経済と人生における利子の役割

現代社会においての利子の役割に対するイスラーム的観点と、その歴史的・現代的分析。第一部:なぜムスリムたちは、キリスト教やユダヤ教の世俗主義者らによる合法化の呼びかけにも関わらず、利子の禁止を続けるのか。

経済と人生における利子の役割

(1/7):序論

序論

大辞泉では、利子は次のように定義されています:「金銭の貸借が行われた場合、その使用の対価として借り手が貸し手に支払う金銭。」

実際、個人と世界全体は、おそらく上記の定義を必要としない程に、利子による負担を熟知しています。利子は資本主義国の住民であれば、誰でも知っているものです。近代経済において、利子は完全に容認・制度化されているため、利子の関わる取引を完全に否定・拒否する人物がいることは想像しがたい程ですが、依然として敬虔なムスリムは利子に関わることを拒否しています。

ムスリムが利子に関わらない直接の理由は、利子がイスラームによって禁じられているからですが、これに関しては後述します。しかし同時に、ムスリムは、神の導きとは神の知識、英知、正義に基づいていると信じています。言い換えると、神は何の理由もなしに、何かを人間に禁じることはないということです。それゆえ、神がこの制度を禁じたのには、確かに理由があるのです。それらの一部は、私たちでも明確に認識することの出来るものです。

現代世界において、ムスリムたちは利子を支持する議論によって、常に攻撃に晒されています。残念ながら、多くのムスリムたちはそういった圧力と「論理的議論」に屈服し、利子の概念を受け入れてしまっています。

それゆえこの短い論考では、信仰箇条に基づきながら、利子に対するイスラーム的立場について論じていき、利子を支持する議論が真に正当なものかどうかを確認する論理的議論を展開します。

人類に対する神の導き

イスラームでは、神がその慈悲により、人生の全ての側面に対する導きを全人類に授けたと教えています。この導きは崇拝行為に関するものだけではなく、経済、商業倫理、婚姻関係、国際関係、戦争倫理などを始め、あらゆるものを含有します。現在において、そのような神の導きを未だに信じていることはムスリムの突出した特徴ですが、世俗的問題となると多くの人間は彼らの宗教的教えをおろそかにするか、あるいは捨て去るのです。

多くのムスリムが、例えば世俗的ユダヤ教徒やキリスト教徒たちが従ったような道を踏襲しないことには、いくつかの理由があります。最も重要な理由のひとつとしては、ムスリムたちが、イスラームの基盤を構成する啓示が、その啓示された時代以来、全く手が加えられたたり、改変されたりしたことがなかったことに、自信を持っていることが挙げられます。言い換えると、啓示には人間による干渉や歪曲がなかったのです。それゆえ、世俗的ユダヤ教徒やキリスト教徒たちは異論を持つかもしれませんが、時を経ても過去の人々の過ちを修正する必要がないのです。実際、ムスリムにとっての唯一の影響とは、人間の干渉によって神から下された啓示を傷付けること以外にないのです。

次に、多くのムスリムたちは、彼らの宗教が現実離れしていること、あるいは現代において実践不可能であることの説得力ある証明を、未だに見出してはいません。例えばイスラームにおいては、宗教と科学の確執が存在せず、それによって、西洋で見られたような教会の信用失墜や、宗教権威に対する事実上の反乱につながるような出来事はなかったのです。1ムスリムを含む多くの人々は、イスラームに沢山の変化を求めてきましたが、彼らによる議論は不完全かつ貧弱なものでした。この論考のトピックである利子は、こういった性質の良い例でしょう。

近年、イスラームはメディアでの露出が増えましたが、興味深いことに多くの非ムスリムは、イスラームの利子に対する立場を知りません。それゆえこの論考では、中世時代の古臭いトピックなどではなく、現代世界において極めて重要なトピックであるこの利子問題にスポットライトを当てるのです。

 


Footnotes:

1 宗教と科学の確執に関するヨーロッパ人キリスト教徒の経験の歴史における名著は、ジョン・ウィリアム・ドレイパーによるHistory of the Conflict between Religion and Science (Order of Thelemic Knights, 2005)(宗教と科学間の確執の歴史)です。実際は、ヨーロッパにおける科学とキリスト教の確執の歴史であるため、この題名は訂正されるべきでしょう。彼の著作 A History of the Intellectual Development of Europe (Honolulu, Hawaii: University Press of the Pacific, 2002)(ヨーロッパにおける知的発展の歴史)では、同じジョン・ウィリアム・ドレイパーが、ヨーロッパの歴史を「信仰の時代」「理性の時代」に分割し、キリスト教特有(同時にユダヤ教)の確執に焦点を当てていますが、「理性」と「科学」を「宗教」と比較させていることが分かります。イスラームはそのような確執を一度も経験しませんでした。事実、イスラームと近代科学との両立性は、多くの人々をイスラームへと招いています。例えばタイのチェンマイ大学のテジャタット・テジャセン教授は、イスラームと近代科学の関係性を研究し、最終的に以下のように述べました:

            “過去三年間、私は自分の研究対象としてクルアーンに興味を持ち続けていました。1400年前からクルアーンに記録されているすべての事柄は科学によって証明されており、それらは真実であると私は信じています。預言者ムハンマドは読み書きができなかったため、ムハンマドは創造主に値する存在によって啓示されたこの真実を伝達した使徒であることに間違いないのです。したがって、今こそ私は(この時点で、テジャセン教授はイスラームの信仰宣言をしました)と言うべきときでしょう。” I.A.イブラーヒームのA Brief Illustrated Guide to Understanding Islam (Houston: Darussalam, 1997) 31頁からの引用。

            この著作は、www.islam-guide.comで全文を読むことが出来ます。イブラーヒームは多くの近代科学者による結論を校定・要約しています。

(2/7):イスラーム的立場

利子に関するイスラームのテキスト

利子に関するイスラームのテキストを読むと、利子に携わることがいかに厳しく警告されているかを、直ちに理解することが出来るでしょう。イスラームは私通、姦通、同性愛、アルコールの消費、殺人などの不道徳な行いの数々を禁じます。しかしこれらの行為における様々な議論と警告の程度は、利子の搾取に関するものと同レベルではありません。このことは、サイイド・クトゥブをこう言わしめました:「いかなる問題であれ、利子ほどまでにクルアーンの中で強く咎められ、非難されているものはありません。」1

例えばクルアーンには、利子に関する次のような節があります:

 “あなたがた信仰する者よ、倍にしまたも倍にして、利子を貪ってはならない。神を畏れなさい。そうすればあなたがたは成功するであろう。そして信仰を拒否する者のために準備されている業火を恐れなさい。(クルアーン3:130−131 

信仰者に向けての余りに厳しいこの警告は、破滅的な結末について戒めます。それは、不信仰者のために用意された地獄の炎の中に投げ込まれることなのです。

神はこのようにも述べられています:

利息を貪る者は、悪魔にとりつかれて倒れた者がするような起き方しか出来ないであろう。それは彼らが「商売は利息をとるようなものだ。」と言うからである。しかし神は商売を許し、利息を禁じておられる。それで主から訓戒が下った後、止める者は過去のことは許されよう。彼のことは神(の御手の中)にある。だが(その非を)繰り返す者は、業火の住人で、彼らは永遠にその中に住むのである。神は、利息(への恩恵)を消滅し、施し(サダカ)には(恩恵を)増加して下される。神は忘恩な罪深い者を愛されない。(クルアーン 2:275276 

これらの節々には、興味深い点がいくつもあります。マウドゥーディーは最初の部分の注釈で、こう記しています:

通常の理性によっては束縛されない狂人があらゆる法外な行為に走るように、利子を搾取する人物もまた同様なのです。彼はあたかも狂人であるかのように、富への欲望に走ります。彼は利子が人類愛、兄弟愛、同胞愛を根本から覆すものであることを顧みず、人間社会の福祉と幸福を傷つけ、彼の富が他の多くの人々の犠牲の上に成りなっていることには無頓着なのです。これはこの世における彼の「狂気」の状態です。人は来世において現世で死んだ状態において蘇らせられるため、彼は狂人として復活させられるのです。2

第二に、この節は合法的な商取引と利子には違いがあることを非常に明確にします。それらの違いは極めて顕著であるために、節では説明がなされない程ですが、これはクルアーンの独特な様式の一つでもあります。第三に、この節では明確に 神は、利息(への恩恵)を消滅し、施し(サダカ)には(恩恵を)増加して下されると述べています。これは、人間が自ら発見することが出来るとは限らない、神の「法」の一つです。現世と来世における個人、コミュニティ、そして世界全体に対する利子の究極的かつ完全な負の影響は、神のみぞ知るです。しかしこの節の真実性を証言する、それらの負の影響の一部は、この論考の後半にて垣間見ることが出来ます。事実、恐らくこの節の意味を浮き彫りにして、預言者(神の慈悲と祝福あれ)はこのように言っています:「利子は、たとえ大きな量であれ、最後には小さな量になるのです。」3疑いの余地なく、来世において個人が神に謁見するとき、彼が非合法的な方法で蓄積したあらゆるものは、彼自身の破滅のもととなるのです。

上記の節のすぐ後に、神はこのように述べています:

あなたがた信仰する者よ、(真の)信仰者ならば神を畏れ、利息の残額を帳消しにしなさい。もしあなたがたがそれを(放棄)しないならば、神とその使徒から、戦いが宣告されよう。だがあなたがたが悔い改めるならば、あなたがたの元金は取得できる。(人々を)不当に扱わなければ、あなた方も不当に扱われない。(クルアーン 2:278−279 

どのような真っ当な思考を持った人物が、神とその使徒による戦いの宣告に自らを晒すようなことをするでしょう?これよりも強い警告は、滅多に見出すことは出来ません。節の最後で、神は利子が禁じられている理由を非常に明確にします。それは不正な犯罪だからです。それに当たるアラビア語はズルムといい、人が他者や自分の魂に対して不正、または危害や抑圧を与えることを意味します。この節では、利子が神によって禁じられているのは、その規定の裏に何の理由もなく、ただ単にそうされているのではないことを示しています。利子は明らかに有害であることから禁じられているのです。

クルアーンの節に加え、預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)もまた、利子に関する多くの言葉を残しています。例えば以下の言葉は、その行為の重大性を示します:

七つの大罪を避けるのです:それらは神に同位者を設けること、魔術、法によって認められる場合以外に神の禁じた魂を殺害すること、利子の搾取、孤児の富の搾取、二つの軍隊が対峙した際に逃亡すること、そして無実で貞節な信仰者の女性を不当に中傷することです。(アル=ブハーリー、ムスリム) 

預言者(神の慈悲と祝福あれ)によるもう一つの言葉は、神を畏れる人物にとって利子を完全に遠ざけるに十分でしょう。預言者(神の慈悲と祝福あれ)はこのように言われました:

人が意図的に消費した、利子から得た一枚の硬貨は、神の見地からすれば、36回の不法な性交渉よりもたちが悪いのです。(アッ=タバラーニー、アル=ハーキム) 

教友ジャービルは神の使徒(神の慈悲と祝福あれ)が利子を取る人物、利子を払う人物、それ(利子に基づいた取引)を証言する人物、そしてそれを記録する人物をみな呪ったことを報告しています。彼はこうも言いました。「彼らはみな同様である。」(ムスリム) 

これはイスラームの基本原則です。何かが禁じられ、間違ったものであれば、ムスリムはいかなる方法でもそれに関与したり、支持したりするべきではないのです。それゆえ、禁じられている利子の取引を目撃すること、記録することなども禁じられているのです。預言者の言葉は、利子を支払う者と受け取るものには違いのないことも説明しています。なぜなら彼ら双方は卑しむべき行為に加担しているからであり、双方等しく非難に値するからです。

預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこのようにも言っています:

もし不法な性交渉と利子が公にまかり通るようになったなら、彼らは自分たちで神の懲罰の扉を開けているのです。(アッ=タバラーニー、アル=ハーキム) 

この言葉は、神の「社会法」に言及されたものです。神の懲罰は現世または来世において、異なる形によってもたらされます。

 


Footnotes:

1 Sayyid Qutb, In the Shade of the Quran (Markfield, Leicester, England: The Islamic Foundation, 1999), vol. 1, p. 355.

2 Sayyid Abu Ala Mawdudi, Towards Understanding the Quran (Leicester, United Kingdom: The Islamic Foundation, 1988), vol. 1, p. 213.

3 アル=ハーキムによる記録。アル=アルバーニーのサヒーフ・アル=ジャーミイ・アッ=サギール1巻664頁3543番参照。利子は富を危険に晒すことなく、さらに富を増幅させる手段です。このことは長期的に見ると、必ずしも幸福をもたらすとは限らないのです:「General Social Survey (GSS) がビジネスウィーク(2000年10月16日号)で発表した研究によると、お金で幸福を買うのではなく、新たなライフスタイルとそれに伴う余波が益々不幸をもたらしているとしています。その研究によると、1970年代から1998年にかけて一人当たりの収入は増加しているものの、アメリカ人の幸福度は対照的に減少しているとしています。新たな社会的傾向による影響は、物質的な利益を凌駕しているのです。研究では、余分な収入が余分な幸福をもたらしている一方で、その影響は驚くほど低いというのです。また性別や世俗的地位の要素がより大きな比重を占めるとしています。他の発見としては、女性の幸福度が男性のそれよりも減少しているということです。離婚・別居率の増加は、家族構成とその構成員の精神状態に負の影響をもたらしています。ビジネスウィークはこう結論付けています:『それは少なくとも、収入の増加のみが幸福度の増加を保証すると思い込んでいる人々が、彼ら自身を欺いていたことを示唆しています。それはまた、失業率の増加や、より広がる収入の格差といった新たな経済の側面が、重大な精神的犠牲を孕んでいることを示しているのです。』」 Abdulhay Y. Zalloum, Painting Islam as the New Enemy: Globalization & Capitalism in Crisis (Technology One Group S.A. 2002), p. 357.

(3/7):宗教と初期の思想家たち

当然のことながら、利子を禁じ、それを卑しむべき行為とみなす宗教はイスラームだけではありません。ある程度の利子の禁制は、旧約・新約聖書共に見られます。旧約聖書では多くの箇所で「高利貸し(Usury)」「利息(Interest)」について言及されます。(UsuryとInterestはもともと同じ意味合いで使用されていましたが、時代と共にUsuryは過度な、あるいは法外な割合の利子として用いられるようになりました。それゆえ脚注でも言及されるように、米国標準約バイブル(欽定訳改訂版)ではジェームズ王約(欽定訳)のUsuryをInterestへと幾度も変更したのです。)

申命記23:20−21ではこのように記されています:

“同胞には高利貸しをしてはならない。銀の高利も、食物の高利も、その他いかなるものも高利を付けてはならない。外国人には高利貸しをしてもよいが、同胞には高利貸しをしてはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。”(ジェームズ王版)1

同様に、出エジプト記でもこう記されています:

“もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から高利を貪ってはならない。(ジェームズ王訳)”2

レビ記25:37ではこう記されています:

その人に金を貸す場合、高利を取ってはならず、食料を貸す場合も利子を付けてはならない。”(ジェームズ王訳)3 

またエレミヤ書15:10では、預言者は一度も利子を取ったことがないのに呪われたことへの不満を訴えていますが、そのことは利子を取る者が呪われるにふさわしいことを意味しています。そして、おそらく旧約聖書の利子に関する最も凄惨たる節のひとつは、エゼキエル書18:13でしょう:

利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある。 

旧約聖書には利子の禁制を示す節々が他にもありますが、ここでは上記で紹介されたものだけで十分でしょう。4Easton’s Bible Dictionary (イーストン・バイブル辞書)は、利子に関するモーセの律法をこのように要約しています:

モーセの律法は、古代イスラエル人が借用を必要とした際、貸し出しは自由にしても良く、利子は課してはならないと要求していますが、よそ者に対しては利子を課しても良いとします(出エジプト記22:25、申命記23:19−20、レビ記25:35−38)。また7年後には、すべての負債が帳消しになりますが、よそ者に対しては貸与が取り立てられます。ヘブライ共和国の後期になり通商が増えてくると、貸与に対する利子の取り立てが増加しました。しかしヘブライ人に対する取り立ては不名誉なことと見なされました(詩篇15:5、箴言6:1,4、11:15、17:18、20:16、27:13、エレミヤ書15:10)。

不幸にも、実践問題に関してたびたびそうであるように、新約聖書では利子問題においても幾分か曖昧にされています。The Encyclopedia of Religion and Ethics(宗教・倫理百科事典)によると、「そこには、(利子に関して)キリスト教徒の道徳心を導く直接的な教訓はありません。」5しかし、新約聖書のイエスの教えとされる部分では、利子の実践に反対する明確なくだりがあります。あるくだりでは、イエスはこのように言ったと伝えられています:

 “しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。”(ルカ6:35)

このくだりでは、元金を受け取ることを期待せずに貸し出しなさい、とキリスト教徒たちに告げられています。これは「厳しい言葉」のひとつであると見なされ、キリスト教学者たちはこういったくだりをどのように解釈し実践に移すかで見解を異にしています。6

マタイによる福音書の25:14−28には、神が異なる量のコイン(タラントンと呼ばれるもの)を様々なしもべに与えるたとえ話があります。彼らの一部はその貨幣を投資し、神によって与えられたものよりも多くのものを神へと捧げました。しかし、神がそのコインを一枚だけ与えた人物が、18節で説明されています:

しかし、一枚を預かった者は、出て行って穴を掘り、主の金を隠しておいた。

神がそのしもべを呼び、彼がそのお金で何をしたかを問いただしたとき、ただ一枚のタラントンを受け取った者はこう言いました:

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『主よ、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』”(マタイ25:24−25)

主は彼に対し、厳しくこのように応えられました:

主は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を両替商の元に預けておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。』”(マタイ25:26−28)

Geneva Study Bible (ジュネーブ・バイブル研究)は、このくだりを注釈してこう述べています:

銀行家は店舗または店外で利子を付けてお金を貸与します(出エジプト記22:25−27、申命記23:19−20)。高利貸し、または利子を付けたお金の貸与は、バイブルによって厳しく禁じられています。たとえその割合が1%であっても、利子は許されませんでした(ネヘミヤ記5:11)。このしもべは嘘を二回つきました。彼はまず、主について厳格で無慈悲であると言いました。主は慈悲深く寛大であるため、それは嘘です。次に、彼は蒔かなかった場所へ刈り取りに行き、主について泥棒であると言いました。最終的に、彼の主は皮肉を込めてこのようなことを言いました:「なぜ損害について侮辱を加えず、お金に利子を加えて貸し出して、主について“高利貸し”と言わなかったのか?」。もしもしもべがそうしたのであれば、彼の主はしもべの行為について責任を持ち、高利貸しの罪を犯したことになります。

初期教会の公会議は、旧約・新約聖書に基づいて利子を禁じています。やがて聖職者だけでなく、すべてのキリスト教徒は利子に携わることが禁じられるようになりました。トマス・アクィナス7に代表される一部のキリスト教神父たちは、利子問題に関する詳細を論じています。「グラティアヌス法令に続き、第三ラテラン公会議(1179)では、キリスト教法としてこう定められています:『表立って利子を取る者は、コミュニオンへの参加が認められないだけでなく、彼らが罪深いまま死んだ場合、キリスト教式の埋葬も認められない。』」81215年の第四ラテラン公会議では利子が非難されましたが、ユダヤ教徒には認められました。カトリック教徒に関しては、19世紀まで利子の禁制を固く守っていました。プロテスタントの指導者だった16世紀のマルチン・ルターも同様に利子を非難しましたが、どうやら人間の弱さを口実として許可を出したようです。9キリスト教指導者たちによる利子への懐柔的な見解は、カルバンを始めとして広まりだしました。そして徐々に民法は教会法にとって代わり、利子が制度化され出したのです。

利子を非難したのは、ユダヤ・キリスト教思想のみではありませんでした。事実、ギリシャの哲学者たちも利子に関しては非常にネガティブな見解を持っていました。アリストテレスやその他の著名な哲学者たちも利子を非難しています。オーストリア人経済学者として名高いオイゲン・フォン・ベーム・バヴェルク(ベーム=バヴェルクとしても知られています)は、その重要な著作Capital and Interest (資本と利子)でこう述べています:

古代世界における決して少なくはなかった敵意のある表現は、一部は利子の搾取を禁じる法令、そして一部はプラトン、アリストテレス、二人のカトー、キケロ、セネカ、パントスなどによる偶有的発言によって構成されている。ギリシャ哲学者らは、金銭を単なる交換の手段と見なしており、それゆえ彼らは金銭の貸与の生産性を否定したのである。アリストテレスの学説は、金銭は別の金銭を生じさせることが出来ないというものだった。利子は不正なものであるということが、歴然とした結論だったのである。10

当初は、ローマ帝国も利子の徴収を禁じていました。商人層の増加と共にそれは多少緩和されましたが、依然として利子を伴う貸与は厳しく制限されていましたし、債務者を保護する法律も存在していました。

シェークスピアのベニスの商人(1596年頃の作)の登場人物シャイロックは、高利貸しがいかに軽蔑されていたかを表しています。ここで、いかに利子が西洋において軽蔑・禁止された行為から、社会的に認められ、制度化されるまでに至ったのかという疑問が浮かび上がります。

 


Footnotes:

1 米国標準訳では“同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。”とされています。

2 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して債権者のようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。(米国標準訳)

3 “その人に金や食糧を貸す場合、利子を取ってはならない。”(米国標準訳)

4 詩篇15:1−5、エゼキエル書18:5−9、箴言28:8を参照。また旧約聖書もそれを確証しますが、ユダヤ人たちは利子の徴収を禁じられていたにも関わらず、たびたびその行為に走ったのです。ネヘミヤ記5:6−7、エゼキエル書22:12を参照。

5 Quoted from Abdelmoneim El-Gousi, “Riba, Islamic Law and Interest” (Ph.D. Dissertation, Temple University, 1982), p. 113.

6 このような言葉は完全主義的な規定や、実践不可能な理想、または“暫定的な倫理”などを表しているのでしょうか?キリスト教学者らは未だ、その質問に対する答えについて合意できていません。参考:Lisa Sowle Cahill, Love Your Enemies: Discipleship, Pacifism, and Just War Theory (Minneapolis, MN: Fortress Press, 1994), p. 27.

7  利子についてのアクィナスの思想に関する論評はロドニー・ウィルソンによるEconomics, Ethics and Religion: Jewish, Christian and Muslim Economic Thought (Washington Square, New York: New York University Press, 1997), pp. 82-85から見出すことが出来ます。しかし現実問題として、多くのキリスト教徒たちが正義の戦争について信じていたように、アクィナスはキリスト教以前のギリシャ・ローマ思想に強い影響を受けていました。

8  El-Gousi, p. 114.

9 Cf., Anwar Iqbal Qureshi, Islam and the Theory of Interest (Lahore, Pakistan: Sh. Muhammad Ashraf Publications, 1974), p. 8.

10 Boehm Bawerk, Capital and Interest (1959), Vol. I, pp. 10-11, Quoted from Afzal-ur-Rahman, Economic Doctrines of Islam (Lahore, Pakistan: Islamic Publications Limited, 1976), vol. III, p. 11. Also see Qureshi, p. 6; El-Gousi, p. 114.

(4/7):禁令から正当化へ

時代の経過と共に、利子の禁制は撤廃されるべき宗教的ドグマ以外の何ものでもない、と見なされるようになりました。宗教が経済を支配することはもう許されなくなったのです。経済学者・歴史家として名高いリチャード・タウニーは、彼の心情をこう言い表しています:「全体的に中世の思想体系は、その頂点を宗教に据えた、利子と利益活動を包括する階層の内の一層として、経済活動を取り扱おうと試みました。」1しかしながら、こうした姿勢の変化は経済的理由のみに基づいたものではなかったようです。ローレンス・デニスはこう述べています:

アリストテレス、ローマカトリック教会法学者、ユダヤ教のトーラーは、いずれも利子を伴う貸与を禁じたか、高利貸しとしての利子を非難しました。利子を伴なう貸与は中世において、その大部分は戦争やその他の公的目的のための十分な資金を調達出来なかった王子たちに融通することに端を発しました。現在の価値観と異なり、もともと貸与は商業への融資目的として発達したのではありません。17世紀になるまで、ベニス、オランダ、ハンザ、イギリスなどの商人たちは仲間内の出資をその事業の財源としていたのです。2

デニスはさらにこう述べます:

カトリック法学者たちは、事業、土地の賃貸、または土地の果実の販売や、その他の資本による利益を否定しませんでした。彼らは金銭の貸与による金銭の利子を禁じたのです。宗教改革の時代、教会法学者たちによる反対意見をかわすため、主にプロテスタントによって利子は合理化されました。カトリック教会は利子に対する姿勢を決して崩しませんでしたが、特定の前提条件のもと、貸与に関しては黙認しました。カトリック教会による倫理的黙認、そしてカルビン主義の商人たちによる是認は、近代社会の法律、思想、そして行動模範を形作ったのです。3

デニスの言及する合理化のいくつかは、バイブルの注釈において見出すことが出来ます。旧約聖書は利子の非難に関して非常に明確な立場を示しますが、そのことは後世の学者たちがその禁制を事実上の無視、または歪曲することを防ぐことが出来ませんでした。4例えば、レビ記25:37についてHenry’s Concise Commentary (ヘンリー簡潔注釈)はこう述べます:

今日に至るまでこの法律は依然として結合しますが、お金が土地の購入、商業、またはその他の理由のために借用されることは考え得ないことでした。なぜなら、貸し手と借り手が利益を共有することは合理的であるからです。ここでの法律は単に、貧しい人々の救済が意図されており、時には自由に貸すことこそが、与えることに相当するほど偉大な慈善なのです。

利子とは貸し手が借り手と利益を共有する性質のものではないため、この説明は真正面から論駁されます。もし上記の通りであれば、利子の害悪の多くは取り除かれるでしょう。同様に、ジェイミーソン・フォーセット・ブラウン注釈ではこう記されています:

“利子は厳しく非難(詩篇15:5、エゼキエル書18:8,17)されたが、その禁制を、合法的な利子のレートによって貸し借りする現代人のビジネスに当てはめることは出来ないのだ。”

厳しく非難されたものが、いかにして“現代人のビジネス”に当てはめられなくなったのでしょうか?そのような飛躍については何の論理的根拠も示されていません。同様に、申命記23:19−20について、ジェイミーソン・フォーセット・ブラウン注釈はこのように記しています:

“同胞には高利貸しをしてはならない...外国人には高利貸しをしてもよい―            古代イスラエル人はシンプルな社会情勢のなかに暮らしており、彼らはお互いの利益を抜きに友好的な貸与をし合うことを奨励されていました。しかし外国人に対しては事情が異なり、彼らは商取引の際は資金増強のために借金をし、当然のようにそれに対する利子の支払いを求められていました。”

繰り返しますが、彼らの提案は何の根拠もないものでした。(どうやら、聖典内には適切な明文が存在しないという姿勢がそこには存在したようです。)事実、名高い経済学者でさえもバイブル注釈を提供しようとした程です。ポール・サミュエルソンは決定版とも言える経済教科書でこう記しています:“バイブルによる利子と高利貸しへの非難は、投資目的のものではなく、消費目的の貸与に関して明確に言及したものです。”5

学者による反対意見の排除により、利子支払いの正当化は、新進の経済学の役割となりました。これは予想されたよりも困難なものとなりました。ハバラーによるこの発言は、実に的を得たものです:

“利子の理論は長きに渡り経済学における弱点でしたが、利子率の説明と決定は、他のどの一般的経済論の部門よりも経済学者たちの意見の相違を招いているのです。”6

実際、経済学者たちの間には、“利子の起源と原因を満足に説明することの出来る、広く受け入れられた利子の理論は一つとして存在していないのです。”7

 


Footnotes:

1 Quoted in Qureshi, p. 7.

2 Quoted in Qureshi, p. 167.

3  Quoted in Qureshi, p. 167.

4 そういった諸宗教の追従者らは、その議論が全く論理的でないにも関わらず、ムスリムが彼らの前例に従うことを期待します。現代における世界中のイスラム学者の圧倒的多数は、クルアーンとハディースのテキストに明確に反するそのような悪質な改変を忌避します。

5 Paul A. Samuelson, Economics (New York: McGraw-Hill Book Company, 1976), p. 605. Emphasis added.

6 Haberler, Prosperity and Depression (1st edition), p. 195. Quoted from Afzal-ur-Rahman, p. 9.

7  Afzal-ur-Rahman, p. 9.

(5/7):説明と理論

尊敬される著名な経済学者たち1による、信頼ある評論と視点を伴った利子の説明、そしてその支払いの正当化を試みる洪水のような意見の数々は、何かが間違っているのではないかという、人々へのしるしであると言えるのではないでしょうか。経済思想史においては、利子の正当化を試みる以下のような理論を見出すことが出来ます:

1.「無色」論(ベーム・バヴェルクによる呼称):これはアダム・スミス、リカードなどの初期経済学者らによって提唱されました。この理論は、資本の粗利益と利子を混同するなど、多くの欠点がありました。リカードはさらに、すべての資本利益を労働に帰属させましたが、彼はなぜか、主張される価値の支払いを受け取るのは労働者ではないことに気が付きませんでした。

2.節制論:このような理論は現れては消えて行きました。経済学者たちは「節制」が「待機」(マーシャル式)のような別の意味合いを持つ言葉にたびたび変化するため、適した言葉ではないことに気付きました。2利子の本質とは、人が即座の消費を「待機」または「節制」することにより受け取る料金のことです。この理論は、事実に反して貯金が利子の一機能であると捉えたために破綻しました。

生産論:この理論の推進者たちは、生産こそが資本において固有のものであり、それゆえ利子とは単にその生産に対する支払いであるとします。セイにより提唱されたこの理論は、資本が余剰額を生み出すことを想定しますが、その主張を支持する根拠は存在しません。主張することの出来ることとしては、資本に対する対価として価値が発生することですが、彼らによる利子の正当化の本質のように、余剰や超過分が創り出されたことを証明することは出来ないのです。無論のことながら、利子を分析するとこれらの理論が金銭的要素を完全に無視していることが分かります。

使用論:「ベームは、各資本の他に、独立した価値を有する独立した経済による『使用』があったという想定の妥当性を否定しました。彼はさらに、初めから資本の独立した使用というものはただ存在せず、したがって独立した価値を有することもなく、それに寄与することによる『余剰価値の現象もない』ことを強調しました。そのような使用を想定することは、すべての事実と矛盾する不当な虚構を捏造することなのです。」3

報酬論:この論を支持する経済学者たちは利子について、資本家の「生産活動」に対する報酬であると見なします。英国、フランス、ドイツの経済学者によって支持されてはいますが、この理論に関するコメントは必要ないでしょう。

折衷(生産論と節制論の組み合わせ)論:これについて、アフザルッ=ラフマーンはこのように記しています:

この見解の起源は、過去と現在の経済学者によって提示・議論された利子の学説に不満を呈したことに端を発したようです。この主題においてはただひとつの説も納得行くものが得られなかったため、人々はいくつかの説の要素を組み合わせて問題の解決に務めたのです。4

近代結実論:ヘンリー・ジョージがこの説の提唱者ですが、実体が薄いために、全くと言って良いほど追従者が現れませんでした。

修正節制論:シェルウィーンにより提唱された独特の理論でしたが、ほとんど影響力を持ちませんでした。

オーストリア論(打歩説または時差説):これはベーム・バヴェルク自身が提唱した理論です。この説によると、利子は「現在と将来の財の価格差により発生する」とされます。カッセルはこの説の詳細な批評をしています。結局は高級な「待機論」に過ぎませんでした。

通貨論(貸付資金説、流動性選好説、貨幣数量説、アセット・アプローチ):最近になり、経済学者たちは利子問題に通貨の要素を取り入れて強調するようになりました。しかし現実には、なぜ利子が支払われるのか、という点から、効果的な利子率を定めるものは何か、という点に移行して来ています。「ロバートソンによると、流動性選好説における利子は、変動に対するリスクプレミアムに過ぎず、私たちはそのことについて確信さえ得ていません。それは利子を宙に浮かせるものに過ぎません。」6この説と同じ分類の他説も、似たような批評を受けています。

搾取論:社会経済学者は、利子は搾取以外の何でもないと常に見なして来ました。資本論の「創始者」であるアダム・スミスとリカードは、あらゆる商品価値の根源は労働量であると唱えました。もしそれが真実なら、あらゆる支払いは労働に対して支払われるべきであり、利子は搾取以外の何でもないことになるのです。

複数の箇所において、アフザルッ=ラフマーンは利子に関する様々な理論に対しての卓越した結論を導きだしています。彼はこう述べています:

利子という現象における歴史的発展の批評的研究により、利子は生産のある独立した要因に対して支払われることが示されていますが、それは待機、延期、節制、使用などとは呼ばれません。しかしこれらすべての説は、なぜ利子が支払われるべきなのかについて答えられておらず、証明もされていないのです。一部では待機について、また一部では節制や延期の必要性について指摘しますが、それらのいずれも問題の答えを提供してはいないのです。待機や延期、または節制の必要性も、あるいは資本の生産の単なる使用でさえ、資本生産に対する雇用の支払いに利子が必要であることを証明するには至らないのです。その上これらの説は、いかに変動する要素が利子率のような固定された要素を決定するのかについてさえも答えられていないのです。どうしてそのような説を合法化、または支持できるでしょう?

後に、彼はこう記しています:

限界生産論同様、通貨論は、なぜ利子が支払われるべきなのか、という質問に答えようとする試みすらしていないのです。それらは単にこの質問を無視して価値論に逃避しているのです。それらは資本の価格は他の全てのもの同様に、需要と通貨の供給によって決定されるのであると述べます。しかし、それらはあたかも価値論は交換の問題、そして利子論は分配の問題といった基本的な二つの問題の違いを忘れてしまっているかのようです。 貸付資金説、流動性選好説はどちらも基本的には利子の需要と供給に関する説であり、貸付資金と通貨それぞれの需要と供給についての説明をするものです。しかし、それは利子現象を正当化するものではありません。たとえ資本が富の創造に対する寄与から適切な報酬を受ける権利があるとしても、「それは増加した国家の富の中から寄与した分だけしか分け前を得ることが出来ないのです。それはあらかじめ決められた量のものしか受け取れず、実際の生産量とも無関係なのです。」8ベーム・バヴェルクによると、これらすべての理論の研究から、「分岐する三つの重要な利子問題の概念が明らか」になりました。生産論を代表する第一グループは、利子問題を生産問題として捉えます。搾取論を主唱する社会主義者は、利子問題を分配問題として捉える第二のグループ、そして通貨論を支持する第三グループは、利子問題を価値問題として捉えます。利子現象としての浸透性から勘違いされていますが、これらすべての説が、なぜ利子が支払われなければならないのかについては避け続けてきたことに疑いの余地はありません。彼らは待機や節制、あるいは生産性や労働価値、価値の制定についての議論にすべての労力を費やしはしましたが、利子制度の起源や正当性に関しては完全に口をつぐんできたのです。

 


Footnotes:

1 事実上、経済思想の歴史に関するどのような教科書も、利子の正当化に関する分析とその批評を提供します。好例としてはマーク・ブローグのEconomic Theory in Retrospect (Cambridge: Cambridge University Press, 1978)が挙げられるでしょう。ベーム・バヴェルクの名著 Capital and Interest(資本と利子)は、初期の様々な利子論に対し強い非難を浴びせますが、彼自身の理論も同様の欠陥を有します。ベームは初期の理論に一貫性の無さや矛盾、そしてなぜ利子を支払い、また何が利子率を定めるのかについての説明の欠如を見出したのです。参照:Qureshi,pp.11-39; Afzal-ur-Rahman,pp.9-48.

2 シニアによる節制論は、「社会主義者作家ラサールによって存分に揶揄されています:『資本による利益は“節制の給料”である。これは喜劇的な、金では買えない表現である。インドの修行僧、または登塔者のようなヨーロッパの禁欲億万長者たちは、柱の上に一本足で立ち、うな垂れ、青ざめた様子で人々に真っ直ぐ腕を伸ばして器を差し出し、その節制による給料をもらおうとしているのだ。その真中で仲間たちの頭上を飛び抜けている、禁欲主義の修行僧の番頭、ロスチャイルド男爵であるかのように。』」Qureshi, p. 17.

3 Afzal-ur-Rahman, p. 23.

4 Afzal-ur-Rahman, p. 30.

6 Afzal-ur-Rahman, p. 44.

8 Afzal-ur-Rahman quoted this Ahmad, The Economics of Islam.

(6/8):利子による害悪(前半)

利子による害悪

経済学者たちは利子の支払いについて様々な正当化を試みますが、本当のことを審査するには、利子の持つ影響がどんなものなのかを学ばなければなりません。何かが神によって禁じられているとき、それは禁じられたものに全く有益性がないということを意味しているのではありません。実際、禁じられたものの中から何らかの有益なものを見出すことも出来るでしょう。たとえば、神はクルアーンの中でアルコールについてこう述べます:

 彼らは酒と、賭矢についてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。「それらは大きな罪であるが、人間のために(多少の)益もある。だがその罪は、益よりも大である。」(クルアーン2:219

それゆえ重要な点とは、何かの有益性について問うことではなく、何かの害悪がその有益性を上回るかどうかを見極めることなのです。したがって経済学者たちが、利子の支払いに関する正当性のヒントを見出すことは出来るかも知れませんが、これから考察されるように、それが利子による害悪を上回ることは絶対にないのです。

たとえ利子が、生産要素に対するある種の支払いであると見なされたとしても、それはどのような生産要素に対する支払いからも切り離されるべき独自の性質を有しており、そのことは非常に憂慮すべき結果を生み出しています。

まず、利子は所得の不公平な分配につながります。このことはある三人の例を見れば分かります。三人が全員年収を使い切るとして、一人は10万円、一人は1万円の貯金があり、そしてもう一人には何の貯金もなかったとします。年率10%の利子により、一人目の貯金額は年度末に11万円、二人目のは1,100円、そして三人目は依然としてゼロとなります。同じことが翌年も続くと、一人目は121,000円、二人目は12,100円、そして三人目は同じくゼロ円です。これだけを見ても、彼らの間の差が年々開いていくのを見て取ることが出来ます。こうした好ましくない筋書きは、裕福な人物が貯金をした際にはさらに顕著になります。例えばその人物が、毎年の年度末に10万円を追加したとしましょう。翌年、彼の貯金は11万円になり、さらにその年度末にも新たな10万円を加えると、二年後には231,000円となっていきます。もしもこの収入が、生産におけるプラス要素から来るのであれば良いのでしょうが、現実的にこの場合はそういった主張をすることは出来ません。人々が利子によって得るカネは、それを借りた人物によって浪費、紛失、あるいは窃盗されたものかも知れませんが、それでも人は利子を支払わなければなりません。また、損失を出す事業に投資されたことによって、何も生産しないかもしれません。しかし、それらすべてはあまり大したことではありません。その「生産要素」が何かを生産する、しないに関わらず、支払わなければならないのです。これはカネの、そしてカネに対する支払いの独自の一面なのです。これが公平であると言うことは誰にもできず、それによる結果として、所得の不公平な分配が起きるのです。

さらに、収入の分配は時間と共に偏りを増してきます。ある個人が百万単位、またある個人が百、あるいは千単位で取引していることを想像してみてください。彼らの間の利子の差は、年々広まり続けるでしょう。言い換えると、富裕層には富が集中し、貧困層はさらに貧乏になるという貧富の格差が発生する訳です。この方程式には、毎年増加する利子を払い続けている負債者は加えられません。この場合、利子が上がり続けることによって彼らの収入はどんどん圧迫され、偏った所得分配にさらなる拍車をかけるのです。

ある種の人々は、所得の不均衡な分配はさほど大きな問題でないと主張するかもしれません。特に、消費の必要性を強調するマスコミの喧伝から来る、貧しい人々に対する精神的影響だけでなく、市場全体に対する非常に重要な影響があるのです。市場経済においては、いかにある製品が社会に必要なものであっても、それは生産高を支払うことの出来る人々を対象に生産されます。裕福な人々がSUV車などのガソリンを浪費する車を要求し、多額の支払いをいとわないのであれば、(いくら保守層が抗議したとしても)それらは生産されるのです。収入差が開けば開くほど、その分より多くの資源が富裕層の要求に充てられます。資源はある程度「固定」されているため、貧困層へはより少量が充てられることになるのです。さらに、貧困層の消費用に充てられる少ない資源は全体の供給数を減らし、他の商品の値段を吊り上げ、貧困層全体の経済状況をより悪化させるのです。多くの医療機関は、例えば美容整形手術のような、必要不可欠とは言い難い、富裕層に特化したサービスを提供します。しかし同時に、貧困層に特化し、彼らの必要性を満たすような医療機関のサービスを見い出すことはとても困難です。市場主導の経済において、もしも彼らがそういった必要不可欠なサービスを支払うことが出来たなら、長期的にそうした医療機関や、必要性に応じた資源や低価格の商品が増えるでしょう。(加えて、所得の格差は民主主義の健全性にも強い影響を及ぼしていますが、このことについては当投稿の範疇を超えるため、ここでは言及しません。)

それに加え、負債を抱える貧困層にとって、利子の負担は社会的・経済的な前進を極めて困難な状況とし、貧富の差をさらに拡大させます。どのような個人にとっても、利子そのものだけでも困難な状況をもたらします。しかし、利子の支払いこそが、多くの場合は滞納せずに支払い続けることを不可能とするような、人の負債が標的の対象とされるのです。それは偽の生産要素であり、富裕層がより裕福に、そして負債者には大きな負担を課すことを実現します。読者の全員は、世界で最も裕福な国家であるアメリカが、いかに負債国家に成り果てたかについて熟知しているかも知れません。これは下流層だけでなく、中流層をも影響を及ぼしています。一部の哀れな人々は、クレジットカードの支払いで最低限度だけを払っても、事実上その残高を支払い終えることが出来ないことに気付いていません。1しかし、もちろんそれが一番こたえるのは一番貧しい人々なのです。事実、個人が貧しければ貧しいほど、その信用格付けは悪化し、高い利子率の支払いが義務付けられ、システム上不利な状況にされるのです。ミルザ・シャハジャハン著の Income, Debt and the Quest for Rich America: The Economic Tale of Small and Mid-Sized US Cities2 (収入、負債、そして富めるアメリカへの旅:アメリカ中小都市の経済話)は、いかに負債とそれに伴なう利子が「アメリカ中流階級」を苦しめたかについての研究成果です。値下がりを続ける作物により借入を余儀なくされている小規模農場主たちの苦境は、そこに詳しく記録されています。彼らの多くは、利子の支払いが困難なことから、所有する貴重品を質に入れたり、何世代にも渡って受け継がれてきた農場を引き払ったりしているのです。シャハジャハンは、一部の貧困層が年収の15%以上(大半は8%から12%)を利子の支払いのだめだけに費やしていることを発見しました。それだけでなく、債権者によるたびたびの脅迫電話という苦悩があることは言うまでもありません。シャハジャハンは結論としてこう述べています:

貨幣、そして負債による重荷は共に、多くの負債者にとっては返済のための一生続く苦労が強いられました。1990〜1993年の負債を持つ一世帯あたりの平均負債額は$32,493ドルで、それらの世帯の年収の100%に相当したのです。我々の独自の調査による1990〜1993年の一世帯あたりの平均負債額の見積りは$12,571でした。こうした規模の負債は、アルバイトや低所得と合わせると意気消沈させるものであり、打ちのめされるような精神的環境を創り出すのです…

一部の世帯では、利子の支払いに年収の15%を費やしています。この高利子率は、所得の大部分を蝕む主要因となっているのです…

中規模の都市における何百万件にも及ぶ世帯の大半は、日々の糧を得るだけのために努力します。彼らのうちの数千戸は、家族への満足な生活の供給や子供たちの高等教育の費用さえもままならないのです。彼らは負債に漬かった人生を送り、負債と共に死ぬのです。こうした状況は、完全な人生を持たなかったという感情を彼らに抱かせるのです…

これらの世帯は経済的隷従の状態に陥っており、そこからの明らかな脱出口は制度的影響力によって遮断されています。技術の習得や高等教育を受けることは、本物の機会へと続く扉を開く鍵に成り得ますが、高等教育は高額であり、これらの都市に住む世帯の大半にとって手の届かないものです。これらの世帯は何かの分野において卓越する機会も、望む地位を手に入れることもできないままにされてしまいます。これこそは、我々の国家の中小規模の都市における、労働者階級の苦境の現状なのです。3

 


Footnotes:

1 シャハジャハンはこう記しています:「大半の世帯は、彼らの所得に対する負債による高利子率の支払いによる侵食の度合いにあまり気付いていないのです。」 Mirza Shahjahan, Income, Debt and the Quest for Rich America: The Economic Tale of Small and Mid-Sized US Cities (Beltsville, MD: Writers’ Inc. International, 2000), p. 103.

2  Shahjahan, passim.

3 Shahjahan, pp. 224-236.

(7/8):利子による害悪(後半)

国際レベルにおいては、より破滅的かつ危険な状況です。国際的な視点から見た場合、利子は殺人的とも言えることがはっきりしています。発展途上国における人々の負債への隷属は非常に深刻であり、彼らは健康維持に不可欠な栄養補給すら犠牲にしなければならない程なのです。利子という近代資本主義の「工作」によって、発展途上国では数えきれない程の子供たちが死んでいます。一部のアフリカ諸国の政府では、保健や教育よりも、負債の返済により多くの資金を注ぎ込まなければならないような状況なのです。1

こうした背景において、UNDP(国連開発計画)は、世界でも最も貧しい20ヶ国の対外債務が免除された場合、それによっておよそ2千万人の命が救われるだろうという観測を示しました。別の言い方をするなら、西暦2千年までに週に平均13万人の子供たちの命が、帳消しにされなかった負債によって奪い続けられたのです。2

ロンドン市長ケン・リビングストンは、アドルフ・ヒトラーによって殺された人々の総数よりも、グローバル資本主義によって毎年殺され続けている人数の方が多いと主張しています。彼は数百万人の死が、負債の軽減を拒否したIMF(国際通貨基金)と世界銀行の原因であると責めたのです。スーザン・ジョージによると、1981年以来、毎年1,500万人から2,000万人の命が無駄に失われたのは、「途上国の政府が負債を返済するために、きれいな飲料水と保険プログラムの縮小を余儀なくされたためである」3  としています。

増加する利子が重くのしかかる負債は、主権と統制の喪失を意味するため、いかなる国家にとっても危険なのです。4  このような側面は、偶発的なものではありません。発展途上国、特にその中枢にいる者たちや、その腐敗した支配者たちは、彼らの積み上げてきた負債の問題に関して無実ではないのです。同時に、もし彼らが借用して債務状態に陥らなければ、そうなるべく彼らに対して重圧がかけられるのです。コーフィールドは述べています:

世界銀行はそうあり続けてきたのです。返済事業は貸与に取って代わるようになってきています。その結果、銀行からの借用側は負債が蓄積し、徐々に主権を失っていきました。いかなる債権者でさえ、負債者に何らかの干渉をすることなく返済を待ち続けるというようなことはしません。過去に、巨大勢力は負債者を思い通りにするためには軍隊を用いることさえ躊躇しませんでした。米国人経済学者ヘンリー・カーター・アダムスは、1887年の名著「公債」でこのように書いています:「対外債権の授与は積極的な外交政策の確立における第一歩であり、特定の状況下では、それは必然的に侵略と占領を意味するのである。」

銀行による債務者への待遇はそこまで粗野ではありません。海軍を出動させる代わり、彼らは当該国がいかに金融を管理するのか、法律を作るのか、人々へどのようなサービスを提供するのか、そして国際市場でどのような振る舞うのかさえ指導するのです。彼らの説得力はとても強力で、その普遍的確信から、借り手を葬り去ろうと思えば、あらゆる大手の国有・国際勢力はそれに従うため、銀行はその過剰な貸付―その任務の根本的矛盾から生じるもの―によって自らを強化し、借り手からはそれを枯渇させるのです。5

ジョン・パーキンスによる、今や有名な Confessions of an Economic Hit Man (放題:エコノミック・ヒットマン:途上国を食い物にするアメリカ6では、現代の経済的陰謀が暴露されています。有能なエコノミストだった彼は、自身の任務についてこう記しています:

それらすべてのプロジェクトの闇の部分は、それが契約する側にとって大きな利益をもたらし、一握りの裕福かつ影響力を持つ一族を喜ばせる一方、長期に渡る財政依存を保証し、それゆえ世界中の政府からの政治的忠誠を得る、ということなのである。その貸付金の額が大きければ大きいほど良いのだ。負債国家に課された負担が、市民の健康、教育、その他の社会福祉事業を数十年先まで窮乏させるであろうという事実は、考慮すらされなかったのである。7

パーキンスの活動は、スティーブン・ハイアット編集の A Game as Old as Empire: The Secret World of Economic Hit Men and theWeb of Global Corruption8(帝国に勝るとも劣らず古い歴史を持つ計画:エコノミック・ヒットマンと世界的腐敗ネットワークの隠された世界)によって受け継がれています。ハイアットはこう記しています:

負債は第三世界を支配下に置き続けるのである。生き残るための援助や貸与金の償還期限延長、また借り換えに依存する彼らは、IMFの構造調整プログラムと世界銀行の諸条件によって、経済の構造改革と法の改定を強いられてきたのである。彼らの発展は忘れられているのだ。9

現在の負債の状況は、利子の主要な役割によって、潜在的に世界全体を破滅的な状況に導きかねません。Global Trends 2015(2015年世界情勢予測)の中で、米中央情報局(CIA)はこう認めています:

グローバル経済の上げ潮は、多くの経済的勝者を生み出しますが、それがすべてを救済する訳ではありません。それは本国と外国で確執を引き起こし、既に存在している地域的勝者と敗者の格差をさらに広げるのです。(グローバリゼーションの)進化は緩やかなものではなく、慢性的な財政不安と経済格差をもたらします。それに遅れをとる地域、国家、集団は経済の沈滞、不安定な政治、文化的孤立に直面することになります。それらは政治的、民族的、思想的、そして宗教的過激主義を醸成し、そこにはたびたび暴力が伴うのです。10

ノリーナ・ハーツはその著書The Debt Threat: How debt is destroying the developing world… and threatening us all(負債の脅威:いかに負債が途上国だけでなく、我々全てを蝕んでいるか)において、現在の世界が直面している巨大な負債の危険性―もちろん、それは利子なしに巨大とは成り得ませんが―について正確に描写する、素晴らしい一章を書いています。彼女は過激主義やテロの危険性、天然資源の枯渇などについて警鐘を鳴らし、その一面に言及してこう記しています:

貧困、不平等、腐敗といった負債による醜い副産物は、究極の暴力行為の正当化、さらには合法化を呼びかけるに至っています。世界貿易センタービルへのテロ事件のわずか数週間後、著名アフリカ人評論家のマイケル・フォーティンはこう書いています:「我々はこの嘆かわしい行為、少なくともその一部は、西側社会の人々により実践されてきた経済的抑圧によって押しつぶされてきた、自暴自棄で辱められてきた者たちの復讐であったことを理解すべきである。」フォーティンによる「押しつぶされ」「抑圧」「自暴自棄」「辱め」といった言葉使いは、意図的に喚起を促しています。そして、そのような言葉に強く共鳴する聴衆がいることも、至極明白なのです。11

現実的には、利子に関連する害悪についてさらに述べ連ねることが出来ますが、ここでは上記のもので十分でしょう。

 


Footnotes:

1 Cf., Noreena Hertz.  The Debt Threat (New York: HarperBusiness, 2004), p. 3.

2 Ali Mohammadi and Muhammad Ahsan, Globalisation or Reconolisation?  The Muslim World in the 21st Century (London: Ta-Ha Publishers, Ltd. 2002), p. 38.

3 Mohammadi and Muhammad Ahsan, p. 43.

4 単に負債から利子を取り除くだけで、世界の貧困は劇的に軽減します。貧困諸国が支払っている利子の額は天文学的な数字に上っています。コーフィールドは記しています:「1978年までに、非OPEC(石油輸出国機構)の第三諸国によって借り入れられた総額の4分の1は、当時の負債から来る利子のために充てられたのです。中南米の状況は特に酷く、1976〜1982年の間の借入は倍増し、新たなローンの7割は、以前の負債から来る利子の返済に充てられました。1982年になると、状況は全く不条理なものとなっていました。中南米は年間何百億ドルもの借入をし、そのすべてを費やしていました。過去の負債の返済に応じるためです。」参照:Catherine Caufield, Masters of Illusion: The World Bank and the Poverty of Nations(London, England: Pan Books, 1996), p. 137.

たとえ「債務免除」が認可され、支払いが延期にされても、利子は加算され続けるのです。 グウィンによると、「銀行は、例えばポーランドのような国の貸付金の償還期限「延長」を認めたとしても―つまり10年の代わりに20年間の猶予を与えたとしても―利子は支払い続けなければならないのです。そして利子こそが銀行の損益計算書を底上げするものなのです。参照:S. C. Gwynne, “Selling Money-and Dependency: Setting the Debt Trap,” in Steven Hiatt, ed.  A Game as Old as Empire: The Secret World of Economic Hit Men and the Web of Global Corruption (San Francisco: Berrett-Koehler Publishers, Inc., 2007), p. 35. 

ペイヤーは1974年に既にこの現象を特筆していましたが、それを正すための対策は事実上何も取られませんでした。参照:Cheryl Payer, The Debt Trap: The International Monetary Fund and the Third World (New York: Monthly Review Press, 1974), p 46.

5 Caufield, p. 336

6 ジョン・パーキンス、エコノミック・ヒットマン:途上国を食い物にするアメリカ(東洋経済新報社、2007)。

7 Perkins, p. 15.

8 Steven Hiatt, ed.  A Game as Old as Empire: The Secret World of Economic Hit Men and the Web of Global Corruption (San Francisco: Berrett-Koehler Publishers, Inc., 2007)

9 Hiatt, p. 23.

10 Quoted from Hertz, p. 156.

11 Hertz, p. 161.

(8/8):イスラーム的解決策

イスラーム的解決策

利子問題に対するイスラーム的解決策は、二つの基本的な原理に基づいています:

(1)     もしも個人が、他者を助けるためにお金を貸与したい場合、その行為は「同胞愛の原則」に基づかねばならず、いかなる利子率であってもそれを課すことは絶対的に認められません。借りた額よりも多い金額を支払わなければならない利子の循環に他人を巻き込むことは、手助けとは言えません。この原則は、イスラーム的国際関係にも当てはめられることが出来ます。こうした重要な原則が現在においても適用されたのであれば、依存や負債の状態に陥れることなく、他国に真の「援助」を与えることが出来るのです。

(2)     もしも、ある人がお金を使ってお金を稼ぎたいのであれば、自身のお金をリスクに晒す覚悟がなければなりません。言い換えるなら、投資されたお金の結果がどうなろうと、(時間の経過と共に金額が増加するような)固定された利潤は保証されないということです。もしその人がお金をリスクに晒せば、利益による一定の分配を受ける資格はあるでしょう。しかしそのことは、もし損失が発生すれば、それを受け入れなければならないことも意味します。これは公正さに基づいたシステムであり、そこには多くの利益もあります。投資家の場合、投資結果について気を揉むようになり、債務者に何が起ころうと、自らの要求を通すことが出来ないのです。

このイスラーム的解決策は個人だけでなく、社会全体にも効果があります。銀行の本質とは、つまり金融の仲介業です。銀行は金銭に余裕(貯蓄)のある人からそれを受け取り、その金銭を投資資金を必要とする人に横流しします。このシステムが機能するためには、利子は必要ではありません。銀行と預金者(株主)は彼らの資産を投資するのであり、ただ単に貸与するだけではありません。お金はリスクに晒され、預金者へのリターンはそれぞれの投資利益に応じた額となります。経済成長における正常な状況下では、もし銀行の規模が大きくポートフォリオが多岐に渡るのであれば、銀行は事実上、全投資にプラスのリターンが保証されます。それゆえ、銀行でお金を投資する人々は、保証されることなく、または事前に定められることなく、プラスリターンを受け取ることになります。

今日、数々の「イスラーム的」金融機関が世界中に設置されて来ています。それらは利子を禁じるという原則の元に設立され、一部では急成長を見せています。

結論

殆どの部分において、「近代文明」は神の導きに背を向けることを決め込み(西洋におけるキリスト教の経験がその主な原因です。)、独自の経済・政治システム、国際法などを作り出すことを試みてきました。しかしながらその過程において、彼ら自身が行なおうとして来たことは、彼らの能力の範疇外であったことを、彼らは認めなければなりません。社会科学は自然科学とは非常に性質の異なるものです。そこには人の立ち入りができるような実験室がないため、異なるシナリオにおける最善の結果を測定することが出来ません(そしてその場合でさえ、人が同じ状況で常に同じ行動を取ると仮定しなければならないのです)。

経済界において頭をよぎる最初の出来事は、社会主義・共産主義理論の崩壊でしょう。そして資本主義に対しても、そのあるべき姿と現実がいかに離れているかが直視されるべきでしょう。初期資本主義の論客は、それが「最良の諸要素を持ち合わせたもの」につながる理論となることを思い描いていました。しかし、それらの理論は決して実現し得ないことに基づいていたのです。彼らは完璧な競争、完璧な知識、自由貿易などを想定していました。それらの想定が一度でも破綻したなら、「最良の諸要素を持ち合わせたもの」であることはなくなるのです。その代わりに、富裕層は一層裕福となり、貧困層はより貧困となる、搾取の世界へと容易につながるのです。こうしたシステムを強力に引っ張る要素のひとつが利子制度なのです。

その啓示以来、寸分違わぬ保持をされてきたクルアーンという導きによって、神は人類を祝福されました。この書物は、人類が現世と来世における成功を収めるために必要な導きが記されています。それゆえこの書物が利子を最も強い調子で絶対的に禁じ、非難するのは、いわば当然のことでしょう。

 


Footnotes:

このような機関の理論上・実践上の詳細は、次をご参照ください: El-Gousi, pp. 199-247; Frank E. Vogel and Samuel L. Hayes III, Islamic Law and Finance: Religion, Risk, and Return (The Hague: Kluwer Law International, 1998), pp. 181-295.