人生の意味

人生の意味

(パート1/3):理性と啓示

はじめに

「人生の意味と目的とは何ですか?」これは歴史上問われてきた、最も重要な質問でしょう。時代を超えて、哲学者たちはこれを最も根本的な質問と見なしてきました。科学者、歴史家、哲学者、文筆家、心理学者、そして人類一般が、その人生のどこかの時点でこの質問と格闘するのです。

理性は十分なる指針となり得るか?

「なぜ私たちは食べるのか?」「なぜ私たちは眠るのか?」「なぜ私たちは働くのか?」これらの質問に対しての私たちの回答は、似通ったものです。「生きるために食べるのだ。」「生きるために眠るのだ。」「自分自身と、家族を支えるために働くのだ。」しかし人生の目的は何か、となると、人々は混乱します。彼らの混乱は、私たちがどのような回答を得るかによって窺い知ることが出来ます。若者たちは、こう言うかもしれません:「俺は酒と女性のために生きてるんだ。」また職業をもっている中年は、こう言うかもしれません。「私は、快適な退職後の生活に十分なものを蓄えるために、生きているのです。」また老人は、こう言うかもしれないでしょう:「私は自分の人生の大半において、なぜ自分がここにいるのかということを問い続けてきた。もし目的があったのなら、もう気にしないのだが。」そして恐らく最も多い返事は、「本当に分かりません!」というものでしょう。

それではあなたは、どうやって人生の目的を見つけますか?基本的には2つの選択肢があります。一番目は、啓蒙主義運動の名高い業績である「人間理性」の指針に委ねることです。結局のところ、啓蒙主義は私たちに、自然界の注意深い観察に基づく現代科学を提供してくれました。しかしポスト啓蒙主義の哲学者らは、それを見つけ出しましたか?カミュは、人生を「不条理である」と言いました。サルトルは「苦悩と放棄、そして絶望」について語りました。これらの実存主義者たちにとって、人生には何の意味もありません。またダーウィン主義者たちは、生命の意味は生殖することであると考えました。ウィル・デュラントは、ポストモダニズム的な男性の苦境を表現して、こう書きました:「信仰と希望は消滅する。疑念と絶望が、今日の風潮なのだ…空っぽなのは私たちの家や金庫なのではなく、私たちの“心”なのである。」生命の意味に関しては、最も賢明な哲学者たちでさえ、ただ憶測するだけです。前世紀の最も有名な哲学者であるウィル・デュラントと、イリノイ州・ノースウェスタン大学の哲学教授ヒュー・ムーアヘッド博士は、いずれも「人生の意味」という題名の別々の本を書きました[1]。彼らは、当時の世界における最も有名な哲学者、科学者、作家、政治家、知識人に手紙を書き、こう質問しました:「人生の意味は、何ですか?」それから彼らは、彼らの返答を出版したのです。彼らの内のある者は、彼らにとっての最善の推測を提供しました。またある者は、人生の目的は自分自身で決めたに過ぎないことを告白し、また別の者は正直に「分からない」と答えました。実際のところ、何人かの有名な知識人は著者に対し、人生の目的が解明されたのなら教えてくれるよう返答を頼んだほどだったのです!

天に「語らせよ」

哲学者に決定的な回答が出来ないなら、その答えは私たち自身が備えている知性と心の範囲内で見つかるかもしれません。あなたは澄み切った夜に、広大な空を見たことがありますか?そこであなたは、数え切れない数の星を目にするでしょう。望遠鏡を通して見て下さい。あなたは、そこで今も新星が形成され続けている、巨大な渦状銀河と美しい星雲を見るでしょう。また星の末期の苦しみによって引き起こされる古代の超新星爆発の残存物や、土星の素晴らしいリング、木星の周りの衛星を目にすることが出来るでしょう。黒いビロードの層の上に細氷のように輝く、夜空に広がるこれらの無数の星の光景を目にして心を動かされないことなど、ありえるでしょうか?星のまた向こうへと続いていく数あまたの群星はその余りの密度ゆえに、きらめく霧の繊細な粒子へと溶け込んでいくかのように映ります。その壮大さは私たちを謙虚にさせ、興奮させると同時に、探求への熱望を吹き込み、私たちの熟考を呼び起こします。それはどのように形成されたのでしょうか?私たちとそれとの関係はいかなるもので、またそこにおける私たちの立場とはどのようなものなのでしょうか?私たちは、天が私たちに「話しかけてくれる」のを聞くことが出来るでしょうか?

「実に諸天地の創造と昼夜の変転の中にこそは、思慮ある者たちへのみしるしがある。彼らは立ち、座り、横になってアッラーをズィクル(唱念)し、天地の創造に思いを馳せてこう言う:「私たちの主よ、あなたはこれら(の創造)を徒にお創りになったのではありません。(そのような無益さや落ち度から)遥かに崇高なお方よ」(クルアーン 3190191 

本を読む時、私たちは著者が存在することを認めます。また家を見る時、私たちは建築者が存在することも認めます。いずれの場合もその作成者により、ある目的のために作られているのです。そして私たちの周囲の世界と同様、宇宙の設計と秩序、そしてその複雑さの全ては、完璧な設計者である最高の知性が存在することの証拠です。全ての天体は、物理学の緻密な法則によって管理されています。一体法律家なしに法律が存在する、などということがあるでしょうか?ロケット工学者であるフォン・ブラウン博士は、以下のように述べています:「私たちが月へ飛ぶための宇宙船を組み立て、その飛行時間を秒単位の細かい精度で計算することに困難を見出さないのは、宇宙の自然法則の非常な正確さの賜物です。これらの法則は、誰かによって設けられたものに違いありません。」また物理学教授ポール・デービスは、人類の存在は単なる運命の気まぐれなどではないと結論づけ、こう述べています:「私たちは本当に、ここにいることを意図されていたのです。」また彼は、宇宙に関してこう言っています:「科学的研究を通して、私はこのようにますます強く信じるようになりました:“私は、余りにも驚くべき精巧さをもって創られている自然宇宙を、単なる冷酷な事実として受け入れることは出来ない。”もっと深いレベルの説明があるに違いない、と私には思われるのです。」宇宙、地球、地上の生物は全て、知的かつ強力な一つの創造主を無言で訴えています。

 

Image courtesy of Gemini Observatory Image/GMOS Commissioning Team.

図1:2002年6月5日に、ハワイ島のビッグ・アイランドのマウナケアにあるジェミニ望遠鏡によって撮影された、三裂星雲の中心部。射手座に位置する、好んで撮影される美しい星雲であり、そこにおいては新星が生成されるガスと塵の活動的な雲が観測出来ます。星雲の中心部にある大きい星の一つは、およそ10万年前に生まれました。太陽系からの距離は、およそ2,200~9,000光年の間と言われています。

Image courtesy of Gemini Observatory Image/GMOS Commissioning Team.

私たちが創造主によって創られたとするならば、創造主にはきっと私たちを創る理由や目的があったに違いありません。こうして、私たちの存在における神の目的を知るための探求が、重要になってきます。この目的が明るみに出た後、私たちはそれと調和して生きたいかどうかを選ぶことが出来るのです。しかし創造主からのいかなる情報もなしに、私たちが自分自身の装備のみでもって私たちに求められていることを知ることは、可能でしょうか?特に神が私たちにその成就を望んでいるとしたら、神自身が私たちにその目的を教えてくれないなどということは、自然なことでしょうか?

推測への代替案:神に訊け

このことは私たちに、二つ目の選択を提供します:つまり人生の意味と目的に関する推測の代替案は、啓示であるということです。ある発明品の目的を知るための最も簡単な方法は、その発明者に尋ねることなのです。あなたの人生の目的を発見するには、神に尋ねてみて下さい。

 


Footnotes:

[1] “On the Meaning of Life”  by Will Durant. Pub: Ray Long & Richard R. Smith, Inc. New York 1932 and “The Meaning of Life”  by Hugh S. Moorhead (ed.). Pub: Chicago Review Press, 1988.

(パート2/3):イスラーム的視点

キリスト教はこの問いに答えることが出来るか?

キリスト教において人生の意味は、イエスキリストの福音に対する信仰、つまりイエスを救世主として見なす信仰の中に根ざしています。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)しかしこの提案は、諸々の深刻な問題から無縁なわけではありません。まず、これが創造の目的と永遠の生命のための前提条件であるならば、なぜそのことが諸預言者によって世界の全ての民に教えられなかったのでしょうか?第2に、神がアダムの時代からそう経っていない時点で人間になっていたとすれば、イエスの時代以前の人々に別の存在理由が無かったのではない限り、全人類には永遠の生を勝ち取る平等な機会があったでしょう!第3に、今日イエスについて聞いたこともないような人々は、キリスト教的な創造の目的をいかにして達成するのでしょうか?当然そのような目的は余りに狭窄的で、神の正義に反していると言えます。

回答

イスラームこそは、その意味に対する人類の探索への回答です。いつの時代も、全ての男女の創造の目的は、一つでした。つまり神を知り、崇拝することです。

クルアーンは、全人類が神を知っている状態で生まれた、ということを教示しています。

「そしてあなたの主がアダムの子孫の後背部からその子孫を抜き出し、彼ら自身に(こう)証言させた時のこと(を思い出すのだ):われこそが、あなた方の主ではないか。彼らは言った:私たちは証言しました。(それは、)あなた方が審判の日に私たちは本当に、このようなことに無頓着でした。などと言わないためである。あるいは、あなた方が私たちの父祖こそが過去に神以外のものを崇拝していたのであり、私たちは彼らの後の子孫に過ぎません。あなたは、虚妄を行なっていた者たちの行為ゆえに、私たちを滅ぼすのですか?などと言わないようにするためである。,(クルアーン 7172173 

イスラームの使徒ムハンマドは、神はアダムを創造した時点で、人間の天性にこの原初的本能を創造した、と教えています。神はアダムを創造した際に、彼と契約を結びました。また神はまだ生まれていないアダムの全子孫を、世代から世代へと抜き出して広げ、彼らとも契約を結びました。神は彼らの魂に直接話しかけ、かれこそが彼らの主であることにおいて彼らに証言させました。神がアダムを創造した際に、全人類にかれの主性に対する証言をさせたのですから、この誓いは人間の魂に刷り込まれているのです。それはたとえ魂が胎児の中に吹き込まれる前であっても変わらず、それゆえに全ての子供は神の唯一性という天性の信仰のもとに生まれ出るのです。この天性の信仰は、アラビア語で「フィトゥラ」と呼ばれます。このように、全人は神の唯一性信仰の種を抱いているのですが、それは不注意という地層に埋没し、社会的状況によって妨害されているのです。子供は放置されていれば、神‐かれこそが唯一の創造主であることを意識したまま成長することでしょう。しかし子供は皆、周りの環境に影響を受けます。神の使徒ムハンマドは、こう言っています:

「全ての子供はフィトゥラの状態で生まれる。しかしその両親が、彼・彼女をユダヤ教徒やキリスト教徒にするのである。それはちょうど、家畜が正常な子供を出産するようなものである。あなた方は、あなた方がそれらの体の一部を損傷する前に、それらが損傷された形で生まれてくるのを見たことがあるか?」[1]

 

図1:命の驚異。親指を吸う誕生前の胎児。

それで、ちょうど子供の体が神によって自然に設置された物理的法則に従うように、その魂もまた神がその主であり創造主であるという事実を受け入れます。しかし、子供の両親は子供が彼ら自身の手法を踏襲するよう義務づけるのであり、子供はそれに対して精神的に抵抗することが出来ません。そして子供がこの段階で従う宗教は習慣や躾の内の一種であり、神はそのようなものに対する責任を、この宗教において追及したりはしません。そして子供が成熟して大人になる時、彼または彼女は知識と理性の宗教に従わなければならなくなります。大人になれば、人々は正しい道を見つけるため、神に対する彼らの生来の性質と彼ら自身の欲望との間で、奮闘しなければなりません。イスラームへの呼びかけは、神が魂に刷り込んだこのフィトゥラ、つまり原初的性質と生来の性質への呼びかけです。このフィトゥラゆえに、全ての生物の魂は天地の創造前から、彼らを創造したお方こそが彼らの主である、ということに同意せざるを得ないのです。

「そしてわれ(神のこと)はジン(精霊)と人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。」(クルアーン 5156 

イスラームにおいては、アダムの時代から最後の使徒ムハンマド(神が彼ら全てを称揚されることを)の時代に至るまで、神が全ての使徒を通して啓示した一つの基本的メッセージがあります。全ての神の使徒は、本質的に同じメッセージを携えて到来したのです:

「本当にわれら(神のこと)は、人々に神を崇拝し偽の神々を避けさせるべく、各々の民に1人の使徒を遣わした。」(クルアーン 1636 

そして使徒は、人類を最も煩わせている問題に対し、同じ回答をもたらしました。そしてその回答は、神に対する魂の願望に語りかけるものだったのです。

崇拝行為とは何か?

「イスラーム」とは「服従」を意味します。そしてイスラームにおける崇拝行為とは、「神のご意思に従順に従うこと」を意味しています。

全ての被造物は、神によって創られた物質的法則に服従することにおいて、創造主に服従しています。

「かれ(神)にこそ、天地にあるものは属する。全てはかれのご意思に従うのだ。」(クルアーン 3026 

しかしそれらは、その「服従」ゆえに報奨を受けたり、罰されたりすることがありません。というのもそれらには意思がないからです。報奨と懲罰は、自らの自由意志でもって神を崇拝し、神の倫理的・宗教的な法規律に従う者のためのものなのです。この崇拝行為こそは、神が人類に遣わした全ての使徒のメッセージの本質です。例えば、この崇拝行為の理解はイエス・キリストによっても強調して表現されていました。

「わたしにむかって主よ、主よと言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。」 

「意志」とは、「神が人間に求める行為」のことです。この「神の意志」には、諸使徒がその追随者たちに教えた神的法に含まれています。従って、神的法に従うことこそ、崇拝行為の基盤であると言えます。人類は神の宗教法を受け入れて神を崇拝することによってのみ、その人生において平安と調和、そして天国への希望を得ることが出来るのです。それはちょうど、宇宙がその主によって設けられた物質的法則に従うことにより、調和と共に運行していることと同様です。そして天国の希望を放棄する時、あなたは人生における究極的な価値と目的を放棄することになります。そうでなければ、私たちが美徳の人生か悪徳のそれを送るかどうかに何の違いがあるでしょうか?全人の運命は、いずれにしろ同じものになってしまうに違いありません。

 


Footnotes:

[1] サヒーフ・アル=ブハーリーとサヒーフ・ムスリム収録の伝承。アラブ人はイスラーム以前、ラクダなどの家畜の耳を神への奉仕として切断したりしたものでした。

(パート3/3):現代における偽りの神々

崇拝行為を必要としているのは誰か?

神は私たちの崇拝行為などそもそも必要とはしていません。むしろ神を崇拝することを必要としているのは、人間なのです。もし誰一人神を崇拝する者がいなかったとしても、それが神の栄光を損ねることなどは決してありません。またもし全人類が神を崇拝したとしても、それが神の栄光に何かを付加することなどもないのです。神を必要としているのは誰ならぬ、私たちなのですから:

「われ(神のこと)はあなた方からの糧も欲しなければ、あなた方がわれに食を与えることも望んではいない。実に神こそがこの上ない御力を備えられ、(万有に)糧を授けられるお方なのであるのだ。,(クルアーン 515758

しかし神こそは(何ものも必要とされない)豊かなお方で、あなた方こそが貧しき者なのである」(クルアーン 4738

神への崇拝の仕方:そしてその理由。

神はその使徒を通して啓示した法に従うことにより、崇拝されます。例えば新約聖書においてイエスキリストは、天啓法に従うことを天国への鍵としています:

「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(マタイによる福音書1917

また同様に新約聖書では、イエスが戒律を厳格に遵守することを強く主張している様子が報告されています。 彼はこう言いました:

「それだから、これらの最も小さいいましめ一つでも破り、またそうするように人々に教えたりするものは、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」(マタイによる福音書519

どうして人間は天啓法に従うことによって、神を崇拝する必要があるのでしょう?答えは簡単です。天啓法への服従はこの人生に平安を呼び、来世においては救済をもたらすからです。

天啓法は人間に、人生と対人関係におけるあらゆる側面において、明確な指針を与えてくれます。創造主こそが被造物に最善のことを最もよく知っているお方なのですから、その法は人間の魂と身体、そして社会を害悪から守ってくれます。人類が創造の目的を完遂するためには、神の命令に従うことによってかれを崇拝しなければなりません。

現代における偽りの神々

神こそは人生に意味と指針を与えてくれる存在です。しかしその一方で、現代的生活には一つの基軸、指針、目的、意義が欠如しています。そこにはいかなる普遍的原則や指針などもないのです。

イスラームは神を、愛と畏敬、報奨への期待をもって仕えるべき存在として捉えていますから、現代的生活は多くの神に仕えているということが出来るでしょう。そして現代的神々は、現代人の人生に意味と背景を与えています。

私たちは、言語という家の中に暮らしています。そして私たちの表現は、そこから世界を眺める窓なのです。現代における漠然としたイデオロギーとしては、進化論、ナショナリズム、フェミニズム、社会主義、マルクス主義、また民主主義、自由主義、平等主義などもその方法次第によってはそこに含まれるでしょう。ドイツの言語学者ウヴェ・ペルクセンの言葉を借りるならば、社会の目的、あるいはともすると人間そのものの目的を形作り、定義するために、神の力と権威を不法使用するための“プラスチック(空虚で本質のない)の言葉”が使用されてきました。そしてこれらの言葉は、“感じのよい”オーラを内包しています。漠然とした言葉は、不定形の観念となり得ます。そして観念を不定形にすれば、無限のニーズが覚醒され、これらの無限のニーズが一旦覚醒すれば、それらは“自明”のであるかのように映るのです。

偽りの神々を崇拝するという習慣に陥ることは容易であることから、人々は、現代的思想が強要するような神々の多様性に対する抵抗力がないと言えます。そして“プラスチックの言葉”は、彼らの代弁者として話す“使徒たち”に大きな力を与えます。というのも、彼らは他の人々を黙らせるため、“自明の”真実という名によって語るからです。そして私たちは、あたかも私たちの健康や福祉、幸福と教育のために法律を敷いてくれる公理の専門家であるかのような彼らの権威に従わされているのです。

今日私たちが事実を知るための現代性という窓は、裂け目や汚れ、盲点や沁みなどで覆われています。それは事実を隠蔽しています。そしてその事実とは、「人々には神以外に真に必要とするものなどない」ということなのです。 しかし今日では、これらの空虚な“偶像”が人々の献身と崇拝の対象に成り果ててしまいました。クルアーンはこう言っています:

「あなたは、自らの私欲を神とする者を見たか?」(クルアーン 4523

これらの“プラスチックの言葉”は人の目に、他の言葉を原始的で時代遅れのもののように映らせます。現代性を偶像とする“信仰者”は、これらの神々の崇拝を誇りに思っているのです。そして友人や同僚らは、そのような行為を開化したものと捉えています。“古い”神を固守することにいまだに固執する者でさえも、その神と共に新しく現代的な神々を崇拝することにより、そうすることにおける当惑を覆い隠そうとするのです。明らかに、“古風の神”への崇拝を主張する多くの人々は、この出来事において神の教えを歪曲しようとしています。そしてそれは、神自身が私たちにそれらの“プラスチックの言葉”に奉仕せよ、と言っているかのように思わせるためなのです。

偽神崇拝は個人的・社会的腐敗だけでなく、自然界の腐敗すら及ぼします。人々が、神が彼らに命じた通りに神に仕え、神を崇拝することを拒否する時、神がそれゆえに人間を創造したところのいくつかの要素を完遂することが不可能になります。そしてその結果、私たちの世界はこれまで以上に混沌としたものになるのです。それは、クルアーンが次のように述べている通りです:

「人々が行ったところの罪悪ゆえに、陸に海に諸悪が現れたのだ。」(クルアーン 3041

イスラームにおける人生の意味や目的への回答は、人間の基本的なニーズを満たしてくれます。つまりそれは、「神への回帰」です。しかし望もうが望むまいが、誰もがいつかは神の許へと帰ることにはなっているのですから、問題は単に帰るということではなく、「いかに帰るか」ということになります。一体それは、屈辱的な苦渋を与える鎖の中で待ち受けている懲罰なのでしょうか?それとも、神が約束していた偉大な歓喜なのでしょうか?もし後者を待望するならば、神はクルアーンと預言者ムハンマドの教えを通じて、人々に永遠の幸福を保証しつつかれの御許へと回帰させてくれるのです。