅固な建物のようであり、お互いを支え合う。” そう言って彼は両手の指を絡み合わせました。[ブハーリー 467番、ムスリム 2585番]

女性は叔母、姪、従姉妹やどのような親族であれ、そしてお互いの親等的近縁性に関わらず、アッラーが善行、懇切、協力するよう命じた親族に数えられます。至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいて仰せられています:

汝らは、もし権威を与えられれば、地上に退廃をもたらし、また血縁の断絶を望むのか。 (47:22)
 
また預言者()は言われました:
 
“血縁の絆を断つ者は、決して天国に入ることはない。” [ムスリム 2556番]

また彼()はこのようにも言われました:

“貧しい者への施しは一つの施しであり、(貧しい)親族への施しは二つの施しである。というのもそれは施しそのものと、親族との間柄を保つことであるから。” [ティルミズィー 658番、イブン・マージャ 1844番]
 
もし女性の隣人がムスリムであれば、彼女には二つの権利が与えられます。それはイスラームに関する権利、そして隣人に関する権利です。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて仰せられています。

アッラーに仕えよ。何ものをもかれに併置してはならぬ。父母に懇切を尽くし、また近親や孤児、貧者や血縁のある隣人、血縁のない隣人、道づれの仲間や旅行者、および汝らの右手が所有する者(に親切であれ)。アッラーは高慢な者、うぬぼれる者を御好みになられない。 [4:36]

イスラームは、ムスリムが隣人を大切にすることを義務付けます。アッラーの使徒()は述べられています:

“ジブリール(大天使ガブリエル)は隣人へ配慮するよう、私に執拗に勧め続けたため、私は隣人が合法的な相続権を得るのではないかと思った程だった。” [ブハーリー 5668番]

また彼()はこのようにも言われました:

“アッラーに誓って、彼は信仰者ではない。 アッラーに誓って、彼は信仰者ではない。アッラーに誓って、彼は信仰者ではない! ”
彼らは尋ねました:“アッラーの使徒よ、誰のことでしょうか?”
彼は言いました:“隣人の安全を脅かす者である。”   [ブハーリー 5670番]

また、アスファハーニー著ヒルヤトゥル=アウリヤー の中で、教友タルハ() がこのように言ったと伝承されています:
 
“ある夜、ウマル・ブン・アル=ハッターブ()が彼の家から出て行った。私は彼が夜間に何をしているのか探るため、彼の後を付けた。私は彼がある家に入り、しばらくすると出て来てまた別の家に入るのを見た。翌朝、私はそこに誰が住んでいるのかを確認するため、最初の家を訪れた。驚くべきことに、そこには盲目で身体の不自由な一人の老女がいた。私は彼女に聞いた:‘昨夜ここに来た男は、何をあなたに求めたのですか?’
彼女は言った:‘あの男性はこのところ私の世話をしてくれていた方で、私の求めに応え、手伝い、養ってくれていました。’
タルハは自分に言った:‘なぜ私はウマルの行為を勘ぐったりしたのだろうか。’
アッラーの使徒()は言われています:
 “寡婦や貧者を養う者は、あたかもアッラーの道にある者のようである。そしてかれはこう言ったかのようだった:座ることなく礼拝に立つ者のようであり、解くことなく斎戒する者のようである。” [ブハーリー 5038番、ムスリム 2982番]

これらは女性の権利を概要するイスラームの教えの中の、女性への栄誉、敬意、配慮、そして扶養の特徴的側面の一部です。私たちは、この地球における人類の歴史上、女性はかつてこれほどの敬意を栄誉を受けたことはないと断言します。伝承を元に様々な時代を見ても、イスラーム法は女性の人生を通して、彼女に対する犯罪や虐待などを決して見逃しはしなかったことを示しているのです。


 
イスラームにおける女性への誤解

イスラームにおける女性とその権利に関しては、プロパガンダによる誤解が広められています。これらの誤解の元となる情報は、イスラームとムスリムを中傷しようと試みる一部の悪意ある人々により繰り返し喧伝されています。イスラームはその歴史を通して女性に名誉を与え、敬意を示し、尊重して来ました。一部の逸脱した者たちによる犯罪は、イスラームに基づいた原則と法を反映してはいません。私たちは、イスラームにおける一般的女性の権利と地位に関して吹聴されている、これら一般的な誤解への解答を以下に示して行ければと思います。

1.イスラームにおける一夫多妻

同時に複数の妻と婚姻関係を結ぶこと、つまり一夫多妻 制は、人類の歴史に匹敵する程の古い習慣であり、イスラーム法においても認められています。一夫多妻制は当時のアラブ以外の他地域の習慣としても、古代ヘブライ人、エジプト人、ギリシャ人、ペルシャ人、アッシリア人、日本人、インド人、ロシア人、ドイツ人などによって行なわれて来ました。

過去に啓示された全ての宗教は一夫多妻を実践し、容認して来ました。旧約・新約聖書は数ある聖典の中でも最も早くからそれを合法化し、実践していました。預言者ムハンマド()以前のアッラーの預言者たちの多くも複数の妻を持っていました。預言者アブラハムには二人の妻がいましたし、預言者ヤコブには4人の妻、預言者ダビデに関しては99人の妻を持っていたと言われています()。また預言者ソロモン()には700人もの高貴な出身の妻と、300人の奴隷出身の妻がいたそうです。預言者モーゼ()の律法においては、夫に許された妻の人数を特定、または制限する箇所はありません。エルサレム周辺に居住していたタルムード編纂者たちは、男性に認められる妻の数を制限しており、一部のユダヤ教学者たちも第一夫人が不治の病にある場合、または不妊の場合においてのみ二人目以上を認めています。また一部の学者たちは一夫多妻を完全に禁じてさえいます。

新約聖書の中で、イエスはモーゼ()の律法に従うよう命じられていますが、一夫多妻を禁じることを示す印は一つとして存在してはいません。キリスト教で一夫多妻が禁じられたのはキリスト教会一派の制令によるものであり、キリスト教元来の教えによるものではないのです。

こうした理由により、私たちは多くのキリスト教徒たちが複数の妻を娶る例を見出すことが出来ます。例えば、アイルランド国王ディサルメ(Ditharmet)には二人の妻がいましたし、フレドリック王二世にも、教会の許可によって妻が二人いました。従って、一夫多妻の禁止は教会の聖職者の手によるものであり、イエス・キリスト()本人による普遍的に知られる元来の法とは合致していないことが分かります。プロテスタント教会を創設したドイツ人聖職者のマルティン・ルターは、一夫多妻を合法であると見なし、多くの場面でそれを提唱しているほどです。
 
一夫多妻制はイスラーム勃興以前の多神教アラブ部族においても実践されていましたが、前述の諸預言者の時代の場合と同様に、結婚出来る妻の数については制限がありませんでした。イスラームの登場によって、イスラーム法は一夫多妻制を容認しましたが、男性には四人までの妻という制限が加わり、更に婚姻に関する規定が定められました。真性な伝承の中には、四人以上の妻を持つ者たちに対し、イスラームを受け入れた暁には四人だけを残し、残りの者たちに関しては誠意を示して離婚をするようアッラーの使徒()が義務付けたという数々の例が存在します。
慈愛遍きアッラーはこのように仰せられています:
もしも汝らが孤児に公平にしてやれそうにないならば、汝らが望む二人、三人または四人の女を娶るのだ。だが公平にしてやれそうにないならば、ただ一人だけ(娶るか)、または汝らの右手が所有する者(奴隷、捕虜の女)で我慢するのだ。これが不正を避けるためにより良いのである。 [4:3]
 
このように、私たちは全ての妻に対する待遇における厳格な意味での公正、そして不正の回避が、複数の妻を希望する者に規定されている条件の一つであることを見出すのです。
アッラーの使徒()は次のような言葉で偏愛を警告しました:
 “二人の妻を持つ者が双方に対し公平でなければ、彼は復活の日に、体の片方が崩れ落ちた状態で現れるだろう。” [アブー・ダーウード 2133番、ティルミズィー 1141番]
この脈絡での正義と公平とは、出費、富の分割、贈与などの物資的なものや、時間などにも適用されます。一方で特定の妻だけに強い愛情を抱いたり、心が偏向してしまうような感情的な部分については、心の奥底の感情や潜在意識は人にはコントロールの出来ないものであるために容認されています。慈愛遍きアッラーはこのように仰せられています:
汝らが妻たちに公平にしようとも、それは到底出来ないであろう。たとえ汝らが(心から)切望しようとも。だから偏愛に傾き、妻の一人を(結婚とも離婚ともつかずに)曖昧に放って置くのではない。汝らが調和し、主を畏れるのならば、実にアッラーは、度々赦される御方、慈悲深い御方であられる。 [4:129]
信仰者の母、そして預言者の妻でもあるアーイシャ()は次のように伝えています:
 
“預言者()は彼の妻たちの間に公平に分配し、こう言ったものでした:
アッラーよ!これは私の所有物の分割です。アッラーよ!あなたのみが所有されるお方です。私が所有しないものに関して私を咎めないで下さい。” [アブー・ダーウード、ティルミズィー、その他。尚この伝承は伝承経路が脆弱であると言われています。]

尚、性不能の男性に関しては、基本的条件を満たさないために結婚の対象とされるべきではないでしょう。また新たな妻と家庭を経済的に養うことの出来ないことがはっきりしている男性も同様に、婚姻を求めるべきではありません。婚姻を望む独身男性は、妻と子供の将来のために収入源を持つことに努力しなければなりません。一般的な裁定として、アッラーは次のように仰せられています:

そして結婚(の資金)を見出せない者は、アッラーの恩恵によって富むまで自制せよ。 [34:33]

それでは、いかなる社会においても存在し得る状況を参考とし、一夫多妻制が諸問題に対して良き結果となるのかどうか、また一夫多妻制が女性の利益に反するのかどうかを考察して行きましょう。以下に述べられている点からは、多くの状況において一夫一婦制が乱交や売春、または離婚につながっていることを証明しています。

1)もし女性が不妊症であり、夫が子供を欲しがる場合、彼はその女性と離婚すべきでしょうか?またはその女性が結婚を維持したいと希望する場合、男性は第二夫人を娶り、彼の合法的な妻として二人の妻の双方に同等の権利を与えるべきでしょうか?

2)もし女性が慢性的な病を患い、男性との性的交渉を持つことが出来なくなった場合、彼は彼女との婚姻関係を維持したまま第二夫人を娶り、女性は第一夫人として名誉を保ったまま、夫による扶養と保護を受けるべきでしょうか?あるいは彼女は男性によって離婚されるべきでしょうか?

3)一部の男性は経済的に裕福な上、多量の男性ホルモンを有するため、性的要求が高いとされます。そしてこのような場合、妻一人では彼の合法的で自然な性的欲求を満たすことが出来ない場合があります。また、もし月経期間あるいは産後の出血が通常よりも顕著に長い場合、または彼女が男性の性欲と釣り合わない場合やその他の状況などにおいて、夫と妻にとっての最善策は何でしょうか?男性が鬱憤を溜め込むことでしょうか、それとも非合法的な婚外の性的満足感を求めることでしょうか?あるいは彼の貞節さと満足感を保つことを助ける、他の合法的な妻を娶るべきでしょうか?

4)世界の様々な地域では、国家間の戦争や内戦、または災害によって、多くの男性が命を落します。更には様々な理由により、大半の国々では女性の総数が男性のそれを上回っています。これに関する良い例としては、天文学的な戦死者数をもたらした第一次・第二次世界大戦が挙げられるでしょう。他の地域でも同様の不釣り合いな死亡率が挙げられています。そのような状況において、もし全ての男性に一人ずつしか妻がいなかったのであれば、合法的な婚姻関係を失った女性たちはいかにして社会的、経済的、そして性的に満足することが出来るでしょうか?一部の女性たちは姦通、同性愛、または売春によって性的欲求を満たそうという誘惑に負けてしまうかもしれません。これは社会の不安定化の要素となってしまいます。夫を持たない女性たちの増加と、彼女らを世話し保護する男性親族の欠如は、社会における腐敗と違法な性行為を広める要素の一つです。社会にとって、またこのような状況下の女性にとって最善なこととは、独身として留まり人生における重責に耐え続けるか、または第二夫人として誠実で貞操な名誉ある男性と結婚することを認めることのどちらでしょうか?

不幸にもどのような近代社会においても乱交は存在しますが、それは人の手によって作られた法がそうであるように、社会的犠牲が伴うにも関わらず、合法化の末に容認されるべきでしょうか?大半の近代社会では一夫一婦制のみが合法とされていますが、上述のような状況においては代替策として、愛人、恋人、エスコートサービス、売春、事実婚などという形を取った婚外交渉が社会的に認められているのです。これらの類の関係を持つことは、まずそれ自体が無益であり、そしてもし両者がやがて結婚するということにならなければ、そういった不法な関係はたびたび虐待や争いなどを生み出すのです。これらの不法な関係は、ただ責任を伴わない形で双方の性的欲求を満たすだけのものであり、一般的に女性が権利を侵害される結果となるのです。法的にも経済的、社会的そして感情的な義務は課されず、たとえ女性が妊娠したとしても、それは彼女自身の問題とされ、子供は私生児として家族の援助を受けることもなく、時には見捨てられて孤児院などの施設に預けられてしまうのです。一般的に、男性側には子供の親権を認知する義務がなく、そのため子供に対する経済的責任を負う義務がありません。このような社会においては妊娠中絶が日常的に行なわれます。イスラーム法では、第二夫人、第三夫人、第四夫人それぞれが第一夫人と全く同じ権利と恩典を有し、不公平や不名誉は微塵も許しません。

不貞、姦淫、そしてあらゆる婚外性交渉は、イスラームにおいて厳しく禁じられており、預言者はこういった社会的病から社会を守るため、あらゆる手段を尽くしました。もしそれが蔓延するならば、それらは個人と家庭、そして社会全体をつなげる基本的結束において害悪と破滅をもたらすだけなのです。次に引用する伝承では、若い年頃の男性に対しての預言者()の忍耐強い助言として、多元的な視点を持つこと、そして欲望に流されて不貞や姦淫に走ることの悪が説かれており、彼の優れた類推による英知が如実に現れています。自分の女性親族が搾取、利用、虐待されることを望む者など誰もいないのですから、どうして他者を搾取することなど出来るでしょうか?
ある真性な伝承ではこのように語られています:

“ある若い男性がアッラーの使徒()を訪れ、こう尋ねました:
‘アッラーの使徒よ、どうか(特別に)私通(と不貞を行うこと)の許可をお与え下さい。’
人々は彼を激しく非難し始めましたが、預言者は彼の近くに座り、こう聞きました:‘あなたはそのようなことを自分の母親に望みますか?’
彼は応えました:‘いいえ、アッラーに誓って。アッラーがあなたのために私を犠牲とされますよう。’
アッラーの使徒()は言いました:‘同様に、人々は自分たちの母親に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の娘に望みますか?’
‘いいえ。’ と彼は答えました。
アッラーの使徒()は言いました:‘同様に、人々は自分たちの娘に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の(父方の)叔母に望みますか?’
‘いいえ。’ と彼は答えました。
‘同様に、人々は自分たちの(父方の)叔母に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の(母方の)叔母に望みますか?’
‘いいえ。’ と彼は答えました。
‘同様に、人々は自分たちの(母方の)叔母に同じことを望まないのですよ。’ それから預言者()は彼の手を若者に置いて言いました:‘アッラーよ、彼の罪をお赦しになり、心を浄化させ、貞節な者として(性的な罪への抑制を強化させて)下さい’。” [アハマド 22265番]

上記の伝承は、アッラーの使徒 () により言及されている、以下のような黄金の掟の実践への適用であると言えるでしょう:

“あなた方は、自分の欲するものを自分の兄弟に欲するようになるまで、(真の)信仰者とは言えないのです。” [ブハーリー 15番、ムスリム 44番]

イスラーム社会における一夫多妻制は、四人までに制限されています。それはつまり、適切な婚姻契約と証人をもって行なわれた結婚のことです。男性はこれらの結婚による妻と子供たちに対し、全ての経済的負担と責任を持たねばなりません。子供たちは全員が嫡出児とされ、両親の保護と世話のもとで責任をもって養育されなければなりません。
 
しかし、もし男性に一夫多妻が許されたのであれば、なぜ女性には一妻多夫 が許されないのかと問われるかもしれません。これに対する答えは単純です。なぜなら既述のように、数々の生得・身体的な要因がそういった選択肢の実現を不可能にするからです。ほぼ全ての社会において、男性はその体力と生得的性質から、家庭における権威としての地位を持つからです。たとえ体力的な要素を無視したとして、一人の女性に二、三人の夫がいたとしても、次のような疑問が浮上するでしょう:誰が家庭における権威としてリーダーシップを取るのでしょうか?これは夫たちの間に有害な競争、嫉妬、怒りや憎しみを生み出し、結果的には社会への大きな被害をもたらします。更に、もし女性が一人以上の男性と結婚が出来るのであれば、誰が彼女の妊娠する子供を認知し、また父権に関してどのような説得力のある決定が下されるのでしょうか?そしてこのような取り決めから数世代後に、社会の人口はどうなっているでしょうか?男性はそういった一人の妻に対しての婚姻契約において、貞節を保っていられるでしょうか?それとも乱交への誘惑に駆られるでしょうか?これらの疑問に対する答えは明白です。女性はおよそ年に一度、そして一度に一人の男性からしか妊娠することが出来ませんが、男性は継続的に複数の女性を妊娠させることが出来ることから、女性が複数の男性と関わりを持つということよりも、男性に一人以上の妻がいることの方が、より自然で論理的であると言えるでしょう。

とりわけ一夫多妻制においては、男性が妻と子供全員の扶養に対する責任を持っており、それによって秩序立った家庭がもたらされますが、一妻多夫に至ってはそうではありません。それゆえ、考え得るあらゆる角度から見ても、それは理にかなわないものなのです。

以下に、一夫多妻制を要求し、それが社会の諸問題における唯一の解決策であると見なした西洋の思想家たちによる発言を見ていきましょう。
著名なフランス人思想家であるギュスターヴ・ル・ボン は、その著書「アラブ文明(Arabic Civilization)」の中でこのように述べています:

“一夫多妻制は社会的危機の減少を可能とし、愛人問題を解決し、社会から私生児をなくすのである。”

またアニー・ベサントは、彼女の著書「インドの宗教(Indian Religions)」の中でこう述べています:
 
“アッラーの意志に心から従う、アッラーに最も近い友が一夫多妻を実践しているのを私は旧約聖書の中で見いだしました。更に新約聖書では、一人の妻を扶養することしか許されていない教会の聖職者か牧師でない限り、一夫多妻は禁じられていません。インドの古代宗教書でも、同様に一夫多妻が認められています。しかしながら、他者の宗教実践を批判するのは容易なことです。そして、それこそが人々がイスラームを非難し、その一夫多妻制の容認を攻撃させている原因なのです。西洋人たちが、制限・制約されたムスリムの一夫多妻制に反対するのは、彼ら自身の社会に蔓延する売春や乱交の事情を考えれば、実に奇妙なことです。西洋社会への慎重な考察は、ごく一握りの純粋で貞節かつ誠実な男性たちが、一人の妻のみに対しての清らかな結婚関係に敬意を示し、婚外交渉をしないことを明らかにします。従って、彼らが合法である妻以外に愛人や恋人を持ったり、その他の方法で性的行為を行ったりするために、その社会が(男性唯一の結婚関係を維持することを意味する)一夫一婦制であるという主張は間違っており、不正確なものなのです。もしも私たちが公正で平等であろうとするならば、イスラームにおける一夫多妻制が社会の一員として女性への敬意を示し、保護と栄誉を与えていることが分かるはずです。一夫多妻制は、男性が愛人・恋人を持つことによって女性の感情、ニーズ、名誉を全く考慮に入れず、性的欲求だけを満たすことを許すような西洋的売春社会よりも優れているのです。男性は欲求が満たされ次第、関係を持った女性を捨て去ります。男性には愛人や恋人に対して行うべき社会的義務や責任がないからです。彼女と関わりを持つ唯一の目的は、一時的な性的欲求を満たすことだけであり、彼の求めるものはその場だけの付き合いのみです。一部の人々は、一夫多妻制と姦通・売春が同じように悪く、容認し難いものであると主張しますが、そのようなことを言うノン・ムスリムは果たして公平であると言えるでしょうか。というのも彼らは自分たちも同じ様なことを行っていながら、社会的な容認と認知を受けていることを行うムスリムを非難しているのですから。”

また著名な英国人学者ジャワードは、次のように発言しています:

“一夫多妻を妨げる英国の硬直したシステムは不正であり、容認の出来ないシステムである。それはおよそ二百万人の年老いてしまった未婚婦人を著しく害するものである。これらの女性たちは若さを失い、子供をもうけることが出来ない。それゆえ、これらの女性たちはあたかもナツメヤシの種を捨てるかのごとく、倫理観を捨てることを余儀なくされているのである。”
 
一方前フランス議会の委員ムブナールは、こう記しています:

“もしも全てのフランス人青年が、各一人ずつ女性と結婚したとしても、二五〇万人のフランス人女性は夫を見つけることが出来なくなってしまう。私は正直に、‘女性は母親にならない限り、健康的な人生を楽しむことが出来ない’ということを信じていると宣言する。私は、社会の一員である多くの人々が人間の摂理に反し、矛盾し、軽視する状況を強いるような判決を可決するものは、それがいかなる法であれ、正義と公正さの微塵もない残酷で野蛮な法であると信じる。”

1959年、国連はある発行物を出版し、特別声明を出しました:

“この出版物は、統計により全世界が増加し続ける私生児の問題に直面していることを証明しました。一部の国々では、私生児の総数が60%も増加している地域があります。例えばパナマでは、私生児の割合が国の全出生率の75%にまで達しています。これは、4人中3人の子供たちが婚外交渉によって生まれた非嫡出子であることを意味します。私生児の割合が最も高い地域はラテンアメリカであると発表されています。”

同時にこの発行物は、イスラーム世界における非摘出児出産の数が(他国と比べ)ほぼ皆無であることを証明しました。発行物の編集者は、イスラーム諸国に住む人々が一夫多妻を実践することの事実により、こういった社会問題や病から保護されていることを主張しています。

2.婚姻契約における後見人の力

イスラーム法学においては、婚姻関係を有効とする条件の一つに、当該女性の完全な同意が求められます。
預言者()はこのように言われています:

“‘アイイム’(離婚した女性、または未亡人)は、結婚の申し込みがあり、彼女の合意がない限り結婚されてはならない。そして処女は、彼女との協議のない限り結婚されてはならない。”
ある者が質問しました: “アッラーの使徒よ、彼女の許可とはどのようなものでしょうか?”
彼は答えました:“沈黙である。” [ブハーリー 4843番、ムスリム 1419番]

もし女性が望みもしない結婚を強要されたのであれば、彼女はムスリム裁判官へ訴えてその結婚の取り消しを求める権利があります。アッラーの使徒()のもとに、アル=ハンサー・ビント・ハダムという過去に結婚していたことのある女性が訪れ、彼女の父親が彼女の嫌う男性との結婚を強制したことを訴えに来ました。彼はそれを不認可し、無効としました。

またもう一つの条件として、彼女は自分の後見人を抜きに誰かと結婚してはならないというものがあります。彼女の父親、または彼が存命していない場合は彼女の祖父、父方の叔父、兄弟、更には成人した息子、あるいは国家の長などが彼女の後見人として、彼女の権利が守られることを保障し、彼女と共に婚姻契約に署名しなければなりません。彼の役割は、新郎が節操のある誠実な者であり、彼女による適切な結婚の際の贈与財の受け取り、そして彼女の認める二名の証人によって証言がされるのを確認することです。これらの全ては、女性側の権利、そして婚姻における尊厳の保護を目的とします。
アッラーの使徒()は次のように述べて、このことを明確にされています:
 
“後見人なくして結婚は成立しないのである。” [アブー・ダーウード 2058番、ティルミズィー 1101番]

また別の伝承ではこのように述べられています:
 
 “後見人なくして結婚は成立しない。そして後見人のない者には、統治者が後見人の役割を果たすのだ。” [アハマド 2260番、イブン・マージャ 1889番]

それゆえ、もし女性が駆け落ちし、自分たちだけで結婚したのであれば、それは預言者()が言明されているように、非合法であると見なされます。

 “いかなる女性であれ、後見人の同意なくして結婚したのであれば、彼女の結婚は無効である。そして彼女の結婚は無効である。そして彼女の結婚は無効である。そしてもし男性が彼女と床入りしたのであれば、彼は彼女の恥部を自らに合法としたことによって、彼女は彼から結婚の際の贈与財を受け取らなければならない。そして彼らが論争になれば、統治者が後見人のない者にとっての後見人となる。” [アブー・ダーウード、2083番、ティルミズィー 1102番]

娘としての権利において既述したように、初婚者であるかどうかに関わらず、女性には結婚の申し出を自分の自由意志によって受け入れるか断るかを選択する権利があります。後見人制度は、女性側の利益を守るためだけに存在しているのです。場合によってはイスラーム国家の統治者、または総督が彼女の合法的な後見人となり、彼女にとっての秩序となり、また犯罪的行為が存在しないかどうかを確認するという事実は、婚姻契約の神聖さ、そして女性のイスラームにおける権利という尊厳をより強固にするものです。

女性は先天的にかよわい存在であるため、イスラーム法は彼女の利益と福祉を保護し、彼女の権利を保持させる原則と法を定めています。彼女の両親と親族は必要ならば、彼女にとって最善かつ相応しい人物の選択を手助けすることが出来ます。なぜなら彼らは皆彼女の幸せを願い、彼女が結婚における失敗の被害者となることを望まないからです。結婚の目的とは男女の永続的関係を築くことであり、子供にとっての愛情に満ちた有益な家庭の構築でもあり、特定の欲求を満たすためだけのものではありません。一般的に、女性は男性よりも感情的になり易く、深層の実在よりも外観などに影響や誘惑を受けやすい傾向にあるものです。それゆえイスラーム法は、後見人が求婚者の男性が誠実でなく、女性にとって相応しい者でないと見なせば、彼の申し出を拒否し、却下する権利を認めているのです。この場合、男性による後見人の役割は、権力と責任を併せ持つ男性の性質上、ごく自然なものです。更に、男性は他の男性の価値を同性として、特定の範囲でより理解出来るということも否定出来ないでしょうし、自分の娘または彼の庇護下にある女性にとって何が適しているのかを見極めることも出来ます。もちろん、彼は新郎を決定する過程において、妻や女性側との協議を欠かしてはなりません。もし適切な男性が結婚を申し出て来て、後見人が正当な理由もなしにそれを拒否したのであれば、イスラーム法廷において後見人の資格に関する正当性に関して訴えることが出来ます。後見人の資格は女性に最も近親である成人男性親族に与えられるか、もしくは女性に成人した男性親族がいない場合、ムスリム裁判官が後見人を引き受けることになります。

最終的な検証として預言者()は、結婚に相応しい人物を測る真の基準についてこう述べられています:
 
“もしもある人物があなたに結婚を申し込み、彼の宗教観と人格に満足したのであれば、彼と結婚しなさい。そうしなければ地上に大いなる災難が降りかかり、頽廃が蔓延るでしょう。” [ティルミズィー 1085番]

自身のイスラーム的責任に健全な理解を持ち、良き道徳的価値観を持つ人物は、彼の妻に名誉を与え、敬意を示し、たとえ彼女を強く愛さなかったとしても公正な待遇をすることでしょう。


3.家庭における経済的・道徳的責任

至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられています:

男性が女性の庇護者であるのは、アッラーが一方を他よりも強くなされ、彼らが自分の財産から、(扶養の)経費を捻出するためである。 [4:34]

この節では、家庭における夫の経済的・道徳的責任が強調されています。男性の、より力強い性としての身体面、社交性などの生まれながらの特質は、月経、妊娠、授乳、早期の育児などの負担を負わずに済むことも相まって、上記のような責任を負うことを可能にさせます。男性は彼の家庭の“後見人”であり、それは既述のように羊の群れを従えた羊飼いであると喩えることが出来ます。彼はいずれ自身の責任に関して全てを清算され、その行いを質問されることになるのです。女性はその性質からも脆い性であり、生物学的、感情的、そして社会的に、子育てと家政の役割により適しています。彼女らはより直感的、そして感情的な知性を享受されています。これは栄誉高く、完全に保護されている自然な女性的役割なのです。月経、妊娠、出産、授乳、そして絶え間ない育児などの負担と苦痛により、女性は様々な期間の休息が必要となるため、彼女らは経済面や職務などといった、家庭における生計の維持に必要とされるような更なる責任を負う義務を課されません。これら全ての関心事は女性の精神面に影響を与え、彼女の生活における心構えや行動などに反映されます。これは他の多くの文明にも規定されている自然な状態ですが、前述されたように多くの不正も行なわれてきました。

著名なエジプト人作家、アッバース・マフムード・アル=アッカドはこのように記しています:

“女性は男性のものと似通わない特別な精神構造を持っています。幼児や子供との関わり合いには、多くの類似性が必要とされ、子供の精神構造と母親のものもその内の一つなのです。彼女は子供らの必要とするもの、子供らの考えや感じ方を理解しなくてはなりません。それゆえこの要求を満たすため、女性はより感情的に敏感なのです。これは男性と比較した際、女性が毅然かつ断固とした意志を持つことを困難にします。”
 
またノーベル賞受賞者のアレックス・リベレイユ博士は、男女の自然な本質的相違に関してこのように述べています:

“男女を区別する事柄とは性器、子宮、妊娠だけに限られたものではありません。また、男女の教育方法の相違にも限定されるものでもありません。実際に、これらの相違は基本的性質のものです。男女の肉体組織は異なるものです。双方の身体的な科学現象も異なります。特定の性別には、その性別のみに適した一定の分泌腺があり、一定の分泌物を排泄します。女性の体内の卵巣から分泌される科学物質という観点からも、女性と男性は全く異なっていると言うことが出来ます。”

男女の完全な同権を求める人々は、基本的事実と根本的相違を軽視します。男女同権の提唱者たちは、男女共に同じ種類の教育、職業、任務、責任、立場が与えられることを要求します。こういった不条理は、女性の性質および身体的、精神的、感情的、社会的な特性に配慮を示していません。男性に特有の性質やホルモンがあるように、女性の身体の全ての細胞にも、女性ホルモンによって管理された女性的性質が存在しているのです。  均等になろうと望む人々は、こういった事実がまるで目に入らないかのようです。彼らは男女それぞれの器官がユニークであり、お互いに異なることが分かっていないのです。男女の中枢神経系は、人間活動におけるそれぞれの役割に対して緻密な働きをします。私たちは自然法とその活動をありのままに認め、不自然な妨害や干渉によってそれらを変更しようと試みるべきではないのです。自らの利益のためにも、男女の双方は天賦の才能を元に確立されるべきであり、決して異性を模倣することにより、自らと他者を虐待することにもつながる逸脱行為をすべきではありません。また別の要素として、男性の骨格と筋肉は女性のものよりも密度が高く、強靭であるということがあります。これはごく自然なことであり、周知の事実でもあります。男性はより肉体労働に適しており、女性には身体的に同等の耐久力はありません。これは男性が家庭において彼らの片割れ(妻)との協議の上に経済的、そして職務的に統率する立場であることと、その生得性を示すもう一つの証拠でもあります。そして前述されているように、それは同時にイスラームの一般規定でもあるのです。

4.妻としての躾け

至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて仰せられています:

汝らは、不忠実、不行跡の心配のある女たちには(まず)諭し、それでもだめなら寝床の共有を止め、それでも効きめがなければ(軽く)打て。それで言うことを聞くようならば彼女に対して(それ以上の)ことをしてはならない。アッラーこそは至高者、偉大な御方であられる。 [4:34]
 
イスラームは女性への暴力を禁じ、それに対する厳しい警告を発します。預言者()は決して彼の妻、または召使いに対して暴力を振るわなかったということが、その妻の一人アーイシャからの真性の伝承において報告されています。  一般的に女性は男性よりも体格面、耐久性などにおいて劣っています。また女性は往々にして、自身を暴力から守ることも出来ません。一般的に女性への暴力は禁じられていますが、イスラームでは全ての方法が失敗に終ったときに限り、最終的な解決案として制限された形によって合法的に女性を打つことが許可されています。これは、言うことを聞かない子供の尻を叩いて両親への従順さを学ばせることと類似するものです。

上記で引用された節において、アッラーは夫の権利に対して不道徳な振る舞いをする妻について言及されています。このような非常にデリケートな問題に対する治療は件の節で述べられているように、段階的な措置をもって行なわれるべきです。病気への治療としての薬は、苦く不快な場合もあります。しかし病人は、自分の病気を治すためなら喜んでその苦さを辛抱するでしょう。非道徳的な態度を示す妻に対する治癒は、以下の三つの段階に沿って行われます:
 
第一段階:助言、協議、そしてアッラーの懲罰への訓戒。夫は妻に対し、彼自身のイスラーム的権利を遵守することの重要性に関し、注意を与えなければなりません。この段階は、とても優しく容易なものです。しかしこの対処が機能せず、効果もないと判断されたならば、夫は次の手段に訴えなければなりません。

第二段階:妻の寝床に入らないこと、または同じベッドで寝ている場合、夫は妻に背を向けて寝、彼女に触れたり、会話したり、性交したりしないこと。この段階は厳しさと優しさが入り交じっているような状態ですが、お互いにとって決して容易なことではありません。しかし、こういった対処にも効果がなければ、次に説明されるような最終的手段に訴える必要が出て来ます。

最終段階: 苦痛、骨折、または身体にあざの残存が伴わない程度に打つこと、そして顔などの敏感な部位を極力避けて打つこと。彼女を打つことの目的とは、躾け的観点のみからであって、痛めつける目的や報復のためなどでは決してはあってなりません。イスラームは懲罰としての容赦ない暴行を禁じています。預言者()はこのように言われています:

“あなた方は誰一人として、奴隷に対してのような方法で自分たちの妻を打ちながら、夜には性交をするようであってはならない。” [ブハーリー 4908番]

このような対処法は、以下の二種類の女性に対して非常に効果的であることが心理学者によって証明されています:

第一の種類:多くを要求し、強気で遠慮しない女性。これらのタイプの女性はコントロールが好きで、夫の上に立ち、命令することによって諸事を動かそうとします。

第二の種類:従順、または控え目な女性。これらの女性は時には打たれることを愛情と心遣いの印として、ある種の悦びを見いだす場合さえあります。

ヨーロッパの心理学者であるG.A.ホールドフィールド は、彼の著書「心理学と倫理(Psychology and Morals)」において、以下のように記しています:

“人間の従順する本能とは、時には従順な人物に対する圧倒的、支配的、または冷酷な人物へ悦をおぼえる程、増幅される場合があります。そういった従順な人物というのは、苦痛を悦ぶ事実によって従順のもたらす結果を耐え忍ぶことが出来るのです。これはたとえ女性たち自身が気付いていなくとも、彼女たちに共通する本能です。こうした理由により、女性は男性よりも多くの苦痛を耐え抜くことが出来るのです。このようなタイプの女性は、夫に打たれることにより、一層彼に惹かれ、彼を称賛するようになるのです。一方で、温厚で優しく、非常に従順な夫が挑発にも関わらず決して怒ることがないように、一部の女性は決して悲しみに打ちひしがれることがないのです。”

イスラームの教えによれば、打つことは躾けの方法における最終的な段階であるとされます。最初の二つの段階に効果がないと認められない限り、イスラームにおいて打つことは許可はおろか容認さえされません。更に、もし妻が離婚を望んでいるのであれば、打つことによって矯正を試みることも認められません。

聖クルアーンの中で言及されている、躾けの三つの段階は、躾けによる家庭の保護を意図しているに過ぎません。家庭崩壊の一つの形態とは、妻が離婚の犠牲者になることです。イスラームは、不必要な苦しみ、問題、争いを取り除くことをその目的の一つとしています。

妻に対する暴力に関しては、非ムスリム社会において遥かに残酷で、頻繁に発生するものです。これらの社会では、たびたび妻に対しての苦痛と危害が意図された暴行が加えられています。このようなことは前述のように、イスラームにおいて厳しく禁じられています。最近の統計によれば、英国では夫により残酷な仕打ちを受けた妻の数が1990年の6,400人から、1992年には30,000人に増えていることが記録されています。この数字は1995年に65,400人にまで飛躍しているのです。統計学者たちは、この数が20世紀末には倍増し、124,400人にまで上る見通しを示しています。報告によると、これらの統計は警察省により収集された情報であるとされています。しかし統計に含まれていない、または報告されていない家庭内暴行、または一般的な女性への犯罪の数は一体どのようなものであるかは想像に難しくありません。

アニー・ベサント女史は、女性の権利に関するイスラーム法と西洋的法令制度を比較して、このように述べています:
 
“女性に関わることに限って言えば、イスラーム法は世界中でも最良の法の一つです。それは最も公平かつ公正な法律なのです。それは不動産、相続、そして離婚法において西洋の法を凌ぎ、女性の権利における後見人の役割も果たしています。‘一人の男性には一人の妻で十分である’、または‘一夫多妻’などといったフレーズは人々を惑わせ、西洋人女性が人生で被る真の苦悩から彼女らを遠ざけているのです。多くの夫たちは、欲するものを彼女たちから手にし次第、妻から去ってしまいます。事実、そういった男性たちは妻に対する思いやり、配慮や慈悲を全く見せないのです。”

5.名誉殺人について

一部の伝統主義・部族主義的社会では、慣習が男性に対して絶対的権力を与えており、女性が乱交の疑いをかけられたことによって名誉が毀損されたと見なされたのであれば、適切な確証もされないまま、男性は自らの名誉を守るために彼女を殺害します。これは一部の非良心的な人々によって未だに続けられ、他者もそれを黙認するため、メディアによってこのような状況が誇大宣伝されるのです。

これに対しての答えはシンプルです。そもそもイスラーム法における証言の規定は非常に厳格です。人々は自分たちの手で法を管理することによって、確証されてもいない乱交事件などに対するこのような罰を与えるようであってはなりません。それゆえに、こういったものはイスラーム法に対して真っ向から違反するものです。もしも法廷が全ての状況を考慮に入れ、状況証拠などの確証を入手した後にそれを計画的殺人であると見なせば、それは公正厳粛であるイスラーム法によって計画的殺人の懲罰の判決が下されることになります。現実には不幸にもこれらの国々に世俗法が適用されていること、そして政治家たちが政治的な利益によって諸部族長やその他の指導者たちと取り引きをすることによって、このような不正な慣習が続くことが許されているのです。もしもイスラーム法が確立され、きちんと執行されるのであれば、姦淫、不貞、殺人などに対する厳罰が、それを必要とする者にとっての復讐の役割を果たし、正義が遂行されたという安心感がムスリムを満足させることでしょう。


6.離婚の決定権は夫にあり

イスラーム以前の時代では、離婚は男性の独断によって女性に対しての武器として利用されていました。彼が妻を害そうと望めば離婚を求め、よりを戻そうと望めば自由にそう出来たのです。そこには何の規制もなく、女性には何をしようにも権利がありませんでした。それゆえアッラー()は、次の節を啓示することによりこういった不正を無効とされました:

 離婚は二度までである:その後は公平な待遇で同居(復縁)するか、潔く別れるのだ。 [2:229]
 
たとえ何らかの相違が発生しても、預言者()のスンナ(道)に従うムスリム男性は、自分の妻が月経の状態でない時で、かつまだその月に性交をしていない状態のみにしか離婚することが出来ません。これは結婚関係が維持される英知です。これにより、離婚の宣言をするまでに一定の待ち時間が必要となるため、双方の怒りを静まらせ、誤解を解き、他の家族または仲裁人に調停をさせる時間を与えます。もし彼らがそれでも離婚の道を進もうとするのであれば、彼女は三つの月経期間を待たねばなりません。彼はこの期間によりを戻し、名誉ある婚姻関係に戻ることを選択することも出来ます。これは最初の離婚と復縁に数えられます。もし一定の期間が経過し、彼が彼女と別れたのであれば、彼女にとってはそれが最初の完全な離婚となり、別の男性と結婚出来るようになります。そしてもし双方がそう望むのであれば、彼女の最初の夫は新しい契約をもって彼女と再婚することが出来ます。そして彼がそうした末、再び彼女を離婚したのであれば、彼女の三回の月経期間内であれば復縁することが出来ます。しかしそうせずに完全離婚した場合、それは二度目の離婚と復縁と見なされます。二度目の離婚と復縁の後、彼が彼女と三度目の離婚をすれば、それは最後の離別と呼ばれ、女性が三回の月経期間を待ち、前夫との合法的な再婚を意図することなく別の男性と結婚するまで、双方が再婚することは出来ません。もし何らかの理由によって、彼女がその男性に離婚されたのであれば、この規則を掻い潜るようないかがわしい事前の打ち合わせなどがなかったことを条件として、彼女は最初の夫と再婚することが可能になります。これら全ての措置は、家族の保護と尊厳ある婚姻関係、そして男女の権利を助ける目的を持っています。待ち期間は、彼女が妊娠してはいないかどうかをはっきりさせます。もし妊娠していた場合、別の夫と結婚する前に、女性は出産を待たねばなりません。

イスラームにおいて離婚が最終的に認められているのは、和解の不可能な状況で生じるあらゆる害から逃れるためです。特定の事例において、離婚は必要となるのです。離婚には、それに関わる当事者である夫、妻、そして子供たちの利益と権利を守るための厳しい規定があります。それらの一部は既述されました。

一方で、離婚が問題の解決をもたらさず、必要とされる利益に反して夫婦の一方に過度な困難を引き起こす恐れがあれば、離婚が禁じられる場合もあります。
 
イスラーム法は、夫婦間に重大な論争や相違が発生した際には、離婚を避けるための解決に努めなければならないことを義務付けています。至高なるアッラーは聖クルアーンにおいて仰せられています:

もしも女に、その夫から虐待または遺棄される恐れがあるのなら、両人の間に和解を取り付けることは罪ではない。そして和解はより良いことである。 [4:128]
 
また至高なるアッラーは、このようにも仰せられています:

もし汝らが両人の破局を恐れるならば、男性側(の一族)から一人の調停者を、また女性側(の一族)からも一人の調停者を指名せよ。双方が和解が望むならば、アッラーは彼らの間を調和されよう。実にアッラーは全知にしてすべてを見透す御方である。 [4:35]
 
良い結婚関係を維持する最も自然かつ論理的な方法の一つとして、女性ではなく男性が離婚の過程におけるより強い統制力を持つということがあります。なぜなら男性こそが妻と家庭を経済的に支える義務を有し、彼らの福利に適うことを選ぶ最終的な責任があるからです。従って、彼は離婚のもたらす重大な結果である経済的・感情的な大きな損失を考慮した上で、理性的に状況を見極めなければなりません。夫は離婚によって、婚姻に費やした結婚の際の贈与財を失うばかりか、妻への扶養と子供の養育費、更にその後の新しい結婚生活の支払いも抱えることになります。それゆえこれら全てを考察すれば、彼は怒りや感情に任せたとっぴな選択をすることはないでしょう。

少なくとも理論上では、男性の方が妻との口論などといった比較的小さな問題における個人的な反発や行き交う感情に対するコントロールなどの面で、より大きな包容力を持っているとされます。離婚とは、一時の困難や意見の相違になどに対する性急な判断であっては決してなりません。それは両人が、お互いに対する品行方正な態度としてアッラーと預言者が定められた掟に従うことが出来ないと恐れる程、問題が危険な領域に入っているか、または人生が堪え難いものになってからのみ行なわれるべき最終的手段であり、解決策であるのです。
 
もし夫が妻を身体的、または精神的に虐待するのであれば、イスラーム法は妻による婚姻関係の無効化の要請を許可します。また彼女は、以下のような一般的理由によっても婚姻関係の無効化を要求する権利を持っています。

もし夫が性的不能で、夫婦間の義務行為を果たせない場合。

または何らかの理由により夫が性行為を拒否し、彼女の合法的なニーズを満たさない場合。

または結婚後、夫が末期症状の病気にかかり体が不自由になった場合。

またはある種の性病もしくは生殖器官の病気を患うことによって妻を害する恐れが発生するか、彼女に夫と同居する願望がなくなった場合。このように、男性が離婚を求めることが出来るのと全く同じように、女性にも合法的な理由に基づき、多くの状況でにおいて夫との離婚を求める権利が与えられていることが分かります。もし妻が忍耐の限界に達し、夫のことをひどく嫌悪したり、人生が堪え難くなったと感じるのであれば、彼女には離婚の権利があるのです。こういった形で行なわれる離婚は無効宣告、あるいは“フルア”と呼ばれ、彼女は賠償金として結婚の際の贈与財を返却するか、その他の資産を支払うかします。もしも夫側が妻の要請を拒否したのであれば、適正な資格を有するムスリム裁判官が各自の事例を調査し、その要請が適切、合法であるとされれば、女性を支持する判決が下されることになります。

7.女性の相続権

至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられました:

アッラーは汝らの子女(の遺産)についてこう命じられる。男児には女児の二人分と同等の額である。 [4:11]
 
イスラームを誤解する人々は、イスラームが相続権に関して女性に不正を働いていると主張します。彼らはつまり、同じ両親を持つ兄妹であるにも関わらず、男性の方に女性の二倍が与えられることは不公平であると言うのです。至高なるアッラーはクルアーンとスンナにおいて、女性の相続方法に関する完全なる詳細を提供されており、偏見なき知識の探求者がその詳細を検証するのであれば、彼は前述のような見解の欠陥を見いだすでしょう。

まずアッラーは、全ての血縁者に対する相続の分配を、 各自の故人との関係に基づいて定められています。最も叡智ある御方であるアッラーはこう仰せられました:
男は両親および近親の遺産の一部を得、女もまた両親および近親の遺産の一部を得る。その際、遺産の大小を問わず、定められたように分配せよ。 [4:7]

アッラーは女性への相続は、次の三種類の分配であると述べられています:

1. 女性は男性と同等の分配を受ける。
2. 女性は男性と同等の分配を受けるか、それより幾分少量を受ける。
3. 女性は男性の半分の分配を受ける。

これは女性の分配における最低量は男性の半分であることを意味します。しかし女性には子供として、姉妹として、妻として、更には母としても継続的な経済的義務が課せられておらず、むしろそれら全てが常に男性側に課せられている事実を考慮すれば、非常に寛大な措置であることは明らかです。
 
この件の詳細に関して興味を持たれた方々は、イスラーム知識の特別な一部門である“相続及び財産分割学”の本における議論を調査すべきでしょう。これらの本はクルアーンとスンナに基づき、相続の異なる分配法及び全親族への適切な分配に関し指南を与えています。“イスラームの相続による女性への不公平な待遇”に関して判断を下す前に、この件に関してきちんと綿密な調査がされるべきです。

イスラーム法は他の社会とは対照的に、全ての人間がその人生において調和を享受することが出来るよう、大小を問わず諸事全般における規則と規制を定めています。人が日常生活をやりくりし、出費などといった具体的な計画を立てることと同様に、死後の遺産も同じ処置を受けるのです。他の社会システムと違い、人は一般的に自分の人生において、富をどのように費やすのかを自由に決めることが出来ますが遺言に関してはイスラーム法によりある種の規制がかけられています。この遺言によって彼が特定の人物に対して自由に財産を分け与えることの出来る量は3分の1と決められており、残りは全てクルアーンに由来する相続法に基づいて分配されるのです。

次のような有名な伝承があります。教友の一人サアド・ブン・アビー・ワッカースが病にかかり、遺産として彼の財産の大半または半分を喜捨するよう要請しました。彼は裕福でしたが、娘が一人しかいなかったからです。アッラーの使徒()はそれを禁じ、こう言って遺言する学を全財産の3分の1だけしか認めませんでした:
 
“3分の1だ。3分の1でも多い程だ。あなたが相続人を裕福にして去った方が、貧乏で人々に懇願するような状態にして去るよりも良いのである。あなたがアッラーの御顔を求めて費やすものは、たとえそれがあなたが妻の口に運んでやる一片の食物であれ、その支出に対する報奨を受けるのである。” [ブハーリー 2591番、ムスリム 1628番]

重要なこととしては、多くの文明において人間の手によって作られた相続法は、影響力のある人物による気まぐれなものであることが指摘されるべきでしょう。それを与えるのであれ、奪うのであれ、不正は行なわれて来ました。更にそれらの社会ではしばしば、男性に対しての経済的責任の義務とそれに対する女性への免除が定められていませんでした。一方イスラームでは、男性によって女性の扶養家族が結婚するまで全ての経済的な面倒を見ることが要求されています。女性が結婚した時点で、彼女への経済的責任はその夫へと移ります。夫の死後は、息子または他の男性親族による未亡人の世話が義務となります。

こういった理由ゆえ、同等の経済的責任と義務を負わない男女双方のムスリムが、相続において“公正”や“正義”、または“平等”を求めることは、そもそも不正かつ不公平な要求なのです。両親及び他者からの相続に際し、女性よりも男性の相続人を優先することは、彼の経済的責任を考慮すれば至極まっとうで公平なことです。これらを念頭に入れた上で、イスラーム法が依然、女性に対して男性の半分、時には同等量を受け取ることを許可している事実こそは、むしろ公正で寛大であることの証明であると言えるのではないでしょうか。
ギュスターヴ・ル・ボンは、その著「アラブ文明(The Arab Civilization)」でこう述べています:
 
“クルアーンにより定められた相続の原則には大いなる正義と公正さがある。クルアーンを読む人物は、私が引用した節々から、相続におけるそれらの正義と公正の概念を認めることが出来るだろう。私は同時に、それらの節々から由来する一般法と規則の能率の高さの素晴しさについても指摘しなければならない。私は英国、フランス、そしてイスラーム法における相続を比較調査したが、男性によって女性を抑圧していると西洋で見なされているイスラームこそが、我々の法に欠如している妻への相続権を与えていることを発見したのである。”

またイスラームでは、家庭内の男性が“血の代償金”に関わる全ての支払い責任を負うことになっていますが、これに関しては次章で議論していきます。

8.血の代償金

イスラーム法の下では男女が平等であるため、殺人といった場合においては双方に死刑の判決が定められています。しかし事故死の場合、イスラームの規定では女性の事故犠牲者へ支払われる「血の代償金」は男性のそれの半分であるとされています。女性の犠牲者の遺族へ支払われる血の代償金が男性の場合の半分である理由は、男性の死による遺族への損害の方が経済的にはより大きい影響があるからです。 前章でも説明されたように、男性の死によって家族は一家の稼ぎ手を失ってしまうのです。失われてしまった生命に対する悲しみを否定することは誰にも出来ませんが、男性の供給者の死去は、経済的には女性の場合よりも一家への負担が甚大なものとなります。例えば母親を事故死によって失ってしまった家族は、男性には真似することの出来ない彼女の愛情、思いやりや優しさを惜しむでしょうが、父親の死の場合と比べ、経済面にはそれほどの影響が及びません。血の代償金とは当該人物の値段や価値ではなく、その人物を失ったことによる家族の苦悩や経済的負担を和らげるための、概算による賠償に過ぎないことを忘れてはなりません。

9.女性による証言

至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいて次のように仰せられました:
 
そして汝らの仲間から二名の証人をたてよ。二名の(証言出来る)男がいない場合は、証人として汝らが認めた一名の男と二名の女をたてるのだ。もし女の一人が間違っても、他の女が彼女を正すことが出来よう。  [2:282]

アッラーは二人の男性、または一人の男性と二人の女性によるものでない限り、証言は有効ではないとして被告人の権利を明確に保障されました。

アッラーはその英知により、女性に対しては一般的に非常に敏感な感情と、家族の一員への思いやり、そして豊かな愛情を持つ傾向を授けられました。これは女性が育児や授乳などの任務を自然に行うことを可能にします。女性のこのような性質に基づき、何らかの事件への関与とその結果による苛酷な現実に向き合わされた場合、感情的になってしまい正確な証言が出来ないような場合もあります。女性の愛情豊かな心、そして優しさが、実際に目撃したものに圧倒されてしまい、歪曲した内容の証言をしてしまうかも知れないのです。同時に月経、妊娠、出産や産後の状態などの彼女の身体の生理的な変化は記憶を曖昧にし、問題における詳細の忘却をもたらす場合もあります。それゆえアッラーによって、いかなる出来事であっても女性の証言による失敗を未然に防ぐことの出来る予防的措置が確立されたのです。イスラームの法律と裁判のシステムにおける重要な原則として、事件に少しでも疑問が発生した場合は、その時点でそこからの進展が非合法とされていることが指摘されなければなりません。従って二人の強力な女性証人により、こういった疑問を排除することが意図されています。

他人の権利に関わる証言の他にも、イスラームは女性に対し、自立と経済的判断の行使といった面では完全な経済活動の自由を与えており、男性と全く同等の立場を認めています。しかしながら、女性の自然な役割である育児と家族への世話には、男性に比べ家の中に長時間留まることが要求されるため、それにより彼女の知識や諸事の経験は、どうしても彼女の人生の大半に関わるものに限られてしまうのです。
 
また「特定の場合において、二人の女性による証言が一人の男性のものと同等であることは、女性の知性への侮辱であり、彼女の名誉を汚すものである」といったような言いがかりは、当然間違っています。もしそうだとすれば、同様に一人の女性による証言は、女性のその他の諸事において認められなくなってしまいます。イスラーム法では、論争に際し検査が必要とされる場合に、女性の処女性の確証、子供の出産、性的欠陥の説明など、あらゆる諸事において女性の私的な証言を認めています。同時にイスラーム法は、二人の男性による証言を必須とするため、貸し付けや負債といった一般的取り引きのような最も些細な経済的問題でさえ、男性による単独の証言は却下されることを忘れてはなりません。極めて重大な事件で二人の女性の証言が求められるのは、その証言への反駁の余地のない、信頼性に基づいた社会における個人の権利を証明し、保持するためなのです。

特筆に値することとして、イスラーム法における証言そのものは特権ではなく、多くの人はその負担を恐れて避けて通ろうとするものであるということがあります。そしてアッラー()は人々に、そうした理由によって証言の義務から逃れたり保留したりしないよう命じられています。アッラーは聖クルアーンにおいて仰せられています:

そして証人は(証言のために)呼ばれた時、拒むことは出来ない。 [2:282]

ここで述べられていることは男女双方に適用される一般的なものです。世界中の多くの人々が証人としての証言の提供を回避しようとするのは、法廷に立って宣誓を行い、真実を的確に供述し、更に詰問を受けなければならないなどの重責が伴うからでしょう。証人となり証言することが経済的・身体的な負担、またはストレスとなることもあり得ます。それゆえイスラームは、同一のものを目撃したもう一人の女性がいない限りは女性一人に証言をさせないことにより、多くの証言形式などが関わってくるこれらの重荷を女性から取り除くことを意図しているのです。

原告による経済的権利を証明するには二人の男性証人、または一人の男性に加えて二人の女性証人がいなければならないため、男性による単独の証言は経済問題において認められません。このような要求が男性の知性に対する侮辱であるとか、権利に反するなどといった主張は全く聞かれないものです。これは、そのような要求が虚偽の告発や誤りに対する保護であることを証明しています。

男女双方の証言が完全に同等である事例も一部存在します。例えば、夫が妻を不貞の疑惑で告発した際に、その主張を証明することの出来る証拠がない場合、妻の証言は夫の証言と完全に同等であると見なされます。 アッラー()は聖クルアーンにおいて仰せられています:

自分の妻を告発する者で、自分以外に証人のない場合は、単独の証言で、自分の言葉が真実であることをアッラーにかけて四度誓う。そして五度目に、「もし自分の言葉が虚偽なら、アッラーの御怒りが自分の上に(下るように)。」(と誓う)。彼女がその(投石の)懲罰を免じられるためには、彼女はアッラーにかけて彼(夫)の言葉が虚偽であることを四度誓い、そして五度目に、「もし(夫の言葉が)真実ならば、アッラーの御怒りが自分の上に(下るように)。」(と誓うのである)。  [24:6-9]

10.近親の男性を同伴しない旅

預言者()はこのように言われています:
 
“女性はマハラム を伴わずして、一人で旅をしてはならない。男性は誰一人として、女性のマハラムがそこにいない限り、彼女の家に入ってはならない。”
そこである男が立ち上がり、預言者()に尋ねました:“アッラーの使徒よ!私の妻はハッジ(巡礼)へと赴きましたが、私は遠征に参加することを望みます。私はどうすべきでしょうか?”
預言者()は言いました:“彼女の同伴をしてあげなさい。” [ブハーリー 1763番]
 
この伝承によって導かれる人々への保護、そして女性への名誉に関してのイスラームの規定とは、年齢や既婚者・未婚者であるかを問わず、女性がマハラム男性を伴わずに旅に出ることへの禁止です。この男性は夫以外では、父親、兄弟、叔父、思春期に達した息子や甥など、彼女にとってその近親関係から結婚が永久的に禁じられている男性が含まれます。この規定は、女性の自由と移動の権利を著しく制限するものである、と主張する人々が一部にはいるかもしれません。しかしこの規定の目的とは女性の旅を阻むものではなく、女性から害悪と恥辱を遠ざけることにより、その権利と尊厳を維持することなのです。旅には多くの困難や危険が付きものであり、女性は男性よりも身体的に強くないこと、他にも妊娠、月経、授乳や子供の世話、あるいは病気などの様々な状況が、彼女に特別な手助けと付き添いを必要とさせます。また、女性は一般的に感情的で、外部からの影響を受けやすい性質を備えていることから、獲物を狙う不徳で非道な男性による標的にされやすいのです。

預言者()はこれに関して雄弁に表現されています。彼は旅人の慣行として美しい男性的な声で旅の歌を歌い、荷物を運搬するラクダの安定した歩調を促していた男にこう言いました:
 
“アンジャシャ(男の名)よ、穏やかに。あなたは脆いガラス細工を駆り立てているのですよ。” [ブハーリー #5857]

“脆いガラス細工”とは、その隊商に加わっていた脆く柔和な女性たちの、壊れやすく乱されやすい性質について述べたものです。
唆すことの出来そうな女性や一人旅をしている女性を探し、彼女らを誘惑しようと企む、暴力的で悪意のある邪な男性がいることは周知の事実です。そしてそういった邪な男たちは強盗や詐欺、または誘拐や強姦などにも関わるものです。それゆえに、女性は旅路において彼女の世話や保護、そして安全の確保をし、見知らぬ他人および略奪者による危害の恐れから身を守ってくれるような特別なニーズを満たしてくれる人物が必要となるのです。イスラームにおける女性の“マハラム”とは、アッラー () によって報奨が約束されている自然な義務であるため、彼女を最大限の誠実さで守り、奉仕をしてくれる人物です。他の多くの文明においても、旅路にある女性に付き添い人を与える伝統を見出すことは出来ますが、その役割を“マハラム”以外の男性にも許可している場合があります。そしてそのような文化はマハラムと非マハラムを区別しないため、たびたび悲惨な結果を生み出しています。従って、こうしたことを理論的に検証すれば、女性が一人で旅に出ることを禁じ、“マハラム”である男性の同伴を命じることは、女性の能力を軽視・侮辱する制限などではないことが分かります。これは現実には、男性が自らの個人的な諸事やニーズよりも近親女性の保護を意図して彼女に同伴することを優先するという、いわば一つの名誉なのです。

 
11.女性の働く権利

上記の通り、アッラーは全人類を一組の男女から創造され、家族の構築と家庭関係の確立に相互協力出来るよう、お互いへの自然な愛情と思いやりを据え付けられました。アッラーは、それぞれの種族の男性に優れた力と耐久性を授けられ、特定の領域において支配力を行使して種族への供給と保護の提供を可能にされました。その一方私たちは、各種族の女性が自然界において繁殖による種族の存続と維持の役割を担わされているのを目にすることが出来ます。子供を妊娠、出産、授乳することの出来る必要器官を備えられているのは女性のみです。人間の女性は、自分の子供たちに対してそれらの役割を担うことの出来る優れた愛情、優しさ、同情心、思いやりを授けられています。このような天性の責任感の存在、そして男性と女性のユニークな性質により、一般的に男性が家の外で働いて家族の糧を得ること、そして女性が家の中で働いて子供たちの世話をすることは至極自然なことなのです。

このような基本的事実を考慮に入れ、かつ女性の名誉と尊厳が守られる範囲内であれば、イスラーム法は彼女の働く権利を剥奪したりはしません。イスラームは女性が個人的な商取引きや契約、財務処理を行うことを許します。それら全ての契約や業務は、イスラーム法の観点からも適切かつ合法と見なされています。なお特定の諸条件に違反した場合は、このような女性に実践を許されている権利であっても無効とされ、その権利の行使を抑制されることもあります。

家の外で仕事に携わる女性は、それによって家事や彼女の夫、子供たちへの任務に悪影響を及ぼすようであってはなりません。彼女の仕事は他の女性たちと共に行なわれるものでなくてはならず、屈辱や誘惑に晒される原因となるような、男性との自由な(物理的)交流があってはなりません。アッラーの使徒 () はこのように述べられています:

  “男女が二人きりになる状態では、そこには三人目として悪魔がいるのだ。” [ティルミズィー 1171番]

また別の伝承ではこうあります:
ある男が言いました:“アッラーの使徒よ、私の妻は巡礼へと赴きましたが、私は遠征に参加することが求められています。”
彼は言いました:“あなたの妻と共に巡礼を行いなさい。” [ブハーリー 4935番、ムスリム 1341番]

また著名な英国人作家であるレディー・クックは、その著「新しいこだま(New Echo)」においてこう記しています:

“男性は(男女)混合の環境を好むものです。それゆえ、女性は彼女ら自身の人間性と確執を起こす環境に誘き出されてしまいます。(男女)共学環境が普及すればする程、その社会では私生児が多くなるのです。これは大変なる惨事です・・・”

やむを得ず女性が家の外で働く場合は、まず第一にそれが女性の性質や体格に見合った合法的な職業や仕事でなければなりません。例えばそれが重労働であったり、男性の方により適したようなものであったりしてはなりません。
 
ここで、疑問が発生します:そもそもなぜ女性が働かねばならないのでしょうか?もしも女性が働くことによって自分自身の生活費を得たいのであれば、前述したように、彼女の男性家族によって全ての必要経費の世話が義務付けられているため、イスラームは彼女をそういった義務から免除しています。それゆえ彼女は生まれてから死ぬまで、人生における様々な段階を通し、彼女の任務として家事・育児への最大限の敬意と集中力を払うことが出来るよう、働くことは求められていないのです。この名誉ある任務には多大なる犠牲と献身が必要とされ、最高の地位が与えられています。

著名な英国人学者であり、英国ルネサンスの立役者の一人でもあるサミュエル・スマイルズは、このように語っています:

“それが国家的な富をもたらすかどうかに関わらず、女性が工場や産業地域で働くことを要求するシステムは、家庭生活を破壊してしまったのである。事実、それは家庭の根本的な構造と基盤を攻撃し、重要な支柱を破壊したのである。それは同様に社会的な繋がりをも断絶させたのだ。妻を夫から無理やり引き離し、子供たちへの適切な母性的養育の権利を剥奪することは、結果的に女性たちのモラルの低下をもたらした。女性にとっての本当の仕事とは、健全で道徳的な家族を育むことである。彼女には主に家事の責任、家庭の財政や、その他家庭内のニーズを満たすことが求められているのである。既に指摘した通り、工場での仕事は女性の責任を奪い去り、家庭における現実と認識を変えてしまった。同様に、子供たちもたびたび放任されるようになり、道徳的規範を持たなくなった。夫婦間の愛情と思いやりも失われてしまったかのようである。男性が工場で同じ作業をする女性を目にするようになって以来、彼らにとって女性は貴重で、愛され、探し求められる対象ではなくなった。女性は多くの影響と重圧によって、徳とモラルを基盤とした精神性と思考様式を変えられてしまったのだ。”

実際に、南アフリカの大統領夫人は、次のような言葉で女性に対して家庭への回帰を呼びかけています:
 
“女性にとっての最も自然な場所は、彼女の家庭なのです。女性にとっての主な仕事と責任は、夫への思いやりと、彼女の子供たちのニーズに答えることです。”
 
また、彼女は南アフリカ共和国の首都で開催された女性会議における演説で、次のように発言しています:

“女性にとっての主な仕事と責任は、夫への思いやりと、彼女の子供たちのニーズに答えることです・・・これは社会における私たちの義務です。それが男性の成功と健全な世代を生み出すことから、私たちはその義務に特別な誇りを持つべきなのです。”

12.ヒジャーブ(頭部の覆い)について

公共の場におけるムスリムのスカーフ(またはヴェール)を非合法化しようと試みるフランスやトルコなどの世俗国家のメディアにより、この問題は特にセンセーショナルな扱いを受けて来ました。ここではこの問題についての詳細には触れませんが、前述されてきた知見と後述される付加的な情報によって、イスラームの啓典で義務付けられている慎ましい衣服、そして女性美や装飾などに対する覆いが、女性にとっての名誉と保護のためであるのかどうかを、読者の皆様方自身に判断して頂こうと思います。
アッラー()は仰せられています:

預言者よ、汝の妻、娘たち、また信仰者の女たちにも、彼女らに長衣を纒うよう告げるのだ。それで彼女らは認められ易く、悩まされずに済むであろう。アッラーは寛容にして慈悲遍く御方である。 [33:59]

この節では、女性が自身を覆う義務の理由として、彼女が敬意に値するムスリム女性であることを確立させ、そのように認識されることによって男性の煩わしい凝視を回避するということがあると明確に述べられています。周知の事実として、挑発的な衣服は一部の男性が望ましくない行動を起こすことを促し、女性が性的嫌がらせに晒されることへとつながります。これは一部社会において奨励され、宣伝すらされていることかも知れませんが、信仰深く敬意に値するムスリムたちの間においてはその限りではありません。

過度な誘惑から女性を守るためには、イスラーム法で説明されるあらゆる保護策が取られるべきです。それらの一部にはゆったりとした外衣、そしてクルアーンとスンナに基づいた頭部の覆いといった女性の服装、も含まれます。
アッラー()はこのようにも仰せられています:
 
そして信仰者の女たちに言ってやるがいい。彼女らの視線を低くし、貞節を守れ。外に表われるものの他は、彼女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェールをその胸の上に垂れよ。自分の夫または父の他は、彼女の美(や飾り)を表わしてはならない。なお夫の父、自分の息子、夫の息子、また自分の兄弟、兄弟の息子、姉妹の息子または自分の女たち、自分の右手に持つ奴隷、また性欲を持たない従者の男、または女の体に意識をもたない幼児(の他は)。また彼女らは隠れた装飾品を知らせるため、その足(で地)を踏み鳴らしてはならない。汝ら信仰者たちよ、皆一緒に悔悟してアッラーに返れ。必ず汝らは成功するであろう。 [24:31]
 
この節では、前述の“マハラム”に分類される男性の詳細、そして謙虚に視線を下げることが異性間に発生する自然な誘惑や相互の魅了に対する最善の自己防衛であることが記述されています。
またアッラー()は、イスラーム以前の時代の女性が見せていた挑発的な態度に関して言及され、信仰者に対し適切な態度を保ち、悔悟するよう喚起されています。
 
 そして汝らの家に静かにして、以前の無知時代のように、目立つ飾りをしてはならない。礼拝の務めを守り、定めの施しをなし、アッラーと使徒に従順であれ。(預言者の)家の者たちよ、アッラーは汝らから不浄を払い、汝らが清浄であることを望まれる。また汝らの家で読誦される、アッラーの徴と英知(預言者のスンナ)を銘記せよ。アッラーこそは温厚篤実にして全知であられる。本当にムスリムの男と女、信仰する男と女、献身的な男と女、正直な男と女、堅忍な男と女、謙虚な男と女、施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、貞節な男と女、アッラーを多く唱念する男と女、これらの者のために、アッラーは罪を赦し、偉大な報奨(天国)を準備なされる。信仰する男も女も、アッラーとその使徒が、何かを決められた時、自分勝手に選択すべきではない。アッラーとその使徒に背く者は、明らかに迷って(道を)逸れた者である。 [33:33-6]

イスラーム的な規制は、慎ましい衣服と態度に関して他の多くの文化と類似する部分もありますが、それでもムスリム独自の貞節さ、誠実さ、そして高潔な倫理観などにおける極めて高い基準は際立っています。イスラームは未婚男女が不必要な混合をすることによりぎこちない状況を生み出し、誘惑に駆られることから個人と社会を予防するのです。アッラーの使徒()は真性なる伝承においてこう語られています:
 
  “実に、全ての宗教にはそれぞれの特徴があり、イスラームの特徴はハヤー(謙虚さ、謙遜、羞恥心)なのである。” [イブン・マージャ 4172番]


 
結論
イスラームとは、至高かつ全能なるアッラーによって、預言者ムハンマド()を通し全人類へ伝えられた永遠の教えです。一部の人々はイスラームの教えを信じて従いましたが、また一部の人々はそれを信じず、従うことを拒みました。アッラー()は、人類を他の生き物よりも尊く名誉ある存在とされています。かれは聖クルアーンにおいてこのように仰せられました:
 
実にわれらはアーダムの子孫を重んじて海陸に彼らを運び、また種々の良い(暮らし向きのための)ものを支給し、またわれが創造した多くの優れたものの上に、彼らを優越させたのである。 [17:70]
 
また、アッラー()は、次のような大原則についても宣言されています:つまり、元来の創造において全人類は平等に創られたということです。かれは聖クルアーンにおいて仰せられています:

人々よ、汝らの主を畏れよ。かれは一つの魂から汝らを創り、またその魂から配偶者を創り、両人から、無数の男と女を増やし広められた方であられる。汝らはアッラーを畏れるのだ。かれの御名において汝らがお互いに頼みごとをする御方であられる。また近親の絆を(尊重せよ)。本当にアッラーは汝らを絶えず見守られる。 [4:1]
 
こういった原則を基に、全ての男女は人間性と基本的価値観、また義務と責任において平等であるのです。つまり男女は皆、アッラーの御前では対等な存在なのです。人種、言語、生活や地理といった違いはこの名誉を増大させもしなければ、減少させることもありません。彼らの真の違いとは神への意識、またアッラーの啓示宗教であるイスラームへの帰依の度合い、そして日常生活における実践と適用による差なのです。アッラー()はこのことについて、聖クルアーンでこう仰せられています:
 
人々よ、われらは一人の男と一人の女から汝らを創り、種族と部族に分けた。これは汝らを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も貴い者は、汝らの中最も主を畏れる者である。本当にアッラーは、全知にしてあらゆることを見透される。 [49:13]

それゆえ、誰にとってもアッラーの御前における真の名誉とは肌の色や社会的地位、性別、人種、権力、健康、権威や富などではないのです。アッラーの御前における区別の厳密な基準となるものは敬虔な心、信仰、そして善行の実践なのです。
同様に、アッラーの預言者()もこのように言われたことが伝えられています:
“人々よ、あなた方の主は唯一であり、あなた方の父祖も一人である。アラブ人が非アラブ人に優越することはなく、非アラブ人がアラブ人に優越することもない。同じように白人が黒人に対して優越することもなければ、黒人が白人に優越することもないのだ。ただ一つの違いは敬虔さなのである。” [アハマド 23536番]

イスラームの教えは人々の間にある全ての人為的な相違を取り除き、彼らを皆、同じ土台に乗せるのです。たびたび誤解や中傷を受け、そしてほとんど触れられることのないイスラームの重要な教えの一つに、“女性は明確な事実と例外を除いては、全てにおいて男性と対等である”というものがあります。イスラームにおける女性の真実を明確にし、それに対しての誤解を解くことへの試みが、この小冊子の目的であり、平等性と例外性がそのテーマでした。
アッラー()は聖クルアーンにおいて仰せられています:
男の信者も女の信者も、互いに(助け合い、支え合い、擁護し合う)仲間である。彼らは正しいこと(イスラームの命じるすべて)をすすめ、邪悪(多神崇拝、不信仰そしてイスラームの禁じるすべて)を禁じる。また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、アッラーとその使徒に従う。これらの者に、アッラーは慈悲を垂れる。本当にアッラーは偉力ならびなく英明であられる。 [9:71]

またアッラー()は聖クルアーンにおいて、こう仰せられています:
 
それで主は彼ら(の祈願)を聞き入れられ、(仰せられた)。「本当にわれは、汝らの誰の働いた働きもむだにはしない。男でも女でも、汝らは互いに同士である。 [3:195]

またアッラー()は、聖クルアーンにおいてこう仰せられました:
 
男は両親および近親の遺産の一部を得、女もまた両親及び近親の遺産の一部を得る。その際には遺産の大小を問わず定められたように配分せよ。 [4:7]

この小冊子を通して詳しく述べられてきた事実をもとに、女性はイスラームによる公正な法と保護の下にない限り、彼女の本来の名誉、そして完全な権利と自由を享受することはないであろうことを、私たちは自信を持って断言することが出来ます。イスラームは諸権利とそれに相伴う特定の任務と義務を指定します。人工的な領域、特権、そして独占を意図する人為の法律に対して、慈愛遍く全知なる神によって啓示された宗教こそがイスラームなのです。イスラームは肌の色や権力、または男女、貧富、体力などの差を問わず、全人類への永遠かつ普遍的教えです。全人類は、現世と来世における真の利益をご存知になられる創造主アッラー () の御前では平等であるのです。

私は読者の方々が、一部のムスリムたちの行動や態度に見られる印象をもとに、イスラームに対しての判断を急がないよう嘆願します。不幸にも彼らはイスラームを利用して自分たちの個人的・集団的犯罪を隠しています。彼らの多くは口先では“アッラー以外には崇拝に値する真の神はなく、ムハンマドはアッラーの忠実なしもべであり、使徒である” と宣言するためムスリムとされますが、残念ながらイスラームの義務を無視し、良い倫理規範に基づいた行動を取りません。イスラームはどのような状況でも容易に適用することの出来る、完全かつ純粋な宗教です。多くのムスリムたちは人生を通して善行することを望み、そして悪を慎むことによってアッラーのご満悦を求め、善良かつ高潔であろうとします。しかし他方では、その犯罪によって現世と来世における懲罰に値する人々が存在するのも事実です。これらの犯罪はその悪質性から、イスラームへの不信仰と背教に当たるか、アッラー () とかれの預言者 () による有益で英知に溢れた命令に対する不従順、あるいは怠慢であると見なされます。例えば、もしある人物に富や倫理が欠如していたとすれば、その人物が他者にそれらを与えることの出来ないことは周知の通りです。この原則はイスラームにも当てはまります。私たちは、イスラームに関して学ぼうという意欲のある人々に対して、イスラームを実践し、きちんとした知識と理解を備えていると見なされている人々から知識を学ぶことをお勧めします。実践をしないムスリムは間違いなく彼らを誤解させるでしょう。

イスラームの浅薄な知識は危険であり有害です。なぜならただ単にイスラームに関する(恐らく信頼性のない)本を数冊読んだだけでは、その人物がイスラームにおける裁定や適切な知識を流布する資格を有することにはならないからです。同様に、特定の見解に盲従することも非常に危険で有害です。イスラームの健全な知識を探求し、虚偽の崇拝や実践を広めようとする者たちによって騙されないように注意することが必要です。アッラーは聖クルアーンの中でこう仰せられています:
宗教に強制はない。実に、正しき道は迷誤から明らかに(分別)されている。それでターグート(アッラー以外に崇拝される邪神)を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴にして全知であられる。 [2:256]


全世界の主、アッラーにこそ全ての称賛あれ
そしてアッラーがかれの預言者とその御家族を賞揚し、
その名声を損ねるあらゆるものから
彼らをお護りになりますよう

イスラームに関する更なる情報をお求めの方は、どうぞ下記のアドレスまでご連絡下さい。

1) Emailアドレス:
[email protected]